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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十二章 緑の闇の中で
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蟻の行進

『救いなど。罪人にとって、そもそもそんなものに意味はない』


 淡く発光する苔のようなものが四角い部屋のそこここにびっしりと貼りついている。それでは暗すぎるので、視界を補うために点された小さな光源が、その場にいたみんなの顔を照らしていた。

 ここはどこだろう? 俺は今、大森林の奥地を目指しているはずなのに。


『罪、罪、罪……ハハハ』


 ああ、思い出した。

 ここは魔宮モー。その下層。吸血鬼達が居を構える一角。そして、自嘲をやめられない彼、この凄まじい顔をした男は、神聖教国の暗部、ヘルだ。

 周囲にいるのは、ソフィアにカディムにマルトゥラターレ。とすれば、これは夢だ。


『生まれながらの罪人が、ここにもう一人……ククッ』


 ソフィアの慰めを、ヘルは嘲笑った。

 生まれながらの罪人。いやな表現だ。


『ソフィアには、俺が約束した。ピュリスに連れていく』


 いつか言ったように、俺は同じセリフを繰り返した。生まれながらの罪。そんなものを認めてたまるか。

 だが、その場にいた彼らの後ろ向きな言葉は止まらない。


『ここを出れば、人間の世界。私の居場所はどこにもない。私は、魔物だから。生まれながらの罪悪だとされているから』


 マルトゥラターレの言葉に、カディムが改めて問いを発した。


『我々は、生まれてよかったのだろうか』


 俺は、それこそが許せなかったのだ。


 人は誰しも、生まれた瞬間から束縛されている。それは見えない蜘蛛の糸のように体に纏わりつき、当然のように俺達から自由を奪う。人と人の絆を繋げたかと思えば、あっさりそれを断ち切りもする。奪われるのは心だけではない。財産も命も、何もかもがそうだ。

 この、人の世に絡まる不快な糸ゆえに、俺は旅に出た。この糸は見えないし、切れもしない。タンディラールを殺したくらいでは何も解決しないのだ。だが、そうして糸に操られるままに世界の辺縁に押しやられた人々は、ただ無念の涙を呑んで、静かに消えていく。

 それが世界の要求だから。行き着く先がそこしかなかったから。魔宮の奥に追いやられた彼らは、問わずにはいられなかったのだ。


『我々は、生まれてよかったのだろうか』


 この一言が、何度も何度も耳にこだまする。

 こんな残酷な結末しか用意できない世界なら。そんな正義しかないのなら、全部ぶち壊してやる。


 そして、確かに俺はその道を選んだ。俺の不死を追い求める旅は、まさに人の世の束縛から逃れるためのものでもあった。モーン・ナーそのもののような灰色の壁をぶち壊して、その外側を目指した。


 だが、その後の一年に渡る冒険の中で、俺は何を目にしただろうか。それは人の世の「破れ」だった。


 スーディアに無秩序な紛争がもたらされたのは、唯一絶対の領主だったゴーファトが機能しなくなったからだ。彼の支配は苛烈だったが、それがないほうが、より多くの悲劇を招いたのだ。

 人形の迷宮でもそうだ。俺が来るまで、ドミネールとキブラの間で歪な秩序が保たれていた。それを混乱させたのは、コーザが預かっていた手紙であり、それを手にしたオルファスカだった。その手紙において述べられていることは挺身隊の活動に伴う不当な犠牲であり、つまりは秩序の是正を目指すべしという主張だった。ところが、結果としてもたらされたのは、大勢の隊員の死だった。

 東部サハリアの紛争はどうだったろうか? 三十年前の戦争については知りようもないが、少なくとも直前の争いについていえば、最大の要因は、黒の鉄鎖の中枢たるアルハール氏族の上層部がパッシャに乗っ取られてしまったことにある。際どいバランスの上に成立していた諸豪族の関係は、一押しで崩れ去った。そうして秩序が崩れ去った後の砂漠の街は、次々と目も覆わんばかりの悲劇に見舞われていった。


 一年の間に見聞きした、ときには自ら当事者にもなってきた惨劇の数々が再生されていく。


 ソフィアを、ヘルを、マルトゥラターレを、カディムを苦しめていたのは、まさにその秩序だったのに。

 それが失われたところでは、必ずより大きな不幸がもたらされた。


『我々は、生まれてよかったのだろうか』


 息苦しい。

 これ以上、聞きたくもない。


 俺は一切を拒否するかのように、腕を突き出した。


「起きろ、バカ」


 頭を小突かれて目覚めた。

 薄暗いテントの中で目にしたのは、俺の張り手を頬で受けたジョイスの顔だった。


 大森林に踏み込んで一週間ほど。

 ケジャン村という次の拠点を目指して、今日も俺達は森の中の道なき道を歩き続けている。頭上からは時折、鳥のさえずりが聞こえてくる。朝霧の中、まだ涼しい森の中を歩くのは、それなりに心地よくはある。先行するペダラマンの班が大きな失敗をしない限り、その後続である俺達が危険な状況に陥ることも少ない。悪くない、とするべきなのだろう。

