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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十四章 夕凪の汀
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傍から見れば危うい様子

 少し早めの夕食を宿の中で済ませてから、自室の窓辺に立って、なんとなしに眼下の街並みを見下ろしていた。夜になると、商店街の活気はますます盛んになるばかりだった。日中は暑すぎるのと、水夫達にも仕事があったりするのとで、そこまで人通りがない。稼ぎ時は、この宵の口の頃からなのだ。


 ひたすらぼんやりとしていた。目に映るものが何も見えていなかった。一人で思考の淵に沈みこんでいた。


 俺は何に苦しんでいるんだろうか。もしかして、途方もなくどうでもいい、バカバカしいことに頭を使っているんじゃなかろうか。人混みで目詰まりをおこしている谷間の道路を見ながら、そう思わずにはいられなかった。

 店で働く人々は、明日の糧を得るため、必死に通りすがりの船乗りに声をかける。銅貨一枚でも多く稼いで、家に持ち帰るためだ。船乗り達にとっても、大変な仕事をこなしてからの、陸上での大事な気晴らしの時間だ。今は遊んでいるようにみえるが、これも生きるための営みの延長線上にある。

 だから、南北に続く長い道路の、このお祭りの夜店のような盛況は、いうなれば草がめいいっぱい葉を広げるようなもの、獣がその足で大地を駆け巡るようなもの。狭い通路を照らすのは篝火の光だが、そこに見出されるのは生命の輝きだろう。


 俺は、その気になればいつでも帰還できる。ピュリスでもいいし、キトでもいい。好きなだけ寝ていても文句など言われないし、上げ膳据え膳の毎日が待っている。暇とか退屈だというのなら、それこそ好きなことをすればいい。人がこの世で望むほとんどすべてのものを既に与えられているのに、何をまだ求めているのか。どうしてこんなに行き詰まってしまったのか。


 背後からノックの音が聞こえた。


「はい」

「やぁ」


 扉を開けて入ってきたのは、ディンだった。


「どうしたんですか」

「遊びに行かないかい?」


 いきなり何を?

 だが、断る理由もなかった。


「夕食、ちょっとだけ物足りなかったんだよね」


 二十分後には、俺達はとある露店のカウンターに座っていた。小皿の上には串焼き肉が載せられている。


「まぁ、おいしいですけど」


 今はフォレス語で喋っている。目の前の店主は、シュライ語とサハリア語には堪能だが、フォレス語はちょっとしかわからないようだし。


「少しだけ味が濃いような」

「お酒ありきだしね」


 ガツガツ飲んで、ガツガツ食べる。そういうジャンクフード的な感じの味付けという意味では、これでいい。それにここに来るのは、一日中、暑い中で立ち働いていた水夫達だ。汗をかいた彼らが、貴族の食卓に並べられるような味の調和を求めるだろうか? だから、この味が正しい。


「ここのお酒がね、香りが甘いんだ」

「きつそうですけど」

「そのままじゃすぐ潰れちゃうから、酸っぱい果汁で割るんだけど、それでも強い。だけど、これが串焼き肉の濃い味と合うんだよ」

「僕はお酒は飲みませんよ」


 彼は笑いながら、コップの酒を一口飲んだ。


「そろそろ飲み始めてもいい頃だと思うけどね。あと二年半くらいかな、十五になったらもう大人の付き合いを求められるんだし」


 二年半後、か。その時、俺はまだ生きているだろうか。

 不死の探求を始めてから、およそ二年半の年月が過ぎ去った。目的地は、余すところ二箇所だが、それぞれ多少辺鄙な場所とはいえ、人跡未踏の地にあるのでもない。船を利用して効率的に旅をすれば、あと一年もかからず終わってしまうだろう。


「お酒は……特にそういう蒸留酒は、なるべく避けたいです。タリフ・オリムでひどい目に遭いました」


 あれは忘れられない。汚屋敷の乱痴気騒ぎを思い出すと、今でもゾッとする。


「なになに、何があったんだい?」

「あそこの地回りの家に厄介になったことがあるんです。面倒見はいい人で、悪気はないんですが、とにかく毎晩酒盛りをするので……広い庭で飲んでは吐いて、飲んでは吐いてを繰り返して……これ以上は、飲食するところで説明はできないですね」

