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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十四章 夕凪の汀
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想定外の遭遇

「おはよう」


 あれから二週間ほど。紅玉の月もそろそろ終わりだ。

 ワングの別荘で暮らすこと二週間、いかに贅沢な空間といえども、そろそろ飽きがくる。


「おはよう……なんだか最近、眠そうね」


 毎朝、食事はこの食堂の長いテーブルに並んで座って摂っている。

 向かいに座ったノーラが首を傾げた。


「よく眠れなくて」

「調べものもいいけど、休めるときに休まないと」

「そうだね」


 彼女は呆れたように肩を竦めた。


「忙しい時には元気なのに、暇な時には疲れ果ててるなんて、変なの」


 魔術書に目を通すのに忙しくて、というのは、ただの言い訳だ。もちろん、それもあるのだが、本当は別の理由がある。

 真夜中に、あの剣に叩き起こされるのだ。比喩でも何でもなく、夢の中にあの白い光が差し込んでくる。世界を浄化せよ、一切の罪を拭い去れ。そう命じられて、俺は恐怖をおぼえて跳ね起きる。この恐怖心を消し去るには、剣を見るしかない。鞘から引き抜いて、剣身の輝きを目にしなければ、眠れない。

 だが、それをすると、ますます何かが俺の中に食い込んでいく。うまく言語化できないのだが、それを今引っこ抜かれると、自分が死んでしまうような気さえする。あまりに恐ろしくて、誰にも相談できない。日中は、それでも剣のことをかなり忘れられる。今、感じているのは寝不足だけだ。


 では、捨ててしまえばいい。

 そう思うのだが、具体的に行動を起こそうとすると、何かがブレーキをかける。これまたうまく説明できない。

 アーノはこの剣を「何かよからぬもの」と言っていた。俺もそんな気がする。するのだが……


 メイドがスープを運んでくる。

 それで俺達は、それぞれ自分の皿に手をつけた。


「若旦那、大丈夫ですかい?」


 遠くに座ったイーグーがそう言うと、全員の視線がこちらに向けられる。


「そんなにひどい顔をしてるかな」

「眠そうではあるな」


 ストゥルンが引き取って言う。


「だったら、こいつを食ったらどうだ」


 今では大森林スタイルではなく……つまり、あの破れかけて汚れた服ではなく、ちゃんとワングに与えられたまともな服を着た彼が、その懐から、紙の包みを取り出した。


「なんだこれ」


 ジョイスが包みを開けると、中には炒った豆みたいなものが、いくつも詰まっていた。


「うまいのか?」


 許可も取らずに彼は指を突っ込み、豆を一つ、口の中に入れる。


「んげっ!?」


 口に合わなかったらしい。とはいえ、吐き出すのも何なので、水で流し込んでしまう。


「これ、薬か? なんつうもんを食わせるんだよ」

「ちょっと、それを」


 まさか、という思いもあり、俺は紙包みをこちらに引き寄せた。

 そして一粒、口に入れる。


「んんっ!?」


 まさか、でもやはり。

 口の中に広がる香ばしさとほろ苦さ。この刺激は……


「おいしいの?」


 ノーラも疑問を感じて、一口食べた。


「えっ、うわっ、な、なに、これ」


 そういう反応になるだろう。

 若者ほど、これをおいしいと感じるのが難しい。だが、慣れると大人は手放せなくなる。これはそういう嗜好品だ。


「ストゥルン、これはどこで?」

「この前、街中を歩いていたら、屋台で売っててな。安かったぞ。それで銅貨二枚だ。なんでも、ここから南東の方にある田舎の村で、木からとれる豆があるっていうんだ」


 意識が覚醒してくる。これがどれほどの重要情報か。


「あっちじゃ、こいつの煮汁を飲むこともあるっていうんだが、はは、苦くて飲めたもんじゃないだろうさ。けど、目は覚めるだろ?」


 俺がエンバイオ家に仕えていたとき、毎日毎日これがあればと願っていた、その夢の食品が、今、眼前にある。

 そして、誰もその凄まじい価値に気付いていない。


「ど、どうしたの? ファルス?」


 ノーラが目を丸くしている。


「毒か? おい」


 フィラックも心配して声をかける。

 言われて気づいた。あまりの衝撃に、俺はカタカタと小刻みに震えていたのだ。


「南東の村、にある?」

「あ、ああ」


 俺の食いつきぶりに少し引きながらも、ストゥルンは説明してくれた。


「ちょっとした山があって、そこで育てているらしい。まぁ、現地の人は、こいつで眠気覚ましするらしいんだが、そうするとシャキシャキ働けるだろ?」

「行きたい」

「は?」

「そこに案内してほしい。絶対に行かないといけない」


 寄り道なのはわかっている。だが、これは譲れない。

 まさか、まさかこの世界にコーヒーが存在するなんて。


 その時、入口のドアをノックするのが聞こえた。


「お食事中、申し訳ございませんネ」


 立ち入ってきたのはワングだ。というより、彼以外、いちいちこんな風にノックしてやってくるのはいない。


「皆様、今朝、ようやく予定していた船が入港したネ。例の船乗りとも渡りをつけられそうなので、近日中にまた、船の手配をしますネ。そうしたら、キトに向けて出発できますネ」


