導きの彼方に
丸一日が経過した。
焚火の周りには、棒状に変形させた石が突き立ち、そこには逆さにしたブーツが刺さっている。昨日の雪中行軍で、少なからず靴の中にも氷水が滲んでいた。すぐに脱いで水気を拭い取り、温めたので、しもやけ程度で済んだが、外気温は既に氷点下を割りこんでいる。凍傷の危険もあった。
土魔術で入口はほとんど閉じてあるが、換気のために最低限の窓を開けてある。そこから垣間見えるのは、まさしく白銀の世界だった。吹き荒れる風の昂った声が止むことはなく、白い雪は斜めに降り注いで、遠くに見える峰を染めつくしている。それが時折、稲妻に照らされると、あまり間を置かずに地響きのような雷鳴が聞こえてくる。
眠りから目を覚ましても、やれることはなかった。ただ、体を休めるだけ。
自然、俺達は無言になっていた。
あの時、引き返しておけばよかったのか? 誰もが一度は考えたが、口にはしなかった。揉め事にしかならないと察していたから。第一、これほどの猛吹雪だ。もし下山するルートを選んでいたにせよ、巻き込まれていた可能性は高い。
一つ、よかったことがあるとすれば、近くにグリフォンのいる気配がないことだ。さすがにこの暴風雪の中では、彼らも俺達を探しにやってくるなどできはしない。
雪を火で溶かして水に変え、俺達はそれを飲んでいた。生まれて初めて体験する寒さに、クーやラピは肩をすぼめ、指先を脇に挟んで温めていた。焚火があるとはいえ、この土の中の空間すべてが均質に温められているわけではない。
心配しなくても、食料だけなら十日分くらいはある。すぐさまどうということはない。ただ、撤退までを視野に入れるとするなら、ここで持ちこたえられるのは、あと二日か三日ほど。それでどうにもならなければ、アンギン村を目指す以外にない。
「あと一日だけ待とう」
俺は宣言した。
「もし、明後日の朝までに晴れなければ、次の晴れ間で撤退する。全滅したら、元も子もない」
空気が重かった。
誰からも異論はなかった。二百五十年前にルーの種族の探索隊が挑んだ魔物を倒せば先に行けるのだと、そう期待していたのに、蓋を開けてみれば、思った以上に険しい山道と氷雪に行く手を阻まれてしまっている。
「寝よう。起きたら晴れているかもしれない」
そうして俺達は、眠くもないのに目を閉じ、毛布に包まって横たわった。
それからどれほど経っただろうか。
いつの間にか眠り込んでしまったのかもしれない。夢にしては一切視界がなく、真っ暗だ。ただ、声だけが聞こえてきた。
《……道を開きました……あなた方をお招きします》
誰だろう? 中性的な声だった。なのにやけに印象的で、これが夢とも思われないような。
招くってどこにだろう?