「なかなか楽しそうなところじゃないか」


 確かに、ガイにとっては楽しかったに違いないと思うが。


「旅に出て、いろいろ見聞を広げたみたいだね」

「そんなでもないかもです」


 思考が暗い方に向かっていくのを感じて、俺は話題を変えた。


「それにしても、今日はいきなりどうなさったんですか」

「ん?」

「遊びに行こうというのは」

「別に深い意味はないよ。前にもムスタムで飲み歩いたことがあったなと思い出したからさ」


 そういえば、そんなこともあったっけ。

 あれが初めての海外旅行だった。帰り道でリンガ村以来の殺人経験を積み重ねたことを除けば、楽しい思い出だったと言えなくもない。慣れない土地で水を飲み過ぎて、お腹を壊したりもしたが。


「すっかり旅慣れてそうで安心したよ」

「ええ、まぁ」

「それと、もう一つ」


 彼は首にかかったネックレスを引っ張り出して、指先で弄んだ。


「これの件でお世話になっていたみたいだから。なかなか二人だけになれなかったから、言い出す機会がなかったんだけど、お礼を言っておきたくて」

「ああ」


 金の碇の形をしたそれに、サファイアが嵌めこまれている。もう一年も前のことか。ムスタムに渡航して、ディンの家を訪ねた。本人は不在だったが、娘のサーシャとメイドのハディマがいた。そこに押しかけ嫁として、オルファスカがやってきていた。


「どんな手品を使ったのか、お祭りの日に彼女を大通りの真ん中で素っ裸にしたそうじゃないか! ははっ、君もなかなか悪戯が好きだったんだね」

「えっと、はい」

「どうしたんだい?」


 彼女のことも、今では笑い話にできない。


「いえ、その」


 思い出してしまう。彼女の死に様を。


「実は、人形の迷宮で、亡くなったので」


 詳細は伏せておきたかった。脳幹を貫かれて絶命し、その後はザイフスに屍姦されていた。

 そうなって当然の人間だという思いはある。キブラを脅して無茶な攻撃計画を実施に移し、挺身隊の大勢の若者を死に追いやった張本人だ。キースはその辺の話をディンには伝えていないのだろう。


「そうだったのか」

「彼女は……善良な人ではありませんでした。でも、よくよく考えると、僕が追い詰めたせいで、あんな死に方をしてしまったのかな、と……今では思います」

「ふむ」


 彼は静かにコップを置くと、懐から数枚の銀貨を取り出してカウンターの向こうに差し出して、立ち上がった。


「ちょっと散歩しようか」


 店を出てしばらく、俺とディンは他愛もない話をしながら、夜店を冷かしながら歩いた。商店街を端までゆっくり歩いて、それから夜の堤防に沿って進み、砂浜に降りた。

 真っ暗な中、穏やかな陸風が吹いている。


「何があったか、そんなに知っているわけではないけど」


 立ち止まってから、ディンは静かに言った。


「大変な人生を選んでるみたいだね」

「どこまでご存じですか」

「そこまで詳しくは知らないよ。ただ、キースさんが言ってた。一緒に人形の迷宮を踏破したってね。それだけでもとんでもないことだけど」


 彼は俺を見下ろし、推測を口にした。


「その後、サハリアで何かあったのかい?」

「やっぱりそうなりますよね」


 キースは、俺がティズに会いに行くつもりだったと知っていた。その後で南北の紛争が勃発した。当初劣勢だった赤の血盟がどんでん返しを重ねて、ついに黒の鉄鎖を滅ぼしたとなれば、当然、そこに思い至る。


「はい。多分、思っている通りです」


 彼は頷いた。


「そうか……」


 暗い夜の海が打ち寄せるばかりだった。


「これだけではありません」


 自然と言葉が口をついて出てきた。


「あの時……初めてムスタムに渡ったあの帰り道から、僕は……毎年、人の命を奪ってきました。お忍びで向かったティンティナブリアでも、ピュリスの街が襲われた時にも、それから王都で争いが起きた時にも。旅に出てからも、数えきれないくらい」


