臭いに振り回される日
マンガナ村を出てからの道は、これまでと少し違っていた。
頭上の緑の濃さは変わらない。一方、足下の道は幅も狭まり、より多くの落ち葉や小枝に覆われて、黒い土がほとんど見えなくなっていた。昨日までの、どこかのんびりした空気はなく、誰もが張り詰めた表情で黙々と坂道を登っている。
この緊張は、今朝の殺人のせいかと思ったのだが、タウルに言わせれば関係ないとのこと。
「別に、ケカチャワンに出るだけが大森林の仕事でもないからな」
俺の少し前を歩いていたシャルトゥノーマが疑問に答えてくれた。
「さっきのマンガナ村から、それぞれいろいろな方向に向かって探索に向かうものだ。まっすぐ南に行かずとも、東に折れても西に進んでもいい。良質な木材が得られるところ、薬草の群生地と、目的地になる場所がいくつかある」
「川越えしなくても稼げるんですね」
「そういうことだ。というより、わざわざ奥地を目指す方がずっと少ない。昔は……そういう連中もいたらしいが」
それだけ言うと、彼女は遠い目をして、また少し先行したアーノに追いつこうと歩調を速めた。
そういう連中、か。例えば、亜人や獣人といった魔物を討つことそのものに価値を見出すワノノマの魔物討伐隊だ。利益度外視で危険地帯に行く集団といえば、まずそれが思い当たる。
「それより足下に気をつけろ」
前から声だけとんできた。
「足下?」
「変なところを踏み抜くと、毒蛇に噛まれるぞ」
ハッとして視線を下に向ける。そうだ。何かが違うと思ったら。
地面を踏みしめたときの感触の微妙な変化に、やっと気付いた。もしかして、これは土ではない?
俺達が今歩いているのは、獣道を鉈で切り拓いて、何度も何度も人が通っただけの場所だ。場合によっては、斧で樹木を刈り倒したりもする。また、自然と倒伏した木々もあることだろう。それが徐々に朽ちて森の土になっていく。
木々の腐食は内側から起こる。維管束がまずスカスカになる一方、外側のリグニンの表皮はしっかりと形状を保つ。自然、地面の下は木製のトンネルだらけになる。そのまま小動物や昆虫達の通り道になる。
俺は、すぐ前を進むペダラマンの班に目を向けた。先日、俺達と一緒に奥地を目指したいといった、あのストゥルンという男は、この森の道を裸足で歩いている。そういうことかと合点がいった。彼はずっと大森林を裸足で歩いてきた。靴を履いたりせずにいるのは、足下の状態を肌で知るためでもあったのだ。
また一つ丘を登り切ったところで小休止が入って、それからまた斜面を下っていった。足場にしている地面のことを知った今となっては、前世の山歩きのような気軽さではいられない。下り坂こそ、丁寧に歩かねばならない。毎日長距離を歩くので、膝への負担も馬鹿にならないし、乱暴に地面に衝撃を与えて無頓着でいるなら、いきなり蛇や毒虫が這い出てきて噛みついてきてもおかしくない。
そうして足下ばかりに気をつけていたのだが、前触れもなく異臭が漂ってくるのに気づいた。先頭をいくペダラマンも足を止めている。
先頭の二、三人がそれぞれ別々の方向にすり足で走り出る。そうして周囲に顔を向ける。誰かが右斜め前を指し示した。
「どうした」
少し前で様子を見ていたタウルに歩み寄って尋ねた。
「迂回する」
「迂回? どうして」
「わからない」
彼の表情もパッとしなかった。
俺が納得していないのを見て取って、言葉を付け足した。
「はっきりとはわからない。でも、こういう臭い、たまにある」
「臭いがあると、何がまずい? それがわからない」
「多分、他の冒険者が死んだ。動物かもしれない。大蛇に飲まれたかも」
理解が追いつかない俺に、タウルは更に説明した。
「もしかしたら『人食い』がどこかに生えて、そこに落ちたのかも。そういうとき、人や動物はすぐには形をなくさない。じっくりと蛇の腹の中で、『人食い』の房の中で溶けていく。それでこういうひどい臭いが残る」
それなら迂回するのも当然か。臭いの原因と接触しようものなら、それらの危険と鉢合わせてしまうのだから。
納得した俺は踵を返して、ノーラ達の傍に戻った。早速、イーグーが俺に事情の説明を求めた。
「どうだったんですかい、若旦那」
「ちょっと道を外れて遠回りするって言われた。危ないかもしれないから」
「森の中ですかい……そいつはそいつで、気をつけねぇとですぜ」
確かにそうだ。見えないところに『人食い』が根を張っているかもしれない。ただ、先行するのはペダラマンだ。俺達も油断していいわけではないが。
それより……
「どうした、ノーラ」
今、気づいた。彼女の顔色がよくない。
ジョイスに続いて、今度は彼女が寝不足か? ふと気になって周囲を見回すと、その後ろにいたラピも、少し元気がない。
「なんでもない」
「些細なことでも、何かよくないことがあったら言って欲しい。ここはやっぱり魔境だ」
「うん」
目に隈ができている。昨夜は眠れなかったのだろうか?
