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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十章 血墨戦役
650/1082

砂漠に咲く一輪の花

 箱庭の真ん中に咲く、小さな紫色の花。

 なんて名前だろう?


 そんなことをぼんやりと思った。


 年が明けて女神暦九九七年、蛋白石の月も半ば。

 ティズは最初ジャンヌゥボンで戦後処理にあたった。それから帆船で俺達を連れてハリジョンに引き返した。しかし、まだまだ彼の仕事は山積みだ。それで俺とノーラ、ペルジャラナンは、ティズの別邸の離れを貸し与えられて、何をするでもなく日々をのんびりと過ごしている。


 思えば激動の一年だった。年明け早々、聖女の廟堂の奥底、魔宮モーで死と隣り合わせの日々を過ごした。一ヶ月弱もの時間をかけてようやく地上に這い上がり、それからマルカーズ連合国のロイエ市では黒竜と戦った。かと思えばシモール=フォレスティア王国のヤノブル王に招かれたり、タンディラールに呼びつけられたり。華やかな王宮でのひと時の次にやってきたのは、スーディアでの魔王もどきとの死闘だった。人形の迷宮では魔物の脅威もさることながら、地下の危険や人間社会のややこしさにも悩まされた。そして最後は、東部サハリアの軍事衝突に巻き込まれた。

 滅茶苦茶だ。誰がどういうつもりでこんなひどいスケジュールを組んだんだ。


 そうした日々の反動か、今はひたすらボケーッとしている。

 朝、ゆっくり起きて飯を食い、その後はぼんやりと中庭の花を眺める。気が向いたらハリジョンの街の中を少しだけ散歩する。狭い路地が入り組んでいるせいで、一度迷いかけた。あとは暗くなったら寝る。それだけ。

 一度だけ、ティズの嫡男のアスガルが挨拶しに来た。ただ、とにかく頭の中が真っ白で、何を話したかもあまり覚えていない。

 正直なところ、放心状態だった。今までが慌ただしすぎたというのもあり、戦争で数えきれない人を殺した現実に頭が追いつかないのもある。罪悪感がなくなったのではないが、あまりにやらかしたことが大きすぎて、認識が追いつかないというのが本音だ。


 俺がこうして休んでいる間にも、ティズは忙しく立ち働いている。あれこれ片付いたら声をかけると言われているが……


 背後の扉がノックされる。返事をすると男性の使用人が顔を出した。


「ラーク様がおいでです」


 ようやくお呼びがかかったらしい。


「本当に済まないね」

「とんでもありません。休む時間をたっぷりいただいたと思っています」


 ティズの公務用の邸宅に俺達は招かれた。今回、ムフタル達は呼ばれていない。ラーク以外には、俺とノーラにペルジャラナン、あとは別邸で俺達とは別に留め置かれていたジル。それになぜかハーダーンもいる。彼は緊張した面持ちだった。俺の方をチラリと見やると、無言のまま俯いてしまった。

 奥まった部屋だ。地上二階で右側には大きく開いた窓と優雅なバルコニーがある。左手にはまた、別室に繋がる通路があるが、カーテンで仕切られている。床には赤い上質な絨毯が敷かれていて、あとは本棚と燭台、横向きに置かれた執務用の机。それに立派な椅子がある。

 いちいち確認するまでもなく、彼は仕事漬けだったらしい。目に隈ができているし、顔色もよくない。彼ほど多くのことを決裁しなければいけない立場では、俺一人のことにいちいち構っていられないのも無理はない。ましてやシジャブが戦死するなどして、幹部の数も減っている。その労苦は並大抵ではないだろう。


「いくつか報告と相談があってね」

「はい」

「まず、一番大事な話だ。君の身分だが」


 俺はプノス・ククバンを名乗ってこれまで戦ってきた。だが今となっては、捨ててしまいたい呼び名だ。


「口裏合わせが済んだよ。まぁ、事実を知っていたのはごく一部だが」


 そう言ってから、彼はハーダーンの方を向いた。


「聞いたところによると、君は腹を槍で裂かれたのに、わしに会った夕方には傷が塞がっていたね」

「え、ええ、まぁ」

「その辺を見られてしまったのでね。口止めの意味もあってハーダーンにも来てもらった。済まないが、独断で君の正体は知らせてある……つまり、タンディラールの騎士、ファルスだと」

