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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十章 血墨戦役
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闇色の渦

 すっかり炭化した木片。ネッキャメルの陣営を囲っていた柵の一部だったものだ。それが白い煙を途切れ途切れに吐き出している。

 周囲に走竜の姿は見えない。天幕もほとんどが潰れ、或いは焼かれているので、視界は広く、遮るものがない。この様子だと、左翼に布陣していた兵士達はほとんど逃げ去ったのだろう。それを頭領の誰かが率いて抵抗を続けているのか、完全に壊滅したのかは、今のところわからない。

 風は弱まりつつあった。東の空に、やけに赤い朝日が昇る。


 ムフタルが溜息をついた。たった一夜でこれとは、あまりにひどい。他の面々も、まさかこれほどの状況になるとは思ってもみなかったらしく、落胆の色を隠せない。


「南に進もう。右翼がどうなったか、確認しておいた方がいい」


 俺がそう言うと、ラークは力なく頷いた。

 だがもし、フィアンその他の兵も潰走していたら、いっそ俺はラークやジル、その他全員をどこかに隠して、一人で暴れようかと考えている。


「やっぱ俺ぁ反対だな」


 ムフタルは首を振った。ラークが疑問を口にする。


「なぜ? ネッキャメルも今は主力がどこにいるか。ニザーンもどうなったかわからない。なら次は右翼のフィアンだろう」

「まぁ……うまくいくかもしんねぇし、なんとも言えねぇが。あいつら、いやいや戦ってんだろ? 寝返るかもわかんねぇぜ」


 その可能性はある。賭けになる部分はあるが。


「俺は行くべきだと思う」


 フィラックが意見を述べた。


「裏切りがあろうがなかろうが、このままたった七人でうろうろしていても、そのうち敵の騎兵に見つかって殺されるだけだ。それに状況は把握したい」

「それも一理ある。絶対ダメとは言わねぇぜ」


 特に目立った反対はない。

 なら、やはり右翼を目指すべきとなる。


「迂回したほうが……いや、却って好都合か」


 手で庇を作りながら、フィラックが言った。それにディノンが頷いた。


「広いところで走竜に取り囲まれたら、打つ手なしですからね。ですが、ここからまっすぐ行くなら」


 実は、左右の陣営の間には、この辺特有の荒れた岩場が広がっている。人間の背丈を超える石柱があるかと思えば、突然の大穴が開いていたりもするので、足場はよくない。ただ、それぞれ右翼と左翼の足場は、本陣たるニザーンの陣地までは平坦な道で繋がっていて、何かに妨げられることなく歩いていける。

 つまり、岩の狭間を縫って進めば、敵兵の目にさらされる可能性を小さくできる。馬を持たない俺達なら、まっすぐ突っ切るほうがよさそうだった。


「先行する」


 タウルがそう言うと、前に立って歩き始めた。


「なら、私達は後詰めを」


 ディノンとフィラックが、俺達の後方を警戒するために、少し遅れてついていくと意思表示した。それで俺とムフタル、ラークとジルが、小さくなったタウルの影を追いかけることになった。

 夜が明けて間もないのもあり、影は色濃く、また長く伸びていた。俺は時折、西に目を向けた。俺達が朝日に照らされるたびに、大袈裟に跳ね回る影達が、誰かの目に留まるのではないかと、気が気ではなかったからだ。

 ごつごつした岩に手を触れ、左右を見渡す。水に洗われない砂漠の岩だ。小刀で切り刻んだばかりの、ささくれだらけの木片のような歪な形をしている。表面はざらついていた。

 人影は見当たらない。足下を確かめる。離れたところに大きな凹みがある。遠く離れたタウルの居場所までの間に、もう一つ大きな岩の柱が見える。次はあそこへ。俺達は頷きあい、小走りになってそこを目指す。

 ほどなく岩の迷路の真ん中あたりに差し掛かった。もうあと半分ほど進めば、右翼の陣営の状態を確かめられる。


 それは、とある岩場で、ここまでと同じように安全確認をしていた時だった。


「おい、ファルス」


 西に目を向けたムフタルが小声で囁く。全員が素早く反応し、岩の柱の陰に隠れる。そこから恐る恐る向こう側を見やった。


「人影……だと思ったんだが、よく見えねぇ」


 ムフタルの言う通りだった。

 何かが動くのは見えたが、人影というにはどうも小さすぎる気がした。せいぜい人の頭くらいの大きさしかない、黒い影。それがとある岩の下に見える。いや、影と呼んでいいのか? 遠くてはっきり見えないせいもあるのだが、何かこう……黒いゲル状の何かと言おうか。まさか砂漠にスライムでもなかろうが。


