高山地帯へ
一歩ずつ斜面に足をかけ、体を持ち上げていく。か細い木々の狭間から、鋭い木漏れ日が差し込んでくる。強すぎる陽光から身を守ってくれていた緑のドームは、既にない。片手でへし折れそうな頼りない木々がやっと生えているだけなのだ。
それがいきなり、視界が開けてしまった。本当に唐突に。
遮るもののない青空を、こんなに大きく感じたのは久しぶりだった。
アンギン村を出発して三日目の朝、俺達はようやく高山地帯に足を踏み入れたのだ。
既に柘榴石の月に差しかかっている。どうあれ、この土地では季節なんてものはあってないようなものだ。日差しばかりは突き刺すようなのに、空気はカラッとしていて冷たい。
俺達は村で与えられた衣服を鎧の下に身に着けている。暑さのせいで汗だくになることはなくなったが、これからは寒さの心配をしなくてはいけない。それに肌を露出していると、特にこの地域ではひどい日焼けになりかねない。
「小休止しよう」
俺がそう言うと、みんな黙って足を止め、思い思いに近くに転がる岩を選んで、腰を下ろした。
ざっと周囲を見回してみる。手元の地図と比べながらだ。
来た道を振り返っても、既に村は見えない。それどころか、峡谷の狭間の坂道を登り続けてきたので、北側に目を向けても見えるのは雄々しく聳える山塊ばかりだ。多分、あの向こう側に村があったのだろう。一度登って降りたところがあった。そこから澄んだ水の流れる谷底のようなところを南東方向に向かって歩き、ここまで登ってきた。
南側に目を向けると、なんとも荒涼としていた。赤黒い地面がずっと続いていて、そこにポツポツといじけた草が生えているだけ。その正面には、灰色の岩の壁がそそり立っていた。東側に目を向けると急な斜面があり、そこには黒々とした深い影が覆い被さっていた。
「ここから、あの南の岩壁に向かって……でも、どこがどの入口かを見極めないといけないのか」
「まるで迷路ね」
「問題ねぇだろ」
ジョイスがいつの間にか立ち上がって、俺の横から地図を見下ろした。
そうだ。ただの岩壁なら透視できる。どこでどう折れ曲がっているかを確認できるので、いちいち中まで歩いてみなくても、正しい入口を判別しやすい。
「無理に先を急ぐことはない。ここまできたら、いくらでもやりようはある」
「急がなければ、食料がなくなるぞ?」
シャルトゥノーマの指摘に、俺は肩を竦めた。
「グリフォンの肉で食い繋げばいい」
シャルトゥノーマがグリフォンの『矢除け』を中和してくれさえすれば、すぐに焼き鳥にできる。
「ペルジャラナン、手加減なしで焼いてしまっていい。もうここは森の中じゃない」
「ギィ」
タウルがいそいそと背負い袋の中からロープを引っ張り出した。
「そろそろつけたほうがいい」
イーグーはなんのことかという顔をしていたのだが、タウルは構わず彼の左手にロープの輪を潜らせる。そのまま、続けてクー、ラピにもロープを繋いでいく。
「えっと、あの、旦那。これ、どういうつもりですかね?」
「この先にはグリフォンも出てくる。その時、体の小さいのから攫われないようにするため」
「えっ」
三人ほど数珠繋ぎにしておけば、さすがに全員を引っ張り上げるなんて無理だろう、と。ただ、それはただの口実だ。
この期に及んでまだ正体を隠し続けるイーグーを最大限活用するとなれば、この手しかない。目立たない形で頑張って生き延びてもらおうということだ。もし、クーやラピが連れ去られそうになったら、まさかイーグー自身、死んでしまうわけにはいかないので、なんらかの手段で身を守るはず。恐らくはそこまで深刻な状況になる前に、彼なりに手を打つだろう。結果的に、一番の足手纏い二人が死なずに済む。
「そいつぁ、旦那、あっしまで持ち上げられちまわねぇですかね?」
「重さで少しでも持ちこたえてくれればいい」
「いや、ははっ、そ、そうですかい……」
引きつった顔で彼は笑っている。
フィラックが立ち上がり、全員の様子を確かめてから言った。休み過ぎて体が冷えてもよくない。
「さて、じゃあそろそろ進もう」
木々が生えなくなり、せいぜい途切れ途切れに草が生えているだけの状況。いわゆる森林限界というやつだ。日本の本州では標高二千五百メートルほどでそうなるが、ここは熱帯の真ん中にある高山だ。この地点の標高は、もっと高いとみるべきだろうか。
行く手には岩山が広がっているが、そのまた向こうには銀色に輝く剣のような峰がいくつも突き立っている。あの雪山を越えなければいけないとしたら、大変なことになる。一応、防寒具は用意してあるのだが。
岩山が眼前に迫ってくると、シャルトゥノーマが何度も確認を求めてきた。背後に聳え立つ白い高峰との位置関係で、向かおうとしている岩山の入口を選び取ろうとしているのだ。
「こちらだな。間違いない。この位置から見て、二番目に高い峰の正面にある谷。伝え聞いた通りだ」
「大丈夫か」
「プリアトゥア様に何度も確かめた」
歩きながら、ふと無言でついてくるディエドラに目を向けた。
「そういえば」
「ナンだ」
「疑問に思ってたんだけど、どうして人間の格好をしているんだ?」
彼女は首を傾げた。人間の格好も何も、私は人間だと、そう言いたげに。
「ああ、だから……これからグリフォンが出るかもしれない」
「ソうだ」
「だったら、戦える状態で、あの強そうな虎の姿でいた方がいいんじゃないかと思ったんだ。あの格好だったら、何かあっても平気だろうし」
理解した彼女は、頷いた。
「イマはシない」
「どうして? ああ、服とか」
裸になれと言われているようなものだからか?
