中庭に花が咲いた
いつになく気怠い朝だった。
昨日は昼と夜とに、それぞれ王子様のところに出かけて話をしてきたのだ。くたびれる理由は十分以上にあった。それで俺達はモソモソと朝食を済ませ、中庭に出て、その辺に転がっている椅子に座ってぐったりとしていた。
「お疲れだね」
「あ、はい」
俺がだらしなくテーブルに突っ伏しているところに、ディンが苦笑いを浮かべながら近寄ってきた。
「今日はお休みなんですか」
「ああ、やっと荷下ろしが片付いたからね。でも、これから買い付けもあるから、今度はあれこれ積み込む番だよ。ワングさんはギリギリまで値切るだろうし、また時間がかかりそうだけど」
俺達が中身のない会合に引っ張り回されている間も、ディンは黙々と働いていた。でも、もし選べるなら、俺もそちら側の肉体労働に加わりたかったが。
「正直、くたびれました」
ここ三年近く、世界中を歩き回ってきた。自分の目的や立場もあって、それなりの有力者と面会する機会も多かった。恐れや不安を覚えることも少なからずあったし、逆に怒りや嫌悪の情が先走ることもあった。ただ、常に共通して言えることは一つだけ。
面倒臭い。
「僕はただ、あの豆のできる土地を使いたいだけなんですよ? 賄賂でも何でも払うから、それだけでさっさと済ませたいです」
「ポロルカ王国は、何かにつけ、手続きが遅いことで有名なんだよ」
バンサワンも似たようなことを言っていたっけ。
でももう青竜だって討伐したんだし、さっさと即位の儀式でもなんでも済ませて、手続きを終わらせて欲しい。
「短気は損気ですよ」
いつも部屋に閉じこもっているビルムラールが、珍しく中庭に出てきていた。
「こっちの人は……私もこの国の出身ですからよくわかるのですが、急がないのですよ」
「なぜですか」
「基本的に、物事は変わらないからです」
それでもう察した。
確かに、洗濯屋の子は洗濯屋だ。自由業であるはずの冒険者でさえ、代々同じ血筋で占められる。
だが、それがポロルカ王国の発展を阻んできた気がしないでもない。大陸南部の広大な平野を支配下に収めながら、どうしていまだにサハリア豪族の後塵を拝しているのか、海峡の利権を掌握できないのか。五千人もの兵士を動員して、青竜の排除すらできなかったのはなぜか。頑張ることにインセンティブがないからだ。
「だから進歩しないというのもありまして、確かに大きな問題です。その意味では、先日のドゥサラ王子のように、変化と改革を求める人というのは貴重なのですが」
「あの、言葉は悪いんですが」
「はい」
「僕には途轍もなくお坊ちゃまに見えました」
「ははは」
ビルムラールは苦笑いを浮かべた。
「それはもちろん、そういう面はありますよ。私も人のことは言えませんが。でも、なんでも程度問題です。宰相のバーハル様のように、古いしきたりをどこまでも守るべし、という人も必要ですが、ああやって新しい風を呼び込もうとする人もいませんと」
それも道理だ。
みんながみんな、保守的な人ばかりでは、好ましい変化も起きない。現にポロルカ王国は千年一日、社会が完全に固定化、階層化して、まるで積まれた石のようになってしまった。その結果がこの怠惰であり、遅延なのだから。
「まぁ、幼く見えてしまったんですよ。軽々しく帝都の価値観を持ち込もうとする辺りが」
大森林の混沌を見てきたからこそ、強くそう思う。
規範なき世界は無秩序だ。もちろん、その規範とは、実に不自由で、ときに不快なものだろう。男らしくあれ。年長者なら目下の者を庇ってやれ。逆に年少者は目上の人のいうことに従え。煩わしいといったらない。
俺の場合、ピアシング・ハンドのおかげで、なんとか有能な個人の枠に収まっている。だからそうした規範の枠組みからは比較的自由だし、実際にここまで好き勝手に旅を続けてきた。だが、この世界の大半の人は、そうはいかないのだ。