悪臭の原因を避けて森の中に踏み込み、道を大きく迂回して進んだ。後ろのアワルが率いる人足は大きな細長いボートを抱えていることもあって、進軍速度は目に見えて落ちた。前を進むペダラマンの班が手斧で若木を刈り倒し、道を広げる。俺達も、足下に『人食い』や毒蛇がいないか、注意を払う必要があった。
おかげで大変な手間をかけることになり、今日は思ったほど距離を稼げなかった。
あるところで先頭の集団が足を止めた。少し早いが、宿営地の設営を開始せよとの声が、前から聞こえてくる。
とはいえそこは、完全に森の中だった。四方にそれぞれ抱えきれないほどの大木が聳え立っており、頭上は幾重にも張り巡らされた枝に覆われている。緑はより色濃く、やけに薄暗い場所だった。ただ、おかげでその他には爪楊枝みたいにか細い木々が散在しているだけだった。下生えも少ない。地面の傾きもわずかで、これなら少ない労力でテントを張ることができる。
みんなで設営し終えたところで、次は夕食の準備だ。少し早いが。
「それじゃあラピ、今日もお願い」
「待て」
タウルが割って入った。
「匂いを嗅いでみろ」
俺だけでなく、周囲の全員に向けて、彼はそう言った。
どんな匂いがするか。頭上の高いところが緑の葉っぱに覆われているせいか、草木の匂いはそんなにない。一方で、足下の落ち葉の匂いは濃厚だった。それに……
「空気が湿っている?」
「もうすぐ雨だ」
俺は緑のドームを見上げた。これだけ木々が分厚く枝を張っているのだから、雨宿りにもなりそうなものだが。ただ、想定以上の豪雨が降り注ぐ可能性もある。
いや、それだけか?
「わかった。ノーラ、メニエ。あとジョイスとフィラック、タウルも。外で待機。あとはテントの中へ」
「察しがいい」
タウルはそう言って白い歯を見せた。
そのうち、離れたところから何かを軽く打つような音が響き始めた。何層にも渡って頭上を覆う緑の繭を、激しい雨粒が叩いているのだ。
旅の経験から断言できるが、熱帯であろうとどこであろうと、体が濡れるのは無視できないリスクだ。体が冷える。服が水を吸って重くなる。それに雨は視界を遮るし、物音を掻き消す。匂いもだ。
そして、これらの問題に対処すべきは、俺達人間だけではない。
そのうちに、離れたところから徐々に喧騒が近付いてくるのがわかった。鳥の鳴き声ではない。もっと野卑で奔放な、遠慮のない甲高い叫び声だ。
見上げた先の遠い枝が揺れる。そこに黒い小さな影がぶら下がっている。そいつはこちらを見ながら、ギィーヤッ、と耳障りな声で威嚇してきた。と、見る間にその数は増えていき、一頭、また一頭と、黒い人型がやってきては枝を掴んだ。そのうち、俺達はこの、黒いサルどもに取り囲まれるような形になった。
手足が長く、尻尾も長い。全身を黒い毛におおわれている。体は決して大きくない。身長は目測で五十センチから七十センチほどか。
「いやなのが来た」
タウルが苦々しげに小声で呟いた。
「手強いのか」
「そうでもない。それに食べられる」
じゃあ、むしろいいことづくめなんじゃないのか?
