同胞にして仇敵
砂塵で視界を霞ませる暴風も、この場所にまでは届かない。とある岩山の一角、まるで迷路の奥の小部屋のようなところに、俺達は腰を落ち着けていた。
いいところを見つけたものだ。岩山の狭間から南方の地平を見渡せる。といっても辺りはいまだ暗い。バタンの城市の輪郭にしても、目を凝らしてやっとうっすらとしか見えない。それでも、ネッキャメルの陣営がおかれていた場所が赤く炎上しているのはわかる。東の空に目を向けると、地平線に白い帯のようなものが見える。吹き荒れる砂嵐に遮られてはいるが、あれは夜明けの光だ。
今の俺達に必要なものは、状況の把握だ。少しだけ休みを取り、夜が明けて視界がもう少し明瞭になったら、やるべきことを決める。ティズや他のネッキャメルの頭領達は生存しているのか。ニザーンの兵はどこへ消えたのか。右翼を構成していた同盟軍はどうなったのか。健全な状態を保っている味方がいればそこに合流し、さもなければ撤退に切り替える。或いは俺だけが居残るという手もある。味方がゼロなら、誰かを巻き込む心配をせずに魔眼の力を思う存分利用できるからだ。
「周りを見てくる」
白い眼球をぐるりとさせながら、タウルが言った。
「フィラック、ディノン、見張りを頼む」
呼ばれて二人は彼に続いて小部屋の外に出た。この岩の狭間の前には、一本の狭い通路がある。その片側は俺達がさっき、這い上がってきたルートだ。そしてタウルはその反対側の道を調べに行こうとしている。だから、もと来た方の道をディノンに任せ、新しい道の探索の途中で適当なポイントを見つけたら、そこにフィラックを監視要員として配置するつもりなのだろう。
一方、残されたムフタルは、気怠げにしゃがみ込んでいた。休めるうちに休むのも仕事のうちか。
背後でのやり取りをぼんやりと見つめていたジルとラークだったが、すぐまた前方へと視線を向けた。相変わらず、赤の血盟の陣地は炎上を続けていた。とはいえ、その火も燃やすものがなければ続かない。だんだんと赤い光は小さく縮まってきていた。
「なんということだ」
ラークが嘆息した。
「たった一夜の出来事で、どれほどの同胞が命を落としたことか」
夜襲に対する備えはあった。フィアナコンからバタンまで、決して急がず進軍した。兵士達は出発までたっぷり休養をとっていたので疲労もそこまでではなかった。いかに敵に走竜があろうとも、普通はここまで悲惨な結果にはなりようがなかった。
「賢者の魔法がこれほどのものとは」
「いや、確信はない、のですが」
陣営から脱出するときに思わず口走ってしまったが、別に根拠はない。
「風魔術については一応、上級の魔法までは見せてもらったことがありますが……こんな嵐を引き起こせるものとは。土魔術にしても、地震を起こすなんて、桁違いです。なんというか、火の賢者と比べると、実力が段違いに大きいというか」
「だが、現に地震が起きたし、雷にも打たれた」
「ええ」
こんなことをやすやすとこなせそうな知り合いは、使徒くらいだろうか。だが、奴が今になって黒の鉄鎖に味方する理由が思いつかない。俺が巻き込まれて死んだら元も子もない。いや、俺が役立たずなら死んでも構わないのだろうが、だとしてもこんな雑なやり方は選ばないと思う。
「ああ、こんな悲惨なことになろうとは」
「自業自得だ」
ジルがチクリと言った。
「なに?」
「意味のない戦いだと言ったのだ。馬鹿馬鹿しい」
表向きには氷のような無表情、だが内心には炎を宿した彼女は、胸の奥から焼け残った炭のような思いを吐き出した。
「馬鹿馬鹿しいとはなんだ」
「無意味だろう? 奪われたフィアナコンも取り返した。敵も打ち負かした。ハリジョンを囲んでいた敵も逃げ去った。だったら戦を終わらせればよかったものを」
確かに、版図だけみるなら、戦前の状態に復帰していた。双方に多数の犠牲者は出たが。
「だからといって無意味ではない! それまで犠牲になった同胞の仇を討たず、どうして引き下がれようか」
