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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十四章 夕凪の汀
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心に錨を

 それからのディンは勤勉そのものだった。誰とも馴れ合わず、素性の知れない男達が大部屋の狭い寝床で雑魚寝するだけの安宿に移った。昼間は一日中、荷運びの仕事をした。ちまちまと小銭を貯めて、決して無駄遣いをしなかった。


「でも、正直に告白するよ。マヤは美しかった。それに心を動かされなかったと言ったら、嘘になる」


 ハンファン人とムワの混血だったマヤには、どこか神秘的な美しさがあった。それだけでなく、立ち居振る舞いにはどこか上品なところがあって、それも彼の心を惹きつけた。

 まるで夜香木のようだった。夜に花開き、その芳香は辺りに満ちる。なのに明け方になると閉じてしまう。


 いまや彼女に髪飾りを返すために働くようになったディンは、何度もあの夜のことを反芻した。そのために自分の貧しさ、惨めさを思い出しては身悶えしたのだが。

 なるほど、彼も考えないではなかった。祖父は貴族、父もムスタムの顔役で、裕福な商人の家に婿入りして、いまや実家には財産もある。仮に兄バイローダが病死するなどしたら、一躍自分が跡取りだ。そうした身分を考えるなら、譲渡奴隷の娼婦でしかないマヤよりずっと高貴であるはずだ。してみれば、彼女を我が物とする資格くらいはある……だが、この考えを、彼は頭を振って追い出した。そんな考えが胸に忍び込んだことさえ恥じた。

 現状を比べるなら、どちらも社会の底辺だ。但し、マヤのほうは高い地位の人々に見初められる未来もあり得る。豪商が気に入って身請けすれば、その日から第二夫人だ。もし正妻が後継ぎを産まなければ、或いは彼女が次期当主の母に成り上がることもある。一方のディンは、兄の不幸によってしか拾い上げられることはない。

 毒の茨に絡めとられるように、彼は心のどこかが傷つくのを感じつつも、自分が自分の思いのままにならなくなっていくのを見過ごすしかなかった。


 三ヶ月後、ようやく必要な金を貯めた彼は、少しだけ身綺麗にして、今度は一人で例の娼館に向かった。

 期待していなかったとすれば嘘になる。だが、彼女の表情の変化を目の当たりにして、ディンは胸が跳ねるのをおぼえた。最初が驚愕なのはいいとして、次にきたのが非難がましい視線だったのがいたたまれなかった。

 彼は慌てて言った。


『何かしようなんて思っていない、これを返しにきた』


 けれどもマヤは、傷一つない状態で返却された髪飾りを見て、いかにも嘆かわしいといわんばかりに目を覆った。

 だが、この件でディンを愚か者とするのも酷だろう。十歳になってからずっと肉体労働しかしてこなかった。人情の機微、ましてや女心など、どうして学び得ようか。


『あなたはそんなことのために三ヶ月を無駄になさったのですか』


 悲しげな笑みを浮かべて、マヤはそう呟いた。


『無駄じゃない。僕は賭けに負けた。遠い異国で仲間にも裏切られた。だけど、これのおかげで自暴自棄にならずに済んだ』


 それは確かにその通りだった。三年間もかけてお金を貯めたのに、無謀な計画に乗ったばかりにフイにしてしまった。苦楽を共にした仲間もあてにならないと思い知らされた。このまま身を持ち崩しても不思議はなかったのだ。だが、マヤにとっては小さな善意でしかなかったとしても、それがディンの中にあった誇りを思い出させた。

 人の善意に報いるため、三ヶ月を費やした。その間に、ディンは徐々に状況を受け入れていくことができた。失敗の苦痛はあまりに大きかったが、それが世界のすべてにはならなかった。そうして自分の辿った道程を思い返すうち、苦しい中で必死になったからこそ、得られたものもあったのだと気付けた。シュライ語やハンファン語も覚えたし、サオーでは船大工の仕事の手伝いもした。

 失敗は失敗だ。失敗は取り戻せない。だが、まだ自分は成人したばかり。ここから頑張ればいいのだと、気持ちを新たにすることができた。


『では、これはあなたの錨になったのですね』


 するとマヤは、溜息をついたが、ディンの言葉を受け入れた。


「錨、ですか?」

「そう、錨……船を留めておく、あれだよ」


 そのままであれば、ただのつまらないチンピラに身を落としていたかもしれなかった。そこを踏みとどまらせたのは、小さな小さな誇りだった。それをマヤは錨に喩えたのだ。


『それがどんなものでも、どこかで受け入れるしかないのです。そのために役立つのが心の錨なのだと、昔、父が言っていました』


 やり手の商人だった彼女の父は、そうやってよく商売のコツを教えてくれたのだという。

 どこかで何かを仕入れて、また別のどこかで売る。そうやって利益を得るのが商人の仕事だ。しかし、売るべき場所、時というのは本当にわからない。南方大陸の香木を仕入れたとして、それをいつ、どこで売れば利益が最大化されるのか?