《箱舟へ急いでください……悪意が背を向けているうちに……》
ハッとして跳ね起きた。いつの間にか眠っていたらしい。
俺が身を起こすと同時に、みんながもぞもぞと動き出す。
まさかと思って窓の外を見る。真っ暗だったが、いつの間にか風が収まりつつあった。
「起きろ! 風が」
みなまで言う前に、みんな目を覚ましていた。
雪は降り止んでいた。けれども風は少し残っている。何より、頭上には黒雲が垂れ込めていた。たまに離れた峰に稲光が見えて、遠雷の音がここまで聞こえてくる。
なぜか誰にも迷いはなかった。いちいち確認をとるまでもなく、自然と俺達は上を目指した。今をおいては他にない。それがわかっていた。
歩くたび、踏みしめられた雪がギュッと音をたてる。滑って転倒しないよう、一歩ずつ確かめながら先に進む。ロープは手放せない。誰かが足を踏み外したら、俺が引っ張り上げるしかない。
静かな時間だった。
こんなに大勢で歩いているのに、雪を踏む音と息遣い、あとは時折轟く遠い雷鳴くらいしか聞こえなかった。
空の色の微かな変化に気付いた。白んできている。遠くに見える峰々の端がうっすらと光り輝いている。
足下の雪は、いつの間にかまばらになり、焦げ茶色の地面が見えた。砂利を踏む音が聞こえる。
断崖絶壁の横を抜け、左右を岩壁に挟まれた広い斜面に出た。空気は乾ききっていて、どこまでも空虚で、またこの上なく清浄だった。
踊り場のようなところまで登ると、左手に直方体の岩が置かれているのに気付いた。俺達は無言で近付き、それを確かめた。
「これ」
ノーラも思い出したらしい。
「ケカチャワンの畔にあったのと同じ?」
ただ、こちらのほうが摩耗の度合いが少ない。雨にさらされることも少なかったのだろう。前後左右の壁面には、いずれも人の顔のようなものがはっきりと刻まれている。ただ、わからないのはやはり上の面だ。やたらとでこぼこしていて、あちこち丸とか直線とかが刻まれている。
これでは椅子やテーブルなどの用途には使えなかっただろう。では何か、刻まれた溝に液体でも流していたのかと考えたが、それにしては線が細すぎる。よく見ると、線には何かの塗料の痕と思しきものも見られるのだが……
「行こう」
時間をかけて謎解きしている余裕はない。それに今も頭上には分厚い雲が覆い被さっている。雷だってそこかしこに落ちているのだ。
赤茶けた砂利だらけの斜面を、俺達は登り続けた。
ほどなくして、俺達はその峰を登り切った。灰色の雲が間近に見える。頭上だけでなく、このすぐ目の前の下り坂にも流れゆく雲が見えた。
赤黒く濁った暁の空からは、しばしば口篭もるような雷鳴が聞こえてくる。離れたところの峰に青白い光が走る。もちろん、ここにも落雷の危険があるのだ。
シャルトゥノーマが、息を切らしながら言った。
「箱舟は、どこだ」
これほどの高度ともなると、呼吸に必要な空気を魔術で確保するのにも、小さくない労力がかかる。もう一つの魂のおかげで常時風魔術の恩恵を受けているはずなのに、このありさまだ。もし今、彼女が倒れたら、俺達はすぐさま高山病にやられてしまうのではなかろうか。
周囲を見回す。近くには何もない。だが、タウルが気付き指差した。
「あそこだ」
峰を伝ってずっと左の方、ここより高いところにある山頂に、ポツンと四角い何かが見える。
俺は先頭に立って歩いた。すぐ後ろでは、力尽きかけたクーを、槍を杖代わりにして歩くバジャックが背負っていた。ラピの荷物をチャックが引き受け、ノーラが肩を貸していた。
不思議だった。これほどの危険の中なのに、俺達は迷いも戸惑いも感じていなかった。
頭上を駆け巡る稲光に肌を照らされても、山々を揺るがす雷鳴を耳にしても、足が止まることはなかった。
登って下りてを繰り返すうち、その四角い何かの輪郭が徐々にはっきりしてくる。周囲の岩とは違って、黒ずんだ何かだ。正しくは四角いものではなく、まさしく箱舟、両端が船らしく突き出ており、胴体が丸っこくできていた。それがやや傾いだ状態で、とある峰の頂点に置き忘れられていた。
最後の斜面を登り切って、俺達はついに箱舟の間近に立った。
遥か古代の遺物であるはずなのに、その表面は新品の黒釜のようだった。表面には凹みがあり、それが何かの図形を描いていた。その部分は光の当たり具合で銀色にうっすらと輝いた。大きさは目測で、幅は五メートル以上、長さは十メートル未満、深さは一メートル半といったところだろうか。
この箱舟に乗って、かつてのナシュガズの住民は都を去ったという。では、どうすればこれを使用できるのだろうか?