「そうやってまた、その仇討ちのために大勢の同胞とやらが死んでいくんだろう。別に今夜のことがなくともな」
ジルの言うことは正しい。戦争となれば、たとえ勝ち戦であろうとも、味方にも少なからず死者が出るものだ。
しかし、サハリア人の肉体を持ちつつも、その生育歴ゆえに精神性を受け継いでいない彼女には、ラーク達の価値観などわかりようもない。彼女の正論に、ラークは憤激した。
「それでも勝ち取らねばならないものがある」
「それはなんだ? 具体的に言ってみろ。バタンを攻め落としたら何をする? 略奪か? 強姦か? 要するに、それが楽しくてやめられないんだろう。身内が死んでも」
「貴様」
この言い草に、ラークは完全に激昂してしまった。
「ジル。言い過ぎだ。ラークに謝って」
「いや」
かろうじて自らの感情を抑制したラークだったが、その声色は爆発寸前の火山が静かに揺れるさまを思わせた。
「そこまで言うのなら、今度こそ説明してもらう。ジル、お前は何しにこの戦争についてきた。無意味なんだろう? 同胞でもない、金のためでもない……じゃあ、我らネッキャメルを侮辱するためか。もうごまかしは許さん」
「ラークさん」
だが、彼は俺の声など耳に入らないようだった。俺は助けを求めるような思いでムフタルの方を見やったが、彼は欠伸一つでまた背中を丸めるばかりだった。
「意味、だな」
「なに?」
「何か意味が見つかるかもしれないと思った。だが、そんなものはなかった」
「訳が分からん。わかるように言え」
遠い地平を眺めていた彼女は振り返り、そして言った。
「父が、命を擲ってまで救う値打ちのある連中だったのか、それを見極めたかったと言ったのだ」
「父?」
「ジル!」
俺は止めようとしたが、彼女はついに言ってしまった。
「頭領ミルークが私の父だ」
この告白に、ラークは目を見開いた。
ではジルもまた同胞だ。いや、しかし、彼女は自分で同胞ではないと主張している。というか、ミルークに娘がいたなんて初耳だ。
「ま、待て。ではなぜ、同胞ではないと」
「同胞ではない。私はお前らネッキャメルの仇敵だ」
「何を言っている? ミルーク様の娘なら、同胞に決まっていよう」
「私の母は、ウォー家の娘だ」
言ってしまった。
こうなってしまっては、もう……だが、もしラークがジルを殺そうとしたら、それは食い止めよう。
「はっ? ウォー? なんだ、それは」
「トーキアへの報復攻撃のことを知らんのか? まぁ、私もお前も、子供だった頃の話だからな」
具体的に場所を示されて、やっとラークはうっすらと理解し始めた。
「じゃ、じゃあお前は……でも、ミルーク? 父親?」
「八歳になって、はじめて父の姿を見た。生まれて初めて見た父が、目の前で母を殺すところを」
ラークの価値観では、およそ理解の及ばない話だ。何を言っているのか、論理は繋がっても、感情が咀嚼してくれない。
「で、では、ミルーク様は、お前の母を汚したのか」
「ウォー家に言わせれば、たぶらかされて傷物にされたという話になるが、ミルークを選んだのは私の母、ベレーザ自身だ。望んで身を捧げた。後から聞かされた限りでは、愛し合っていたそうだ」
彼はもはや、口をパクパクさせるばかりだった。
「それでお前の言う同胞とやらは、何を意味しているんだ? 血縁があることか? なら私は何者だ? ネッキャメルの同胞か、それとも仇敵のウォー家の娘か」
「そ、れ、は」
「構わんぞ。敵だというのなら、この場で殺してみろ。そのほうがわかりやすくてサッパリする」
硬直したまま、何も言えなくなっているラークに向かって、ジルは溜息をついた。
「ふん、やっぱりそんなものか」
「な、に」
「お前の言う同胞とか、身内とやらへの愛、絆など、所詮はただの偽善だということだ」
「そんなことは」
反射的に異論を差し挟もうとすると、ジルは凄まじい笑みを浮かべた。
「そんなことは? そんなことは? はっ! じゃあ、私をどうする。三十年前の遺恨を招いたあのウォー家の娘だぞ。ネッキャメルのために殺したらどうなんだ」
