アンギン村にて
頭上に小鳥の影がちらつく。かわいらしい鳴き声が聞こえた。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、足下の落ち葉を踏みしめる。
カダル村を出発して二日半、俺達は踏み均された森の中の道を歩いていた。黒土の丘の起伏は昨日までで終わっていて、今はなだらかな坂道が続いている。人工的に作られたらしい黒土の丘と違って、今、俺達が踏んでいる地面はほぼ自然のままの森だ。
ルーの種族が居残った地域の南端が近付いているのだ。族長達が教えてくれた話によると、俺達が向かっているアンギン村は、彼らの勢力圏の南端にあり、またナシュガズに続く山地の北端にあるという。ここを足掛かりに、山頂を目指せばいいことになる。
だが、ナシュガズを見た者は誰もいない。長命で知られる風の民にしたところで、四百年も生きれば長生きなほうだ。これから訪ねる先にも古老がいて、古い時代の言い伝えを語ってくれるという。だが、それも伝聞でしかない。
かつての祖先の地を目指した者がいないわけではなかった。だが、高所に至るとグリフォンの群れが居座っていて、どうしても通り抜けることができなかったという。だが、それだけではなさそうだ。人間以上の能力を誇るルーの種族なら、いくらでも突破口を見つけられたはずだ。しかし、険しい山中を彷徨いながら、結局、彼らはナシュガズへの道に至り得なかった。
「もうすぐだ」
前に立って歩くシャルトゥノーマが言う。
今のところ、全員がこの探索についてきている。俺の班はもちろんのこと、ストゥルンもバジャックもチャックもだ。
「結構登ったよな」
ジョイスがそう言うと、彼女は微笑んだ。
「村からの見晴らしは、なかなかのものだぞ」
今は蒸し暑さもそれほどではなくなっている。日差しを遮る木々のおかげもあって、直射日光がここまで届かない。自生している木々も、そういえば種類が変わっている。いかにも熱帯といった感じの大木がいつの間にかいなくなり、温帯の植物に置き換えられている。それに大きさも控えめだ。相変わらず一抱えもある大木も見られるのだが、逆に大きくてもその程度だった。
ビナタン村からここまで、久しぶりに穏やかな気持ちで旅を続けることができた。だが、安全なのも、この辺までなのだろう。
幸運に幸運が重なって、やっとここまで来られたのだ。風の民の支援を受けてナシュガズを目指せるというのだから、理想的な状況といってよかった。
昼前に、俺達はアンギン村に到着した。
高地に至るにつれて木々はまばらになり、村の敷地に入ると、意図的に残されたもの以外はなく、足下は丈の低い草に覆われていた。
ある地点で、道の端に立ったシャルトゥノーマが指し示す。確かにそれは、自慢するだけはある絶景だった。
アンギン村の北側は断崖絶壁になっており、そこには簡単な木の柵が立てられている。その向こう側には遮るものが何もない。そこから見えるのは、一面の緑だった。遥か彼方まで続く緑のドームの天井を、俺達は初めて見下ろしたのかもしれない。
上から見下ろしても、集落のある場所は、しかとはわからない。こんもりとした森の下にあるのが無人の丘なのか、ルーの種族の村なのかは、その場に行かなければわからないだろう。ただ、今の場所からだと、ルーの種族の勢力圏がほぼすべて視界に収まってしまう。というのも、北の果てをみると、灰色の沼地が広がっているのがわかるからだ。その向こうにまた、緑の塊が小さく見えるが、あの辺がラハシア村のある場所なのだろう。
一番遠くにうっすら垣間見えるのが、灰色に濁ったケカチャワンの大きな流れだった。けれどもその更に北、関門城の姿は、ここからでは確認できない。
村の景色も、のどかそのものだった。反りかえった屋根。まるで簡素な鎧のように、これまた反り返った濃い色の木の板が、素朴な造りのかわいらしい家々を形作っていた。それがぽつぽつと点在している。そしてどの家の軒先にも、ごく小さな花壇があった。そこには黄色い可憐な花々が咲いていた。
細長い村の狭い通路を歩きながら、俺達は奥へと進んでいく。やがて山側に一軒の大きな家に辿り着くと、シャルトゥノーマはその扉をノックした。
「この歳になって、こんな珍しい客人を迎えることになるとは思わなかった」
奥の間にいたのは、風の民の長老の一人、プリアトゥアだった。今年で三百九十八歳という。安楽椅子の上に腰かけていた彼は、皺だらけの顔に笑い皺を浮かべてそう言った。
「報告は一足先にもらっているよ。わしは足を悪くしているので、族長達の会議には行けなかったが」
ペルィの魔法があるから、ルーの種族の領域は、言ってみれば電話を使い放題の状態にあるのと同じだ。俺達が歩いていくより先に、情報が伝わっている。