「仕方ないかと思います」


 赤の血盟の主要幹部といえば、もはやネッキャメルを除けば、フィアン氏族の彼くらいしかいない。変な疑問を残しておいて藪蛇になるよりはいい。


「ハーダーンも証人の一人だ。プノス・ククバンはブスタンに駆けつけ、ラークに伴われて、街を襲撃した黒の鉄鎖の騎兵隊と戦った。その後、アーズン城でも奮戦し、そのまま赤の血盟に合流して、フィアナコンではアールンを捕らえた」


 ここまではいい。実際に名前を名乗ってからの戦いは最後のものだけだが、それまでも実名は伏せていた。


「その後、バタンではセミンの部将タリアン、土の賢者アルタラバを討ち、タフィロンでも活躍した。しかし、ハルブ砦の戦いで、水の賢者マーノンと相討ちになって戦死した」


 最後のところが作り話だ。


「実際にマーノンが死ぬところを見ていた兵士はみんなネッキャメルの人間だったからね。全員にこのことは言い含めるよう手配してある。もちろん、君の正体は伝えていない。復讐を遂げたプノス・ククバンが仇討ちを避けて自由の身になるために、わしに後始末をさせたのだと、そういう話にしてある。だからこれは漏れてもいい口止めだ」

「ありがとうございます」

「一代の梟雄、あのアネロス・ククバンの一人息子は、こうしてまたもサハリアに伝説を残して死んでいった、と。では本物のファルス・リンガはというと、こういうことにする。君らはヌクタットでミルークには出会わなかった。予定通りアーズン城に向かい、四日後にこのわし、ティズ・ネッキャメルと会見した」


 確かに、ミルークと鉢合わせなければ、そうなっていただろう。


「しかし、南方の情勢が怪しいことに気付いていたわしは、君らに急ぎハリジョンに避難するように伝え、そのようにさせた。一週間後、君らは無事この街に到着し、それから三ヶ月ほど、別邸の離れでのんびり過ごした」

「つまり、何もしていない。戦争にも参加していない、と。大変結構です」


 ティズも大きく頷いた。


「まぁ、どうせタンディラールはごまかせないだろうがね。漏れるところには漏れる秘密だろう。しかし……」


 そう言いかけたところで、ハーダーンの顔色がサッと変わる。


「この辺のお話は、君が何を望むか次第で変わってくる」

「と言いますと?」

「君の戦いぶりを見て、そのまま送り出す間抜けな族長がどこにいるかね」


 つまり、勧誘か。


「率直に言って、バタンを受け取るつもりはないかね。サグィの支配権、サオーの徴税権も当然ついてくる。身分も、ネッキャメルの支族の族長、頭領にするから、フォレスティアに帰れば貴族相当の立場になるが」

「せっかくですが、お断りします」


 迷いがまったくなかったので、はっきりそう言った。


「いいのかね? これほどの富貴を得られる機会が、また他にどれだけあるか」

「求めていません。望みは他にあります。またもし、それが叶わないにせよ、それなりに生きていけばいいと思います」


 貴族様になって一日中椅子の上にふんぞり返っていればいいのだろうか。そんな暮らしをするくらいなら、毎日、おいしそうな焼き鳥の匂いを楽しみながら、飲み食いするものを人に供する人生の方がずっといい。それこそピュリスの酒場の親父で十分だ。

 一方、俺の内心を知りもしないハーダーンは、もう小躍りして喜んでいる。わかりやすい。俺が断ったから、代わりに自分に椅子がまわってくるかも、と思っている。


「では仕方がない。予定通り、プノス・ククバンはハルブ砦で戦死、君はハリジョンで寛いでいたことにする」

「助かります」


 俺が頭を下げると、ティズは尋ねた。


「それでは、他に何か報酬として望むものはないかね。手ぶらで帰すわけにはいかん」

「既に十分に歓待していただきました」

「冗談はよしたまえ」


 彼は肩を揺らして笑った。

 ここにはハーダーンもいる。そしてサハリア人にとっての恥とは吝嗇、つまりはケチ臭いことだ。俺が何も受け取らないと、ティズが赤っ恥をかく。


「では、どうしても何かを下さるというのなら、もしあればですが」

「うむ」

「ジャンヌゥボンに四賢者が残した魔術書があるかと思います。あれの写しをいただけませんか」


 多分、これが最も実用的な報酬だ。

 火魔術についてはどこまで書かれているかわからないので、あまり期待していない。しかし、他に水、風、土と三種類の魔術書が残されている可能性がある。パッシャが派遣した四賢者はアルハールの若者を大勢魔術師として育て上げてきた。彼らが教科書もなしにそれをしたとは考えにくい。

