ファルス、発狂する
朝露に濡れた緑の葉が明るく輝いている。その近くを大きな熊蜂が低い音を立てて舞っていた。足下の地面はよく踏み均されていて、草もまばらにしか生えていない。急な坂道などは石で一応の舗装がしてあったりもする。歩いていく分には幅の広い道だった。
馬車で二日、そこから徒歩で一日。途中の小さな村落に無理を言って宿を借り、今、俺達は目指す村の近くにまで達しようとしていた。
「ご主人様、そんなに大事なものがあるんですか?」
「クー、もうご主人様と呼ばなくていいんだ」
「そう言われましても」
俺は前を向いて歩きながら答えた。
「これを今のうちに独占しておけば……キトの税収なんか、全部海峡に捨ててしまっても惜しくはなくなるだろう」
「そんなに!?」
嗜好品が持つパワーがどれほどか。
前世のコーヒーは、大航海時代以降に徐々に世界に広まった。エチオピアからイエメンに持ち込まれたコーヒーノキだったが、これを他所の土地で栽培されてはたまらないと、モカの港で焙煎してから各地に輸送させていた。当時はペーパードリップのような技術も存在しなかったが、それでもヨーロッパでは爆発的流行が引き起こされた。結果、コーヒーノキの苗木を盗んで、南米など各地で栽培するということに繋がった。
そうはいくものか。いつまでも独占はできないし、するつもりもないが、まずは俺が首根っこを押さえてやろう。世界の飲料事情も、これで一変するだろう。
ここに来るまでの間に、俺は何のためにコーヒーを手に入れようとしているのかと自問自答した。金が欲しいのか?
そういう思いもないでもない。ただ、これは俺が先の戦争で得た富とは別口だと考えている。なぜなら、この世界においてまだ発見されていない価値を創出することで生じる利益だからだ。
もし俺がここでコーヒーノキに介入しなかったら、この先どうなってしまうだろう? コーヒーノキは病害虫にも弱く、収穫が見込めるまでに三年はかかる。とすると、なんらかの保護なしには、もっと別の作物によって駆逐されてしまうかもしれない。現に、俺が前世で死ぬ直前には、原産地だったエチオピアのコーヒー産業は危機に瀕していた。コーヒー畑が、もっと手軽に稼げる大麻に転用されてしまっていたのだ。
そういう悲劇を防ぎ、世界中の人々にコーヒーを届けるためには、俺が仕事をしなければならない。
「船を降りたと思ったら、いきなり登山たぁ」
今まで見たこともない俺の熱狂ぶりに、キースが吐き捨てる。
「変な奴だとは知ってたが、今回は目がイッちまってんぜ」
「ですよね……どうも済みません」
ノーラも同意する。なんか俺が狂人扱いされているような空気がある。構わない。
「こ、この先です」
ヒィヒィ言いながら、ワングが案内する。俺の仲間はみんな、大森林を歩き通したのばかりだ。クーやラピでさえ、それで相当な健脚になった。だから一番体力がないのはワングだ。彼はもう汗だくになってしまっている。きっと筋肉痛も近々始まるだろう。
果たして彼の言う通り、山道の角を曲がって大きな坂を登りきると、人々の暮らす村落が見えてきた。
草葺きの家々が木々を背にして、中心の広場を囲むようにして並んでいた。面白いのは、どの家の裏庭にも、必ず木が植えられていることだ。多分、食料とか薬草になるものを選んで育てているのだろう。
俺達が村の敷地に入ると、向かい側から住民らしき中年女性が大声で呼びかけてきた。
「商人さんかい!?」
気のよさそうな笑顔だ。地に足をつけて暮らしている人ゆえの、どっしりとした安心感を与えてくれる。彼女の顔は日焼けしていたし、身に着けている服もよれた普段着でしかないのに、なぜか我が家に帰ってきたような気持ちにさせられる。
「アリュノーの商人、ワングだ」
彼はシュライ語でそう答えた。
「今日は偉いお客様方に、ここの豆を見せたくてやってきた。いくらか売ってくれないか」
「いいよ! ついてきな!」
おばちゃんは、細かいことをいちいち訊かず、俺達の前に立って歩きだした。
村の広場から少し離れて、草木を切り払った小道を通ると、その向こうに納屋のようなものが見えた。その近くには、山ほど鉢植えがあった。
「はじめは鉢植えで育てるんだ。で、今度はこっち」
そのまた向こうの道を抜けていった先には、素晴らしい眺望があった。
緩やかな登りの斜面があって、足下には丈の低い草が生えている。そこに一定の間隔をおいて、まばらに木々が生えている。それらのほとんどは、高さ四メートルを超えない。特徴的な赤い果実がついているので、それとわかる。これこそコーヒーノキだ。
その斜面の向こう側は下りになっており、その先は自然の原生林に続いている。遠くを見れば、その彼方にまた別の峰がそそり立っていて、それが実に青々としていた。
「あの赤いのが豆さ」
言葉の通じていないノーラが尋ねる。