普通の人は、そうした規範に従うことで、ようやく人としての地位を与えられる。大人らしい大人になるためには、大人の役割を果たさねばならない。夫は妻子を養い、妻は子を産み育てる。そうした役割を半ば強制されて生きている。だが、それが大人らしさということだ。
ドゥサラ王子のいうことには、その辺の意識が欠けていたように思われる。王子という重い責任を背負う立場にありながら、一介の冒険者になっても構わないなどと……ここまで自分の都合で放浪してきた俺が指摘できることかどうかは別として……彼の身分からすれば、口が裂けても言ってはならないのではなかったか。
「承知はしていますが、私からはそれを……帝都の価値観を全否定することはできません」
ビルムラールは静かに首を振った。
「シェフリ家という名門に生まれた私がそれを言い出したら」
その視線は、離れたところに座っているワングに向けられていた。キースの件がまだ堪えているらしく、彼は椅子の背凭れにその太った体をもたせかけ、脱力していた。
恵まれたビルムラールが秩序を守れと声高に叫ぶなら、ワングは死ぬまで洗濯屋なのだ。
「でも、散々だね」
ディンが肩を竦めた。
「君が普通じゃないのはわかってるけど、御年二十四歳のドゥサラ王子が、十二歳の少年騎士に『幼い』なんて言われちゃうんだから」
これには俺こそ赤面するべきだろう。偉そうなことを言っても、俺なんか前世から今まで累計で四十八年ほども生きているはずなのに、いまだにどう生きればいいかがわかっていない。自分のことを完全に棚に上げての発言であることは重々承知の上だ。今でも道を踏み間違えてばかりいる。
「僕も未熟ですよ。そこは弁えているつもりです」
そこまで話した時、俺達は物音に気付いた。
鈴が鳴り響く音だ。これはどこかで似たようなのを聞いた覚えがある。そう気づいた時、ビルムラールはそそくさとローブのフードを引っ張り出して被った。
この宿の真ん前で、大きなラッパの音がした。
直後に、表の扉が大きく開け放たれた。
「勅使である」
思い出した。ティンプー王国でも、宿に勅使が来た時、こういう音がした。儀仗隊が鈴のついた杖を携えているからだ。
使者は主人の代理人である。勅使ということは、国王がいない今、つまりは王子の中の誰かの代理人であることを意味する。
となれば、粗略に扱うなどもってのほか。宿の使用人達は大慌てでバタバタと駆けつけて、その場に跪いた。
その勅使、トマトみたいな赤ら顔に、これまたトマトみたいに膨れ上がった腹の男は、周囲を見回してから呼ばわった。
「こちらにノーラ・ネーク殿がおいでと聞いている。チャール殿下の命を携えて参ったゆえ、お連れせよ」
探し回るまでもなく、ノーラも中庭に降りてきていた。だが、シュライ語はわからない。ただ、すぐ横にラピがいた。耳打ちされると、彼女は自ら進み出た。
「私がそうです。殿下のご命令とは何でしょうか」
ノーラがフォレス語でそう言うと、勅使は一瞬、目を丸くしたが、すぐ気を取り直して咳払いをした。
「少々お待ちを」
そして彼は、後ろに控える部下達に目配せした。背後に控えていた男達は、慌ただしく駆け込んできて、まずは真っ赤な絨毯を入口から中庭の真ん中まで広げた。それから、さながら巣から飛び出す蜂の群れのように、手に手に大きな花束を抱えた群れが走り出して、宿の階段を駆け上がりだした。彼らはその花束を、中庭を囲むベランダに括りつけて飾り立てた。下から見上げると、一斉に白い花が咲き乱れたかのように見えた。
白い椅子が持ち込まれ、それが赤い絨毯の先端にそっと置かれる。勅使は手で指し示して、ノーラにそこに腰掛けるようにした。その両脇には香炉が置かれ、大きな団扇のようなものを捧げ持った女が二人、後ろに立った。また、金箔で飾り立てた衝立が背後に置かれた。