 土魔術だけはスキルを奪取できなかったが、他は賢者の能力をそのまま奪い取れた。つまり、あとは魔術書さえあれば、あの『矢除け』も使えるようになる。ただ、触媒や魔術核がないので、過信は禁物だが。


「それについては、既に報告があがっている」


 ティズは頷いた。


「アルハールの魔術兵の生き残りは既に赤の血盟に仕えることに決まっている。魔術書の書き写しだが、可能な範囲で今すぐ命じておこう」

「ありがとうございます。大変助かります」


 だが、彼は首を振った。


「だが、それだけでは少なすぎるな」

「いえいえ、魔術書を四冊ですよ。金貨一万枚の値打ちはあるでしょう」

「それっぽっちかね? ははは」


 困った。

 他にもらいたいものなんて、本当にないのだが。


「まぁいい。その辺はまた、おいおい考えておこう。それで次の話だが」

「ティズ殿」


 待ちきれなくなったハーダーンが首を突っ込んだ。


「なにかな」

「たった今、ファルス殿は報酬を辞退なされた。つまり……バタンはいらぬと」

「確かにそう言いましたな」

「であればっ! ぜひともフィアンの者達のためにバタンをっ!」


 相変わらず必死だった。既にハリジョンの郊外には、この戦争を生き残ったフィアンの男達が宿営している。彼らはいまだに妻子の顔を見ることさえできていない。

 しかし、ティズは髭を摘まみながら、すっとぼけた口調で応じた。


「それは少々強欲が過ぎませんかな」

「なっ!?」

「バタンで敵将を討ち、二人の賢者を倒したのはファルスとその手勢ですぞ。それにタフィロンでも、凄腕の女射手を捕らえ、ハダーブを追い詰めたのですからな。確かにフィアンはバタンとタフィロンで奮戦はしましたが、どこでどんな首級を挙げられたのか」

「うっ、そっ、それは」


 目立った手柄とまではいかなかった。この事実は変わらない。


「し、しかし、しかし、それでは帰るところがないではないか」

「はて? 変なことをおっしゃる。帰ればよいではないですか」

「どこにですか! 我々にはもうフィアナコンはないのですぞ!」


 するとティズは首を傾げてみせた。それはもう、わざとらしく。


「そんな名前の街はもうないはずですが」

「ミルーコンに改名すると、あなたがおっしゃったのではないか!」

「ええ、その通りですが」


 もったいをつけてから、ティズは言い放った。


「こう言いませんでしたかな? 今後、この街を二度とフィアナコンと呼んではならぬ。以後、この街は我が兄ミルークにちなんで、ミルーコンと名付ける」

「そうだ! そうでしょう!」

「名前を変える、としか言っておりませんが」


 この一言に、ハーダーンは口をポカンと開けて、ティズの顔をまじまじと見た。それから顔色を赤くしたり青くしたりしながら口をパクパクさせ、最後にガッツポーズになってその場でジャンプした。


 ティズの言い分は非常識でデタラメだ。そもそも都市の名前を変える、そこからフィアンの名を除くとなれば、当然にその領有権も剥奪すると、そういう意味になる。アラティサールもそう解釈したからこそ、あえて反対を押し切ってハーダーンやフィアン氏族を処断することができなかったのだ。裏切りの罪を負った一族とはいえ、今はその権利がネッキャメルにあるとなれば、勝手な真似は許されなかった。


 驚きと喜びに混乱中の彼に、ティズは畳みかけた。


「それから、先に引き取らせてもらった未婚の娘達ですが、そろそろミルーコンに到着している頃ですな。しばらくアーズン城にとどまってもらっていましたが、これ以上、お客様を食わせるのも大変だというのもありまして」

