地震雷火事……
光も差さない真っ暗闇に、小さな違和感が火花のように散る。
いろんなイメージが浮かんでは消えていく。抱かれて揺さぶられる赤ん坊、揺れる夜の船、肩を掴まれて引き起こされる……
いや。
今、俺の体には誰の手も触れていない。
そこに思考が至った瞬間、反射的に目が覚めた。
揺れている?
慌てて横を向いた。ラークも目覚めかけているらしい。
「起きろ! 地震だ!」
「んっ? えっ? な、なに?」
立ち上がろうとして、揺れが思った以上に大きいと気付いた。テントの支柱の黒い影が左右に撓んでいる。四つん這いでいるのが精いっぱいだ。
それにしても、真夜中とはいえ、あまりに暗すぎやしないか?
そこでまた気付いた。何か物音がする。這いずりながらテントの出口を覆う幕を開けて……慌てて閉じた。
「プッ!?」
思わず目を閉じた。口の中に入った砂を反射的に吐き出す。いきなりの砂嵐だ。暴風が砂粒を巻き上げて、俺の顔に一発浴びせてきたのだ。
「ど、どうした、ファルス、これは」
「地震と、暴風」
と答えかけたところで、一際大きな揺れがきた。舌を噛みそうになって、慌てて口を閉じる。
支柱がへし折れる音がして、俺も床に叩きつけられた。離れた場所から、地割れのような音が響いてきた。混乱する馬達の悲鳴も風に乗って微かに聞こえる。
地震大国日本からやってきた俺にして、これほどの大地震は経験がない。もしかしてサハリアは地震多発地帯とか?
よりによって今日の夜とは、赤の血盟も運がない……いや? では、黒の鉄鎖はどうなる? 断崖絶壁の上の街に暮らしているのに、無事なわけが……
おかしい。
じゃあ、バタンとサグィと繋ぐあの陸橋はなんだ。何百年も前の建造物が、どうして崩れずに今も使われている? 補修はしているのだろうが、こんな地震が繰り返し起きるような場所なら、現在まで維持されていることの説明がつかない。部分的な破損ならともかく、全体が壊れたら放棄されるだろう。ここに至るまでのあの奇岩群だって、とっくに瓦礫に代わっているはず。
そんな違和感が頭の中を突き抜けていった次の瞬間、今度は別の轟音が耳をつんざいた。
「うわっ!?」
ラークが思わず叫んだのも無理はない。年中晴天のサハリアで、なんと落雷だ。それも近い。このすぐ近くに雷雲が迫ってきている? 海に近いとはいえ、いくらなんでも急すぎないか?
雷は、断続的に何度も近くに落ちた。遠くから絶叫が聞こえる。
「なんてことだ……」
これでは赤の血盟は戦うどころではない。黒の鉄鎖がこの天災でどれだけの被害を被るかによるが、あちらにとっては天祐だったのではないか。
だが、その思考もまた、すぐに打ち切られた。
「……襲ー、てき……」
遠くから微かに聞こえた誰かの叫び。
この悪天候の中、敵が夜襲を?
「立て! ラーク! 逃げるぞ!」
「な、なにを」
「敵襲と聞こえた」
そう言われて、彼は跳ね起きた。小さなリュックと腰の曲刀以外に荷物などない。
もうグズグズしている時間はない。俺はテントから出て、叫んだ。
「みんな! 起きろ! 敵だ!」
既に最初の地震と、続く落雷で、誰もが目を覚ましていたらしい。他三つのテントから、全員が顔を出した。
まさかとは思うが、そのまさかとしか考えられない。
突然の地震。不自然な落雷。そして敵襲。これが偶然なはずがない。今は揺れも収まって、落雷も止んでいる。タイミングが良すぎる。
「敵だって?」
「多分、賢者だ」
そうとしか考えられない。ただ、まだ辻褄が合わない。地割れを起こすほどの大地震、この強烈な暴風、それに続けざまに落雷を引き起こすなんて。俺がフィアナコンで片付けた火の賢者とその手下どもでは、これほどの威力の魔法を使いこなすなど、できっこない。それとも、未だ見ぬ二人の賢者は、俺の想定を遥かに超える実力者なのか。
だが、結論を待つ余裕はない。
「いったん隠れよう」
「待て、ファルス、ティズ様が」
「くっ……じゃあ、ムフタル、ジルとここを離れてどこかに」
「慌てんなボウズ。この嵐だ。バラケたら落ち合うのは簡単じゃねぇ。纏まって頭領どもを回収するぞ」
彼の言うことももっともだ。
「わかった。先頭を行くから、周囲の警戒は頼む」
暴風も今は弱まりつつある。これが敵の魔術ならばだが、身動きできないほどの風では、自軍の兵士の動きすら制約してしまう。
「ラーク、方向は」