一切の準備が整ったところで、勅使は手渡された巻物を受け取り、もったいぶりながらそれを広げ、ノーラの前に跪いてから、読み上げた。
「栄誉ある英雄の血統、ポロルカ王国が第四王子、チャール・プラブットゥア・ポロロッカ・チーレム殿下より」
これは、明らかにノーラを貴婦人として扱おうとしている。狙いは俺ではなく、彼女そのものだ。
「思いがけず我が国にもたらされた異国の花、頭上を照らす光でいらっしゃるノーラ殿に、ぜひとも我が家に歓びをもたらしていただきたい……殿下は、ノーラ殿のご来訪を心待ちにしておいでです」
いきなりのことに、ノーラはもとより、俺達も呆然とするばかりだった。
夢見がちな第二王子、俺を通して他国との関係改善を図るために親睦会を開催した第三王子に続いて、第四王子は……
「質問をしてもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
ノーラは騎士身分に相当するが、勅使の立場はもっと上だろう。だが、彼は恭しい態度を崩さなかった。
「恐れながら殿下とは、先日の王宮での会合のとき、お会いしただけです。言葉も交わしませんでした。それなのに、私にどのようなご用件がおありなのでしょうか」
「殿下の胸中は、私どもには量りかねます。さりながら殿下は、ノーラ殿の賤しからぬ振る舞いをいたく気に入っておいででした」
ほとんど答えになっていない。
答えになっていないことが、ほとんど答えになっている。
普段は鉄面皮といっていいノーラが、一瞬だけ、不安げに身を揺すった。
「では、いつお伺いすればよろしいでしょうか?」
「本日のお昼にお越しいただければと。無論、馬車も衣装もご用意させていただきます」
「一人で行かなくてはいけませんか? 私はシュライ語をほとんど解しません」
すると勅使は脇にいた部下と目を見合わせたが、すぐ考えを取り纏めて答えた。
「では、女性の方に限り、従者としてお連れください。早速、手配をさせますので」
昼にということだが、身支度を整えてからとなれば、もうあまり余裕はない。今すぐ準備に取り掛からなくてはいけないだろう。
そして、常識的に考えて、王子の招きを拒絶するなど、できるはずもなかった。仮に他の予定があったとしても、だ。
それから黒塗りの大きな衣装箱が持ち込まれ、身を清めたり化粧を施したりする世話係の女達が踏み込んできた。中庭の緊張状態は相変わらずで、ノーラは引っ張り込まれるようにして浴室に連れていかれた。
「これは」
フードを被ったまま、てんやわんやの騒ぎを見守っていたビルムラールが、溜息をつきながら言った。
「チャール殿下も、思い切ったことをしますね」
「というと、やっぱり」
「求婚でしょう」
頭を一打ちされた気がした。
殿下はまだ十四歳。前世基準では中学生、子供のイメージだが、こちらではほとんど大人だ。来年には帝都に留学する予定だろう。つまり、結婚してもおかしくない。
「そんなの許されるのかい?」
ディンも驚きながら呟いた。
「王子様だろう? それが勝手に、一度会っただけの相手を見初めるなんて」
「正妻でなければ、どうとでもなるでしょう。それに今は正式な国王がいない状態です。だから殿下には誰にも命令できません。うまく隙間をついたというところでしょうか。ただ、チャール殿下は未婚です。側妾とはいえ、最初の妻の一人になれるとすれば、地位は保証されるでしょう。貴族相当の称号を与えられる可能性も高いです。それに」
ビルムラールは顎に手を当てて思考を巡らせる。
「実は、王太子のイーク殿下は、男児には恵まれていません。ドゥサラ殿下は未婚で、ティーン殿下は既婚ですが、こちらもまだ子がいません。ひょっとしたら、ひょっとするかも」
