緒戦の勝利
ブスタンの南門付近は、血と屍に塗れていた。
俺はそれを、奇妙な気持ちで見下ろしていた。なんだかやけに見覚えがあるような。
そうだ。食材の市。例えば築地のような。あれだって死体の山じゃないか。
すぐ足下にも、俺の剣によって、胸の前半分が斜めに切り裂かれた男が転がっている。普通、こんな斬れ方はしないものだが。まるで解体中のマグロみたいに見えた。
敵の戦力が集中するであろうこの入口に、ラークは主力を割り当てたはずだ。だが、数の暴力には敵わず、黒の鉄鎖に押し込まれてしまったようだ。いくら俺が、少し離れた塔の上から火球を叩きつけても、それで死んだのはせいぜい百人そこら。小さな損害ではないものの、足を止めてくれはしなかった。その後、地上に降り立って見境なく殺戮したが、それでも一掃できたのは戦線のごく一部だけ。
それで俺は、最大の激戦地になりそうな方へと駆けつけた。到着してみれば、無念にもラークは劣勢らしく、味方の姿がない。
だから、遠慮なく暴れた。
体ごと飛び込んでいって、左右に剣を振れば、門の付近に密集していた兵士達があっさり肉塊に変わった。応戦してくる相手もいたが、その頃にはもう、すっかり余裕ができていた。剣で斬ったのでは一瞬だ。つまらないと思った俺は、あえて素手で相手の頭を掴み、いちいち丁寧に南門の壁に叩きつけた。その感触の心地よさといったら。頭蓋骨が折れて潰れていくその瞬間、指先に伝わる死の実感。何かに似ていると思った。そうだ、口の中で溶かした氷をゆっくり噛み砕くような。
そうして目につく一人ずつを、まるでお菓子を一口ずつ食べるようにして平らげていった。気付くと、周囲には誰もいなくなっていた。ただ折り重なった死骸と、むわっと立ち込める血と汗の臭いばかりが取り残されていた。
はて、戦いはどうなったのだろう? やっとここで流血への渇望が収まり、少しだけ冷静になった。
俺は何も考えず、ただ夢中になって殺しを楽しんでいた。塔の上から百人程度、そこから飛び降りやはりそれくらいは殺しただろうし、今も門の前にいた数十人を片付けた。だが、敵は二千人程度はいたはずなので、一部は街の奥へと進んだはず。
勝利を手にするためと考えるなら、奴らは本丸、つまりネッキャメルの頭領であるラークを討ち取ることを目標とするはずだ。
戦場がこれだけ広いと、局地的な勝ち負けは、そう簡単には伝わらない。ここで俺は圧倒的な殺戮を展開したが、多くの敵兵はまだ、自分達の優勢を信じている。だから、市内で戦闘を継続しているはずだ。
指揮官は殺したと思ったが、他にもまだいたのかもしれない。俺が爆殺したのはセミンの頭領の一人だった。まだフマルのリーダーがいるのではないか。
門を確保していた敵兵はもういない。その向こう、建ち並ぶ家々によって僅かに蛇行するブスタンの大通りが、途中まで見える。この場所を奪回するために戻ってくるラークの兵はいない。そして、遠くからかすかに怒号のようなものが聞こえてきた気がした。
反射的に、俺は駆け出していた。
張り詰めた空気の中の静寂ほど恐ろしいものはない。この上なく密に組み上げられた足下の石の床の上には、ものも言わず肘をついたまま横たわる男の姿が見える。胸を一突きされたのだろう。その横には、折れた旗が見える。下半分が白、上半分が赤。これは赤の血盟の同盟旗だ。
道の中央は、不自然なほどすっきりと、障害物がない。なのに左右には、押しのけられたような遺体が転がっている。死んだ馬も。しかも、ふと気付いたのだが、バリケードらしきものがない。木材で組んだ障壁が焼かれたり砕かれたりすれば、何かしら見つかるはずなのに。どうにも不自然な印象がある。
懸念していたことが起きてしまったようだ。
恐らくは古老達のうちの誰かが、敵氏族と内通していた。既にブスタンのどこかに潜んでいたのだろう。それが外からの襲撃と同時に動いて、大通りを後ろからこじ開けたのだ。
