毒、まわりはじめる
「ぐっ、ノ、ノーラ」
「ファルス! しっかり!」
間違いない。毒だ。
「へ、部屋」
「部屋?」
「ペル……ジャラナ……に、運んでもら……」
まさかこんなところで、いきなり毒を盛られるとは思っていなかった。だから、バクシアの種は部屋にある。あれの中に『病毒耐性』のアビリティが入れっぱなしになっていた。今は『超回復』のおかげでなんとか命を保っているが、いつまで耐えられるかわからない。
「どうなされた、ファルス殿!」
異変に驚いて……いや、驚いたフリなのか、バグワンは立ち上がった。
俺は、酒杯を指差して、かすれ声で言った。
「ノ、ラ、残っ」
「わかった」
ノーラは唇を噛みながらも、ついていこうとするのをやめ、頷いた。その眼差しは白熱していたが。彼女も狼狽えてはいたものの、最低限の冷静さは残していたらしい。
ここで俺達が揃って立ち去った場合、バグワンが証拠を隠滅する可能性がある。その酒杯には恐らく毒が含まれている。持ち去られて捨てられてしまうかもしれない。
ペルジャラナンは俺を担ぐと、足早に駆け出した。一方、ノーラは立ち上がって向き直り、何事かを口にしたが、今の俺には聞き取るだけの余裕がなかった。
頭が割れるように痛い。視界がグラグラ揺れる。喉から何か熱いものが迸った。さっき食べたものかと思ったが、石造りの廊下に点々と赤い汚れがあるのが視界の隅に映って、吐血しているのだとわかった。
「ギィ!」
扉を乱暴に押し開けて、ペルジャラナンは俺をベッドに横たえた。
眩暈がする中、俺は置きっぱなしにしたポーチを手探りで探し、バクシアの種を引っ張り出す。これでもない、それでもない……あった。
能力を入れ替えた途端、苦痛が引いていくのがわかった。
ベッドの上に大の字になって、大きく息を吐く。
「シュウ、シュウゥ……」
おろおろしていたペルジャラナンが、何事かを小声で呟きだした。それはリザードマン用の魔術行使の手順だ。
《大丈夫ー?》
頭の中に響いてくるのは、相変わらず軽いノリの声だ。
「う、うん……少し楽になった」
ひとまず命は助かった。でも、そうなると次にやらなければいけないのは、あの広間に戻ることだ。
「悪いけど、もう一度さっきのところまで、抱えていってくれないかな? ノーラが心配だから」
「ギィ」
まだ自力で駆け回るほどの元気はない。身を守るためにも、ペルジャラナンの力を借りる必要がある。
とんぼ返りで引き返してみると、広間は重苦しい沈黙に支配されていた。バグワンを焼き殺しかねないほどのノーラの視線に、誰も何も言い出せずに硬直していたのだ。
「今、戻った」
「……平気なの?」
「解毒剤を飲んだ」
ということにしておく。ノーラなら察しているだろうが。
「そう」
そしてまた、怒りの視線を向け直す。
「な、なんのことですか」
バグワンは顔面蒼白になりながら冷や汗を流している。
これは演技なのか、それとも本気なのか。
「ノーラ、確かめた?」
「ううん、まだ」
「ペルジャラナン、降ろして」
地面に降り立ったが、まだしっかり立てない。ノーラが俺の肩を支える。
「耳を」
ペルジャラナンが耳……そこに耳があるのかどうかわからないが、頭部の側面を寄せてくる。俺は小声で言った。
「これから質問するから、嘘かどうかを確かめて」
するとペルジャラナンはまた、さっきしたような独特の詠唱を始めた。
人間がやるとあからさまにそれとわかるが、トカゲの奇行だから、ほとんどの人には理解が及ばない。
「バグワン様」
俺は力を振り絞って尋ねた。
「な、なにか」
「この酒杯に毒を入れたのはなぜですか」