「なんて言ってるの?」
「あれが例の豆なんだよ」
「あれが?」
ノーラが驚いている。
「食べてみるかい?」
脚立を持ち出して、おばちゃんは赤い果実をいくつか手で摘み取ってきた。
「ほぅら、これがそうさ」
勧められるままに……シュライ語なので、何を言っているかはわかっていないだろうが……ノーラは一粒だけ、やや不安げに口に運んでみた。
「……甘い、けど」
「ほとんど果肉はないよ」
中身は大部分がコーヒー豆だ。果物として評価されるほどに果肉があったら、また違った扱われ方をしていただろう。
「おばちゃん」
「あいよ!」
俺の呼びかけに、彼女は明るい声で応えた。
「どうしてこれを育ててるんですか」
「普段は芋を作って食べてるんだけどね、それじゃあお金が稼げないからさ。どうしても村じゃ手に入らない物があるからね、銀貨が欲しいんだよ」
なるほど、と頷く。
そういうことなら、村民の生活向上にも役立てる。彼女らは、どれほどの宝を手にしているのか、まだ自覚していない。
「噂では、これを汁にして飲んでいると聞いているんですが」
「そうさ。持ってこようかい?」
「お願いします」
すると彼女は納屋に引き返し、道具を一式持ってきた。思った通り、焙煎済みの豆をゴリゴリと石臼で粉々にして、それを金属製のコップの中に入れる。そうして、上から湯を注いだ。これじゃあターキッシュコーヒーだ。
「さぁ、できたよ」
さっきの果実が甘かったのもあってか、ノーラが真っ先に手を伸ばした。だが、一口飲んで顔を顰めてしまう。
「やっぱり苦いじゃない」
それなら、とラピが代わりに飲むのだが……
「うえっ」
やっぱりすぐ手放してしまった。
「ノませろ」
大騒ぎにならないよう、帽子をかぶっているディエドラが、コップを引っ手繰って口に運んだが、一口で目を怒らせた。
「ギェッ!?」
毒でも飲まされたと言わんばかりの顔をして、コップをシャルトゥノーマに押し付ける。
彼女は、先の三人の顔をまじまじと見てから、黙ってそれを飲んだ。
「ちょっと粉っぽいな」
その頃には、おばちゃんが二杯目を用意して、男達にも振舞っていた。
ジョイスは無言で首を振り、ペルジャラナンはむしろ大喜びで飲んでいた。
「僕にやらせて欲しい」
俺はペルジャラナンを招き寄せると、石積みの間に火を熾してもらった。火力が均等じゃないと、焙煎の結果が悲惨なものになる。それを焚火でうまくこなせる気がしないので、当面は魔術で解決する。ただ、産業化するなら、この方法は使えないのだが。
生豆を受け取ると、それを金網の上で熱し始めた。絶えず動かしていないと、一面にだけ火が通って、無用な焦げ目を作るだけになる。我慢を要する作業だ。ほどなく、香ばしい匂いが辺りに立ち込めだした。
「匂いはおいしそうじゃないか」
まだ一度も飲んでいないディンがそう言う。
「匂いだけはな……」
ジョイスが遠い目で呟く。
「こんなもんに夢中になる理由があんのか?」
行きがかり上、なんとなく連れてこられてしまったキースは、首を傾げている。
焙煎が済んだら、少し冷ましてから、今度は細かく挽く。そうしたら、フィラックに頼んで用意してもらった漏斗の出番だ。そこに紙を敷き、まず先に上から湯を浴びせる。紙の臭いを取るための湯通しだ。
沸騰したままのお湯ではなく、しばらく待って適温になったら、ペーパーフィルターの中を埋めるコーヒー粉の上に湯を注ぐ。それも乱暴にではなく、薬缶をうまく操って、細い細い湯の滝を作り出す。
「まず蒸らす」
心の中でゆっくり二十秒数えてから、俺はもう一度、気をつけながらだが、なみなみと湯を注いだ。
「よし、できた」
差し出されたコップを手にして、ノーラは今度こそ、と可能性を信じて一口含んだ。
「やっぱり苦いだけじゃない!」
今度は本気で呆れ果てたらしい。
無理もない。彼女は俺の料理の腕を知っているのだ。それがこんなに真剣に取り組むくらいなのだから、うまくやればおいしくなるはずだと、そう信じていても不思議はない。それがこの味だ。
「ノーラにはそう感じられるかもね」
そうして、俺は自分のコップを手に取った。
さて、前世から通算して、実に十二年半ぶりのコーヒーだ。どんな味だろう。目を閉じて、静かに一口、含んでみた……
目を閉じているのに、何かが見える気がする。
黒々とした峰々の向こう、東雲色とでもいえばいいのか、空の一角が暗く澱んだ赤に染まっている。山頂の空気はあくまで冷たく乾いている。
そこに一人の男がいる。その姿もまた、黒いシルエットでしかない。その彼が、奇妙な踊りを始めた。時折、甲高い声で祈りの言葉を叫ぶ。それはこの上なく真剣な、神への祈りだった。
夜明けの静謐の中、雄々しい大地の彼方から、世界を照らす太陽を呼び覚ます。そう、これは聖なる儀式なのだ……