「ふふ」
フィラックが笑っていた。
「なんだよ」
「お仲間がきたぞ?」
「うるせぇよ」
とはいえ、連中は頭上の枝にぶら下がったまま。こちらからでは棒は届かない。ジョイスやフィラックの出番はなさそうだ。
サル達は俺達を見るとますます興奮して、枝を勢いよく揺らし始めた。手だけでなく、後ろ足でも枝に掴まることができるようで、逆さになっているのもいた。尻尾を絡ませているのも。そいつらが揃ってこっちを見て、甲高い声で大合唱をするのだ。
「ファルス、手を出すな」
俺は既に、応戦するために弓を構えていた。だが、タウルはそれを押しとどめる。
「食べられるんだろう?」
「下手に殺すと面倒なことになる」
案内人がそう言うのなら、大人しく従うしかない。俺は警戒しながらも、弓を下ろした。
ところが、離れたテントの方から大きな声があがった。アトラトルから発射された槍が空を切って緑のドームを突き抜けた。
「ああ、バカ!」
タウルが珍しく叫んだ。
「ファルス! 先にやれ! 急げ!」
「えっ!?」
やるなと言ったり、やれと言ったり。いや、迷うべきではない。
サル達は、仲間が一頭、撃ち落されたことに激高して、ますます激しく枝を揺らした。かと思うと、枝の上で器用に体を翻し、何かをキャンプの真ん中に投げつけ始めた。
既にシャルトゥノーマも弓を構えていた。端正な顔を歪めて、本当にいやそうな顔をしながらだが。
弦が震えて矢がすっと手元から抜けていく。その余韻を味わう間もなく、俺は次の矢を番え、また放った。目につく黒い影を片っ端から撃ち落とす。
二人がかりだったのも幸いした。こちらには連中の投擲するものがほとんど降り注がずに、近くにいた黒いサルどもはほぼ地面に転落した。見渡すと、少し離れたところには激しい反撃が浴びせられたようだが、あちこちで人間からの逆襲を受けたためか、早々に彼らは撤退を選んだ。
「バカなやつを連れてきた。こっちから手を出すなんて」
心底うんざりした、という顔でタウルは嘆息した。
「何がまずかった?」
「あれを見ろ」
さっき、派手にサルどもの投擲攻撃を浴びた一角。そこから微かにいやな臭いが漂ってきた。
「怒らせるとフンをぶつけてくる。怒った時のフンは、ちゃんと消化してないものでも出して放り投げてくる。臭いもひどい。だけどあの臭いに、森の虫けらが引きつけられる」
つまり、キャンプ地に害虫が集まりやすくなる。いくら肉が食べられるとしても、デメリットが大きい相手だったのだ。
「今夜はあんまり寝られない。早めに休んだ方がいい」
彼が吐き捨てると同時に、さっきの被害区画からドッと笑い声があがった。何があったのかと思い、テントの隙間から覗き見て、納得した。
監督官の責務ゆえに、俺達に同行したディアラカンが、クソまみれになっていたのだ。もちろん本人は怒り狂っていたが。
それより俺とシャルトゥノーマが撃ち落としたサルは十頭以上にもなる。食べられるのなら解体するべきだ。俺は彼女と目を見合わせて、回収するようにと促した。彼女は少し面倒そうな顔をしたが、大人しく一歩を踏み出した。
だが、俺達がサルの死体に手をつける前に、後ろから声がかかった。
「大した腕前だな」
振り返ると、そこにはゲランダンが立っていた。隣にはチャックやラーマもいる。
「てっきり国王陛下のお気に入り、形ばかりの騎士かと思いきや、大したもんだ。そういやフォレスティアの国技は弓だったな」
「どうも」
この探索が始まってから接点のなかった彼だが、ここで話しかけてきた。
彼は腹に一物ある人物だ。こうなってしまっては仕方がないが、戦えるということは見せないでおきたかった。
「何の御用ですか?」
「なに、頼みがあるだけさ」
するとゲランダンは、転がるサルの死体を指差した。
「半分、分けてくれないか。もちろんタダじゃない。解体もするし、焼いて食える状態で引き渡す」
「そういうことなら」
「助かる……おい」
ゲランダンが顎で指図すると、チャックは真っ先に駆け出して、サルを拾い始めた。忙しく立ち働く手下どもを見やりながら、彼は俺に言った。
「まぁ、もうちょっと待っててくれ。焼き終わったら届けるからな」