 チェギャラ村を出てからもすぐ、何人も殺した。ジノヤッチと、ヤラマ……だったっけ? 命乞いをしてきたのに、髪の毛を掴んで這いつくばらせ、上から首を切り落とした。ただ、その年の殺人はそれで終わり。翌年の殺人は……あれを含めるのだとすれば、スーディアまでお預けになった。それにどうせ、夏の終わりには人形の迷宮に向かった。あそこでまた何人も殺した。


「大森林の奥で、殺し合いになりました」


 もっとも、俺の中では殺人が日常になりつつあった。殺し合いに巻き込まれたことについて、被害者面ができる生き方など、していない。命を狙われたからという言い訳はできるが、俺はクース王国でも、ゾラボンとブルーグを手にかけている。


「人の好さそうなお爺さんがいたんです。魚を獲るのが上手で。でも、密林の中で、殺し合いになりました。罠にかかって殺されそうになって、最後はなんとか倒し切りましたが」


 ディンは真面目な顔で俺の話を聞いていた。


「魔物の暴走に巻き込まれて、連れてきた人の大半が死にました。それでも二人だけ、生き残ったのがいたんです。でも、その二人は……一人は元海賊で、もう一人は、その海賊に父親を殺された男でした。だから、最後の最後で殺しあって、二人とも目の前で死んでいきました」


 結局、こうなるしかないのか。

 人生、生まれついた場所次第でしかないのか。運が良ければ悪いものを引き当てずに済む。バジャックが海賊になるしかなかったのも、彼の貧困ありきだった。その貧困は、彼を見捨てた父母が押し付けたものだった。バジャックは確かに悪事をなしたが、彼を悪人と呼んでいいのか。


「最後に息があったんです。でも、その時、イーグーが言いました。人生はやり直しなんかできないんだって」


 そしてバジャックはそれを受け入れた。最期にチャックの埋葬を言い残して、微笑を浮かべて死んでいった。

 あの時、あの場にあったものはなんだろう。俺は、お前も弔うと答えずにはいられなかった。バジャックに捕らえられて辛酸を舐めたはずのディエドラも、彼の懐から落ちた金塊を、改めて彼の手に握らせた。そうする意味がどこにあったのか。言葉にはならずとも、俺達は何かを感じていた。


「僕に難しいことはわからないよ」


 ディンは、彼らしい答えを返した。


「でも、イーグーさんの言ったことは正しいと思う。人生は、やり直せない」


 彼はじっと海の方を眺めていた。


「今夜は満ち潮だね」


 踵を返すと、彼は目の前の高台……あの、船の形を模した広場に向かって無言で歩き出した。ボヤボヤしていると、この辺まで水に浸されると判断したのだろう。俺も黙って続いた。

 広場までの階段を登ってみると、そこには誰もいなかった。頭上には雲がかかっており、月の光もほとんど地上には届いていない。ただ、この広場までくると、反対側の商店街からの灯りが差し込んでくる。それがマストのように立ち並ぶ石の柱の天辺を照らした。


「僕も、いい歳をした大人のつもりだったんだけどね。失敗ばかりして、今もいろんなことに気付かされてばかりだ」

「そんな。フリュミーさんは立派な方だと思います」


 彼は苦笑いしながら手を振った。


「はは、いやいや。妻にも離縁を言い渡されたし、仕事のためとはいえ、たった一人引き取ったサーシャにも寂しい思いをさせているし。およそ胸を張れるようなものじゃないよ」


 そう言うと、首のネックレスを持ち上げた。


「ずっと昔に、人生がいかにやり直しのきかないものか、思い知ったはずだった。だけど、今日の今日まで、僕はこれを手放せなかった」

「そのネックレスのお話、本当だったんですか?」


 彼は頷いた。


「少しだけ、昔話をしようか」

前回もノーラに「休んできたら」と言われ、今回もディンにケアされています。

悶々としているのが、周囲の人にはっきりわかってしまっているような状態です。

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