大森林の宴の夜
話し合いを終えて広場に戻ると、既に宴会は盛り上がりつつあった。大きな陶器のコップに並々と白濁した酒が注がれ、大人の掌より大きい豪快な骨付き肉が木の皿に載せられて配られていた。遠慮のない大声で飲み騒ぐのは、人もルーの種族も変わりないらしい。だが、少し心配になりはする。巨人族とか、あの巨体で飲んで暴れたらペルィなんか踏み潰してしまうんじゃないか?
「お疲れ様」
俺が戻ってくるのを待っていたのか、素面のノーラが声をかけてくる。
「水とお酒しかないみたい」
「じゃあ、一口だけお酒を飲もうかな。あとは水で」
多分、そんなに変わり映えする味ではないだろうが、彼らの酒を試してみたい。
ノーラは横の壺をそっと持ち上げて、座卓の上にあるコップに、慎重に酒を注いだ。そこに影が差す。
「ファルス殿という方は、あなたですか」
足音もなく、そっと歩み寄ってきたのは三人の水の民だった。尖った耳と水色の髪ですぐそれとわかる。一人は若者で、後ろには三百歳近い老人もいる。
「はい……もしかして、アイル村の」
「生き残りの者です。こちらに」
話しかけてきた若者……といっても百歳以上なのだが……の後ろにいた老人が、待ちきれずに割り込んだ。
「マルトゥラターレのことをご存じだそうで」
「あっ、はい」
俺は身を起こして膝をつき、背筋を伸ばして返事をした。
「現在、彼女はピュリスという街にいます。ピュリスは、こことは別の大陸で、海を渡った向こう、ここからだと北西方向にあります」
「おぉ……その、病気などはしておりませんか」
「いいことばかりは言えません。ご存じかもしれませんが、人間に捕まった時、薬品で視力を奪われました。ですが、他は目立って問題ありません。旅に出たのは一年ほど前ですが、その時には元気でした。正直、人間の街でもかなり上等なところに暮らしているので、大森林の奥地で暮らすなんて、質素すぎて退屈するかもしれませんが」
後ろにいた老人二人は顔を見合わせて喜びを露わにした。
「お二人は、もしかしてご両親でしょうか」
「いえ、あれは姪になります。あの子の両親はどちらも」
「そうでしたか」
襲撃の時に命を落としたらしい。
「今はどちらにお住まいですか?」
「ペングシアン村に……ここよりもっと西の村です」
「そこはどの種族の村ですか」
「水の民です」
では、いつか可能であれば、マルトゥラターレをそこに連れて行かねばなるまい。
「お尋ねしていいかわからないのですが、そこには霊樹は」
「もちろんありますとも」
よかった。
じゃあ、そこであれば、彼女も水の民の一員として生きていくことができるだろう。望み通り、一族の子も生して……
「ありますが、私達には使えない」
だが、若者が俺の安心を断ち切った。
「使えない、とは?」
「霊樹は無垢でなければ、新たな魂を受け入れることができないのです」
つまり、こういうことだ。
かつて水の民が、アイル村とペングシアン村にそれぞれ暮らしていた。アイル村で生まれた水の民は、アイル村の霊樹と接続される。こうして二つ目の魂と融合することで、ルーの種族として完全な形をとることができる。
しかし、その接続は誕生時に確定される。霊樹は、いわば彼らにとっての肉体の一部だ。だからアイル村の霊樹が破壊されてしまったら、たとえペングシアン村に別の霊樹があったところで、接続などできない。いうなればそれはもう他人の手足と同じで、利用しようがないのだ。
「じゃあ、ここまで連れてきても、彼女は水の民の子を生むことはできない、と」
「そうなります。内なる魂の宿るところがない。そうなると、新たに生まれる子のもう一つの魂を招く元もないことになる」
では、救いようがないのか? その疑問に年老いたもう一人が答えた。
「無垢なる霊樹があれば、それを新たに根付かせれば、なんとかなるのですが」
「さっきもおっしゃっていましたね。でもそうすると、相手の男性は」
「水の民で、霊樹と繋がってさえいれば、どの霊樹に由来するかは問題ではありません」