兄三人が男児を儲けずに終わった場合、チャール王子の最初の妻から産まれた男児が、ポロルカ王国の後継者になるかもしれない。
「歴史的瞬間かもね」
ディンも嘆息した。
俺はというと、思いのほか衝撃を受けていて、これ以上、何も言えずにいた。
とにかく、勅使達に見つけられたくないビルムラールは、それからそっとその場から立ち去った。堅苦しいのを嫌うディンも、自室に引き返した。俺は、呆然とその場に佇んでいたが……
「若旦那」
「ヒェッ」
後ろからイーグーに声をかけられて、変な声が出てしまった。
「いいんですかい?」
「は?」
「見過ごしていいんですかい?」
何を言いだすかと思ったら。
「ノーラがチャール殿下に招かれる件?」
「他にありますかね」
「僕に何かできるとでも? 一国の王子が面会を求めているのに、乗り込んでいって邪魔しろと?」
「まあ、さすがにそいつは無謀ですがね」
じゃあ、どうしろというのか。
「簡単なことですよ。ノーラの姉御はとっくに俺のもんだって、若旦那がハッキリ言えば済むんです」
「そんな、それはでっち上げもいいところじゃないか」
「じゃあ尋ねますがね」
イーグーは、さも呆れたと言わんばかりに肩を竦めた。
「姉御が、あの蒸し暑い大森林にまでわざわざついてきたのは、何のためだったんですかねぇ?」
そう言われると、反論ができない。
元はと言えば、俺がスーディアに派遣され、ゴーファトの件を片付けてもピュリスに帰ろうとしなかったから、そのままついてきたのだ。俺を連れ戻すというのが彼女の目的だ。
「ちぃと薄情すぎやしませんかね」
「仕方ないだろう」
そういうお前はなんなんだと言いたくもなる。
俺がノーラを受け入れるなんて、できるものか。使徒にも目をつけられている。ヘミュービだって、またいつ俺を殺そうとするかわからない。
「僕の傍で生きるのは、危険すぎる」
「そいつは若旦那が悪いんでさ。不老不死なんておかしなものを追っかけるからそうなるんで」
いちいち癪に障ることを。だが、確かにその面はある。あるが……
「なら、やめれば安全になるのか? 違うだろう?」
「そうかもしれやせんねぇ」
今から平凡な暮らしをします、と宣言したところで、使徒が俺を解放するわけがない。ルアに予告された災禍も待ち受けている。
「……もし、ノーラがチャール殿下を気に入ったのなら、ある意味、それはいいことだ」
「へぇ?」
「僕の傍にいなければ、危険な目に遭わずに済む。ノーラだけじゃない、みんな、そうやって幸せに生きてくれればいい」
「だから、そいつが薄情だって言ってるんで」
さすがにイライラしてきたが、彼の言うこともわからないでもない。
あくまで飄々としながら、だが、彼は鋭く切り込んできた。
「いい加減、まっすぐ見たらどうなんですかい。姉御はね、若旦那のために命懸けなんですぜ?」
返す言葉もない。
「巻き込まない方が幸せですかい? 本当にそうなんですかねぇ? 不老の果実と同じでさぁ。無駄にいつまでも生きて、何の意味があるんですかい? 納得して死ねる人生なんざ、そうそうありゃしねぇ。若旦那は、それを取り上げちまおうってんだ」
「だからって」
「要するに、若旦那が臆病者ってことなんで。悪者になりたくねぇんだ。違いますかい?」
歯噛みしても、どうにもならない。イーグーは間違っていない。
「そうだ。僕は臆病だ。ノーラにも、他の仲間にも、みんな死んでほしくない。何がおかしい」
「おかしくはねぇですよ。でも、ってこたぁつまり、そんだけ姉御もみんなも大事ってことになりやすぜ? ってこたぁ、とどのつまり」
俺の肩を叩きながら、イーグーは言った。
「どっちにしろ、もう逃げ隠れなんて、できやしねぇんじゃねぇんですかねぇ?」
それだけ言うと、彼は歩き去ってしまった。