 ただ、どうしても神経は磨り減るし、今朝は夢見も悪かった。元気いっぱいとはいかない。


「旦那、こいつは一雨きますかね」

「俺にはわからんよ。タウルならわかるかもしれないが」


 うず高く積まれた荷物を背負うイーグーが、フィラックに話しかけていた。


「こう薄暗くっちゃあ、昼だか夜だかわかんねぇ」


 みんな余計な口をきく元気もないのに、イーグーだけは余裕があった。

 ただ、彼の言うことはもっともだ。いつも大森林では、明け方に霧が発生する。だから雨が降っていなくても視界がよくない。これが気温の上がり始める時間帯になると、やっと晴れてくれる。そこへ今朝はというと、どうも曇っているらしい。たまに緑のドームの狭間から垣間見える空には、黒雲が見えた。


「ザッと降らなきゃいいんですがね」


 雨が降っても、さすがにこの時間からでは足を止めるわけにはいかない。物資には限りがある。幸い、緑のドームはそれなりに分厚いので、余程の豪雨でもなければ、直ちにここまでびしょ濡れになるような事態にはならない。ただ、それでも視界も悪くなるし、物音も聞き取りづらくなる。それにこの大森林では、その「余程の豪雨」がそれなりの確率で発生する。


 予定通りなら、明日の夕方にはケジャン村に到着できるはずだ。これまでのところ、あの例のサルの襲来以後、大きなトラブルには見舞われていない。


 王国の公認を受けていない場所というのは、不安要素ではある。実際のところ、こうした僻地の村は、大森林を探索するハンター達との個人的関係で態度を決めている。ペダラマンとかゲランダンといった顔役とは親しいらしいが、他の探索チームとはどうかわからない。村同士でも抗争があるらしく、そこに冒険者が混じるのも珍しくないのだとか。その結果、得られた捕虜が分配されて、また関門城の奴隷市場に持ち込まれる。

 それではすぐに人がいなくなってしまいそうなものだが、そうはならない。クース王国の貧困層から外国の犯罪者まで、行き場のない人々が流入し続ける。それが既存の脱法村に吸収されていくからだ。


「ふん、なるほど」


 シャルトゥノーマが頷いた。


「な、なんですかい、姉御?」

「つまりお前は、無駄口を叩けるくらいには元気ということだな?」

「へっ、ひぇっ?」


 アーノが皮肉たっぷりに言った。


「お前ひとりに荷物を任せて済まないと思っていたが、その必要はないようだ。頼りになるな」

「そんなぁ!」


 彼らにはまだ、余裕があるらしい。俺のすぐ後ろを歩くクーとラピは、少ない荷物でも、もう息も絶え絶えになっている。だが、こうなってしまっては、今更隊列から離脱させるわけにもいかない。思えばマンガナ村に置いてくるという選択肢もあったのに。

 一方、先を進むタウルは、別の意味で余裕がなかった。何やら周囲をキョロキョロ見まわしたり、かと思えば足下に目をやったり。


「タウル、どうした?」

「おかしい」


 異状ありとの報告に、俺は軽い緊張をおぼえた。


「何が気になる」

「鳥の声が聞こえなくなった」


 言われてみれば。


「雨が近いのか」

「そうでなければ、何かが起きる。気をつけろ」


 彼の警告に、みんな黙りこくった。

 間もなく、先をいくペダラマンの班から、一人の伝令が足音を殺して駆けつけてきた。だが、彼はいつものように声をあげるのでもなく、タウルに耳打ちすると、そのまま後続の班を目指して走り去っていく。俺達は目を見合わせた。

 タウルは手招きして、俺達を招き寄せた。互いの頭が触れ合うくらいに密着したところで、やっと言った。


「ここからは喋るな。合図があるまで、身動きせずにじっとしていろ」

「何があった」

「蟻の群れ。音を立てなければ襲われない。伏せて待て」


 伏せて待て、と言われても。

 辺りを見回してみる。これといった大木はなく、ちょうど丘と丘の間にあたる場所で、沼地も近い。頭上の緑も途切れがちで、僅かに灰色の空が垣間見える。足元は、先行する班が歩きやすいようにと鉈で下生えを切り払ってあるが、まだまだ草が少なからずみられる。