「なっ、そ、そんなことはしてない! してないぞ!」
俺は、ペルジャラナンに向き直った。
「ギィ」
嘘ではない、か。
とすると、この毒、誰を狙ったものだったのか。案外、俺ではなく、バグワン本人を狙ったものかもしれない。
「でも、見ての通り、僕は今、死にかけました」
「そんなバカな、そんな命令はしてない」
「確かめてもいいですか」
といっても、これは相当な猛毒だ。飲めば誰かが確実に死ぬ。
「バグワン様が飲んでもいいのですが、それでは死なせることになります。かわいそうですが、死んでも差し支えのない動物に飲ませて確かめるのがいいかと思います」
「う、む」
それでやっと硬直が解けた彼は、早速に召使に指図した。
俺達は揃って階段を降り、すぐ下の庭の篝火の焚かれた一角に立った。そこで待つことしばらく、一匹の犬が引かれてきた。よっぽど凶暴な奴らしく、引きずってくる使用人は二人で、左右からリードで首を引っ張っている。
「闘犬に使っていたのが、人を噛むようになった奴です。使い物にならないので、この際、片付けようかと思っていました」
だが、当然ながら、さっきの酒杯を地面においても、犬はまったく興味を示さなかった。それでバグワンは命じた。
「肉汁を垂らせ。いや、肉を投げこめ」
さっきのご馳走から、さもおいしそうな肉料理が持ち込まれ、酒杯に漬けられた。
「そろそろいいだろう。食わせろ」
力尽くで押さえ込んでいた二人が手を放すと、犬はそそくさと駆け寄り、酒杯の中に浸かっていた肉を引っ張り出して、さももどかしげに二、三度噛むと、あっさり飲み込んでしまった。次から次へと肉片を平らげて……
「グググッ、グッ」
急に奇妙な、くぐもった声を漏らすと、途端にのたうち回った。そしてすぐ、動かなくなった。
「これは」
「やっぱり毒ですね」
この犬には申し訳ないが、これで証明された。やはり俺は毒殺されそうになったのだ。
「どういうことですか、バグワン様」
「し、知らない! 嘘はついていない!」
それはわかっている。
毒を入れたか、という問いに対して、彼は身に覚えがないと言った。それが事実であることは、ペルジャラナンが確かめている。ピアシング・ハンドからわかる限りでは、バグワンの能力からして、精神操作魔術を弾き返すのは不可能だろうし。
「いろんな可能性が考えられます。狙いは僕なのか、それともバグワン様なのか」
「いや、しかし、そんな」
取り乱していたが、それも無理はない。自分が殺されていたかもしれないのだ。そのまま彼は、思考の沼にはまって、俯いてしまった。
だが、その時間は長続きしなかった。上階からの女の悲鳴が、俺達の耳を劈いたからだ。
「どうした」
さすがにバグワンも苛立ち、声を荒げた。
「し、し、死んでます!」
「なに」
俺達は二階の調理室に駆け込んだ。そこには一人の女が横たわっていた。俺達に出す料理を用意していた中の一人だ。
「外傷は……」
「顔色が変わっていますね」
死んでから間もないはずなのに、完全に鬱血してしまっている。持ち込まれた松明の光は不十分だったが、それでも明らかに紫色で、毒を呷って死んだのだろうということが見て取れた。
「なぜだ……」
バグワンは、完全に困惑してしまっていた。
考えることが多すぎるのだろう。客人に毒を盛るという最悪の振る舞い。自分が狙われていた可能性。召使がなぜ自分を裏切ったのか。
「ファルス殿、申し訳ないが、この件の調査は、こちらの預かりでもよろしいか」
これは悩ましいところだ。
ただ、さっき調べた限りでは、彼は嘘をついていなかった。それに、こちらに選択肢がどれだけあるだろうか?