「ナシュガズについて知っていることは、そう多くないのだが……」
プリアトゥアが生まれた時点で、既にアンギン村は風の民の集落だった。但し、村の歴史は浅く、二百年も経っていなかったらしい。幼い彼に、ナシュガズの話をしてくれる老人がいたという。
それが事実とすれば、ナシュガズは世界統一後もある程度機能を維持していたことになる。だが、どこかで何かの理由によって、放棄せざるを得なくなったのだろう。
「ナシュガズは、愛の都だったと聞かされた」
「愛、ですか?」
「あらゆるルーの種族と人間が住まい、金で水を量り、木片を削って印を捧げた。霊樹を守る石の壁が聳え立っていたという。争いはなく、豊かで、誰もが見捨てられることのない理想郷だったと」
さすがに美化されている気がしないでもないが、そこは追及するべきところではないだろう。
「この裏手にある山を登っていけば、ナシュガズに辿り着けると聞きましたが」
「そういう話はある。だが、確かめた者はおらん。今となっては、あるかどうかもわからぬ話なのだ」
「やはりグリフォンのせいですか」
「そういうことにはなっておる。だが、今からだいたい二百五十年前に、故郷を取り戻そうという話になって、山に挑んだ者達がいたのだ」
それはまさに選り抜きだった。弓を放てば百発百中の風の民、あらゆる魔法を使いこなすペルィ、最強の竜人族の戦士、金色の狼に変化する獣人、音なく空を舞う黒い翼人。当時でも今でも最高の布陣で山に挑んだのだが、結果は芳しくなかった。
並のグリフォンはどうにでもなった。風魔術はあっさり相殺できたし、鋭い爪牙も戦士達が食い止めた。何より無用な戦闘を回避するために、彼らは実に器用に立ち回ったという。また、どんな光も、音も、匂いも見逃すことはなかった。
「彼らが捜したのは、古の箱舟だった」
「箱舟、ですか?」
「かつて人々がナシュガズから下界に降りた時、使ったのが箱舟なのだとか。それはとある山の頂に残された、ともいう」
その言い伝えを手掛かりに、彼らは数多の高峰を目指し、そして実際に登頂した。倒したグリフォンの数も軽く三桁に達した。それでも、どうしても箱舟は見つからなかった。依然として西側には絶壁が聳えていた。
「あの」
ノーラが手を挙げて質問した。
「翼人族の方がいらっしゃったんでしょう? 高いところを飛んで、それらしいものを探すというのはできなかったんですか?」
「うむ」
飛行の神通力を持っていれば、空を飛ぶことができる。翼人族は普通、必ずと言っていいほどどこかで神通力に目覚めるので、飛ぶだけならなんら問題はない。しかし……
「試したそうだ。だが、寒さがひどく息苦しさもあって、やむなく諦めたという。それに、雪の残る山の近くは風も強く雲も多い。思ったほど見通しはよくなかったらしい」
科学的知識のないこの世界の人間にはわからないかもしれないが、高所に行けば行くほど気圧は下がり、つまりは酸欠になる。また、高度一万メートルともなれば、気温も軽く氷点下にもなる。
だから結局、彼らは山道をしらみつぶしに歩いては地図に記録し、箱舟の有無を確かめていった。その探索は乾季の三ヶ月以上にも及び、四年に渡って繰り返されたという。
「その地図の写しが、わしの手元にある。これは後で書き写させて渡そう」
「本当ですか! ありがとうございます!」
累計で一年以上も魔物の出没する山中を探索し、記録した地図。金では量れない価値がある。ディエドラ購入に支払った金貨一万枚なんて、これだけでも余裕で元が取れる。俺達は遠回りなどせずに、未踏破のルートだけを突き進めばいいのだから。
「若い頃に聞いた話だが、結局、この探索は成功しなかった。とある山道を通り抜けようとしたところ、特大のグリフォンが現れて行く手を阻んだそうだ。それで彼らは、一度は逃げ出して、大物がいなくなるのを待ってから、もう一度登ろうと考えた。しかし……」
「まさか、何度通ろうとしてもそこに」
「その通り。二度目にも、翌年にも、必ず現れた。仕方なく戦いを挑んだものの、あまりに強力すぎる風魔術は、風の民にもペルィにも打ち消せず、大怪我を負って逃げ帰るしかなかったという」
有力情報そのものだ。その先に何かがあるのは間違いない。
「あと、我々から差し出せるものといったら、防寒具と食料くらいなものだろう。シャルトゥノーマ、自宅に案内してやりなさい。客人の滞在にはお前が責任をもつのだ」
「畏まりました」
シャルトゥノーマの案内で、俺達は更に村の東側に向かって歩いた。ふと、視界にあり得ないものが映った。
「ちょっ」
衝撃のあまり、誰もが足を止めた。
「ん? ああ」
唐突に目についたのが、黄色い霊樹だったからだ。何が何でも死守すべきルーの種族の命の柱が、こんなに無造作に置かれているなんて。
