漂泊者の思い出
ディン・フリュミーの人生は、ムスタムの波止場から始まった。
祖父は田舎の男爵、父はその三男坊で、剣一本でのし上がり、富裕な商人の家に婿入りした。実家に頼らず自力で未来を切り開いた父は、息子にも強く生きることを期待した。無論、そうはいっても常識の範囲内でのことではある。結果だけ述べると、年の離れた兄、バイローダは家を継ぐべく大切に育てられた。反対にディンには、何一つ与えられなかった。
最初からそういうものと弁えていたディンは、文句を言わずに港での下働きから始めた。初老の西部シュライ人の親方の下で、沖仲仕として雇われた。元々がいい家のお坊ちゃんとくれば、いじめられても不思議はなかったのだが、ディンは若年ながらも甘えがなく、また年齢の割に体格にも恵まれ、しかもちゃんと働いたので、それほどひどい扱いを受けることはなかった。
傍から見れば勤勉な少年だったディンだが、その内心は誰も知らなかった。上の兄が帝都に留学するために船出したその港で、自分は浜辺の砂に塗れ、汗だくになって重い荷物を運ばなければならないのだ。自分の父もそうやって今の地位を得たのだと知っているから不平は口にしなかったが、だからこそ自分の力で成功を手にしたいという思いは、膨らむばかりだった。
それから三年間も下働きを続けた。そして若者の野心は、それ以上の忍耐を許さなかった。
いつになったら上に行けるのかと悩み続ける彼のもとに、一発逆転の機会が巡ってきたのだ。
『紛争中の海峡を潜り抜けて南方大陸の物品を帝都やフォレスティアに持ち込めば、大儲けできる』
おりしも赤の血盟と黒の鉄鎖は、トーキアのウォー家の介入もあって南北で抗争を繰り広げていた。そのために海峡は封鎖され、物流が滞った。この混乱に乗じてポロルカ王国まで密航し、買い漁った物品を北方で捌こうという無謀な計画だった。
ラスプ・グルービーはこの機に赤の血盟相手に薬品を売りつけて大儲けしたのだが、肉体労働を三年間こなしただけのディンには、さすがにそれだけの才覚などなかった。彼の頭の中にあったのは、ムスタムの青年らしい夢でしかなく、それは立派な船乗りになることだったのだから。
つまり、この話に飛びついてしまったのだ。少し考えればわかることだった。どうして下っ端もいいところ、まだ成人すらしていない自分にまで声がかかったのか。成功が見込めない仕事だったから、人が集まらなかったのだ。
「僕の憧れは、ルアンクーだったんだ」
夜の広場に、すぐ下の大通りからの光が差し込んでくる。それが遥か上、マストを模した石塔の天辺にある時計を照らしていた。もう夜の十時になっていた。
「海峡の王と呼ばれたルアンクー。どんな風もどんな波も思うがままに乗りこなす。サハリア人の軍船が束になって追いかけても、勝ち誇るのはいつも彼だった」
特にルアンクーは夜戦が大の得意だったという。大艦隊が後ろから迫ってくるのに、彼は軽々と夜の海を翔けた。どこで暗礁に乗り上げてもおかしくない浅瀬を、この上なく器用にすり抜けた。今度こそ彼を始末しようと必死で追いかける敵の艦隊は、面白いように次々と座礁して沈没していった。
ルアンクーの評価は、今でも立場によって異なる。一代の梟雄、各地から女を掻き集めた好色家、豪放磊落な快男児……だが、史上最高の船乗りという一点においては、今でもどこからも異論がない。
「でも、ま、要するに……僕はルアンクーじゃなかった」
ディンは肩を竦めて、苦笑いを浮かべた。
彼の初の航海は、破滅的な結果に終わった。なんとかキトの横をすり抜け、カリの前も通過したが、そこで赤の血盟の艦隊に捕捉された。ルアンクーよろしく夜の海を果敢に逃れようとしてみたものの、背後から火矢を雨あられと浴びせられてしまい、マストが盛大に炎上した。おまけに浅瀬に乗り上げて竜骨がへし折れた。焼け落ちる船から、ディンと若い仲間達は、命からがら逃げだした。夜の海に飛び込み、サハリア人に捕らえられる前に泳いで逃げた。
