大森林へ
城内の広い廊下の壁際に、点々と灯りが点されている。青白い壁が橙色の光に照らされ、長い影を落としている。
例によって統一時代に建設されたというこの城塞には、綻び一つなかった。一千年近い歴史があるというのに、石の壁はまるで昨日建てたと言わんばかりに隙間さえなかった。指でなぞっても摩耗ゆえの凹みなどは感じられなかった。
なんだか妙に整い過ぎていて、どこか現実感がなかった。どうしてそう感じるのかと自問自答して気付いた。この城には、装飾が一切ない。
俺達の先に立って案内する西部シュライ人の兵士達の装備も、簡素ながら実用的だった。鋲を打った革のベストを着こんでいる。あとは密林の大きな草を思わせる形をした革の腰当があるだけだ。しかし、兜は金属製で、頭部だけを守るお椀型になっている。この地域の暑さを考えれば、これ以上に重装備にはできないのだろう。内側にはくすんだ色の薄手のチュニック、足下はしっかり結んで固定したサンダルだ。
この無駄のなさが、この国の実情を示しているようにも思われた。
夜の空気が、やけに冷え冷えしているような気がした。重い湿気を引きずりながら、ぬるりと流れていく。
誰も何も言わなかった。国王陛下の招待とのことだったが、呼ばれたのは俺やノーラだけではなく、全員だった。つまり、奴隷であるはずのクーやラピまで。ペルジャラナンも一緒だ。
おかしなことがもう一つ。ここまで俺は帯剣してきているのに、武器を預かりたいと要求されていない。
やがて、廊下の幅いっぱいの大きな扉が目の前に現れた。明るい茶色の木の扉だ。さすがにこれは、何の装飾もなしとはいかないらしく、何やら模様のようなものが彫り込まれている。ただ、今は時刻もあって周囲は薄暗く、照明のせいで陰影が深いのもあって、何が描かれているかはよくわからなかった。
扉の前には二人の兵士が槍を手に立っていた。だが、案内役の合図を受けて、足下に置かれていた小さなシンバルを取り上げ、打ち鳴らした。
守衛二人が槍を取り直して向き直り、ややあってから、内側から扉が静かに開かれた。
国王陛下に跪拝して、敬意を示そうと視線を向けた。
だが、彼の姿を確認すると、俺はあっけに取られてしまった。
いくつかある謁見の間の一つなのだろう。さほど広いとも言えないその部屋には、小さな段差があるだけだった。真ん中に赤い絨毯が敷かれ、玉座まで一直線に太い帯を形作っている。
その玉座に居座る人物の風体たるや。
兵士達のとそっくりの胸当て。同じく革製の肩当も簡素で、胸には大粒のガーネットが輝いているが、それは後ろに垂れ下がるマントを留めるためのものだった。兜の代わりに金の王冠を被っているが、フォレスティア王のそれとは違って、ずっと小ぶりだ。
それより、腰と手にあるものの方が問題だ。腰には曲刀を手挟んだまま、そして杖代わりに床についているのは、なんと大きな両刃の戦斧だった。
どうなっているんだ?
会食じゃなかったのか。こんな、今すぐにでも戦いを始めそうな恰好で、誰を待ち受けているつもりだったんだ。
しかし、王の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
浅黒い肌、黒く粗い耳の横から繋がっている顎鬚。火のような眼光。そして堂々たる体躯。
ふと、人種はなんだろうと思った。タウルのような細い手足でもない。西部シュライ人を大柄にすると、あのハビみたいに手足が長い印象になる。ところが、目の前の王は、どちらかというとルイン人のような体格と、サハリア人のような顔立ちをしているように見えた。
ともあれ、俺が頭を下げなければ、何も始まるまい。だが、この状況でどう挨拶すればいい?