 蟻というのが何を意味するのか、そんなに恐ろしいものなのかもわからないが、とにかくタウルがそう言うのなら、従う他ない。


 俺達は腰を落として待つことにした。

 それからしばらく、森の空気がやけに空虚なものになった気がした。異様なほどの沈黙が辺りを覆いつくしたのだ。そして……


 枯れ葉を静かに踏む、ごく軽い音が遠くから聞こえてきた。

 それは、近づくにつれてどんどん忙しなく、まったく間断なく聞こえるようになってきた。


 視線を上に向ける。丘の斜面を無数の影が横切っていく。

 タウルは蟻という単語を使ったが、外見からすると、また別の生き物のように見えた。目測でおよそ体長一メートル。大きく発達した左右の顎は、むしろクワガタのようだったし、背中には羽もついている。全身はほぼ黒一色だが、顎の横、真ん中の足の付け根など、ところどころが毒々しい赤色だった。

 そんなのが行列を作って、ひたすらに大森林を横切っていく。俺達はただ、息を潜めて通り過ぎるのを待っているだけだ。


 一匹ずつの能力はというと、大したことはない。せいぜい低ランクの怪力の神通力と痛覚無効があるくらいのものだ。ただ、数が多い。きれいに縦一列になって歩いてくれればいいのだが、多少は隊列がばらけることもあるようで、こちらに近い位置を通り抜けているのもいる。

 そして、いよいよ蟻の集団の中軍に差しかかったらしい。俺と先行するタウルの間を、一匹の蟻が通り抜けていく。その前脚がタウルの背中に触れる。彼は動かなかった。声もあげなかった。


 首だけ動かして、左に振り返る。後続の蟻が、すぐ俺の近くを通り抜けようとしていた。

 動きを止めた人間どもに気づいたのか、蚊の羽音が耳元をかすめる。だが、払い落とすわけにもいかない。

 すぐ後ろのクーとラピが怯えて声をあげたら。だが、考えたところで、どうにもならない。


 体の大きさの割には軽快な足音が近づいてきた。その黒いギザギザした虫の脚が膝をついた俺の腿の上を踏む。息を殺してじっと待つ。たった一瞬のことなのに、途轍もなく長い時間がかかった気がした。やがてそいつは、そのまま通り過ぎていった。

 ほっと息をつくわけにもいかない。まだ蟻の群れは、この辺りを通過中なのだ。次の一匹がまた近づいてくる。


「ヒッ、ヒエッ……!」


 その時、隊列の後ろから、悲鳴が響いてきた。続いて、泥の撥ねる音。人足の誰かが、恐怖に耐えかねて駆け出してしまったに違いない。思わず身を起こしかけた。

 だが、いつの間にか俺の左手は、シャルトゥノーマに握りしめられていた。彼女は何も言わず、表情も変えず、黙ってゆっくりと首を横に振った。


「ウッ、ワッ、た、助け、ワァァーッ!」


 思わず耳を塞ぎたくなる絶叫が、静まり返った森の中に響き渡る。だが、俺もわかっている。もし彼を助けにいこうと駆けだしたら、もっと大勢の同行者が命を失うことになる。仮に俺は助かっても、仲間の安全が脅かされるのは間違いない。

 この状況を打破できるとすれば、ノーラに預けたままの腐蝕魔術くらいしかないのだが……


 悲鳴が止んだ。


 たっぷり一時間ほど、蟻の行進は続いたが、しばらくしてやっと頭上に鳥の声が聞こえ始めた。その段階でやっとタウルは手を挙げて立ち上がるようにと合図した。

 さっき悲鳴の聞こえた一角に目を向けた。そこには、数匹の蟻の死骸と、無惨にも食いちぎられた男の下半身だけが残っていた。


「間に合わなかった」


 ノーラがぼそりと言った。


「せめて、途中でじっとしていてくれれば」

「仕方ない」


 恐らく『変性毒』を用いて、一切の物音をたてることなく、彼を狙った蟻達を葬っていったのだろう。だが、男は恐怖に駆られて状況を認識できず、闇雲に走り回った。結局、離れた所にいる蟻までおびき寄せてしまい、八つ裂きにされてしまったのだ。


「タウル」

「なんだ」

「いつもこんな魔物が出てくるのか」


 彼は首を振った。


「たまに出る。ただ、こんな浅い場所でこれだけ蟻に出会うことはあまりない。だいたいルルスの渡しから奥地にいくと、よく見かける」

「わかった」


 つまりは運が悪かったのだ。

 そう割り切るしかない。


「出発」


 後ろから、アワルの声が聞こえる。

 だが、突然の魔物に怯え切った人足達は、すぐには動きださなかった。


「出発!」


 もう一度、鞭打つような口調で彼が怒鳴りつけると、ようやく彼らは動き出した。

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― 新着の感想 ―
[一言] こういう時リラックス出来るのが強キャラの条件みたいなところある
[良い点] デカイ蟻大量にいるよりも軍隊蟻のような細かいのがまとわりつく方が嫌だ [一言] 流石の蟻さんも男の下半身には興味なし
[良い点] エッチ先生はcoprophagyとかdungとかkiss my assなどの上品な表現をどこで覚えたのです? [気になる点] 蟻の名前はピアハンでなんて表示されたんだろ。 [一言] まず…
感想一覧
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