 だが、俺が無反応なのに気付いて、ワングは顔色を変えてこちらを見る。


「あ、あの、ファルス様、どうしましたネ?」

「どれくらい時間がありますか」

「はぁ?」

「今、急用ができてしまいました。数日、ここを空けないといけないかもしれません」

「それはそれは……では、それも含めて交渉するとしましょうかネ。今、早速に迎えのものを走らせておりますのでネ、もう少々お待ちくださいネ」


 それから食事がすんでも、俺は居ても立っても居られないまま、広間を歩き続けていた。

 その様子を、ソファに座ったままのノーラとジョイスが眺めている。


「ね、ねぇ、ファルスがおかしい」

「おかしいのは元からだろ」

「あの豆を食べてから、あんなに目を見開いて」

「毒か呪いかって思ったけど、俺もお前も平気だもんな」


 なんと言われようと構わない。

 コーヒーだぞ? それがまだ、価値を見出されずに安値で取引されている。こんなバカな話があるか。これがあれば……


「……そうだ、世界が変わる。生活が変わる。誰もがこれなしでは生きられなくなる……!」


 俺の独り言を、二人は呆れた顔で聞いた。


「とうとう気が狂ったか」

「さっき元からだって言ってたじゃない」


 そうだ、こうしてはいられない。


「フィラック! フィラック! 大事な用事だ!」

「な、なんだ」


 転がり出てきた彼に、俺は要求を伝えた。


「うっかりしていた。今からいうものを用意してほしい。まず、紙だ。いろんな種類の紙、手に入る種類全部を、かき集めて欲しい。量はそんなにいらない。それから、陶器でできた漏斗のようなものがあればそれが一番いいけど、とにかくそれっぽい道具が欲しい」

「は? あ、ああ」

「もちろん、燃料も薬缶も必要だ。さしあたってはそれだけ」

「う、わ、わかった。ワングに伝えてくる」


 コーヒーの真価は、やはりペーパードリップでこそ引き出せる。というより、ここにはサイフォンもなければフレンチプレスもない。もっとも、もしあったとしても、フレンチプレスはあまり使いたくない。余計な脂分やエグ味まで全部抽出してしまうから。


「ああ! 忘れていた!」

「わっ! な、なんだ」

「使い捨てていい臼と、それから金網も用意させて欲しい」


 コーヒーの味は焙煎で変わる。だが、この世界には焙煎用の機械なんかない。なくてもできる。辛抱強く二、三十分ほど、火の上で金網を揺すり続ければ。そうしてできた豆を、細かい粉にして……ああ、もう、今からどんな味になるか、考えただけで興奮が収まらない。