「い、いや、フィアナコンには帰さぬと」

「ええ。ミルーコンには送り出しますが」


 ただ、残念ながら、兵士達の欲望を満たすために犠牲になった寡婦達については、どうしようもない。彼女らはもう、一族の一員たり得ない。これがティズにできる精いっぱいだった。


「で、では!」

「うむ?」

「早速、配下を連れて帰ろうと思います!」

「そうなさるがいい。共に末代まで栄えましょうぞ」


 他のことは何も考えられないハーダーンは、ドタドタと騒がしく部屋から走り去っていってしまった。


「いや、彼が是非にと言うのでね」


 ティズはそう弁解したが、俺は皮肉っぽく応じた。


「わざとでしょう?」

「ふむ」

「ネッキャメルはいまやハリジョン、バタン、ジャンヌゥボンと海峡の西側のすべてを手中に収めています。なのにわざわざフィアナコンを貰ってバタンを引き渡したのでは、割に合いません。独占するからこそ得られる利益というものがある。それに……ギリギリまで焦らすことで、ハーダーンに何も考えさせないようにしたんでしょう。改めて何か要求されないように、と」


 俺の指摘に、ティズは黙って口角を上げた。


 彼はちゃんと考えている。アールンの処刑の凄まじさは、従軍したフィアンの男達の記憶に残っているから、恨みはきっと燻り続けるだろう。では、どうすべきか。

 このままフィアンを滅ぼせるならいいが、さすがにこの俺がそんな戦いに喜んで参加するはずもない。つまり、この局面でのよりよいファルスの使い道とは、脅迫の道具だ。

 ハーダーンは一族を守りたい。だからこそ、ティズには逆らえない。フィアン氏族の男達がかつての恨みを口にしたとき、板挟みになりながらそれを抑え込むのも、彼の仕事だ。ファルスが生きている限り、ネッキャメルを敵に回して生き延びるなどあり得ないのだから。

 ただ、それでも何かのきっかけがあって妙な方向に転んでは困る。だからこそ、口裏合わせのためにファルスについての情報も共有した。そして彼らにとって愛着あるフィアナコンもそのままとし、かつ未婚の娘達も無事、送り返した。まさしくアメとムチだ。


 だがその笑みをすぐ収めると、あまり楽しくない話題にも触れた。


「それに付け加えるなら、ニザーンだがね」

「はい」

「ジャリマコンから出て行ってもらうことにした」

「徹底していますね」


 海上の利権は完全にネッキャメルで独占することにしたらしい。


「アラティサールの内通をそのままにはしておけん。それに最後の敵前逃亡もだ。赦免と引き換えに、彼らにはタフィロンへの移住を命じた」

「手厳しいですが」

「どうせ連中の海軍もほとんどジャンヌゥボンでやられてしまったからね。許してやらねばならん理由もない」


 終わってみれば、ネッキャメルの一人勝ちになった。黒の鉄鎖の大氏族のうち、フマルはほぼ滅亡。アルハールとセミンには生き残りがいるが、それぞれ大きな拠点を持たない小集団に転落し、同盟の末席に加わることとなった。味方にしても、フィアン氏族は一応戦前の領地を保持したが、ニザーンは辺鄙なタフィロンに国替えだ。一方、ジャリマコンを得たネッキャメルとしては、真珠の首飾りの交易利権に加え、アーズン城以北の領域をほぼすべて独占する形になる。


「さて、せっかくだから二人の希望も聞いておこうか」


 ティズはノーラとペルジャラナンに向き直った。


「話は聞いている。ノーラ君はファルス君の商会を預かっているのだとか」

「はい」

「では、何か欲しいものなどはあるかね」

「ありません。ファルスを連れ帰るのが私の唯一の望みです」


 すると彼は苦笑した。


「さすがにそれは、わしにはどうにもならんよ」

「承知しております」

「二人とも、何も欲しがらないから困ってしまうな」


 ただ、ティズはそうした態度を見越していたようだ。


「では、これを授けよう」


 彼が差し出したのは、銀の指輪だった。


「サハリアでは普通、女が世に出ることはないのだが、この手のものを授けるのに性別は関係ないからね。ファルス君の旅路はそれはもう大変なものに違いない。無事、目的を果たしたら帰りにハリジョンまで寄ってくれたまえ。これを黄金の指輪と交換しよう」