 悔しい思いは日常茶飯事なのだ。仕入れ値の倍で売れたとほくそ笑んでいたら、たった一ヶ月後に更に倍になっていた、なんてこともあったという。かと思えば、もっと値上がりする、して欲しいと思って握りしめているうちに、思いもしない大暴落がやってくる。

 では、どうすればいいのか? 目的は着実に利益を出すことであって、相場の頂点で売り抜けることではない。損失を出すこともある。だが、それをいつまでも悔いていても仕方がない。


 利益も損失も、どちらも受け入れること。見込み違いはあって当然。人生も取引も、何もかも思い通りにはいかない。だが、人はえてして理想通りにことが進むとそれを当然とみなすし、大失敗をするとそれがいつまでも心に残って、平衡を欠いた判断をするようになってしまう。

 あの時こうしていれば、やり直せさえすれば……


「やり直せることなんてないんだ、取り返しはつかないんだって、そう言われて、逆に新鮮だったよ」

「そうですか? でも……例えば、僕がここまで、商売でやってきたとします。ところがあてが外れて金貨一万枚を儲けそこなった。でも、僕は若いですし、次の取引では十万枚を稼ぐかもしれませんが」

「それはそうさ。だけどそれは取り返したことにはならない。そのための時間と労力は使っている。同じ状況は二度とやってこない。人生はやり直せないんだ。失敗も成功も一瞬で流れ去っていく。だから本当は、適度に忘れてしまうのがいい」


 俺は首を傾げた。


「忘れるっていっても、大きな失敗を忘れられますか? また、忘れていいんですか?」

「余計な気持ちを捨てるということだよ。その目的は、いかに現実を受け入れるかというところにあるんだから。では、どうやって現実を受け入れるか……それには、自分の今いる場所を見直すしかない。だから、錨なんだよ。どっちに風が吹いていても、波が流れていても、軸足がどこにあるかは、これではっきりする」


 その意味では、マヤがディンに持たせた金の髪飾りは、確かに錨の機能を果たした。善意に正しく報いようとする心の働きのおかげで、自分が何者なのかを思い出すことができた。つらく苦しい現実を受け入れるだけの時間を与えてくれた。


 ディンはマヤの身の上を知りたがった。彼女は渋りながらも、やむなく語った。


 彼女の母はキト近郊の農民の娘だったが、実家の貧窮ゆえに売り飛ばされた。転売を繰り返された末に、東方大陸南部の、とある富裕な商人の愛人に収まった。ところが妊娠したので、それではということで正式に妾として屋敷の中の離れに居着くことになった。そこで生まれたのがマヤだった。

 それなりの家に生まれ育ったのもあって、マヤは礼儀作法から教養まで、一通りを学ぶ機会を得た。だが、所詮は妾の子、それも正妻が後から男児を挙げたとなれば、どんどん肩身は狭くなる。なのに母は早世した。肝心の父も、彼女が十二歳のときに流行り病であっさり死んでしまった。

 となれば当然、待っているのは継子いびりだ。奥方は、相応しい身分に戻してやろうと彼女に言い放ち、早速、譲渡奴隷として売り飛ばしてしまった。それから五年、操を散らしてからは三年、マヤは希望の絶えた花の牢獄の中に閉じ込められていた。


 似通った境遇に、ディンが憤りを覚えなかったはずはない。彼女は救われねばならない。

 だが、ディンが身請けの金額を尋ねると、今度こそマヤは色をなして食ってかかった。そんなことをしても何の利益にもならない、あなたは私をどこかの令嬢とか貴婦人だと勘違いしている、他に女を知らないからそんな馬鹿なことを思いつくのだ、今まで数えきれないほどの男達の指がこの体の上を這い回ったのに、そんな女を選んで後悔しないはずがない……第一、身請けが済んだら彼女は自由民に戻るので、極端な話、ディンのものになる必要もない。金持ちが身請けで愛人を連れて帰れるのは、女の側にも相手の財産ゆえにそうするメリットがあるからだ。