 フィラックが立ち去ってから、俺は内面から湧き上がる喜びに突き動かされて呟き、笑い声をあげた。


「ついに……ついに俺は、ギシアン・チーレムを超える。奴にも見つけられなかった世界の秘密を、この手で握るんだ……! ふはははは!」


 そんな俺を、みんなは遠巻きにして、気味悪そうに見つめるばかりだった。


「ご主人様……」

「ファルスが狂った」

「命懸けの冒険を繰り返したせいで、精神に支障をきたしたのかも……あんなまずいものに執着するなんて」

「ギィ」


 ペルジャラナンだけは、いつも通りだった。なお、彼はポリポリと残されたコーヒー豆を一人かじりつづけていた。


 昼前に、ワングが別荘に戻ってきた。


「お待たせしましたネ、皆様」


 ワングが別荘の広間の扉をくぐって、俺達に言った。


「信用できる船乗りと、その護衛、船医の方々をご紹介しますネ。どなたも思いがけないほど一流の方々なので、失礼ないようにお願いしますネ」


 だが、その一流の方々とやらは、随分と気が短いらしい。扉の向こうから声が聞こえる。


「ゴチャゴチャうるせぇ」


 そして、蹴破る勢いで部屋の中に踏み込んでくる。


「とっとと休ませろ。やたらとあちぃんだよ、この国は」


 背後から扉ごと蹴飛ばされたワングがつんのめって転倒する。

 そこに乗り込んできた人物と、目が合った。


「あっ」

「おっ」


 忘れようもない。ツンツンと反り返ったその髪の毛、鋭い眼光、それに白い陣羽織。世に二人といるものか。


「キースさん、どうして?」

「なんだ、またお前か」


 棒立ちになったままの俺は、キースの後ろからまたもう一人、見覚えのある人物の姿を見つけてしまう。くすんだ色のマントを揺すりながら、彼もまた室内に立ち入った。


「ビルムラールさんまで!」

「いやぁ、たははは」


 彼は俺を見るなり肩を落とした。


「何があったんですか」

「そう言われると思いましたよ。その、要するに、賢者の学院から追い出されてしまいまして」

「はい?」


 事情はまだ呑み込めていないが、だいたい見当はつく。キースはキースだ。学ぶことには人一倍熱心だが、だからといってお行儀よく過ごせるかといったら、そんなわけがない。


「で、しょうがねぇから修行の続きは、南方大陸でやろうってことになってよ。どうせだから、ムスタムに戻ってバイローダんとこでグダグダしてたんだ」

「ってことは、船乗りは」


 入口から、まさに期待された通りの人物が姿を現した。

 彼は部屋の中を見渡すと、俺の姿を認めて大股に歩み寄ってきた。


「やぁ! 久しぶり!」


 これまた大柄な、歳の割には逞しい男。無精ヒゲすら似合ってしまうナイスガイだった。

 ディン・フリュミー……なるほど、俺の知る中でも誰より信用できる本物の海の男だ。


「元気してたかい?」


 思いがけない再会に、俺は嬉しさですぐに言葉が出てこなかった。

 ワングも俺達が顔見知りとは知らなかったらしく、少しだけ様子を見ていたのだが、すぐ立ち直ってお茶とお菓子の手配をして、みんなを別室に案内した。


「じゃあ、ムスタムからここまで、皆さんで?」

「ああ。ちょうどアリュノーからの船がムスタムまで来たんだけど、そこであちらの船長が急病にやられてね。代わりの船長をお願いすると言われて、それで片道だけの仕事だけど、引き受けたんだ」


 大雑把に言うと、こういうことだった。

 まず昨年の秋に、俺達は人形の迷宮を攻略し、解散した。それからキースとビルムラール、ガッシュ、アナクは北上してムスタムに向かった。ガッシュだけは割とすぐに海を渡ってフォレスティアに帰ったのだが、あとは一ヶ月ほどバイローダのところに滞在した。どうやら相当に迷惑をかけたらしい。

 半泣きのバイローダをあとに残して、新年を迎える前に三人はワディラム王国に渡った。そこで半年近く、それぞれ学びの時間を過ごしていた。だが、例によってキースは落ち着けず、揉め事を起こしてしまう。


「俺ばっかり悪者にすんなよ。あっちが俺をコケにしてきやがったんだろがよ」

「まぁまぁ」


 ワディラム王国の賢者の学院には、いいとこの坊ちゃんが入学することが多い。そんな中に粗暴な元傭兵がいれば、それだけで浮いてしまう。しかもキースは、他の学生が履修する科目など全部無視して、朝から晩まで風魔術の習得だけに励んでいた。学院の規則もなんのその、自分の目的だけに邁進する姿は、周囲からすれば協調性のない、身勝手なものに映ったのだろう。

 そうして立場が悪くなったキースとビルムラールは、アナクを置いてまたムスタムに戻ってきた。当然、石化魔術の解除の研究も中途半端なまま。一方、修行はどこででもできると、キースはカラッとしていた。そんな二人が転がり込む先はといえば、またバイローダの屋敷以外にはない。だが、前回の滞在でハゲそうになっていた彼は、今度こそ悲鳴をあげた。


「ちょうど僕が仕事を終えて、ムスタムに戻っていたからね」


 ファルスの知り合いだし、キースとビルムラールの二人くらいなら、とディンが引き受けたのだ。その背景には、不在中に俺が、彼の家で起きていたトラブル……オルファスカという押しかけ嫁の撃退に一役買っていたことが大きい。

 キースとビルムラール、対照的な個性の持ち主だったが、サーシャはどちらにもよく懐いたらしい。だが、そこで南方大陸行きの船の仕事が舞い込んできた。

 なお、ワングがディンの到着を知ったのは、途中の寄港地でディンより先にアリュノーに到着した船乗りがいたからだ。各地で売買を済ませてから次を目指すので、入港すれば数日は足止めを食らう。それで片道の仕事だと知ったワングが、ディンに声をかけようと待ち構えることができたのだ。


 頼りになる知人が三人もやってきてくれたのだ。嬉しくないはずはない。

 だが……


 これは偶然だろうか?

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― 新着の感想 ―
ふと読み返してみて、「外伝〜キースの学院生活〜」とかあったら読んでみたいなぁなんて思ったり思わなかったり…
[一言] カフェインが不足してると脳に弱い不快感があって、ビタミンCが不足してると渇きが癒えなくて、ビタミンB1が不足してると足がだるくて不快ですねー
[一言] シーラプロデューサーの辣腕が光り、集められた一同。 出てこないアナクは生存確約おめでとう。 集められた皆さん、頑張れ。
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