わからなかったから、俺はまず、下に傾いた方から乗り込んでみた。俺が踏みつけても、金属製らしいこの箱舟はしっかり固定されており、びくともしなかった。
中にそれらしい仕掛けがないか、指先でそっと触れながら、丁寧に調べていく。俺だけに任せるよりは、多少なりとも知識のあるのが調べたほうがいいと判断したのか、後ろからシャルトゥノーマやディエドラも乗り込んできた。その後に続いて、他のみんなも当然のように中へと入った。
特にこれといった突起とか、模様のようなものはなかった。スイッチを押したという認識は確かになかった。だから、何の前触れもなかったことになる。
いきなりの浮遊感に、俺達は一瞬、硬直した。気付けば箱舟は滑り出しており、砂利を撥ね飛ばしながら斜め下に向かって落下を始めていた。
あれほどずっしりと地面に固定されていたのに? どうすれば……土魔術で足下の地面を盛り上げれば……そんな思考がよぎったが、それより先に、足下から感じる摩擦がスッとなくなった。
直後、思考を妨げる大きな落雷が、俺達と箱舟を揺らした。
なんとか目を開け、周囲を見回すと……俺達は浮いていた。箱舟は真下に落ちるのではなく、ある方向に向かって速度を上げながら、飛行していたのだ。周囲の赤黒い空に青白い雷光が行き交う中、俺達は目前にある灰色の雲の中へと突っ込んでいく。
煙る雲の中を抜けると、より一層激しい雷鳴が聞こえてきた。何層にも渡って重なる雲の数々が視界を阻む。ただ、閃光と轟音の中を、どうすることもできないままに運ばれていくだけだった。
気の遠くなるような時間の後、大きな衝撃を受けて、俺達は箱舟の床に突っ伏した。底をこするような感触があったのだと、後から理解が追いついてくる。
よろめきながら俺は立ち上がり、まるで地面に突き刺さるように斜めに傾いだままの箱舟から這い出た。そうして、改めて周囲を見回した。
背後には変わらず黒雲が見えた。けれども、それは既に遠のいていた。
空のほとんどには、雲一つなかった。不思議なほどに晴れ渡っていた。今しも朝を迎えようと、東の山の端は黄色く染まり、そのすぐ上には紫がかった紅色が、そして空の大部分は灰色がかった暗い藍色だった。
足下の砂利は、不思議なほど均質だった。青みがかったサイコロのような石が敷き詰められていた。それは一直線に道をなしていて、今いる細長い峰を渡る先に続いていた。その遠くに、不自然に丈の高い何かが影をなしていた。
俺達は何かに導かれるようにして、その峰に沿って歩いた。
突き立っていたのは、何かの記念碑のような人工物だった。だが、長い年月のうちに倒壊したのか、半ば割れてしまっており、何か書かれていたのかは読み取れなかった。
「おい」
先行していたタウルが、興奮した声で呼びかける。そこにあったのは下り階段であり、短い地下通路だった。
さっきの石碑と違って、こちらの階段には崩れそうな様子はなかった。一段ずつがやたらと大きく、幅広だった点を除けば、なんらの不便もなかった。降り切ってから、夜明けの赤い光に満たされた出口のある方へと歩いていった。ずっと高い場所にある天井から、俺達の足音が反響して聞こえる。
そして……
トンネルを抜けた先にあったのは、盆地を一望する高台だった。
一日の始まりを祝福するような、世界を圧する赤い光が、盆地を囲む山々の向こうで燃え上がっていた。その光が、今もかつてのままに残される街並みに、くっきりと影を落としている。
時を留めたかのような景色だった。昨日まで人々が住んでいたと言われても……いや、今も夜明けとともに、家々から起き出した人々が姿を見せたとしても不思議はないほどに、街は整然としていた。離れた場所には丸い広場もあり、そこには数々の像が長い影を引いていた。また、大きな石碑も聳えていた。
ここからだと、南東の方向に、他の出口があるのがわかる。そちらにはここより高い位置にまた、人工物があるのが見えた。この近辺では一番の高台なのだろう。
長かった。
遠い道程だった。
誰に問うまでもない。
ここがあの、失われた古代の都、ナシュガズなのだ。
俺達はしばらく、その場に立ち尽くしていた。