 そうした説明を一通り、馬耳東風とばかり聞き流してから、ディンは改めて金額を尋ね直したのだが。


「このまま、いつまでも下働きなんかしていても、マヤを請け出すことはできない。だから、僕も覚悟を決めた」


 儲けるにはどうすればいいか? 簡単だった。海賊がウヨウヨいる海峡を渡って、こちら側の港に物資を運び込めばいい。だが、普通にやったのでは海賊どもに見つけられて、積み荷を巻き上げられて終わりだ。だから、リスクをとることにした。安全度の高い北方ルートではなく、東方面、青竜などが出没する海を突き抜けて、ワノノマ人豪族の居留地を目指す。

 言い出した時には、誰も真に受けなかったが、意外と話は簡単に進んだ。フェンリの船の多くが利用されずにドックに納められたままだったので、船主は儲けがあがらず困っていた。船員達も、長らく収入が絶たれて困窮し始めていた。

 秘密裡に話が纏まり、ディン達は真夜中にこっそりと東に向けて出港した。無事、スッケ港に到着して取引を済ませると、帰路についた。


「あの時は、運がよかった。とても自力では切り抜けられなかったと思う」


 フェンリの街の誰かが裏切ったのだろう。帰路に待ち伏せていたのは青竜ではなく、海賊船だった。逃げ切ろうとしても、物資を満載した商船は船足も遅く、たちまちのうちに追いつかれてしまう。だが、そこにやってきたのが、ワノノマの魔物討伐隊だった。本来、彼らが狙うのは魔物なのだが、だからといって目の前の凶行を見過ごすほど浮世離れもしていない。接舷して乗り込んできた海賊は纏めて斬り捨てられ、その他は命からがら逃げだした。

 こうしてディンが取り仕切った船は、無事、フェンリの街まで大量の物資を満載したまま帰着し、大いに利益をあげた。


 マヤを身請けしてなお余りある大金を得て、彼は足取り軽く、例の娼館に向かった。手にはお土産も握りしめていた。金の碇にサファイアをあしらったネックレス。やり直せないのなら、やり直せないでいい。やってしまったことは済んだこと。ここからまた始めたらいい。

 まさか本当に、海賊が支配する海峡を抜けて一儲けしてくるなんて思っていなかったマヤは、ディンの腕の中で初めて涙を見せた。


 一仕事終えた安心感もあったのだろう。ディンは娼館から帰ると、いつもより高級な宿の個室に引き返し、そこでまた眠った。


「この時の僕を、もしやり直せるならだけど、ぶん殴ってやりたい」


 昼過ぎになって、ドアをノックする音で目が覚めた。上機嫌のまま扉を開けると、あの娼館の案内役の中年女性が立っていた。彼女は周囲をキョロキョロ見回してから急いで室内に立ち入ると、ディンの手に何かを握らせた。それは金貨の詰まった袋と、例のネックレスだった。


『どういうことだ』

『伝言を頼まれたから言っておくよ。二度と私に関わるな。とっととムスタムに帰っちまえ。わかったかい?』

『おい、後から金額を吊り上げようって魂胆か? 話が違うじゃないか。ガキだと思ってバカにするな!』

『そういう話じゃない。とにかく、マヤは身請けなんか望んでいない。あんたの顔も見たくないそうだから』

『そんなはずはない。それならもう一度』

『出禁だよ。入店は二度と許さない』


 これでは何のために頑張ったのかわからない。混乱と苛立ちの中で、ディンは椅子やテーブルに八つ当たりをしてから、不貞寝を決め込んでしまった。

 情勢の変化に気付いたのは、だから、夕方になってからだった。


「窓から見下ろした大通りに人がいなくなっていてね。それで察したんだ」


 海賊の大親分が戻ってきたのだ。ただ、問題はそこではない。

 連中が居座っている間、街の一部はずっと潤っていた。一方で、仕事を奪われた船乗り達など、不利益を蒙っていた人達も数多くいた。だからこそ、ディンの無謀な計画に乗ってくれたのだ。これは一つの利害衝突、分断だった。とすれば、ディンのやらかしたことはなんだ? この街を事実上支配する海賊どもにとっては反逆だ。

