地方領主の歓待
雲一つない空。だが、鮮やかな青ではなく、どこか白みがかって濁っていた。
その下には、ベタッとした平べったい地面が広がっている。ごく小さな起伏があるだけの平原は、ほとんどが緑の絨毯に覆われていた。そのところどころから黄色い地面が顔を覗かせている。影を落とす木々はまばらにしか生えていない。建材として使うのは難しそうな、斜めに枝を張り出す木が、その葉っぱで丸い輪郭線を形作っている。
この辺りはまだナディー川に近いので緑があるが、もう少し離れた場所では、もっと荒涼とした景色になる。灌漑が行き届いていないところは砂漠同然らしい。
風のない日だった。馬車の中はひどく蒸し暑かった。
少しでも涼をとりたくて窓から顔を出すが、まるで意味がなかった。この炎天下、草地に家畜が放し飼いにされていた。あれは羊だろうか? それとも山羊か? 遠いのもあって、よくわからない。
「ギィイ……」
翻訳されなくてもわかる。
この湿気で、ペルジャラナンはすっかり参ってしまった。灼熱の砂漠には耐えられるのに、それが蒸し暑さになるだけでこのざまだ。
「連れ出して悪かった」
「ギィイ」
「もうすぐ着くから」
こんなことなら、もっと魔法の研究をしてくるんだった。水魔術で氷を作り出せるんだから、その応用で『エアコン』なんて魔法はないものか。
「たった一度会っただけで、別荘までご招待……」
ノーラも、どこか虚ろな目をしている。
「でも、仲良くしたいのなら、むしろ都の中で普通にお食事会くらいで済ませて欲しかったわ」
「頼み事もあると言っていたし、そのせいじゃないかな」
ティーン王子との面会のときに同席していた、目立たない男。それがバグワン・ギラミーンという地方領主だった。地方領主、つまり貴族ではないが、土地持ちの人間だ。要するに、以前にワングの案内で見た、あの歴史地区で虫みたいに見える服を着ていた連中の一人ということになる。統一時代の宮廷人の末裔だ。
俺と繋がりを持ちたいからということで、わざわざ王都の郊外の別荘に招待してきたのだ。しかし、ラージュドゥハーニーは、ただでさえだだっ広い。結局、都の端に行くまでで日が暮れてそこで一泊、今日は二日目だ。
「僕らがいない間に、問題が起きてないといいんだけど」
「何かあったら、連絡を取るから。気にしすぎても仕方ないと思う」
王都の宿には、みんなを残してきた。今、俺に同行しているのはノーラとペルジャラナンだけだ。あちらにクーとラピがいる。距離があるので簡単とはいかないが、精神操作魔術で定期連絡はとることにしてある。
さすがに遅くても、あと一週間もすればイーク殿下は正式に即位する。それからあと一、二週間も待てば、いくらなんでも土地利用の申請くらいは通るはずだ。その辺はワングが請け負ってくれた。無論、見返りは期待しているのだろうが。
「あんまり長くは留守にしたくないな」
昼前に、ようやく目的とする別荘地に到着した。
普通の人では跳び越えられそうにない石の壁に囲まれた敷地があった。壁の切れ目になっているところが門になっていて、そこを通り抜けたのだが、その壁の内側に沿うようにして緑の色濃い木々が隙間なく植えられていた。屋敷の内側を覗き見られたくないのだろうか。周囲にはポツポツとしか木が生えていないので、ここだけふんだんに水を確保できているということでもある。
そこを越えると、途端に明るい緑の芝生が一面に広がっていた。ここの外とは違い、地面はきれいに均されている。その中央にはなだらかなカーブを描いて石畳の通路が続いている。そうして辿り着いた先には、目を焼くほど真っ白な石造りの邸宅があった。
その邸宅の表玄関の前に、茶色いターバンと服を身に着けた男が立っていた。彼がバグワンだ。彼一人ではなく、後ろには使用人が居並んでいる。
馬車が止まり、俺達が降り立つと、バグワンは身をかがめて挨拶した。
「ようこそ我が家へ。ここはあなたにとってもはや異国ではなく、憩いの我が家です」
「ご歓迎いただき、痛み入ります」
鼻の下から顎まで、隙間なく黒い髭に覆われた男だ。既に中年に差しかかりつつあるのに、まだ年少の俺に深々と頭を下げてきた。筋肉質ではなく、背も高くない。威圧感がなく、よくよく見ればどことなくユーモラスなところがある。ただ、なんとなくインパクトがない顔なので、何度も会わないときっと覚えられないだろう。
「道中、さぞ暑かったことでしょう。歓迎の宴は夕方からにさせていただければと。まずはお寛ぎいただきたく……お部屋の方はご用意してございます」
ありがたい。移動でクタクタになった状態で、気の張るお付き合いをしないで済む。
それから、風のよく通る一室に案内され、そこで供された軽食を口にして、俺達は休んだ。
夕方になると、焦げ茶色と黄土色の衣服に身を包んだ若い女性の使用人が、俺達を呼びにきた。