「し、しかし、それは」
「やらないのか。じゃあお前は何のために戦っている。バタンを攻め落としたら、セミンの連中を皆殺しにするんだろう。奴らを殺して、私を殺さない理由があるか」
だが、ラークに答えられるはずがない。彼はこれまで、白黒はっきり区別のつく世界で生きてきた。同胞と、それ以外。同胞を守るのはいいこと、その同胞を傷つける敵を殺すのもいいこと。同胞と敵が混在する状況など、想定したことがなかった。
「だから、わかった」
「何がだ」
「やはり意味などなかった。父がどうして命懸けで戦争を回避しようとしたのか、何のためにサハリアに戻り、ネッキャメルのために働くことにしたのか。仕方なくそうしただけで、何かそこまでするだけの尊いものがあったわけではなかったんだ」
「そ、そんな、そんなはずは」
しどろもどろになるラークをねめつけるようにして、彼女は言い放った。
「幸せな奴だ」
「しっ、幸せ?」
「ずっと幻想に包まれて今まで生きてこられた。お前は運がよかった。それだけ。それだけだ」
言い切られて、ついにラークは言葉を失い、棒立ちになった。
敵の憎悪なら理解もできる。自分達は敵を憎み、敵もまた敵にとっての同胞を守り、こちらを憎むのだ。ただ、ラークの視界では、その部分がグレーアウトされている。その部分はそういうものとして決まっており、変更も再定義も受け付けない。敵は敵、それ以上考える必要などない。
論理としては理解できても、感情として深入りするのは避けてきた部分だ。自分に同胞がいるように、他の氏族にも同胞がいて、深い愛情がある。同じ人間である。そういう意識を持ってしまうと、自分が敵と相対することの正当性がぼやけてしまう。
まさしく、ジルの言う通り、ラークは幸せな幻想の世界に生きてきたのだ。あるがままを直視せず、与えられた視界の中だけで暮らせばよかった。
「ふあぁ」
俺達の背中で、ムフタルがわざとらしく欠伸をした。
「若ぇっていいな。お前ら体力有り余ってんだろ。俺ぁトシだからよ。んな痴話喧嘩する余裕ねぇんだわ。うるっせぇたらねぇ」
まさしく彼の指摘こそ正論、か。
俺は岩の狭間から、改めて外を確認した。
「東の空が白んできた」
ムフタルは立ち上がると、俺の横まで近づいてきた。
「もうちょいしたら、出発すんのも手かねぇ」
「ここに篭ってやり過ごすというのは」
「どうだかな。もし赤の血盟が完全に負けちまったんだとしたら、この辺まで敗残兵を狩りにくるぜ」
「確かに」
現実的な話をしておくべきだ。俺は彼に意見を求めた。
「どうするのがいいと思う?」
「ネッキャメルでもフィアンでもいい。いや、フィアンはどうだかな……とにかく、どこか纏まって動いてる連中をまずは見つけるこったな。ただ……」
「ただ?」
ムフタルは首を振り、肩をすくめて厳しい現状分析を口にした。
「下を見た限りじゃ、陣地の食料はあらかた焼かれちまったし、それでもま、みんなてめぇの分の飯を一日分くらいは持ってるもんだが、フィアナコンまで撤退するなら三日はかかるぜ? 急いでも二日だ。どんだけ生き延びられるかね?」
暑さの厳しい砂漠を、全力で逃げる撤退戦だ。仮にそうした状況になったとしたら、かなりの数の兵士が犠牲になることだろう。
「ニザーンの連中も消えてやがったし、そうなるとあとは、フィアンやその他の連中の右翼だな。あっちがどんだけ無事かで決まっちまう」
「なら、目的地は決まった」
ハーダーン率いるフィアン氏族を中心とした右翼の陣営がどれだけまともな状態で残っているか。しかし、彼らはいつ寝返っても不思議はない。妻子がフィアナコンに囚われているから、やむなく従軍しているに過ぎないためだ。
それでも今は、彼ら味方を信じる以外にない。
「タウル達が戻ってきたら、ここを出よう。ここで袋のネズミになっても、何の役にも立たない」
過去より、未来より、今だ。
今を生き延びるためには、行動するしかないのだから。