「バグワン様、この件、ちゃんと調べたほうがよいのではないでしょうか」
多分、事実を知る人間は生き残っていない。秘密を守るために彼女は自殺したのだろうし。
「いや、いや。そんなことをされたら、私はおしまいだ!」
「バグワン様は被害者ですよ」
「だとしても、客人に毒を盛ったなんて、そんな話が広まったら」
やっぱりそうなるか。
「申し訳ない。ファルス殿、明日の朝にもここをお発ちください。安全のため、離れに部屋を用意させます。私はこちらで、できる限りの調査をしてから、二日後くらいには王都に戻るつもりです。なるべく出歩かれず、この件はご内密に」
「そういうことでしたら」
無理にとは、こちらも言いにくい。
多分、彼も自力で調査をやりきるのは無理なので、身近な有力貴族に頼るつもりなのだろう。
「この件を埋め合わせる機会をください。本当に申し訳ない」
それ以上、どうしようもなかった。
俺達は、彼が先に立って案内した離れに入った。簡易ベッドもクローゼットもいちいち調べて、安全を確保してから彼は引き揚げた。
「ファルス、気分は?」
「かなりよくなってきた。もう大丈夫」
「ならいいけど」
一間限りの離れ、簡易ベッドを三つ並べただけの部屋の中で、俺達は話し合った。
「誰があんなことを」
「わからない。証拠を消したいから、毒を飲んで自殺したんだろうし」
問題は、この先だ。
「それより、先のことを考えないと」
「先といっても、何ができるの?」
「ワングを通して、バンサワン様に話を通した方がいいかもしれない」
この国の権力者の勢力地図なんかわからない。ただ、この状況でやるべきことは一つ。
「それ、バグワン様が困るんじゃ」
「困るかもしれない。だけど、今、一番気をつけなきゃいけないのは、僕らの安全だ」
俺を狙ったのかもしれないし、まさかとは思うがノーラやペルジャラナンが標的だったのかもしれない。それぞれの理由がありそうな気がする。ノーラについてはチャール殿下の求婚を拒絶しているし、ペルジャラナンは魔物討伐隊のザンに殺されそうになった。
「普通に考えて、こんな地方領主の別邸に手の者を送り込むなんて……いや、確かポロルカ王国って、使用人は代々使用人だろう? ということは、ここの使用人は何代も前からギラミーン家に仕えていたはず。それを寝返らせるとか、尋常じゃない。もしかすると、精神操作魔術まで使ってやったことなのかもしれないけど」
むしろ、一番わけがわからないのは、狙われたのも俺だったというケースだ。
いや、チャール殿下が、ノーラ欲しさに俺を始末しようとしたとか、なくはないのだが。でも、可能性は低い気がする。やれるとすれば、赤の王衣のメノラックくらいだろうが、彼がここまで先回りして魔術をかけて去ったとか、少し現実味が薄い。
第一、そこまでの無茶をやらかしたら、今度こそバーハルが大騒ぎしそうだ。王位継承者でもないチャール王子に、そこまでの力があるだろうか?
「今夜は、交代で見張りに立つことにしよう」
「ファルスは先に休んで」
「悪いけど、そうさせてもらう」
この離れからは出ない方がいい。今夜、バグワンが殺される可能性もあるとは思うのだが、ここは近くに民家もない辺鄙なところだ。何かあった時にこちらに疑惑が向くのだけは避けたい。
落ち着けないまま、俺達は交代で休憩を取り、朝を迎えた。
「情けない気持ちでいっぱいです」
翌朝、バグワンはそう言って頭を下げた。眠れていないのだろう。一目でやつれているのはわかったが、他には特に問題なく元気そうだった。
「絶対に、どんなことがあっても埋め合わせますので。王都に戻り次第、すぐ伺います。軽挙妄動は、くれぐれも」
「承知しております」
「では、お気をつけて」
二週間も足止めされるのかと思っていたのに、逆にとんぼ返りというのもどうなのかと思ってしまう。馬車に揺られてくたびれるばかりだ。そんなこと言っている場合ではないのだが。
ともあれ、昨日乗ってきた馬車に乗ると、俺達は彼の別荘を後にした。
その日の夜、先を急いだのもあって、ラージュドゥハーニーに到着した俺達は、宿に入るやいなや、ワングを呼んだ。
秘密の相談ということで、早速、ことの顛末を手紙に書き記し、バンサワンに手渡しに行ってもらった。特に動いてもらいたいという話ではなく、どのような事実があったかという証拠を残すためだ。多少は借りになっても仕方がない。
なお、バンサワンは第一王子と第三王子の後継者争いには首を突っ込んでいない。外府の貴族として距離を置いているので、その辺に問題がないことはワングが請け合った。
だが……
四日後、バンサワンから手紙が届けられた。
そこには短く、バグワンが毒殺された事実が記されていた。