もうすぐでサオーというところまで来ていたので、ディン達は飢えと渇きに苦しみながらもそこまで歩いていった。手元にあった僅かな小銭がすべてで、それでなんとか食い繋ぎつつ、戦時中のサオーで肉体労働に勤しんだ。仕事は選べなかったので、時には武器を手にサオーの防衛にも駆り出された。といっても、実際に戦闘に至ることはほとんどなかったが。
そこで一年ほど頑張っていたのだが、いよいよ赤の血盟が有利になってくると、ディン達の立場は難しくなった。物資が不足しがちで、特に食糧事情が悪化したのが一つ。それから、余所者のディン達を敵のスパイと疑う人達が現れたことも大きかった。
そういうわけで、最終的にはサオーからも逃げ出すしかなくなった。といって、北にはカリしかない。そこはネッキャメル氏族の支配地域だ。前科があるまま長居はできないので、彼らは話し合った挙句、クース王国を経由して南方大陸の東岸に出ようとした。
それは苦しい旅路だった。いつも飢え、渇いていた。所持金がなかったせいで、いちいち何がしか仕事をもらう必要もあった。海峡の紛争に影響されて内陸の治安も悪化していたので、しばしば足止めを食らった。それでもあの船出から一年半後、やっと十五歳になる頃、ようやくディン達は大陸の東側に抜けることに成功した。この時は、港町を山の上から見下ろしながら、肩を叩きあって喜んだという。
「戦争のおかげで、海賊も増えたからね」
それこそバジャックみたいに、戦争から逃げ出してそのまま各地で暴れまわったのもいたのだ。ディン達は、南方大陸北東部の街、フェンリで肉体労働に勤しみつつ、少しずつ帰国のための資金を貯めた。
そのフェンリの街では、海賊が大手を振って大通りを歩いていた。鹵獲品を売り捌いて大金を得ては、盛大に飲んで遊んで使い果たしてしまう。ディン達は街の底辺の立場だったから、それを羨みつつ、また恨めしい思いで遠くから眺めているしかなかった。海賊がいなくなってくれさえすれば、貿易が盛んになる。そうすれば、西方行きの商船に乗せてもらう機会もあっただろうから。ただ、それを口にするのは憚られた。そもそも自分達も戦争に乗じて一儲けしようとしていたことを忘れてはいなかったのだ。
この後、戦争が終わるまで一年ほどかかった。そして戦争が終わっても、海賊はいなくならなかった。街の酒場で下卑た笑い声をあげ、色町を我が物顔で占領する連中に、街の人々は愛想笑いを浮かべるばかりだった。一つには恐ろしかったから。もう一つには、ありがたかったから。
「ありがたい?」
「フェンリはもともと、栄えていた町ではなかったからね。海賊が奪った品を格安で流してもらって、それを他所に転売する。それに海賊が儲けを街で使ってくれるから、潤っていたんだ」
貿易が割高になるこの状況では、海賊にすり寄っていた方が稼げてしまう。それ自体は、街の人にとってはやむを得ない選択だった。もちろん、それで稼げているのは一部の人で、船乗り達にとっては不況の続きでしかなかったが。だから、もともとの居住者の間でも対立が深まっていた。
いずれにせよ、ディン達にしてみれば、苛立たしいだけだった。治安の悪化した海上を抜けて帰国する目途も経たず鬱屈した気分で日々をやり過ごすしかなかった。その結果はお察しで……
「仲間が酒に溺れるようになったのがきっかけだった」
ディンは、やや気まずそうに言った。
当時の仲間の一人が、ついに我慢の日々に耐え切れず、帰国時のために貯め込んでいた自分の金を手に、気晴らしに出かけた。泥酔するまで酒を飲み、そのまま遊郭に出かけて行って、娼婦と一晩を過ごして帰ってきた。行方不明になった仲間の安否を気にかけていたディン達は、彼の朝帰りに一度は憤ったが、内心に欲望の火が投じられたのは同じだった。
「それから、一人、また一人と夜遊びする仲間が出てきてね……それまで励ましあっていたのに、大事なお金をつぎ込んで、酒に女に、博打に……希望を持てなくなった人間なんて、脆いものだった」
薄汚い、狭苦しい一室を安く借りて、どうにかこうにか日々をやり過ごしていたはずのディンの仲間達だったのに、まるで櫛の歯が欠けていくように、一人また一人と夜更けに外出するようになった。浴びるように酒を飲み、海賊相手に博打をして、遊郭に入り浸るようになった。当然、そんなことを続けていては金が残るはずもなく、揉め事に繋がるのもすぐだった。