要するに、未使用状態の霊樹の苗があれば、それを特定の水の民専用に使うことができる。なお、水の民同士であれば、どの霊樹に由来しようとも子孫を残すことはできるので、苗さえ植えて接続がなされれば、マルトゥラターレも自分の望む水の民の男を夫にして子を産める。
「それはどこにあるのですか? 手に入れる方法は」
あれば誰も苦労しないだろう。だが、一応尋ねてみた。
「それは」
若者は俯いてしまった。
「もう、ないのです」
「ない?」
「苗はすべて回収され、封印されたと伝わっています」
「どうしてまた」
霊樹の供給元は大きく二つ。一つはイーヴォ・ルー自身だ。そしてもう一つが霊樹自身という。
大昔、神が必要な霊樹を随時供給していた頃には問題にならなかったが、イーヴォ・ルーはギシアン・チーレムの手によって滅ぼされてしまう。あわやルーの種族も絶滅かと思われたのだが、残された霊樹は機能を喪失しなかったし、霊樹自身、少しずつ成長することもできた。どの種族の宿り先にもならなかった霊樹は、時間とともに成長する。それはもう信じられないほど時間がかかるものらしいが、一定の大きさにまで育つと、新たな霊樹の苗を生み出すことができる。
であれば、神が滅んだ後でも無駄遣いせずに、空白の霊樹をしっかり守っておけば、いざ何かあっても安泰……なはずだったが、そうはいかなかった。
「悪用された場合の危険が大きいとして、すべて持ち去られたということです」
「悪用……って」
「霊魂を結びつける力がよくないのだと。ただ、それがどんなものかは誰も知りません」
ルーの種族を恐れたのか、それとも霊樹自体に途方もない力が宿っているのかはわからない。とにかくギシアン・チーレムは、トーシクの壁を築いた後、残った霊樹の苗をすべて回収し、アダマンタイトの箱に納めて、厳重に保管することにしたのだそうだ。
しかし、これではルーの種族にしてみれば、じわじわと絶滅を待っているようなものではないか。なるほど、ちょっとした事故くらいでは、霊樹は破壊されない。だが、何かのきっかけで失われてしまえば、もう再生する手段がない。
「では、連れてきても……」
「いえ、それでも私達は感謝します。二度と会えないと思っていた同胞の顔を見られるだけでも」
どうやら仕事が一つ、増えたらしい。どうにかして、彼女をここまで連れてこなくては。ただ、目が見えないままでは、ここまで連れてくるのは難しい。やり方は考えなくてはならない。
「わかりました。お時間をください。今はまだ目が見えないので、魔物の出る大森林を歩かせるのは、ちょっと」
「ええ、心配しなくても私達は長命ですから。気長に待っています」
それで彼らは目を見合わせると、腰をあげて一礼して立ち去っていった。
気付くと、すぐ脇の壺と、酒を注いだコップがキンキンに冷えていた。
「大変なのね」
「僕らにできることはないよ。いつかマルトゥラターレを連れてきてあげることくらいしか」
「ええ」
俺達が話し込んでいるうちに、宴もたけなわになっていた。酔っぱらったまま、フラフラと真ん中に進み出て、へんてこな踊りを始めるペルィが一人。いつの間にか、誰かが笛を手にして、それに伴奏をつけている。それも酔っぱらっているので、完全に調子外れだ。これに手拍子がついてくるのだが、これまた揃いも揃って酔っぱらっているので、見事にばらけてしまう。
また一人、酔っぱらった翼人族の男が斜めによろめきながら滑り込んできた。体が半分浮いている。『飛行』の神通力に反応して、片翼が右半身を引っ張り上げているのだ。そんな状態で踊っているペルィの手を取り、円を描いて回りだした。ステップを踏むというより、半分宙に浮きながら駆けだして……ふっ、と力が抜ける。と同時に、二人とも地面に墜落した。どっと笑い声が巻き起こる。
「だっ、大丈夫? あれ」
「武器持ってるわけじゃないし、霊樹まで壊したりはしないと思うけど」
こうまで余所者に好意的に接してくれる彼らには、素直にありがたいという気持ちがある。
長老達も、こちらが求める情報について、一切出し惜しみをしなかった。ただ、不老の果実については彼らも特に知識がなく、知っているのはナシュガズについてのみだった。過去に父祖の地を目指した勇者達がいたそうで、その時の記録がアンギン村に残されているという。それをいただけるとのことだった。