「確認する」

「見つかっちまうぜ?」

「あとをつけられてるままだとしたら、余計まずい。ムフタル、悪いけど二人を」

「悪かぁねぇけどよ」


 やり取りはそこまでにして、俺は剣を片手に、そっと岩の柱から歩み出て、その黒いゲル状のものに近付こうとした。距離にして、百メートルほどはあるか。

 ところが、俺がそうして一歩を踏み出すと、その黒い塊は急に浮かび上がった。それだけでなく、いきなり面積を増やした。グニャリと歪み、瞬く間に丸く広がった。真ん中にはほとんど何もないが、ほぼ円形の周囲にはやはり黒いゲル状のものが見える。ゲル状というか、今や一つの膜、スクリーンのようなものか。その中で、闇色の何かが渦巻いている。


「なんだぁありゃ」


 後ろでムフタルが驚き呆れて声を漏らしている。だが、俺にしてみれば、それどころではなかった。

 ピアシング・ハンドの反応がない。つまりこれは、生物ではない。では何だろう? 可能性はいくつかある。


「三人とも! あれは幻術かもしれない。周囲を」


 この奇妙な幻術で俺達を惑わしつつ、背後から襲いかかってくる可能性もある。

 しかし、その他の可能性もあり得る。俺はグルービーに敗れたあの日を忘れたことはない。つまり、あれが未知のゴーレム、何かの魔法で生み出されたロボットだとしたら。ピアシング・ハンドが反応しない以上、生物でないのは絶対だ。神霊の類でも視認できれば中身が見えるので、それらでもない。魂を持たない完全な無生物だ。だからといって、実体がないという保証にはならない。

 それにしても薄気味悪い。できることなら、火魔術でも叩き込んで、一発で消し去ってやりたいのだが、それをすると爆音が響いてしまう。


 遠くから、弓弦の振動が耳に触れた。

 俺達の後方を進んでいたディノンが矢を放ったのだ。それはまっすぐに黒い影に向かって飛び……すり抜けた。いや、命中したのか? それとも、すれすれで回避されたのか。やはり実体はないのか?


 ただの幻術だとしたら、まともに取り合うのは意味がない。それより誰が何のためにこんな魔法なり神通力なりを用いているのか、それを確かめなくては。俺達を牽制し、足止めするためか。実体のない幻影でしかないのなら、あれ自体に攻撃力はない。むしろ、ほったらかしで走って逃げるなりしたほうがいい。


 無駄は承知で、俺は急いで詠唱した。身体操作魔術が通用するかどうか。黒い影はじりじりと距離を詰めてきているが、まだ五十メートルほどは離れている。この距離で届かせるとなれば、魔法の矢しかない。いっそ即死の魔法を使ってやろうか。詠唱する時間は充分にあった。

 影がおよそ二十メートルにまで迫ったその時点で、俺は掌の中に、暗い藍色の鏃が形をなすのを見た。


 これで終わるとは思えないが……

 致命の矢が、まっすぐ黒い膜のような何かに向かって飛んでいき、突き抜けた。確かに命中したが、それで動きを止めた様子もない。


 となれば後は、この剣だ。

 これで斬りつけて何も起きなければ、もう幻影でしかない。放置して逃げる。誰がどこからこちらを監視していて、なぜこんな幻を見せてくるのかはわからないが、まともに相手にしても仕方がない。


 俺は前進して距離を詰めた。すると、影は動き始めた。

 膜の中で何かが蠢いた。一瞬、人の顔のようなものが見えた気がする。

 ゲル状に見えるその影が大きく揺らぐと、まるで打ち寄せる波から弾ける水滴のように、水面に石を投げ込んだときにあがる飛沫のように、形状のない黒い何かがこちらに向かって迫り出してきた。


 幻に過ぎない……その考えを、俺は急いで打ち消した。

 説明できない何かの感覚が、危険を訴えていた。反射的に飛び退いて、黒い何かが突き出す何かを避けた。


「ファルス!」


 背後から声が聞こえる。

 だが、振り向く余裕がない。形もない、実体もないはずの何かなのに、俺にはなぜか、こいつが凄まじい手練れに見える。


 確かめる。

 剣の柄を握り締め、そう決めた。


 黒い渦と対峙する。あちらもこちらの隙を窺っている。そんな気がする。

 不意にまた、影が波打ち、二本の触手のようなものが突き出されてきた。軽く飛び退き、すぐまた取って返して、俺はその触手ごと黒い影を真っ二つに切り裂いた。


 手応えがまったくなかった。

 何もない。かすった感触もない。ならば実体ではない……


 その認識が、一瞬の油断になった。

 黒い触手が俺に迫る。避けるべきか、そのままでもいいのか、思考が混濁した。


「あっぐあああ!」


 言葉にならない悲鳴をあげて、俺は後ろに弾け飛んだ。いや、全力で後ろに向かって跳んだのだ。せめて距離をとるために。

 咄嗟に身を捻って直撃を避けた。それでも鋭い刃のようなものが、俺の右の鎖骨から胸まで、体の表面を切り裂いていた。革の鎧を身に着けていたおかげで、そこまでの深手にはならずに済んだとはいえ。