 あの帰り道で、ディン達は海賊の襲撃を受けた。ほとんどは討ち果たされたが、一部が生き残り、大親分に注進したのだろう。


 だからだ。危ない橋を渡った、それも言い出しっぺのディンは、真っ先に狙われる。間抜けといえばそれまでだが、経験不足の若者だったことを思えば、仕方のない面もある。

 彼は荷物を纏めると、逃げ出すことにした。そうして通りに出たところで、誰かの悲鳴が聞こえてくるのに気付いた。


 つまり、海賊もまた、ディンと同じくらい暢気だったということだ。ワノノマの魔物討伐隊は、海賊をそのままにしておくつもりなどなかった。フェンリの街まで報復に戻ってきた海賊どもを、ここで一網打尽にしてやろうと押し寄せてきたのだ。

 こうして市内は戦闘状態になってしまっていた。


 ディンが真っ先に気にかけたのが、マヤの無事であることは言うまでもなかった。剣を片手に、彼は街中を駆け出した。

 若さもあってか、この時はいつにもまして勇敢だった。海賊の群れが道を塞いでいるところに一人乗り込み、彼は大声をあげた。


『いたぞー!』


 ハンファン語で叫んでみせると、海賊どもは算を乱して逃げ出した。ディンの後ろに魔物討伐隊がついてきているかと思ったのだ。

 そうして最短距離を通って娼館に駆けつけたが……


「あの門は、開け放たれたままだった」


 変事があったと悟ったディンは、狂ったようになって敷地の中に駆け込んでいった。そして……


「きっと一生忘れない。石畳の上に仰向けになったままの、あのマヤの顔を」


 出会った時と同じ、白地に大きな牡丹の花。だが、その長襦袢は赤い血の筋に汚されていた。肩口から上半身を両断されて、とっくに事切れていた。

 あるがままの現実を見ても、理解が追いつかなかった。剣を取り落とし、混乱したまま膝をついた。泣き出すことさえできなかった。


『あんたのせいだ』


 いつの間にか、後ろからあの案内役の中年女性が近付いてきていた。


『この娘はね、海賊の大親分のお気に入りだったんだ。身請けのこともすぐバレた。勘のいい野郎だったからね。誰がそんなことをしたのか言えって。でも、マヤは』


 ここでやっとすべてのピースが噛み合った。

 よりによってディンが海賊のシマを荒らし、しかもお気に入りの女を連れ出そうとしていたなんて知られたら。危険を悟ったから、ノコノコとこちらに顔を出されたら死なせてしまうから。だからマヤはディンと縁を切った。

 だが、それでも海賊は納得しなかった。なにしろナメられたら終わりの稼業だ。マヤは誰が糸を引いているのか言うように強要されて……静かな微笑を浮かべたという。その無言を拒絶と理解した海賊は、手にしたサーベルを振り下ろすしかなかった。


「この時、僕が考えたことも、多分、ファルス君と大差なかったんだよ。僕がマヤのためにしてあげられるのは、仇討ちだけだって……腕のある剣士でもなんでもないのにね。だけど、それも一足遅かった」


 日が暮れる前に、ワノノマの魔物討伐隊が海賊どもをあらかた討伐してしまっていた。その中には、大親分の首もあった。

 結局、ディンは何もできずに立ち尽くしていただけだった。


「西に向かう船の甲板で、僕はずっとこのネックレスを見つめていたよ」


 それがどんなものであっても、どこかで受け入れるしかない。では、マヤの死も? その通り。

 そういえば以前、タマリアが言っていた。運命はある。それは過去なのだと。

 過ぎ去った出来事はもう変えられない。必ず今、この瞬間に過去になったことが、以後の一切の前提条件になる。いつでもここから、今からスタートだ。だから、受け入れるしかない、あるがままを見なくてはならない。それを拒んだところで、視界が不透明になるだけ、足下がお留守になるだけだ。


「僕の夢は、立派な船乗りになることだった。それが僕の錨になるんだろうかと、ずっと考えていた。だけど、それだけでは足りない気がした。だから、彼女には悪いけど……僕はそれから、ずっとこのネックレスを身に着けて航海に出ていた。おかげで、それからは判断に迷うことがなくなった。大しけに見舞われた時にも、恐怖で何もできないなんてことはなかった。本当に恐ろしいことは何か、もう僕は見てきたんだって、思い出せたから。でも」


 彼はネックレスを外した。


「本当はよくないことだ。心の中でマヤを連れて海に出るなんて、それじゃあ彼女の死を受け入れたことにはならない。わかってはいたけど、ずっとやめられなかった。それをやめたのは、二十八になって、縁談が舞い込んでからだよ」


 マヤの死から、一度も女遊びもせず、もちろん恋愛もせず、お見合いにも関心を示さず、ひたすら海から海へと渡るばかりだった。そうなると、さすがにバイローダとしても放置はしておけない。既にいっぱしの船乗りに成長し、ムスタムの商人達からも頼られる男になった以上、一家を構えて然るべきだからだ。そこにエンバイオ家からのお声がかかった。