だが、俺の方はというと、実は情報を一部、伏せている。今のところ、尋ねられもしないからということで、あえて自分からケッセンドゥリアンの話はしていない。
言えるわけがない。竜人族の始祖をこの手で殺しました、なんて言ったら、どんな顔をされるだろうか。いくら本人が納得の上といっても、いい印象は吹っ飛んでしまうだろう。
「あ、ちょっと」
ノーラが咎めるような声を出して、ある方に目を向けた。
そこではまた手拍子が始まった。なんとバジャックがその中心にいた。向かい合っているのは巨人族の男だ。それぞれ酒杯を見せ合って、一気に中身を飲む。
体格の差があるのに……と思いきや、背骨を撓めてひっくり返ったのは、巨人の方だった。勝ち誇ったバジャックは立ち上がり、拳を天に突き出した。周囲にいたペルィやリザードマン、それに人間達がはしゃいで口々に声をあげる。
「何やってるんだ」
「飲み比べでしょ」
「図々しいというか、ふてぶてしいというか、逞しいというか」
巨人を飲み比べで打ち倒した彼だが、次は俺だとばかり殺到する挑戦者をいなすと、逃げるようにしてこちらに歩み寄ってきた。これ以上飲まされてはかなわないのだろう。
「おぉ、助けてくれ」
フラフラしながらやってくると、ノーラとは反対側に座り込んだ。
テーブルの上にある手付かずの肉に、水と酒の入ったコップを見ると、彼は水の方を取った。そのまま一気に口に運ぶと、驚きに目を見開いた。
「なんだっ、これ、冷てぇ」
「水の民の魔法のおかげで」
「こりゃいい。もっとないのか」
俺はノーラの横に置いてあった冷たい壺を拾い上げると、彼のコップに水を注ぎ直した。それをまた一気に飲んでしまう。
「ふいーっ、なんだこりゃあ。貴族様かよ。氷水を飲む贅沢なんざ、一生縁がねぇって思ってたぜ」
トン、とコップをテーブルに戻して、彼は改めて周囲を見回した。
「信じられるか? ド田舎どころか、なーんもねぇはずの大森林の奥地で氷水は飲むわ、魔法のガラス玉が浮くわ、バケモンだと思ってたのが人間の言葉は喋るわ……はっ、気が狂っちまう」
酔っ払いらしく、独り言のように喋っていたのに、その視線が俺に向けられる。
「なーのによぉ? 当たり前ってぇ面してんじゃねぇか」
前世を知る俺からすれば、もちろん、驚異ではあるけれども、想像力の及ばないほどの光景ではない。光るガラス玉なんて似たようなものがいくらでもあった。巨人というだけなら魔宮でいやというほど見てきたし、リザードマンと話すのもこれが初めてではない。氷水もキースの魔法で味わった。
「お前、いっつもこんなもん見てんのか」
「まぁ、そうかも」
「なるほどなぁ。恵まれた奴ってのはいるもんだ」
恵まれた奴、か。違いない。
ピアシング・ハンドがなければ、これだけの人生経験はあり得なかった。
「俺がお前の歳くらいのときには……そりゃあもう、ゴミみてぇなところにいたっけな」
彼は後ろに手をついて足を伸ばし、暗い夜空に目を向ける。
「エインの街の外れでよ。ガキどもが行く場所もなくって、下働きして食ってたんだ」
「孤児、ですか」
「似たようなもんだな。俺の親父はそこそこ金のあった商人で、船乗りだった。そいつがまぁ、ムワの女を愛人にして孕ませて、エインに別宅持たせて囲った……はずが、なぜか二度と戻ってきやがらなかったらしくてよ」
エインは確か、アルハール氏族の支配下にあった都市だった。真珠の首飾りの自由都市連合の南端に位置する。その南のアリュノーはもう、トゥワタリ王国だ。
「親父の顔も覚えてねぇ。どんどん貧乏になったカカァは、ま、そこそこ器量よしだったんで、他の男に拾われたんだが、そん時に俺が邪魔になったもんでな。放り出しやがった」
「それは」
「はっ! ここじゃあありふれた話だ。珍しくもねぇ」
自前の秩序を持ち得ない西部シュライ人の世界は、サハリア人の支配の及ばない場所では、富の虚飾なしには人間らしさを保てない。
「で、まぁ、似たようなガキ同士でつるんで、一番きったねぇ仕事をするのさ。ゴミ拾い、便所の汲み出し、葬式のために死体を洗ったり……」