ただ、変身は意識しているらしく、彼女だけは軽装だ。もともと寒さにも強いらしく、獣人は厚着をしなくてもやっていけることが多い。
「ハラがヘるから」
「腹? 空腹?」
「カラダがオオきくなるブン、タクサンタべないといけなくなる」
そういう代償があったか。
多分、巨獣の肉体に見合う量の食事をとらないといけない。でもそうなると、別の疑問が出てくる。
「じゃあ、獣の姿になった後、グリフォンを仕留めたとする。それをディエドラが丸ごと食べたとしよう。そのまま人間に戻れば、数日間は何も食べずに済むのか」
彼女は首を振った。
「ソれだけタべたら、しばらくニンゲンにはモドれない」
なんだか、便利だか不便だかわからない能力だ。巨獣の肉体に見合う量の食料は必要なのに、いざそれだけ詰め込むと、腹が減るまで人間には戻れない、と。
そう考えると、能力の運用には結構手間取りそうな感じがある。非常時だけ、彼女の判断で変身してもらう、が正解か。
「そうやってケモノのスガタでずっとムリすると、イノチがチヂまる」
「一番大事なことじゃないか!」
「だからボルとヨルバルもナガイきできない」
どうやら、いろいろとリスクがあるらしい。必要に応じてチビチビ使うべき能力なのだろう。
岩山の近くに辿り着いて、俺達は指差し確認しながら、どこから登るべきかを話し合っていた。岩山は、地面の赤黒さとは対照的に青白く、横から見る限りでは、まるでケーキのように厚みがあった。そこにあちこちナイフを入れたような切れ込みがあり、それが俺達にとっての入口になっている。
「多分、ここからだ」
他の可能性も考慮して、やはりこの斜面しかないと俺達が確認したところだった。
フィラックが提案した。
「そろそろ昼だし、先に食べてからにしないか」
「シッ」
ディエドラが押しとどめて耳を立てた。何かが聞こえるらしい。それと察したジョイスが周囲を見回す。
「早速、目ェつけられたっぽいぜ」
俺は周囲を見回した。
「あそこだ! あの岩壁まで走れ!」
相手が一匹なら問題ない。だが、複数のグリフォンに取り囲まれたらどうか。背後から攻撃されるのが一番まずい。
事前情報では、グリフォン以外の魔物がいるとは聞かされていない。これで何か、土魔術を使うような敵でもいたら、岩壁の横に避難するなんて自殺行為だが、その可能性は低い。そういう魔物は存在しても、この場所では餌がなく、生きていけないだろうからだ。
クーやラピが息を切らして走る。それを待ちながら不安げな顔でイーグーは何度も足を止めた。それでもようやく全員が岩壁にぴったりと身を寄せた。
「ノーラ、無駄かもしれないけど、『人払い』を」
「うん」
無駄な戦闘は避ける。そのつもりでまずは追い払うことから考える。
ほどなくして、頭上に大きな影が行き来しだした。
------------------------------------------------------
<グリフォン> (24)
・マテリアル キメラ・フォーム
(ランク5、男性、122歳)
・マテリアル 神通力・飛行
(ランク7)
・マテリアル 神通力・探知
(ランク3)
・マテリアル 神通力・念話
(ランク3)
・マテリアル 神通力・断食
(ランク3)
・マテリアル 神通力・怪力
(ランク3)
・マテリアル 神通力・鋭敏感覚
(ランク3)
・アビリティ マナ・コア・風の魔力
(ランク5)
・スキル 風魔術 6レベル
・スキル 爪牙戦闘 5レベル
空き(15)
------------------------------------------------------
グリフォンを見るのはこれが初めてではない。アドラットの呼び出したシャーヒナを別にしても、この前の暴走で目にしてはいる。ただ、じっくり観察する余裕はなかった。