 この瞬間から、ノーラは騎士身分を得たのだ。

 しかし、これも下心が透けて見えないでもない。これで俺に唾をつけておこうというのだろう。


「それで、そちらの……」

「ペルジャラナンです」

「そうそう、ペル……ジャラナンというのだね。まさか人に従うリザードマンがいるとは驚きだが」


 詳しいことは伝えていないが、人形の迷宮で俺達の仲間になることを選んだとは言ってある。


「一応ペットということにしてありますが、ただの仲間ですよ。人の言葉は話せませんが、意味は分かりますし、自分で考えることのできる人間です」

「ほう」


 ティズは俺の説明に目を光らせた。


「では、砂漠にいるリザードマンの仲間も、やっぱり同じと考えていいのかな? つまり、実は話し合いもできる、と」

「ギィ」


 通訳されるまでもなく、このタイミングのこの鳴き声で、誰もが意味を理解した。


「なんと素晴らしい。ペルジャラナン、何か欲しいものはあるかね? それと……赤の血盟で働いてみるつもりはあるかね」

「ギィイ……」


 そう言われて、困っているらしいのはわかる。


「ノーラ」

「うん」


 彼女は短く詠唱して、ペルジャラナンの心の声を聞き取ることにした。


「ティズ様、欲しいものは、服だそうです」

「服?」

「人間が身に着けるような衣服や鎧を身に着けたい、と……」


 俺は難しい顔をして、彼の表面を撫でた。


「よっぽど丈夫じゃないと、鱗に生地が負けそうですけどね」

「む……わかった。考えよう。それで、赤の血盟で働くのは」

「そちらは、あまりやりたくないと言っています」

「なぜかね? ちゃんと人並みに扱うつもりだが」


 ペルジャラナンは首を振った。


「南方大陸にある、祖先の住んでいた場所を探したいからって」

「ティズ様、ペルジャラナンは、自分達の歴史を知るために旅をしています」

「なんと」


 この説明に、彼は軽く驚いた。


「では、そのうちでいいから、気が向いたら声をかけて欲しいものだね」

「ティズ様」


 俺はじっと彼を見据えて、低い声で警告した。


「よからぬことを考えてはいませんか」

「ふむ?」

「ドゥミェコン近くに住んでいるリザードマンの群れと同盟を結べば……」

「はっはっは」


 ティズは笑ってごまかした。

 西方大陸の南側、いわゆるサハリア一帯でも、特に乾燥が激しいのがドゥミェコン周辺だ。進軍には大きな苦労が伴うし、物資の調達も困難だ。しかしそこに、飢餓や乾燥をものともしない魔法戦士の集団が現れて、赤の血盟の味方をしてくれるとなればどうか。

 下手をすればワディラム王国すら屈服せざるを得なくなる。またもし今すぐ同盟を結べるなら、更に価値は大きい。どっちにしろ、分裂したフォレスティア王国の片割れがこの機に乗じて攻め込んでくる可能性はそう高くないが、そうした最悪のシナリオが発生した場合でも、見慣れない同盟者の存在は非常に心強いものとなる。


「だが、わしとしてはやり方にこだわってはおられん。こうなってしまっては、強い族長にならねばならん。今は頭の痛い問題がいろいろあってね」


 ティズは首を振りながら言った。


「ファフルだが、しばらく公職を解き、見張りをつけている」

「仕方ないですね」

「良くも悪くもだな。サハリア人は恥辱を嫌う。目を離したら、自決しかねん」


 溜息をつき、肩を落とす。


「本当はどこか、大きな拠点の差配を任せたいところなんだが……まだ少し先のことになりそうだ。まったく……少しはこちらの気持ちもわかって欲しいと思ってしまうよ」


 下から見上げる分には、国王とか族長の椅子は魅力的なのだろう。しかし、その立場になってしまうと、考えることはいかに与えるかばかりになる。思っているほど楽しいものではないのだ。


「とはいえ、欲張り呼ばわりされても、こうなったからには港湾都市の利権を手放すわけにはいかん。君だけは例外にするつもりだったがね。今後はすべて族長の直轄とするつもりだよ。もう二度と同じことを繰り返してはならん」