「なんとかわかる。こっちだ」
身を乗り出して、ラークは通路に飛び出した。その後を俺達も追う。
ネッキャメルの陣営は、見るも無残な有様だった。至る所で天幕が踏み潰されたシュウマイみたいになっている。突然の嵐に恐慌をきたした馬が綱を切られたのか、あちこちで散り散りになって走り去っていく。渦巻く風は砂を巻き上げ、視界はいまだ濁っている。遠くに火の手が見えた。
「あっちだ!」
燃えている方角をラークは指差した。
そちらに向かって駆け出そうとした瞬間、後ろから聞き慣れない叫び声があがった。
「伏せろ!」
誰だ? と思いながらも、俺は慌てて突っ伏した。その頭上を突風のようなものが突き抜けていく。
思考が追いついた。初めて聞いた声。タウルだ。彼が右手から迫ってきていた敵に気付いて、警告してくれた。その敵は今、短槍を俺に向かって投擲したのだ。
気付いてしまえばなんてことない。一気に片付けて先に進むだけだ。素早く剣を抜き放ち、朧な影に向き直る。だが、それは見たこともない形をしていた。
まず目についたのが先端の黄土色だった。そこに湾曲した黒光りする爪が四つ。その足先から少し上は、鮮やかな黄色だった。それが胴体の半ばまでくると黄緑色に変わる。どこも隙間なく鱗に覆われていた。その前足が、すっと上げられる。足の裏には黒い円形の何かが見えた。馬の蹄か、それとも犬や猫の肉球のようなものか。
亀を連想させる体つきだった。肩幅は広く、首だけが前へと突き出されている。黄色い鱗の先端にあるのは、形の悪いアーモンドみたいな頭部だった。目を分厚い睫毛が守っている。
前足よりずっと太い後ろ足、その後ろには短めの尻尾がある。だが、翼はない。その代わり、丸っこい体の背中の部分に、大きな突起が二つある。それと背中にも途中から背骨に沿って鶏冠のような突起が連なっていた。
騎手は背中に跨るというより、首の根元に足をかけている格好だった。馬の鞍に相当するものはあるが、落下を防いでいるのは背中の突起だ。
これがセミンの誇る走竜か。
通常の四つ足での移動では、騎手の体の高さは馬とほぼ同じくらい。しかし、馬や駱駝と違って走竜は体を起こしたまま、二足歩行もできるらしい。そうなると、更に高い位置からの戦闘を展開することができる。しかも、鱗に覆われたその肉体は生まれつき頑強だ。
「俺がやる! あとは守りに徹しろ!」
敵の騎兵は、こちらに向いているのは二人だけ。すぐ片付ける。
先を進む走竜が二足歩行のまま、勢いよく跳躍する。一瞬、体が硬直するが、次の瞬間、真横に身を投げ出して避けた。まさかあんな跳躍力があるなんて。二足歩行の上にボディプレスまでこなせる乗り物なんて、他にない。
だが、あくまで動物は動物だ。
俺が起き上がると同時に、着地からすぐに姿勢を整えた走竜がこちらに向き直る。身構えて前足を持ち上げた時点で、俺はもう肉薄していた。
気合と共に袈裟斬りにすると、脆くも走竜は上半身だけを傾かせ、その場に崩れ落ちる。巻き添えで左足を切り落とされた騎手が投げ出される。すかさず駆け寄って喉を刺し貫いた。
仲間を助けるつもりだったのか、そこに猛烈な勢いでもう一人の戦士が突っ込んできた。
これを軽く避けると、タイミングを合わせて逆に乗り手に跳びかかった。左手で頭を掴み、無造作に剣を突き入れると、鞍上から突き落とす。そうして俺は、無理やり走竜の手綱を握り締めた。
「止まれ! 止まれ……えっ!?」
だが、走竜は首を回して俺を見て、恨みがましく睨みつけると、急に立ち上がって体を揺らし、俺を振り落とした。かと思うと、そのまま勢いよく遠くへと走り去っていってしまった。
「なんなんだ、あれは」
もしかすると、コツがあるのかもしれない。普通の馬みたいに奪い取れるようなものではなかったらしい。
それまで盾を構えて敵に備えていたムフタルが駆け寄ってくる。
「やるじゃねぇか。でけぇ口叩くだけある。けど、走竜を横取りしようたぁ、無茶しやがる」
「できないものなのか」
「なんだ? 知らねぇのか。ま、いい。後だ」
俺達は目を見合わせると、引き続きティズの天幕目指して駆けた。
「そんな」
ティズが身を置いていた大天幕は、激しく燃え盛っていた。折からの強風に煽られ、火の粉を周囲に撒き散らしている。
呆然としていたのは、ラークだけではなかった。フィラックやディノンも目を丸くしていた。
「ニザーンだ」
俺は振り返って言った。