少し珍しいと感じた。オフィシャルな場では、使用人はすべて男だからだ。例の青竜討伐の際の王宮の中庭での祝賀会でも、ドゥサラ王子の招待でも、来客の世話は全て男性。例外はティーン王子の夜会で、あの時は弦楽器の演奏者だけが女性だったが、それは彼女の個人技によるものだろう。ここは有力者の私邸で、よりプライベートな場所だからだろうか。
地上三階の宴会場は、なかなかに風情があった。風を通すために、南北には大胆に壁が取り払われている。あるのは下り階段と落下防止用の柵だけだ。だから視線を横に向けると、敷地の端を囲む緑の木々が見える。今は夕方だから、その黒いシルエットと、紅茶のような色の空だけが見える。
部屋の四隅には虫除けの香炉が置かれていて、甘ったるい煙を吐き出し続けている。もっともこの高さだと、蚊も滅多に近寄ってはこない。
足下には分厚い絨毯が敷かれている。そこに座布団と床几が置かれている。座敷といえばいいのか。そこに胡坐をかいて座るようになっている。主人はまだやってきていなかったが、使用人は俺達に先に座っているようにと言った。
まもなく、反対側の階段から主人たるバグワンが姿を現した。俺達は立ちあがり、一礼した。
「気楽になさってください、どうぞ、どうぞ」
それから俺達三人の向かいに遠慮なく腰を下ろし、身振りで座るようにと促した。
「寛いでいただけないのでは、楽しくもなんともありませんからな」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「いやいや」
バグワンは、身を乗り出した。
「変に気遣いなどなさらないでください。私も下心がありますからね」
「それはそれは……でも、僕にできることなんて、そうはないと思うのですが」
「いやぁ、そんなことはないでしょう」
使用人がやってきて、それぞれの卓の上に小皿料理と酒杯を置いていく。
「ご存じの通り、海峡が赤の血盟の独占状態になりましたからね。王国としても、やりづらくなったわけですよ」
「はい」
「伝え聞いたところによると、ネッキャメル氏族の兵がクース王国まで占領して、もはや南方大陸の北側は掌中に収めたようなものだとか」
ほぼ俺のせいだ。居たたまれない。
「してみると、ティズ・ネッキャメルのお気に入りになりおおせたファルス殿、その価値は計り知れません。そこらの貴族よりずっと重要です。そうなると何が起きるか……王子様方からしてもう、その重要性を理解しているからこそ、次々面会を申し込んだわけですし、あとはもう争奪戦ですよ」
これ、一種のマッチポンプではなかろうか?
俺のせいでポロルカ王国の上層部は困っている。だから俺に媚びるとか。
「でも、ファルス殿は今のところ、貴族ではなく、あくまで騎士ですからね。身分が高すぎる人達には、手が出しにくい」
「そういうものですか」
「そういうものですよ」
俺が遠慮して会話に徹しているのを見て、彼は手振りを交えて言った。
「さ、遠慮なさらず召し上がってください」
こうして宴会が始まった。
とはいえ、ノーラもペルジャラナンも添え物だ。求められなければ、口を利く必要はない立場だからだ。
「ここポロルカ王国では、なんでも利権集団でことが決まるのですよ」
「聞いたことがあります」
ワングが見せてくれた、あの運河での洗濯屋の姿を思い出す。
「そう、人は生まれた時から掃除屋は掃除屋、軍人は軍人です。一族が寄ってたかってその地位を独占するんです。で、これまでポロルカ王国には、フォレスティア王国との繋がりをもつための外交屋という利権集団は存在しなかった。ティーン殿下の腰巾着としては、ここは引き下がれないわけです」
「随分率直な仰り方をするんですね」
「伝わらなければ意味がないでしょう。私はあなたを独占したくてたまらないのです」
理解はできるが、言い方がゾクッとする。
「まるで求愛ですね」
「求愛ですよ」
「まさかこの後、服でも脱ぐんですか」
「脱ぎたくて仕方がないんです」
そういうのはちょっと……スーディアでもうこりごりだ。
だが、そこでバグワンは顔を伏せた。
「私は、緑色が大嫌いなんです」
「はい? 緑色が?」
「あの日、都の歴史地区で、先王の死を悼む儀式があったのですが、ご覧になられましたか」
見た。ワングがバンサワンに口利きして連れだしてくれたから。
「名家の方々が、伝統の衣装を身に纏っての、あの儀礼ですね」
「惨めなものです」
だが、彼の認識は、あくまでネガティブだった。
「我が家は代々キリギリスなんですよ。明るい緑色の燕尾服に、触覚みたいなのが突き出た帽子をかぶって。馬鹿みたいじゃないですか」
「い、いえ、そんなことはないかと」
「この件だけは、ギシアン・チーレムを恨んでいます」
なんでそこでそいつの名前が出てくる?
