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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十章 血墨戦役
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それは些細なこと

 砂埃が舞い上がる。昇ったばかりの朝日が目立たない地表の小石にスポットライトを当てる。だが、慌ただしく立ち働く兵士達は目もくれず、それを踏みしだいて先を急ぐ。

 幕屋の前に戻ってきたティズは、静かに作業の様子を見守っていた。感情を読み取らせない、それでいて威厳を感じさせる表情だ。ざっと見て問題なさそうと判断したらしく、彼は一度頷くと、自分の幕屋の方に振り返った。俺は先に立って幕屋の入口を掻き分け、中に誰もいないことを確認する。そこをティズが続いて潜った。


 幕屋の中に入っても、外の物音は聞こえてくる。誰かが木の杭を地面に打ち付けているのだろう。断続的にコーン、コーンと甲高い音が響いてくる。

 背凭れのある椅子に身を落ち着け、一度大きく溜息をつくと、ティズはやっとそこで表情を緩めた。


「順調なようだ」

「まさかこんなに集まってくるとは思いませんでした」

「大半の人間は風見鶏だ。そんなものだよ」


 ティズ自身、まさか三千そこらの手勢でフィアナコンを落とせると思っていたのではない。まずは野戦で勝利し、水場に腰を据えて敵と対峙する。そうこうするうち、同胞達が駆けつけてくるから、戦力を増強した上で決戦に臨む。そういうつもりだった。

 それが俺の手によってあっさり街が陥落すると、話が違ってきてしまった。それまでのティズに対する評価は、弱腰なリーダー、戦争経験のない頼りない族長、血筋からして正統性の怪しい三男坊、そんなものだった。しかし、一瞬で堅牢な城塞都市を攻め落としたという実績は、そのようなマイナスのイメージを払拭した。


 アーズン城には最低限の戦力を残してある他、ハリジョンにもそれなりの兵力が集中している状態だが、それでもここ、ミルーコンに集結する戦力は、そろそろ一万人に達しつつある。うち、半数はネッキャメル氏族の兵だ。

 だが、そこに更なる戦力が合流する。


「宿営地の設営を間に合わせねば。今日あたり、到着するはずだからね」

「心配になってきますが」

「うむ」


 頷くと、彼は表情を曇らせた。


 めでたいはずの勝報なのに、その知らせに喜んだ者は一人もいなかった。

 間もなくニザーンの大軍がここに到着する。何もかもが終わってから、ようやくだ。しかし、ひと悶着ありそうなのは、誰の目にも明らかだった。


 昼頃、地平線の彼方に砂塵が巻き上がるのが見えた。一応形ばかり、ファフルとその手勢が武器を手に立ち上がるが、これは予期された到来だ。程なく旗印を見分けると、彼らは緊張を解いた。だが、本陣の天幕の前に戻ってきたファフルの表情からは、不機嫌がありありと見て取れた。

 周囲を見渡せば、誰の顔もパッとしない。杖を突き、痛々しく包帯を巻きつけたままのタッサルブや、依然として身の置き所のないハーダーンはともかくとしても、タジュニドもラークも、それからつい先日到着したばかりのシジャブまで、みんな一様にムスッとしたままだ。


 だんだんと集団の姿が大きくなり、姿がはっきり見えるようになってきた。

 右手には下が白、上が赤の同盟旗。左手には上が白、下が黒の一族の旗。左右と後ろに騎兵を従えた壮年の男が、本陣めがけてまっすぐ駆けてくる。ティズ達は幕屋の前に居並んで、集団の到着を待ち受けた。やがて歩調を緩めた彼らは、しかし、騎乗したまま陣営の中央の通路を進んできた。

 右手に立つラークの纏う空気が変わった。いや、ファフルはもちろん、シジャブもタジュニドも、みんな顔色を変えている。


 立ったまま相手を待ち受けるティズに対して、ニザーンの族長は騎乗したまま、それこそ馬の鼻先がティズの顔に触れそうなところにまで近づいたのだ。この無礼ゆえに、彼らはいきり立った。

 作法には、大抵根拠がある。お辞儀にせよ、握手にせよ、乾杯にせよ、それは相手に対して害意のないことを示すための仕草だ。騎乗したままというのは、戦闘において有利な状態であるがゆえに、つまりこの場合、ティズが一方的に危険にさらされるという関係性であり、その意味で出迎えてくれた相手を自分より目下の存在とみなすという意思表示になる。相手に対する敬意を示すなら、少し手前で馬上から降りるべきところだ。


「待ちわびておりました」


 しかし、ティズはあえて笑顔を浮かべたまま、穏やかな声色で相手を出迎えた。


「露払い、ご苦労だった」


 いちいち振り向かずとも、隣に立つラークの憤激が炎の柱のように立ち昇るのがわかる。

 ブスタンに始まり、アーズン城、そしてこのフィアナコンまで、ネッキャメルはほぼ独力で奪還した。もちろん、ジャニブをはじめ、小規模ながらともに戦った集団はいるが。それをなんだ。盟主とはいえ、一度も戦場に立たなかった男が「露払い」などと言い放ったのだ。しかも馬上から。