 そう宣言する必要はあったらしい。その視線は、いつの間にかラークに向けられていた。


「話はわかったな、ラークよ。最後になったが、何か望むものはあるか。今回はお前にも苦労をかけたゆえ」


 釘を刺してからだが、ここでやっと彼の論功行賞というわけだ。


「とはいえ、お前に侘しい思いをさせるつもりもない。なにしろこの戦で妻も娘も失ったのだ。だが、その辺りはもう気に病むな。いずれわしが良家の娘を見繕って、よい縁談を取り持ってやろう。これからはよいことしか起こるまい。差し当たっては望みを口にするがいい」


 これにラークは頷いた。


「ティズ様、私が望むものは一つをおいて他にありません」

「その一つを述べてみよ」


 ラークは、ここまで勢いよく言い切っておきながら、そこで少し躊躇をみせた。

 しかし、決心が固まったのか、まっすぐ前を見据えていった。


「ジルをいただきたく」


 部屋の空気が固まった。さっきハーダーンが口を開けたまま棒立ちになったように、今度はティズがそうした。

 それから彼は目を泳がせ、部屋の中を落ち着きなく歩き回り、最後に立派な椅子の上にドスンと腰掛けた。


「どういう意味かね。召使、ではないな。妾か、それとも部下か」

「妻としてです、ティズ様」


 黙って成り行きを見守っていたジルが、吐き捨てた。


「このたわけが」


 心底人をけなすような声色で。


「このところ、ちょくちょく私のところに顔を出すと思ったら、そんなくだらないことを考えていたのか。馬鹿者が」


 ちょくちょく? 俺達は離れにいたから知らなかったが、なんとラークは彼女のところに通い詰めていたのか。

 困惑しているティズは、弱々しい声でなんとか言った。


「あ、あー、ラークよ。ジルはな、わしは知っておるのだが、少々訳ありの娘でな……」

「すべて承知しております」

「なに」


 ティズが顔色を変える。そして俺の方へと視線を向ける。だがジルが自分で言った。


「私が教えた。ファルスは関係ない」

「お、おお、ジル、なんということを。身元が知られれば、悪くすれば……いや、それはわしがさせぬが、居場所などなくなろうに」

「私も、さすがにラークがここまで馬鹿だとは思わなかった」


 ひどい言われようだ。

 しかし、ラークはもう、口に出した以上、撤回するつもりはないらしい。彼は前へと進み出て、ティズの前に膝をついた。


「真剣に考えました」

「理由を尋ねてよいか」

「ティズ様、一つの戦は終わりました。しかし、まだもう一つの戦は終わっておりません」


 彼は立ち上がり、自分の胸に手を当てて思いを訴えた。


「私は今まで同胞の中で、温もりを感じて生きてきました」

「そうであろうとも」

「ですが、私が温かな天幕の下にいる間、冷たい石の床の上で凍えていた人がいるのです」


 ラークは、部屋の隅に立つジルに振り返り、それからまたティズに言った。


「私はもう、十分にいただきました。これからは誰かの力になりたい。とりわけ、一人きりで苦しんでいる人のために、いまだに憎しみの檻に囚われている人のために」


 そう言い切ると、彼は改めてジルに向き直った。

 そんな彼に、彼女は冷たく言い放った。


「私はごめんだな。お前のような甘ったれたお坊ちゃんの相手などしていられるか」

「ジル、私は頼りない男だ。いつだったか、言われたな。幸せな奴だ、幻想に包まれて生きてこられた運がいいだけの男だと……それでも、何かしてやれることがあるかもしれない」

「戦の恐ろしさに、ついに気が触れたか。命を救われたことなら、偶々そこにいたからだ。気にするな」

「ああ、そういうこともあったな。まったく考えていなかった」


 迷いのないラークの態度に、ジルは小さな苛立ちを表した。


「お前ならいくらでも操正しい娘を見つけられるだろう。お前はタフィロンで何を見たのか、忘れたか」

「話に聞いた昔のことに比べれば、なんてことはないな」

「大馬鹿者が。もしあの時のことのせいで万一があったらどうするつもりだ」

「別に慌てることはないだろう。我が家の子として受け入れるだけだ」


 そこまで言い切るラークに、ジルは一瞬、言葉をなくした。


「剣を振り回す気性の荒い女を家に入れて、何の得がある」

「張り合いがありそうだ」

「ろくに裁縫も料理もできない私に、人の妻など務まると思うのか」

「そんなことは誰かに頼ればなんとでもなる」


 次々繰り出される反論に、ラークは涼しげな顔で応じた。その様子をティズは驚きをもって見守っていた。

 ついにジルが何も言えなくなると、ラークはまたティズに言った。


「お聞き入れください。矢が飛び交う音が聞かれなくなれば、剣戟の音が止めば平和なのではありません。心の中から憎しみがなくなったとき、やっと平和が訪れるのです。どうか私に命じてください。ただ一人取り残されたかの人を救えと」