事実上の奴隷、か。その意味では、ミルークに拾われた俺は、まだ恵まれていた。彼には奴隷の身分はつかなかったが、実際には彼が奴隷で、俺は貴族の召使だったのだから。
「そんな人生、いつまでも続けたくねぇだろ?」
「そうですね」
「だから、黒の鉄鎖が戦争するってなった時には、大喜びしたもんだ。ゴミ拾いの仲間同士でな、街の外れのきったねぇゴミ捨て場にみんな集まって……セミンの連中の募兵に応じよう、俺達みんなで出世しようってな。そりゃもう必死だった」
それがバジャックの目から見た、三十年前の戦争だった。
「死に物狂いだった。とにかく結果を出せば、上に行けるんだって、ゴミ拾いも死体洗いもしないで済む、クソまみれになることもない。でっかく目立ってやろうってんで、俺達の仲間だけでハリジョンに乗り込んで、夜中に盛大に火をつけてやった。大暴れしたもんだ」
「それで狙われることになった、と」
「おおよ。あの腰抜けの黒の鉄鎖が、勝手に講和しちまいやがって、しかも俺達のことは知らん顔、だ。んなもん、報復される前に逃げるしかねぇだろ」
そうしてバジャックとその仲間達の逃走が始まった。
「けど、俺らはまだ、何もかもを諦めてたわけじゃなかった。仲間も大勢いたからな。だから、夜中に海峡を抜けて、サハリアからは逃げ出した。んでもって、東方大陸の西側から南側、あの辺で十年くらい、浮いたり沈んだりしてた」
「浮いたり、沈んだり?」
「ああ、だからよ。都合次第で商人になったり、海賊になったりってこった。海軍の連中が来る前にサッと街に寄せて、奪えるだけ奪ってサッと逃げる。捕まりゃしなかった。んで盗品は他の街で捌く、と」
都合次第で商人……って、それはもう立派な海賊ではないか。
「おいおい、んな顔すんなよ。俺達には、他になかったのさ。それに……確かに俺達は悪党だった。そいつは認めるよ。けどな、そうじゃなかったら、どうやって生きていけたってんだ」
「赤の血盟からは逃げ切ったんだから、そのままどこかに住み着いて、まともな暮らしをすればよかったのに」
「それでまた、あの底辺の暮らしをするのか? そりゃな、帝都にでも行って暮らそうって話は何度もしたさ。けど、どんなもんか知っちまったら、選べやしねぇ。結局、俺達にとって大事だったのは、こんな世界なんかじゃなかったってことだ。それより仲間、仲間だけは……」
そこで彼は言葉を切った。
違和感をおぼえて振り返る。酒のせいか、急に彼は涙脆くなったらしい。
「……あれだけ追われたのに、誰一人、裏切った奴はいなかったんだぜ? 俺の仲間は……今でも、俺の自慢だ」
胸を満たす激情を鎮めようとしたのか、彼は震える手でコップを掻っ攫った。そして、俺が飲むつもりだった酒を一気飲みした。
「それが逃げて十年で、結局追いかけられて全滅だ。多分、逃げ切れたのは俺だけ。でも、外の世界に出られなくなって二十年、二十年だ……結局、クソみてぇな世界に舞い戻って、ここのやり方に染まって……なんだよ、俺はいったい何しに今まで生きてきたんだ……」
彼の心を揺さぶったのは、酒だけではないのだろう。同胞愛に溢れたルーの種族の人々の楽しげな姿に、久しく大森林では目にしなかった安らぎを発見してしまったのだ。
今までバジャックは、日々を疑心暗鬼の中で過ごしてきた。赤の血盟が追いかけてくるんじゃないか。自分の班に組み込んだ仲間が裏切るかもしれない。ずっとずっと孤独なまま、どうしたらいいかもわからず、外向きには強いボスを演じ続けてきた。
「トンバの……馬鹿野郎も裏切りやがって……残ったのは、チャックだけだ……あいつは、ついてきてくれた……こんなメチャクチャやってきたクソみたいな親分だってのに……やり直せるなら、初めから……」
大森林の奥地で見つかる財宝の数々も、もはや彼の心には何の感動ももたらさないものになってしまっていたのかもしれない。彼はただ、惰性で冒険者を続けていただけだったのだ。
なんと声をかけたらいいかわからなかった。それでしばらく悩んで、結局考えが纏まらないままに、俺は振り返った。
「バジャック」
既に彼は、飲み過ぎて眠りこけていた。