 しかし、ティズはなおも笑みを深くした。


「些細なことですよ」


 だが、俺はそこで察した。

 これはティズなりの駆け引きなのだと。


「ふん」


 ニザーンの族長……アラティサールは、そこでやっと馬から飛び降りた。

 日焼けした肌、大きな鷲鼻、細い目、そして大柄で堂々とした体つき。だが、そこにすがすがしさはない。そこまで姿勢が悪いのでもないのだが、どうにも下から人をねめつけるような雰囲気があった。


「これまでは任せきりだったが、もう心配はいらぬ」

「はて、心配とは」


 アラティサールの後ろから、ニザーンの兵が駆け寄り、藍色の長衣を着せた。すると彼は、さっと手で指し示した。


「捕らえよ」


 数人の兵士が慌ただしく迫ると、横に並んだ中にいたハーダーンを取り押さえ、通路の真ん中に引きずり出し、上から押し潰して跪かせた。

 そこに赤い長衣が舞う。それはハーダーンの肩から背中を覆った。


「何事ですかな」

「知れたことよ。血の誓いを破った愚か者には、血で償わせる」

「償いは既に済んでおりますが」


 ティズの長衣はティズ本人と変わらない。もしこれを無視してハーダーンを斬れば、それはティズを斬ったのと同じ。


「世迷いごとを」

「誓いに背いたアールンは、まさに罪を犯した場所において裁かれていますのでな」

「ティズよ、お前が裁いたというのか」


 お前が、のところに力が込められている。


「いや、フィアンの者達が自ら。何があったかは、使者に言い含めてお伝えしたはずですが」


 嘘ではない。形ばかりだが。


「フィアナコンに新たな名前を付けたそうだが」

「他意はありません。兄ミルークは和平を望んでおりました。無駄な流血を避けようとの願いを形にしただけのことです」

「なにを」


 アラティサールは歯噛みした。

 彼にはどう見えているだろう? 要するにティズは、自分達がグズグズしている間に、フィアナコンを独り占めしたのだ。

 しかし、俺には違った景色が見える。もしティズがフィアンの者達にアールンを裁かせていなければ。フィアナコンを私物化していなければ。その場合、改めてアラティサールが罰を下していたに違いない。盟主の性格を知り抜いていたがゆえに、彼はすべてを自分の懐に入れた。ティズの権利の及ぶものとなれば、勝手に略奪するわけにもいかない。


「恥とは思わんか」


 手を広げ、肩の力を抜いて、アラティサールはわざとらしく微笑んでみせた。


「お前が勝利を得たのは、お前だけの力ではあるまい。ともに血を流して戦った他の一族に属する者達をないがしろにする振舞いだとは思わなかったのか」

「無論、フィアナコンを攻め落としたのは、このわしの手柄ではないと弁えておりますよ」

「なに」

「こちら」


 彼の視線が俺に向けられる。


「かのアネロス・ククバンが一子、プノス。彼が少数を率いて城郭を占拠してアールンを捕らえました」

「なんだと?」


 俺の姿を目にして眉を吊り上げた彼だったが、すぐにティズに向き直ると、鼻で笑った。


「しばらく見ないうちに、冗談を覚えたのか」

「証人がおりますよ」

「ほう、誰が見た」


 膝をついたままのハーダーンが言った。


「ネッキャメルの頭領ラークと、この私が」


 この返答に、彼は一瞬、笑みを消した。


「では、フィアナコンは今やククバンのものか」

「若輩の身ゆえ」


 俺は進み出て口をきいた。


「当面のところ、全軍を率いるティズ様に任せるのが適当と考えました」

「なんたる独断よ」

「独断ではない」


 思いもよらない方向から、横槍が入った。

 おぼつかない足取りで杖をつきながら割って入ったのはタッサルブだった。


「先の戦、敵を打ち破ったのはプノス一人ではない。敵陣を突き抜いた一番槍は我らジャニブよ」


 ターバンのすぐ下から包帯がはみ出した痛々しい姿だ。さすがにアラティサールといえども、言葉に詰まる。


「ジャニブを代表してこのわしが、ティズ殿に任せるべしと認めた。異論があれば述べよ」

「いや」


 面子の貸し借り、か。

 俺は手柄を主張せず、何も受け取らなかった。最初に突撃する栄誉をタッサルブに譲り、勝利の後もジャニブの勇猛あればこそと、あえてそういう形をとった。一人の砂漠の戦士としては、そのような情けは屈辱でもあろうが、タッサルブは族長として、不快な気持ちは飲み下した。ジャニブは勝利に貢献したという事実のが重い。無駄死にではなく、必要な犠牲を払ったのだ。