「ああ、なるほど。あの衣装、確かに定着したのは統一時代です。シャララット王の時代に宮廷人にあの格好をさせるようになったのですが、元はと言えば、ギシアン・チーレムがイーヴォ・ルーを討った後、当時の王国中枢にいた私どもの祖先に、あれらの服を着せたのが始まりなんですよ」
「そういうことだったんですね」
「だから、あれを脱ぎたいんです。ここでギラミーン家を貴族に格上げして、地方領主なんてわけのわからない地位から脱したい。見物される側から見物する側になりたいんですよ」
なんと言ったらいいかわからない。
そうですね、と相槌を打つのも失礼な気がする。
「まぁ、それでも我が家はまだマシです。ブーリ家なんか、もう目も当てられない」
「ブーリ家?」
「あの、黒い害虫の格好をさせられる……どういうわけか、前に話をしたときには、あちらの当主は伝統の衣装だからと大事に思っていたみたいですけどね、理解できません」
あれか。ゴキブリそっくりの格好をした……
「で、話を戻しますとですね」
「はい」
「ギルドに依頼を出したんですよ。この近くにある、私の果樹園をグリフォンが荒らしていると」
「えっ」
それは、ここで俺達を遊ばせている場合ではないのでは。
「そういうことなら、なるべく早く」
「慌てないでください。そんな魔物はいませんから」
「はっ?」
バグワンはゆっくりと首を振りながら言った。
「だいたい二週間後に『討伐した』とギルドに報告するつもりです。別に証拠の提出なんか求められませんから。で、私は堂々と報酬としてファルス殿にお金を差し出すことができるわけです」
「あ、はぁ」
「ただ、嘘がバレても困るので、まぁしばらく、我が家で遊んですごしていただければいいかなと……つまり、本当の狙いは、囲い込みです。ファルス殿を独り占め。他の貴族や地方領主には交渉自体させたくない」
そう言いながら、バグワンは俺にウィンクした。
困った。そういうことなら、いっそみんなを呼び寄せようか? でも、ディンやワングは都から離れられないだろうし、キースもヒランの指導を受ける都合上、留まらざるを得ない。
なら、いっそ適当に色よい返事でもして、なんならティズに手紙を書くことにして、さっさと引き揚げてしまおうか。
「っと、ファルス殿、まだお酒を飲まれていませんね」
「お酒はそんなに強くないんです」
「まぁまぁ、でも一口くらいはいいでしょう。私だけ酔っぱらったのでは、まるで道化です。はは、まぁ、既に道化の格好でひとくさりやらせていただきはしましたがね……お近づきのしるしに、ぜひ」
「そういうことでしたら」
気は進まないながらも、俺は銀色の酒杯を取り上げて、透き通った金色の液体を一口だけ飲んだ。
「いい味でしょう」
「ええ、芳醇ですね。ただ、たくさんはとても」
「気に入っていただけて嬉しいです。せっかく仕入れた銘酒ですから、せめて一口だけでも味わっていただきたくて」
バグワンは笑顔のまま、自分の酒杯を一気に飲み干した。
「ふふ、今頃、王都に居残った他の地方領主どもは歯噛みしておりますよ。なに、ファルス殿、これからは何でもおっしゃってください。我が国のことならなんでも……そういえば、土地利用権のお話でいらっしゃったとか、それもこの私がしっかりと解決してみせますよ。なんなら他のものでも、例えば我が国の美女は……どうしました?」
急に胸の動悸をおぼえて、俺は床に手をついた。
「ファルス!?」
これは吐き気のような……汗が噴き出るのに、凄まじい寒気が襲ってくる。
病気、ではない。とすると、この酒が……
俺は腹部に激痛を覚えて、その場に蹲った。