「旅の騎士ファルス、ただいま御前に参りました。今宵はお招きいただき、感謝に堪えません」
膝をつき、胸に手を当てて敬意を示しながらそう述べた。
だが、王からの返答はない。
ふと、床の影が揺れていると感じた。はて、と思い目をあげると、王が小刻みに揺れているのだとわかった。やがて彼は、我慢するのをやめて、大声で笑い始めた。
「随分とまともな挨拶ではないか!」
それから王は、杖のように戦斧を床に叩きつけた。
「もてなしを!」
「はっ!」
室内にいた兵士達は部屋の左右にある扉を開いた。すると使用人らしい連中が慌ただしくテーブルを運び込む。
だが、その進行方向には俺がいる。このまま跪いていればいいのか、それとも立ち上がるべきなのか。
「顔をあげい。作法など無用だ」
それで俺は立ち上がり、そっと後ろに下がった。
使用人達はこういう状況に慣れているのか、まったく手早かった。テーブルを置き、椅子を並べ、テーブルクロスをかけ……
王の目の前にも個人用のテーブルが置かれていた。さすがに戦斧を前に持っているわけにもいかず、それは椅子に立てかけた。
「席につけ」
「はっ」
今一度、頭を下げてから、俺は王の真正面の椅子に座った。驚いたことに、使用人が椅子を引いてくれたりもしない。セルフサービスだ。
「ふむ」
顎に手を当てて、王は少し考え込んだ。
「聞いていた話と、少し印象が違うな」
しかし、こちらの困惑に気付くと、彼は思考を打ち切って、挨拶した。
「ベルハッティ・ラーリィディ、改めて余が……ええい、俺がこの国の王だ」
随分とくだけた挨拶に、俺達の目が点になった。
「驚くことか? カパル王の臣下クリルから、特使が派遣されてきた。書状に書いてあったぞ。本来の予定を打ち切って途中で帰還することになりました、とな」
説明されれば、納得できる話だ。
そもそもクリルは俺達を関門城まで送り届ける役目を担っていた。なのに俺達がいきなり暴れて、フィシズ女王の私的な領域に武装したまま乗り込んでしまった。実際には女王が俺を殺そうとしたせいなのだが、とにかく赤の血盟とクース王国の板挟みになった彼は、俺達を賓客扱いせず、引き揚げることで女王にお目こぼししてもらうことにした。その判断を、俺も受け入れた。しかし、俺達の大名行列に先立って、使者が関門城まで先行していないはずはなかったので、この突然の予定変更について、改めてウンク王国側に伝えないわけにはいかなかったのだ。
当然、ベルハッティとしては、そんな物騒な連中がこの国に向かっている可能性があると考える。そんな中、リザードマンを連れた旅の少年騎士の報告があがってきたとなれば、確認しないはずがない。
だが、俺が驚いたのはそこではない。
「いえ、そちらは別に……ただ、陛下の、その、言葉遣いと申しましょうか」
「はっはっは! そっちか!」
使用人がやってきてティーカップを置く。そこに透き通った紅色を重ねたような紅茶が注がれた。
「そいつはしょうがないな。この国の王様ってのがどうやって決まるか、知ってるか」
「いいえ」
「まぁなぁ、小国の事情なんざ、知ったこっちゃねぇってか」
こちらが返答に窮するような粗暴な物言いだ。
「入り婿なんだよ」
「婿? では、王妃様が先代国王の王女様だと」
「ああ」
紅茶に一口つけてから、やや乱暴にカップを置く。そうして彼はテーブルに肘をついた。
「この国の王は強さで決まる。まぁ、比べるのは武勲だな。だから、一般人が王族出身の女と結婚して王になる」
では、ベルハッティが娘に恵まれなければどうするのだろう?