 そうした経緯と腹積もりがあればこそ、今、こうして俺やティズに味方してくれるのだ。もちろん、ティズもフィアンから奪い取った賠償金のうち、かなりの額を協力してくれた他の氏族に差し出したに違いないが。


「ただ、我々が来たからには、フィアンの処遇も改めて検討し直すべきであろうな」

「既にフィアンの男達は南門の近くに幕屋を張り、出陣を待ちわびておりますよ」

「ほう?」


 皮肉げに鼻で笑ってみせると、アラティサールは大袈裟に手を広げて訴えた。


「いつ寝返るともわからない連中を、まだ引っ張り出して戦うつもりか」

「妻子が街の中に居残っていれば、愚かな真似はせんでしょうとも」

「ふん、まぁいい」


 アラティサールは、横柄な口調で命じた。


「道を空けよ。遠方より参ったのだ。兵士達を街の中で休息させる」

「幕屋は既に用意してありますぞ」

「それでは兵士達の疲れも取れんし、鬱憤も晴れん」


 腕組みし、ティズを斜めに見下ろしながら、彼は主張した。


「我々とて一戦交えた上でここまで来ているのだ。ハリジョンを救ったのは誰だと思っている」

「無論、我が一族の船乗り達でしょうな」


 ティズは涼しい顔で言い切った。


「アルハールの大艦隊を独力で押し返すとは、いやはや、わしにも思いもよらない大戦果でした」

「ぬっ」

「あとは、海上からの支援を得られず立ち往生していた敵軍を牽制しながら、反撃の時を待っていたようで……ちょうどよく通りかかってくださったそうで、それはもう感謝しております」


 半分は嘘だが、半分は事実だ。

 アルハールの艦隊を消し去ったのは俺だ。ただ、こうなると逆に、ハリジョンの面前に布陣した敵は、攻めるに攻められず、かといって追撃が怖いので、退却もできない。要するに、ほったらかしでいい状況になっていた。

 ところが、そんなどうでもいい場所に、ニザーンのほぼ全軍が押し寄せた。陸上戦力五千人、海上戦力二千五百ほど。これに対するに、海上には味方の艦船の一つもなく、陸上にいるのは二千人ほど。数倍の敵に取り囲まれて、セミンとアルハールの連合軍は、ろくに干戈も交えずほうほうの体で逃げ帰ったらしい。


 そしてこれが、ネッキャメルの頭領達の怒りの理由だ。

 アラティサールは、仮に俺の存在がなくても、すぐには陥落しないだろうハリジョンを優先して、今すぐの支援を必要としていたブスタンやアーズン城を後回しにした。優先順位もわからないほど間抜けだった? そうではないことくらい、みんな知っている。

 基本、利権というものは、取ったもの勝ちだ。もちろん平時に仲間内で争うのは論外だが、今回のような動乱の時期、それも正当な理由のある戦いによって得た権利は、勝者がそのまま受け取るのが常識とされている。この場合、ティズがフィアナコンを落としたのだから、この街はティズのものだ。

 では、仮にブスタンが敵の手に渡ったとしたらどうだろう? それを奪い返したのがニザーンだったら? ネッキャメル側はかなりの譲歩を強いられる。守られる側は、守ってくれた側を親分扱いしなくてはならない。

 みんな疑っている。赤の血盟の危機に、身内から利権をかすめ取ることを目的としていたのではないか。東方からジャリマコンを脅かす敵を討てば、あとは南から切り返してブスタンを叩けば済む。ハリジョンとアーズン城を抜けない限り、相手は後方を衝かれるリスクが残る。いい感じでネッキャメルを盾に使いつつ、ニザーンの利益を大きくできる。


「ふん、まぁいい。とにかくバタンをどう攻め落とすかだな」

「ええ。それ以外は些細なことですよ」


 些細なこと、という言い回しに、アラティサールは一瞬だけ、不機嫌を顔に出した。


「兵達を休ませる。夕刻には作戦会議だ。準備をしておけ」

「お任せを」


 藍色の長衣を翻し、アラティサールは踵を返した。

 その背中に、無数の冷たい視線が突き刺さる。


 些細なこととは言えないほどの不和、不信が根付いていることだけはわかった。

 これで赤の血盟の軍勢のうち、現時点で集結できるほぼ全軍が出揃ったことになる。ニザーン氏族に近しい小集団も含め、およそ二万弱。バタンで待ち受ける敵軍とほぼ同数と見込まれている。

 だが、こんな状態でまともに戦えるのだろうか。さすがにこの規模の戦いとなると、俺個人の能力をもってしても、一方的な勝利をもたらすのは簡単でないように思われる。腐蝕魔術を使った疫病作戦も、城郭の中の厳重な警備を抜けてとなれば、お手軽には試せない。竜に化けて暴れまわっても、逆に討ち取られてしまいかねないだろう。


 どうあれ、できることをするしかない。

 小さくなった盟主の背中を見送りながら、俺は先々に思いを巡らせた。

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