「今、無事を確認してもしょうがない。援軍を呼ぶ方が先だ」
地震と落雷がどこまでの範囲に及んだのかはよくわからない。だが、少なくとも敵襲に関しては、ある程度の見当がつく。あちらも人数には限りがあるし、ましてやこの風、視界の悪い夜間を自由自在に動き回れるのは走竜部隊くらいなものだ。それが攻め手の最前線にまわされているのなら、後方のニザーンの陣営まで同じ状態とは考えにくい。
時間をかければ『消火』の魔法でこの大天幕の火災を鎮めることはできるだろうが、そんなことをするメリットは今、ない。ティズの死を確認すれば士気にとってマイナスになるだけだし、アラティサールも救援より撤退を選ぶかもしれない。ざっと見て動いているものが見当たらない以上、ここに生存者はいないだろう。
「グズグズしている暇はないぞ」
俺が踵を返すと、全員が無言でついてきた。
相変わらず止まない風のせいもあって、そこかしこに火がついているのに、視界は悪かった。ネッキャメルの陣営の敷地を出ると、まさしく墨をぶちまけたような暗闇になった。
「先に行く」
タウルが俺の前に出た。彼の黒い肌が暗がりに溶け込んでいく。
「こっちだ。声のする方に向かって歩け。道を逸れるな」
たちまち彼の姿は見えなくなったが、俺達は声を頼りに後を追った。
この暗さ、ピアシング・ハンドで暗視の神通力を取り出せば、と思わなくもなかったが、あれは一日に一度しか使えない。この異常事態だ。早々に切り札を使い切ることには躊躇がある。
「気をつけろ。岩の柱がある。反対側には大穴が開いている」
あれほど無口だったタウルが、ハキハキと指示を飛ばす。必要なこととなれば、明確に話すことができる。頼もしいことだ。
「どうしてわかる」
「来るときに見て、覚えた」
なるほど、これが斥候というものか。
「無理に急ぐな。敵は近くにいない」
確かに、足を滑らせて穴に転落したりすれば、負傷する危険もある。そうでなくても、結構なタイムロスだ。
「だったら松明をつけてもいいか?」
「やめてくれ」
フィラックの問いに、タウルは拒絶で応えた。
「やめたほうがいいです。遠くからでも灯りはよく見えますから。走竜に追われて取り囲まれたら、余計に厄介なことになります」
ディノンが引き取った。
それにしても、陣営を離れて結構な距離を移動した。バタンは北から西にかけて、障害物になるような奇岩群に囲まれている。ネッキャメルはそこから前進してバタンの北の下り坂の正面に陣取ったが、ニザーンはその後方、それこそ岩山のすぐ近くに待機しているはずだ。足場が悪くなってきたこの辺で、そろそろ彼らの陣地に辿り着いていてもいいような気がするが。
「変だ」
「どうした、タウル」
「人の気配がしない」
立ち止まった彼の傍に、俺達は駆け寄った。足下はもう平坦だ。ということは、そろそろニザーンの陣地が近い。
「あっちだ」
タウルが駆けだす。俺達もついていった。
少しして、ぼんやりと陣営の外側を構成する柵が見えてきた。そこを超えて中に立ち入ると、耳が痛くなるような静寂が広がっていた。
ここには風も吹いていない。地震の影響はあったらしく、いくつかの天幕は横倒しになっている。それでもネッキャメルの陣営ほど致命的な影響はなかった。ここは揺れの中心ではなかったのだろう。
だが、誰もいない。
「逃げた……?」
俺は信じられない思いで呆然としつつ、呟いた。
少なくともざっと四千ほどはいた、赤の血盟の主戦力だ。それが地震一つで撤退? 算を乱して逃げ去ったなんて。どんな弱兵なんだ。
いや、いや。他の誰か、どこかの救援に……しかし、それでも陣地をまるっきり空っぽにするなんてありえないから……
「おい、ファルス」
肩に手が置かれる。ムフタルだった。
「ボサッとしてる場合じゃねぇ。こいつはやべぇよ。とにかく、夜が明けるまではどっかに隠れねぇとよ」
「そう、だ、な」
とりあえずジルだけでも、安全な場所に匿う必要がある。夜が明けて、視界を確保できるようになってからでも、反撃は遅くない。大丈夫、ネッキャメルが敗れても、ニザーンが逃げ去っても、俺一人でも戦える。切り札はある。うまく噛み合えば、一人でバタンを廃墟にだってできる。いっそ一人なら、あの魔眼だって遠慮なく使える。
「北に行く」
タウルが短く言った。
「北側の岩山に身を隠す。体を休めて、あとはそれからだ」