パッと目を開けると、これは叫んだ。
「これだぁっ!」
様子を見ていたノーラやラピが、ビクッとして後ずさる。
「素晴らしい! やっと、やっと見つけたんだ! このフルーティーな味わい、香り、ああ、これっ、これさえあれば!」
俺は構わず振り返り、他の人に同意を求めた。
「そう思いませんか、皆さん!」
だが、反応は芳しくなかった。
「お前の淹れたほうが、確かにいいかもしれないな。少なくとも、粉っぽくはなかった」
「ニガい。オナじ」
「ギィ」
ここで俺は、半分くらい正気に戻りかけた。
「おいしくない、の?」
ノーラが頭を抱えた。
「まさか、本当なの? 本当にファルスが狂ってしまったの? どうしよう」
「狂ってない。ノーラ、正気だよ。この飲み物が世界を征服するんだ」
だが、彼女は首を振るばかりだった。
そこで俺は、もう一度、コップを取り上げて、さっきのコーヒーを一口飲み直した。こんなにおいしいのに、どうして……
「あれっ?」
目を閉じているのに、何かが見える気がする。
心の中に浮かんできたのは、コンクリートの壁を埋め尽くす暴走族のストリートアートだった。ヘタクソな字で「夜露死苦」と書いてある。
寂れた工場町。シンナーの臭いが木枯らしに混じっている。空っぽのペンキ缶がカラコロと音をたてて、長年整備されていない古びたアスファルトの道路を転がっていく。
コンクリートの壁の上はバイパスだ。そこを暴走族がバァンバンバンと改造したマフラーで爆音を撒き散らしながら駆け抜けていく。一気に排気ガスの臭いが辺りに立ち込めた……
「ぐぇっ!? なんだこれ」
「さっき、これだって言ったじゃない」
「お、おかしいな? 何がいけなかったんだろう?」
さっきは一瞬、おいしいと思ってしまったのだが……
改めて味を吟味すると、やたらと渋くて、到底前世の飲食店で出せるような代物ではない。
久しぶりにコーヒーを飲めたという感動で、さすがの俺もちょっと混乱していたらしい。
火力の問題だろうか? 均一な火力は維持していたはずだが、強すぎたのか、弱すぎたのか。
それともやっぱり道具が不完全だったのか。そうだ、そうに違いない。特にこのペーパーフィルターの材質はいただけない。ここは改善の余地ありだ。
焙煎だって、魔術の火を使ってもこれだ。やっぱり、ちゃんとした装置が必要なのか。
では、コーヒーで世界征服という俺の野望は、ここで潰えるのか? いや、慌てるな。最初から奥の手を使う必要なんかない。ターキッシュコーヒーでいいじゃないか。それだって世界中に受け入れられた味だ。とにかく、まずコーヒー豆を掌握すること。これは絶対だ。
むしろ、伸びしろがあると考えたほうがいい。同業他社がターキッシュコーヒーを真似ても、俺はその未来のカタチを予め知っている。新技術で一歩リードすれば、誰も俺には追いつけない。
だが……
「ファルス、それはおいしくないわ」
……ノーラはコーヒーが気に入らなかったらしい。
「う、いや、これは僕がうまく淹れられなかっただけだよ。豆には問題なかった」
「何を言ってるの? 苦いだけじゃない。ここの人が淹れてくれたのだってそうだったし、あんまり変わらないわよ?」
詰め寄るノーラに、俺はどうやって切り返そうかと頭を悩ませた。
しかし、そこで思わぬ助け船が入った。
「ふうん、なるほどね」
ディンはコップを弄びながら言った。
残念ながら、俺が焙煎した方ではなく、おばちゃんのターキッシュコーヒーを飲みながらだが。
「確かに苦いが……なんと言ったらいいんだろう、香りが独特で面白い」
「そうでしょう?」
キースも首を振りながら言った。
「あー、なんか、飲むと頭シャキッとすんなぁ」
「そうでしょう!」
「けど、これ、薬だろ」
「飲み物です!」
いける。やっぱりいける。絶対いける。
俺は勢いよくワングに振り返った。
「ワングさん、大事な仕事です」
「は、はい、なんですかネ」
「この村の土地を買い占めます。この木が生えているところは全部です」
「はぁ?」
寝惚けている場合ではない。金鉱山一つを手に入れたに等しい……いや、それどころではない。これは早い者勝ちだ。
「お金はいくらでも出します。いいから手続きしてください。当面のお金はあなたが立て替えてください。いいですね」
空になったコップを突きつけながら、俺はズンズンと距離を詰める。その分、彼は半ば狼狽えながら後退した。
「できませんネ」
「忙しいのはわかってます。目先の金がないなら、僕がどうにかします。だからいいから」
「無理ですネ」
「言うことを聞かないとどうなるかわかってるんですか。この件では手段は選びませんよ」
「トゥワタリ王国の土地は、全部王室のものネ。住んでる農民は借りてるだけネ。基本的に普通の手続きでは、土地の所有権は買えないネ」
俺は、そのままのポーズで硬直した。