「チッ!」


 背後で足音がする。だが、俺はそちらに視線を向ける余裕もなかった。

 なんだ、この激痛は。ブスタンで敵の矢が胸を貫いた時でさえ、これほどの痛みはなかった。あまりにひどい痛みで、何も考えられない。嫌な汗が出てくる。


 ……いったいどうなっているんだろう。俺が斬りつけてもすり抜けるのに、あちらがこちらを傷つけることはできる。そんな理不尽なことがあるなんて……


 それだけ。

 思考を埋め尽くすのは、ひたすらに苦痛と疑問ばかりだった。


「おい、しっかりしろ!」


 盾も戦斧も放り出したムフタルが、俺を助け起こす。目の前には相変わらず黒い影があるが、その形は少しひしゃげていた。それに、また距離が空いている。俺が後ろに飛び退いたのと同時に、こいつも後ろに下がったらしい。

 とにかくそれが脅威と悟ったムフタルは、躊躇しなかった。俺を拾い上げると、全力で反対方向に向かって走り出した。


「逃げるぞ! 逃げろ! 逃げろっ!」


 彼が走り出すと、影も本気を出したのか、凄まじいスピードで迫ってきた。しかし、形が一定しない。俺と対面した時にはほぼきれいな円形をしていたのに、今、ムフタルに抱えられて逃げている俺に見えるのは、最初に発見したときと同じ、途切れ途切れのスライムみたいな姿だ。


「く、くそっ!」


 距離がすぐさま詰められてきたのに焦ったムフタルは、背後を振り返った。その瞬間、浮遊感をおぼえた。


「うおっ!?」


 あまりに慌てたせいか。

 彼はすぐ足下にあった大穴、抉れた岩の狭間に足を踏み外した。


 呻き声をあげながら、俺とムフタルは穴の底で動きを止めた。俺の目に見えるのは、暗い穴の上の白み始めた空だった。四方の岩壁がやたらと黒い。誰かの手助けがあればともかく、俺を抱えたまま、すぐに這い上がれる高さではない。

 これであの影が迫ってきたら、もう逃げきれない。


 ……と思っていたのだが、追撃はなかった。


 逃れようもなく死ぬしかない状況だった。そうとしか考えられない場面だったのに、あの影は俺にトドメを刺しにこなかった。

 そのことに、俺はもちろん、ムフタルも呆然としていた。やがて俺達の頭上に影が差したが、それは仲間達の姿だった。


「おー、いてぇ」


 ムフタルが暢気に苦痛を訴える。

 穴の周囲に立ったディノンやラークが、ロープを垂らした。それでまず、彼は俺の脇にロープを潜らせて、先に引き上げさせた。その間も、駆け戻ってきたタウルが周囲を油断なく見張っている。だが、あの黒い影はもう、どこに見当たらなかった。


「あれはいったい、何だったんだ」


 フィラックは呆然としながらそう呟くが、誰にも答えることはできなかった。

 続いてムフタルが引き上げられた。さっきの場所に放り出した斧と盾をジルが回収してきたが、彼はそれを受け取ることができなかった。


「いい。俺は無傷だ。それよりこいつを運ばねぇと」


 情けないことに、俺はいまだに激痛に悩まされていた。これほどの痛みは、過去に体験した拷問と比べても、何倍にもなる。気が狂いそうだった。

 ラークが提案した。


「このままでは、下手に動くのはよしたほうがいいな。どこかに身を潜めたほうが」

「わかった。大きな岩場の陰を探す」


 タウルが頷く。


 まさか、今日中にバタンを攻め落とすつもりが、いの一番に足手纏いになってしまうなんて。

 俺は歯噛みするしかなかった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >これほどの痛みは、過去に体験した拷問と比べても、何倍にもなる。気が狂いそうだった。 魔導治癒が悪い方に働いたのかな? [一言] ファルスを追い詰めたのは明らかに異常なナニカだったと…
[気になる点] 激痛…身体or精神操作魔術的なやつかな [一言] 不気味すぎる…でも色なき色の破壊者って言われてハッとしたわ
[一言] ファルスと同時に影も後ずさったところを見るに、あちらもファルス、というよりその剣を脅威に思ったのか。 やはり、ついにヨルギスの言う「色なき色の破壊者」、リザードマンの王レヴィトアが信仰した…
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