いや、その場合は、先代の息子達の誰かに娘が生まれていれば、そちらでいいのか。
「十年に一遍は、大森林から魔物が溢れてくる。弱っちい奴が王様じゃあ、誰も命令を聞かない」
「国王陛下であると同時に、最前線の指揮官でもいらっしゃると」
「はっ! 厭味に聞こえるな」
「そのようなことは」
ベルハッティはニヤニヤしていた。
「余計な遠慮はいらん。この国は、国とも言えない。見ただろう、エシェリクを」
「はい。活気があっていい街でした」
「物は言いようだな。だが、あれが他の……ファルスといったな。カパル王の手紙には、確かピュリス出身と書いてあったが」
「はい」
「エシェリクはピュリスと比べられるか」
使用人がスープを運んできた。だが、こんな問いをされては喉が詰まってしまう。
「そういうことだ。所詮は内陸の田舎町、少し大きいだけで、そこまで豊かとはいえない。周りに農村ばっかりあるだけの、田舎の町だ。だが、この関門城を別とすれば、あの街がこの国にとって唯一の、しかも最大の街なんだ」
圧倒的に貧しい。帝都の支援を除くと、経済力の規模だけでいえば、この国はピュリスにも劣るのだ。
「一応、大森林の奥では貴重な薬草も採れる。そいつを売って稼いではいるが、実際のところは帝都が金を出さないと回らない」
「帝都、ですか」
「この関門城の歴史は、必ずしも誇れるものではない、ということだ。あまり知られていないようだが、かつては攻め落とされたりもした」
スープをスプーンでなく、取っ手を掴んでグイッと飲む。こういう仕草を見ると、本当にベルハッティは王様らしくない。
統一時代の最初期に建造されたのがこの関門城だ。ここは六大国の一角を占めるポロルカ王国の支配領域でありながら、実際には帝都の将軍セイとその後任者が駐留し、大森林からの魔物の襲来に備えていた。つまり、現在のウンク王国の北半分、関門城以北が人間の領域で、それより南には人は住んでいなかった。
だが、諸国戦争の発生からしばらく、この地域の安定も失われた。偽帝アルティによって帝都は大きな損害を被り、海外の拠点……ムスタムやドゥミェコンなどに干渉する余裕もなくなった。当然ここ、関門城も放り出された。ポロルカ王国にしても、偽帝の軍勢に大敗したために、南方大陸西岸に対する支配力を失っていたから、北部の内陸地域は、政治的にも経済的にも、そして軍事的にも空白になった。
だから、海賊王ルアンクーが南方大陸の西岸と東部サハリアを支配した時期には、関門城は魔物の領域だったし、エシェリクの街も失われていた。ルアンクーの支配が及んでいたのは現在でいうところのクース王国までだ。
海峡の覇者の没後、この地域にはベッセヘム王国が成立した。現在まで存続するトゥワタリ王国と同様、ルアンクーの王権を引き継ぐという名目で独立した勢力だ。しかし、盛り返したサハリア系豪族の武力は脅威で、この王国はそのままでは存続が難しかった。そんな中、選択されたのが対帝都外交だった。
「要は、そこしか出ていけるところがなかったというだけの話だ」
そう言うと、ベルハッティはパンを頬張った。
金を産出する鉱山と、それを輸出する港、あとは北方の少数民族の領域も一応服属させているが、それだけ。更なる勢力拡張は難しい。となれば、大森林の開拓だけが選択肢となる。だが、自力で成し遂げるのは難しい。だから、帝都の力を借りるのがよい。
そうして世界の辺境の一つとして、大森林の北辺は注目されるに至った。多くの冒険者やワノノマの魔物討伐隊などがこの地に結集し、まずはエシェリクを奪還した。それから多くの犠牲を払いつつも関門城を攻略し、改めてここを拠点とした。更にこの地を足掛かりに、更なる征服を目指した。
だが、肝心のベッセヘム王国自体が、サハリアの豪族の抗争に巻き込まれて内紛を起こし、分裂してしまった。その中で最も弱小の勢力になったのが、このウンク王国だった。
「当時は、とにかく魔物から人間の領域を奪い返す、もっと拡張すると、そういう考えが第一だった。だから、なんでもありだった。いや、今でもそうだな。だから、どんな人間でも、それが犯罪者でも逃亡中の奴隷でも、構わず城の向こう側に送り出した。そいつらが」