「僕だけ貯め込んでるのは、みんな知ってた。まさか、苦楽を共にした仲間にやられるなんて思わなかったけどね」
「金を抜いて遊びに使ったんですか。最低ですね」
「でも、若かった……言いくるめられちゃったんだ。盗んだやつがいたとしても俺達じゃない、お前が運が悪かったんだ、じゃあみんなでディンに奢ってやろう、ってね」
きっと罪悪感もあったのだろう。後ろめたさをごまかすために、彼の仲間だった連中は、それはもう奮発した。フェンリの街で一番の、それこそ海賊のお頭でもなければ行かないような高級な遊郭に案内したのだ。そしてもちろん、この時、ディンは童貞だったし、恋の一つも知らなかった。
「今でもはっきり思い出せる。東方大陸風の、あの格子状になった引き戸、中庭からは胸がスッとするお香の匂いが……雲の上を歩いているような気分だった。中年のハンファン人の女の人が、無言で頭を下げるんだ。それが、なんていうかな、恥ずかしいのもおっかないのもあって、どんな顔をしていればいいかわからなかった」
既に時刻は夜、中庭には剪定された低木が灯りに照らされて浮かび上がって見えた。足下には白い石畳で舗装された道があって、そこを案内の女性の後について歩いていく。一切が物静かなのに、どこかから歌声と弦楽器の音色が聞こえてくる。
昼間、汗と泥に塗れて働くばかりのディンにとっては、まるで別世界だった。ふと、自分の着てきた服がどれほどみすぼらしいかに気付いて、急に不安に駆られた。
だが、そんな心細さなど知ったことではないとばかり、案内人の中年女性は、とある小部屋の前で足を止めると、黙って入口を指し示し、改めて後ろで一礼すると、いなくなってしまった。半ば狼狽えながらも、どうせここの支払いは仲間達の奢り……というか、ディンからかすめ取った金の一部ということを思い出して、憤りと開き直りが頭をいっぱいにした。それで彼は、苛立ちのままに、やや乱暴に入口の戸を引き開けた。
「棒を飲み込んだみたいに動けなくなったよ。本当に、見たこともない世界に踏み込んだような気がした」
入口は薄暗い土間だった。けれどもその向こう、焦げ茶色の板間には、南方大陸らしく草を編んだ敷物と、東方大陸風の小さなちゃぶ台。棚には琵琶が立てかけてあった。部屋の隅には香炉があり、今も静かに煙を吐き出し続けている。瞬く灯に照らされた部屋のまた向こう、寝台のすぐ上に大きな窓が口を開けていた。その窓際に、彼女は腰掛けていた。
ハンファン風の長襦袢といえばいいのか。襟は大きく開き、裾はゆったりとしていた。生地には大きな牡丹の花が描かれていて、それが西方大陸にはない大胆さで、ディンを驚かせた。黒い髪が高く結い上げられていて、そこから覗くうなじがなんともいえず艶めかしかった。それでいて彼女は年若く、その眼差しはまるで夜の風雨に打たれた後の朝顔のようだった。
「マヤは、まるでおとぎ話のお姫様みたいだった。今度こそ、僕は逃げ出したくなったよ」
ここは自分の来るところじゃない。ディンはそう直感した。だが、頭の中は真っ白で、声も出せなかった。
そんなディンの様子を見て、彼女は窓辺から降りて歩み寄り、その白い指先でそっと彼の手を取った。
彼女の頭の中を想像するとしたら、こんな感じだろう。
若い外国人、大変に若く、それも身なりもみすぼらしい。気後れして立ちすくんでいる。としたら、これは女を知らない男で、それが先輩達から送り出されてこんな場違いな店に来てしまったのだ、と。そして彼女自身は娼婦だから、当面の仕事をこなさなければならない。男は若いので、性欲は溢れんばかりにあるはずだ。琵琶をかき鳴らして場をもたせるより、好きなだけ肉欲を満たしてやった方が納得してもらえるだろう。
彼女が性質の悪い娼婦だったら、こんな風にはしなかった。なぜならディンは貧しい。再来店する見通しはないに等しかったし、特別なお手当をくれる……店への収益は、譲渡奴隷である彼女の手には渡らない……ことも期待できなかったから。けれども、もしかすると、居場所を見つけられずに戸惑うディンの初々しさに心を動かされたのかもしれない。