だが、彼女はこともなげに言った。
「それはもう、中身がない」
「ない?」
「よく見ろ。内側に光り輝いている魂が見えるか」
言われてみれば、どこか輝きが足りない気がする。
「それは翼人族の霊樹だ。ただ、この霊樹に拠っていた集団は、恐らく全滅したのだろう」
確かに、霊樹を失ったルーの種族は繁殖できなくなったり、大事な機能を喪失したりするのだが、その逆もあり得るのだ。一族が死に絶えて、その霊樹を利用できる血筋がいなくなる。そうなっても、この霊樹を再利用などはできず、こうして捨て置くしかない。
「どうにもならないから、村の真ん中に残しておくことにした。ここを襲う外敵が、誤ってこれだけ壊して満足してくれれば、本物の霊樹は守られるからな」
だが、その理屈でいくと、言い伝えとの矛盾が生じる。
「あの、でもそうなると」
「ん?」
「霊樹の苗がないと、居着くことはできなかったのでは」
「ああ」
彼女は俯いた。
「その通りだ。恐らく、この村を作った先祖達は、霊樹の苗を隠し持っていたのだろう。でなければ説明がつかない」
とはいえ、今のルーの種族には、ストックがないはずだ。あるなら、アイル村の人々に与えたはずだから。
ノーラが尋ねた。
「ラハシア村で聞いた話はどうなるのかしら」
「というと」
「大勢のルーの種族が、関門城を出て、北に逃れたと聞いたけど、霊樹を置いていったら意味がないじゃない」
「これはわからないが、もしかしたら、帝都が保管していた霊樹を取り返すつもりだったのかもしれない」
果たして数百年前に、どんな出来事があったのか。うまいことルール違反をした人達が生き残り、そうでない人達は死に絶えた。
しばらく歩いた先に、また大きな家が一軒あった。家の横には小さな家庭菜園のようなものもある。シャルトゥノーマは何かをルー語で呼びかけ、扉を開けた。
中には、一人の風の民の女性がいた。顔立ちは端正だが、微妙に年齢は感じる。美魔女といった感じだろうか。服装は、ごく普通の村のご婦人といった感じで、くすんだ色のブラウスとスカートを身に着けている。低地に住む他の種族の人々よりは、しっかり着込んでいる。
ピアシング・ハンドの示すところでは、明らかに中年女性だから、今後、老化すると一気に劣化するのだろうか。さっきのプリアトゥアを見る限り、そうした変化が急激に訪れるのだろうと推測できる。
彼女は俺達の姿を目にすると、シュライ語で挨拶した。
「ようこそ我が家へ」
俺達は一礼した。
「お客様がいらっしゃると聞いて、楽しみにしておりました。今日は私の手料理を召し上がっていってくださいな」
彼女……恐らくシャルトゥノーマの母親は、顔を綻ばせてそう言った。だが、俺の背後に立つ男達は、顔を引きつらせて一歩下がった。
無理もない。沼地で何を食べてしのいだか、忘れようにも忘れられない。
「あら?」
「どうした、お前達」
自覚のない彼女に、フィラックが言葉に迷いながらも、口元をわななかせながら言った。
「あ、あの、お構いなく。私達はそんな、その、多分ですね」
それだけで母親は気付いたらしい。
「シャルトゥノーマ、お前はまた」
「なんですか、お母様。私はちゃんとやり遂げましたよ」
だが、彼女は不当に糾弾されたかのように言い募った。
「沼地を越えるときには、ちゃんとパルトヤスを食べさせました。しっかり火が通っていましたから、今回、お腹を壊したのは一人もいませんでした。私の料理は完璧でした」
母親は、深い溜息を洩らした。
「沼地を越えるときは、まぁ、仕方ないわね」
「でしょう?」
「でも、それしか食べられないのでは、普通の人はまいってしまうわ」
「なぜですか。食事は栄養を得るためのものでしょう? もしパルトヤスの食べ過ぎで体がむくんでくるというのなら、薬を飲めばいいのです。下剤とパルトヤスだけあれば、人は生きていけます」
この会話だけで、俺達はシャルトゥノーマの特異な価値観を察していた。
「ごめんなさいね、この子の教育がうまくいかなくて」
「いいえ、お母様の教育は完璧です。私はもう料理を習得しました。これ以上、料理から学ぶものがないから、私は弓の扱いを覚えたのです」
「……見ての通り、すっかり男の子みたいに育ってしまって」
俺達は目を見合わせた。それから、誰からともなく曖昧な笑みを浮かべる。
「では、ご厄介になりましょうか」
「ええ、どうぞ! 我が家が明るくなりますわ!」
キョトンとしていたシャルトゥノーマだったが、俺達と母親の顔を見比べると、言い足した。
「お母様、では私のパルトヤスも食卓に出しましょう」
「それはいらないのよ」
「お母様!」
母娘は、何やら言い争いながら、家の奥へと消えていった。