 家長たる兄からの話でもあり、ディンは断らなかった。そして、妻を娶るからには、心の中にでも他の女を住まわせておいてはいけなかった。だからといって、自分のために死んだマヤの形見同然となったこのネックレスを、売り捌いたり海に投じてしまうのも、またできなかった。だから彼は、大事な品だからということだけ伝えて、兄にこれを預けた。

 心を入れ替えて、これからは妻となったランとその子供達のために生きよう、主君となったエンバイオ家に尽くそうと彼なりに努力はした。だが……ここからは俺も知っている話だ。新旧派閥がぶつかり合うサフィスの下で、ディンは居場所を失った。


「ファルス君、受け入れるとはどういうことだと思う?」

「どう、と言われても。何を受け入れるかによるかと思いますが」

「そんなことはない。受け入れるというのはね、究極的には死を受け入れる、ということなんだ」


 俺が今、全身全霊で避けようとしているものを受け入れろと、彼はそう言った。


「語弊があるかな。死ねばいいわけじゃない。生きることも含めて、生きて死ぬものだということ、丸ごとひっくるめて受け入れる。これが大事だ。だけど、できない人が多い」


 というより、そんなことができるんだろうか?


「僕らは毎瞬間、死んでいる。刻一刻と未来を過去に塗り替えている。たとえ永遠の命を得ても、過去は死んだまま、生き返らない。なかったことにはできない。やり直しなんてできない。そして……人生のほとんどの場面で、僕らは完全な成功を収めることなんてない。いつでも心残りがあるままなんだ」


 ディンは、手にしたネックレスを差し出して、俺に握らせた。


「だけど、受け入れるんだ。受け入れてしまうんだ。気をつけて。今を評価することに夢中になってはいけない。そんなものは一瞥すれば済む。評価を目的にしてはいけない。あくまで手段の一つだ。すぐ前を向いて、行動することに意識を移すんだ。そうしたら自然と浮かび上がってくる。何をしたらいいのか、どうすべきなのかが自然とわかる」

「これは」


 大事なはずのネックレスを手渡されて戸惑う俺に、彼は苦笑いを浮かべて首を振った。


「偉そうなことは言ったけど、いまだに僕にもうまくできないんだ。本当に難しい。だけど、僕にはもう錨がある。もう会えないかもしれないけど、ルードもナギアも立派に育った。ムスタムに帰ればサーシャもいてくれる。あの子達には感謝しかない」


 ディンは俺の肩を叩いた。


「だからそのお守りはもう、僕には必要ない。いや、いつまでも持ってちゃいけないんだ」


 だとしても、俺には重すぎる。

 俺は受け入れられるのだろうか。自分の現実を。


 恐れおののく俺を安心させるように、ディンは笑顔で言った。


「君にも、きっと君の錨があるはずだ。それに気付く日まで、それを預けておくよ」

『粋な生き方、遊び方』

https://book1.adouzi.eu.org/n6359da/104/

> 「二十歳前には卒業したよ。こんなのはね」


『メインストリートでトリプルデート』

https://book1.adouzi.eu.org/n6359da/519/

> 「あんまりしたい話じゃないけど。彼の気持ちの問題もあるから、言いふらさないでね? 若い頃に彼が好きだった人がいたみたいで。その人に贈って求婚するつもりだったのね。だけど、その女の人が死んじゃって。それでずっと持ったままにしてたんだって」


はい、やっと伏線回収です。

そりゃ卒業しますよね……


三十四章、ここで終わりです。

既にポロルカ王国領内ですが、次回からその王都に舞台が移ります。


また、来週水曜日の2021/12/22からは冬の不幸祭りを開始します。

毎日18時更新です。

なお、本日時点で下書きすら片付いていないので、途中で止まる可能性があります。

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― 新着の感想 ―
[一言] マヤさんが死んだのは、ディンが店先で金貨とネックレスを返品されるよりも早かったのでしょうか?
[良い点] 大しけに見舞われた時にも、恐怖で何もできないなんてことはなかった。本当に恐ろしいことは何か、もう僕は見てきたんだって、思い出せたから。 死より恐ろしいことを経験したのに、女の裸をみただ…
[一言] 来週から楽しみです。  次の章が、第二十三章「白の夜明け」の感想欄で言われてた、3つのパートの内の2つ目のエンディングがある話ですかね。
感想一覧
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