マヤにとってはそれが仕事だったから、その白く柔らかい手でディンのゴツゴツした手を包んだ。だが、それを引き寄せて彼女の胸に近づけると、彼は慌てて手を引っ込めた。彼の中の強い羞恥心を見て取って、彼女はやり方を変えた。優しく酒を勧めたのだ。そしてディンにとっては、これが初めての酒だった。
少量の酒が理性を吹き飛ばした。マヤとしては、ディンの気持ちをほぐして欲望を満たしてもらおうとしたのだが、彼の方はそれどころではなかった。酩酊は、彼の中の封印された倉庫、積もり積もった怒りの保管庫の鍵を開けてしまったのだ。だが、十歳から十五歳の五年間を、ひたすら報われない努力に費やしてきたのだ。三年間の苦役の結果は、南方行きのあの船に投資してしまい、元手は消え失せた。その後もサオーで生き延びるために底辺の仕事に耐え続けた。だが、街の人々から疎まれて逃げ出さざるを得ず、内陸の泥土の道を飢えながら這いずり回った。やっと東岸までやってきたのに、そこで海賊に道を塞がれ、おまけに仲間に貯金を抜かれて今、ここにいる。
彼の中にあったのは、やはり家柄というか、貴族らしい見栄のようなものだった。父も裸一貫から成り上がった。だから自分が一文無しで放り出されたからといって文句は言えない。実のところ、フェンリに到着して、海賊に帰国を阻まれても、最後まで貯金を無駄遣いせずに過ごしたのは、この辺の精神性があったからだ。他の仲間達は庶民出身で、ゴールがあやふやにしか見えていなかった。ディンにとっては、具体的だった。だから耐えることができたのだが、さすがに限度というものがある。
この五年間、女っ気はもとより、優しく接してくれる人の存在もなかった。他人に甘えたことなどなかったのだ。たとえ自分の意志で女遊びにきたのだとしても、本来のディンなら口を滑らせたりはしなかったはずだ。娼婦ごときに泣き言を吐き散らすなど、男らしい振る舞いではなかったから。だが、要するに条件が揃ってしまったのだ。
マヤはディンを寝台に誘った。だが、結果だけ言ってしまうと、彼は何もできなかった。これでは何をしにきたかわからない。結局、一晩添い寝しただけで終わってしまった。
決してお安くはないお店なのに、これではあんまりだ。或いはそう思ったのかもしれない。帰りしなにマヤは、寝台の下から小箱を取り出した。
『こちらをお持ちなさい』
中にあったのは、黄金の髪飾りだった。いくつも真珠があしらってあって、それは美しい代物だった。
『こういうところには二度と来てはいけません。信用できないお仲間ともお別れなさい。お国に帰って幸せにおなりなさい』
こうした金品は、彼女の歓心を買おうとして、客が買い与えるものだ。そしてそれが、年季が明けた後の彼女の暮らしの支えになる。場合によっては、自らを請け出す資金にもなる。無論、マヤがディンに施しをする義理などなかった。
それは同情だったのかもしれない。或いは、汚れた仕事をする中で、せめて一つでも小さな善行を積んでおきたいとの思いからだったのか。
夢見心地のまま、ディンは店から出て、朝焼けの街をふらつきながら歩いた。
だが、仲間達のいるボロ宿に戻ったとき、さすがに彼も正気に戻った。
「僕は、はっきり言ったよ。ここを出ていくってね」
苦楽を共にはしたが、仲間の金に手を出すような下衆に成り下がってしまった連中だ。一緒にいては、自分まで下卑てしまう。それに、思いがけず与えられた金の髪飾り、これも彼らに見つけられたら、早速取り上げられてしまうだろう。
といって、その品を自分の財産として扱う気にはなれなかった。これは自分が持つべきものではない。彼女が働いて得たものだ。善意や同情の気持ちだけは感謝して受け取るべきだが、彼女自身も籠の鳥でしかない。だからディンはそのまま踵を返して歓楽街に引き返し、娼館の下働きの女に、マヤを呼んでくれるよう頼んだ。だが、当然ながらそれは拒絶された。
といって、これを下働きの人間に託すのは躊躇われた。自分の仲間が盗むなら、目の前の中年女性がかすめ取らないとも限らない。それでディンは腹を括ると、背を向けて立ち去った。
「自分の手で返そうと思ったんだ」