ステーキにフォークを突き刺し、彼はさもうんざりした、と言わんばかりに溜息をついた。
「開拓民、ですか」
「そうだ。だから、この国は、この城の北と南で、別々の制度を運用している。というのもキレイすぎる言い方だな。はっきり言うと、この城の向こうには、ほぼ法律がない。何をやってもいい。取り締まりなんかできない。力を誇示して、なんとなく従わせるしかないんだ」
だから、血筋だけでは国王など務まらない。一応、血統は地位の正統性を示すのに役立つから、それは王女との結婚でなんとかする。
「俺を見ればわかるだろう。何代か前に遡れば、サハリア人もルイン人も混じっている。祖父の代までは開拓民で、父の代からやっと関門城の北側で暮らし始めた。それでも、武勲があれば選ばれる。ま、選ばれたところで……」
皮肉げに鼻で笑いながら、また彼はステーキの切れっぱしにフォークを突き刺した。
「……次の魔物の暴走で死ぬかもわからん。だが、そもそも長生きしたい男が暮らす場所じゃない。大森林というのはな」
俺は頷いた。
「それで、こんな話を聞いた後でも、お前は関門城を越えて大森林に挑みたいのか」
「ぜひ、許可をいただきたいと」
「それについては、規則通りとしか言えないな」
ベルハッティはあっさりした口調で言った。
「大森林の深部に挑む遠征隊は、最低十人からなる班を二つ以上構成して、名簿を作成した上で出発すること。また、王国の監督官が必ず同行する。そういう規則、法律だ。カパル王の賓客だろうがなんだろうが、そこは一律とさせてもらう」
二十人。制約は小さくない。
「なかなか厳しいですね」
「無法地帯だと言っただろう。腕に覚えがあるのかもわからないが、こういう規則でもないと、無駄に奥地に挑んで、無駄に死ぬのも多くなる。それに、人数を揃えるとなれば信用も必要になる。言い換えると、こうして王国の許可を取らずに奥地に潜る連中というのは……」
「仮にも領土の治安を守るため、と言われては、無視はできませんね」
「わかってくれて嬉しい。ここは大森林ありきの国だ。一応、脱法移民は増やしたくない。帝都にも睨まれかねないしな」
デザートの小さなケーキを少しずつ口に運びながら、彼は付け加えた。
「勝手に奥地を目指した連中は、法に保護されない。他の探索隊が発見した場合は、脱法開拓者と看做して襲撃していいことになっている。ま、どう取り締まろうが外国で犯罪をおかした連中が、こっそり紛れ込んでいるんだろうが……悪いことは言わない。城下町でじっくりと仲間を探すことだな」
小さなスプーンを皿に戻すと、ベルハッティは締めくくった。
「明日からで良ければ、一応賓客として、城内に居室を用意しよう。南側の城下町までの臨時の通行許可は発行させる。明日の朝、関門城の向こう側の景色を見せてやろう」
翌朝、夜明け頃に自然と目が覚めた。身支度をして階下に降りると、既に国王の使者が案内のためにそこまで来ていた。
みんなが揃うのを待って、俺達は静かに早朝の街を歩いた。湿気を帯びた空気は、ひんやりと肌にへばりついた。
暗く長いトンネルを通り抜けると、目の前には広場が、そこに掘立小屋が点在していた。その向こうに丈の高い熱帯の木々が並んでいた。空には薄い雲がかかっていて、冴えない灰色だった。それとうっすらと霧が立ち込めているのがわかった。
ベルハッティも、何かの仕事のついでなのだろうが、既にそこにいた。彼は挨拶などせず、顎をしゃくって前を向くようにと促した。
関門城の向こう、それはもう、魔境だ。
人の世界はここで終わり、ここから先は、魔物の支配する秩序のない領域が広がっているのだ。なのに、あまりの静寂、その幽玄な様子に、思わず見入ってしまった。
不老不死を得るための冒険。その三つ目の目標たる不老の果実が、この緑の迷宮の彼方に、きっとある。
いまや背負っているのは自分の思いだけではない。この身に纏わりついた因縁を終わらせるためにも、災厄を招き寄せないためにも、なんとしてでもやり遂げなくては。
けれども、目の前に佇む木々は、あくまで静かだった。ただ、冷たく湿った森の吐息が、頬をそっと撫でていくばかりだった。
そんな中、俺はただ、無心に灰色の空の彼方を眺めていた。