「ふん」


 だが、ジルはなおも首を横に振った。


「どうあれお前はネッキャメルだ。私の生家を奪った一族の頭領だ。きれいごとなどいくらでも言える。口先一つで私が靡くものか」


 するとラークは胸に手を当て、ティズの前に跪いた。


「では、ティズ様、私に新たな家名を与えてください」

「なんだと」


 これにはさすがの彼も、目を丸くした。


「ラークよ、新たな家名を名乗るということは、お前はもうネッキャメルの支族でしかなくなる。本家が絶えたときに族長の地位を受け継ぐことも許されんし、掟に従うなら一度、頭領の地位を捨てねばならんのだぞ」

「承知しております」

「頭領の地位は、親から子へと代々受け継がれるもの。いったん手放せば二度とは取り戻せぬもの」

「それでもです」


 強硬に言い張る彼に、今度はジルがうろたえ始めた。


「馬鹿なことを! やめろ! 撤回しろ! お前の父も祖父も、曾祖父も、どれだけの思いをしてその地位を守ってきたと思っている!」

「迷いはない」


 ラークはまったく軽やかだった。


「父母はネッキャメルの男として相応しくあれ、と私を育てた。今、しようとしていることが恥ずべきこととは思わない」


 椅子の上で大きく息を吐きだしたティズは、汗ばんだ手を震わせた。


「よかろう、ラークよ」


 気持ちを落ち着かせようと彼は間を置いた。


「お前には新たにジャディードの家名を授ける。末永く栄えよ」

「ありがたき幸せ」


 あまりのことに、ジルは呆然とするばかりだった。

 立ち上がったラークは、歩み寄って力強くジルの手を握った。


「これでもう、妨げるものは何もない」


 手を取られたジルは、何も言えずに俯くばかりだった。


「ジルよ」


 椅子に座ったままのティズが、やや上ずった声色で告げた。


「今こそお前の父ミルークから預かっていた資産、ブスタンのデーツ畑を、お前に譲り渡す」

「それは、もういらないと」

「ならん。一家を構えるのなら、元手がなくては始まるまい。とりわけ、たった今生まれたばかりの新しい一族となれば」


 そう言われては拒むこともできない。再び彼女は俯いた。


「ラーク。すべてを知っているのならわかっていよう。お前達の門出を祝うことはできぬ。このまま新たな住処に行くがよい。幸せを願っておるぞ」

「お任せください」

「うむ」


 それからラークは何も言わずにジルの手を引いた。彼女ももう、逆らわなかった。二人はそのまま元来た通路を引き返し、やがてその背中は見えなくなった。

 その遠い通路の向こうを所在なく眺めていると、後ろから涙声が聞こえた。


「なくすだけだと思っていたのに」


 振り返ると、ティズは椅子の上で身を震わせていた。


「大勢が亡くなった。天幕が焼かれた。家々も城壁も毀たれた。それなのに」


 彼は右手で顔を覆った。


「救われる者もいてくれたのだな」


 誰が知ろうか。

 周囲は荒涼たる砂漠、それは死そのものだ。なのにその真ん中に一輪の花が咲く。

 あるはずのない何かが、そこにあったのだ。


 自分でも不思議だったのだが、俺はこの出来事にあまり不安や懸念を抱かなかった。なぜだろう?

 おぼろげにしかわからないのだが、それが俺がこれまで頭で理解してきた愛とは違う何からしいというのは、どこかで理解していた気がする。


 そこからはもう、言葉にならなかった。

 彼はそれからしばらく、声を殺して咽び泣いた。

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― 新着の感想 ―
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[一言] 森川久美さんのShiang-hai1945の「狂気と憎悪と絶望の中で人と人とが互いに橋をかけ幸せなる努力を怠らないことを」ってやつを思い出しました。
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