黄色い嘴。焦げ茶色の翼。まがまがしいかぎ爪を備えた前脚。強靭な獅子の下半身。大きさは馬くらいはある。重さからして飛べる代物ではないのだが、そこは神通力のおかげなのだろう。
パッと見たところ、赤竜をダウンサイジングしたような能力しかなく、物足りない印象だ。『痛覚無効』もなければ『暗視』もない。なんらかの治癒能力すらない。個としての能力はそこそこか。
今まで遭遇した魔物が尋常でなかったせいか、大したことないと思ってしまいがちなのだが、もちろん、並の冒険者にとっては相当な脅威である。それに『念話』や『探知』といった能力がいやらしい。つまり、手早く殲滅しないと、次々仲間が押し寄せてくるということだ。
魔法は効いているらしく、連中は俺達を見つけられず、頭上でうろうろしている。ただ、やはり神通力のせいか、俺達の存在は探知できているようで、この近くから離れていく様子が見えなかった。
「五匹目だ」
バジャックがボソッと呟いた。
少しずつ数が増えている。隠れていても仕方がない。一度は殲滅しなければ、動けないままに時間が過ぎる。
「やろう」
俺がそう言うと、ペルジャラナンが指輪をかざした。
「シャルトゥノーマ、ペルジャラナンの狙う相手の『矢除け』を」
「わかってる」
みんなで目を見合わせ、一斉に動いた。
真っ白な光の筋が青空を切り裂いて、一頭目のグリフォンに突き刺さる。と同時に、こちらに振り向いたグリフォンが一斉に急降下してくる。うち一頭が目を剥いて急に力を失ってよろけ始め、俺達のすぐ前に落下した。巨体でもあり、能力もそこまで低くないせいか、『変性毒』の効果が出始めるのに少し時間がかかる。
全員の耳目がそちらに向けられているのを確認すると、俺はこっそり横から舞い降りてきた一頭に意識を向けた。それだけでそいつは、カツンと乾いた音を立てて、小さな種に変わった。
「食い止めろ!」
既に二頭のグリフォンが眼前に迫っている。次の火魔術の準備は間に合わないとみたペルジャラナンは、剣と盾を手に前に出て、グリフォンの鋭い爪を受け止めた。
「ひえっ!」
「下がれ!」
チャックの悲鳴とバジャックの怒鳴り声が聞こえた。
壁際にはイーグーとクーとラピ。それを庇うようにしてバジャックが立っている。さすがにナイフ一本では支えきれなかったのか、グリフォンの前脚を避けはしたものの、チャックはその場に転んでしまっている。
その瞬間、ディエドラは手早く上着をはだけると同時に、まるで風船が膨らむみたいに大きくなった。俺が駆け付けるまでもなく、視界を埋め尽くす銀色の巨体が横合いからグリフォンに挑みかかる。その向こうからバジャックの雄叫びが聞こえた。
そのディエドラの巨体が見る見るうちに萎んで、元の人間の姿に戻る。開けた視界の向こうに見えたのは、尻餅をついて息を切らすバジャックと、首に深々と槍が突き刺さったまま、身悶えするグリフォンの姿だった。
終わってみればなんてことはなく、ペルジャラナンが押さえ込んでいたもう一頭は、時間とともに『変性毒』の魔力によって力尽き、横倒しになっていた。
一分もかからず、グリフォンの群れは全滅していた。
「こいつはご馳走だな」
フィラックが皮肉をこめてそう言う。もっとも、目に見える二頭分は、口から紫色の体液を吐き出しているので、食べられないとわかるのだが。
「血抜きでもするか?」
タウルも皮肉を口にする。だが、もちろんそんな時間などない。
「ディエドラ、空腹か?」
「まだダイジョウブ」
「わかった。進もう」
焼き殺された一頭と、槍で仕留めたばかりのもう一頭。だが、仲間が消息を絶ったことに気付いたら、他のグリフォンも俺達に目をつけるかもしれない。森の中で単独行動しているのを狙うのとはわけが違うのだ。
もっとも、俺が欲張ったせいもある。一頭を種に変えたせいで、死体が四つしかない。逃げられたと解釈されてしまったのだ。
俺達は足早にその場を去った。