逆を言えば、その計画に期待できそうだったから、彼らは一気に強襲をしかけた。時間をかけての包囲ではなく、短期決戦を選んだ。時が過ぎればその分、潜伏した仲間が発見されるリスクも高まるためだ。
とにかく、それならラークを死なせるわけにはいかない。街の中心部に向けて、俺は走り出した。
街路を抜け、広場に出たとき、予想通りだったとはっきりした。
「燻し出せ!」
そんな声が聞こえる。
湖の畔のあの六角形の木造の東屋が、臨時の作戦本部になっていた。その中に、ラークと数人の戦士が詰めていたのだ。風通しのいい大きく開いた窓も、今は木の板で補強され、外からの矢を防ぐことができる状態だ。
しかし今や、それが三十人近い敵兵に囲まれている。馬鹿正直に突っ込んでいけば、建物の入口のところで囲まれて斬られるだけなので、敵方の兵はそれを遠巻きにし、火矢を浴びせている。
俺は連中のそのまた後ろに出たのだ。ラークとその仲間が立て籠もる東屋とは、反対側に立っている。
間に合った。
最初に思ったのが、それだった。次は敵の注意をこちらに。全員が俺を狙う限り、負けはない。
「うおおおっ!」
わざと雄叫びをあげて、集団の中に切り込んでいく。
「なんだ? どこから!」
「敵だ!」
「射殺せ!」
「構うな!」
敵方の指示は混乱したが、火矢がいくつか飛来した。軽々はたき落とし、曲刀を手にして前に出てきた戦士の首を、勢いよく刎ね飛ばした。
「そいつは相手にするな! 言った通り足止めして、先にラークをやれ!」
まずい。どうやら俺の戦いぶりを見て、逃げ出したのが混じっているらしい。合理的に考えれば、やたらと手強い変な奴をいちいち相手にするより、先に総大将を討ってしまったほうがいい。
槍を手にした兵士が五人ほど、俺を遠巻きにして取り囲んだ。倒しきれない相手ではないが、向こうは最初から時間稼ぎのつもりでいる。俺が殺しを楽しんでいるうちに、対策を考えていたか。
視界の隅で、東屋の屋根が大きく燃え上がった。
これでは、もう中にはいられない。案の定、ラークと四人の兵士が、噎せながらそこから転がり出てきた。
「押し潰せ! 逃がすな!」
このままでは。
しかし、足止めに徹した戦士達を切り伏せてからでは時間が。刺されるのは別に構わない。痛みには耐える。それでも、回復するのに時間がかかってしまっては意味がない。
なら火球……いや、それはそれで、東屋に肉薄する戦士達を狙うと、一緒にラーク達まで爆殺してしまう。身体操作魔術の魔法の矢……詠唱に時間がかかる上に、一人ずつしか始末できない。
考えても仕方ない。ならやっぱり、強行突破するしか。
「邪魔だ!」
俺が突っ込もうとすると、槍を手にした戦士達は、それぞれ道を空けるようにステップを踏んだ。真ん中が下がり、左右が回り込む。
「このっ」
左手に回り込んだ戦士の槍が突き出された。その穂先を一瞬で刈り取り、そのまま勢いよく飛び込んで、袈裟斬りにする。一人。
さすがに仲間をやられれば、少しは怯むかと思ったのだが、彼らはそれでも立ち塞がっている。顔色は変わっているが、むしろそれで俺の手強さを再認識したのか、構えには乱れがなかった。
こうしているうちにも、ラーク達は二十人近い敵に囲まれ、もはや斬り合いになっている。時間がない。
そっと口の中で詠唱する。
正面に立つ敵の一人がよろめいた。彼に斬りかかろうと一歩を踏み出し、そこでいきなり左手に剣を持ち替えて、横を向かずに剣を振り抜いた。返す刀で正面の男も肩から真っ二つにした。
手際の良さに気付いた二人の生き残りは、血相を変えて飛び退いた。そこで槍を左右に振り始める。意地でも俺に踏み込ませまいというつもりか。
「よっし! やれ!」
興奮した声が聞こえて、はっと顔をあげる。
ラークの横で戦っていた戦士が今まさに力尽きてターバンを血塗れにしながらずり落ちた。そのがら空きの右肩に、曲刀が振り下ろされる。
「ラーク!」
やっぱり間に合わなかった!
急いで前へと飛び出そうとしたとき、視界を横切る小さなものに気付いた。
曲刀は、振り下ろされなかった。襲撃者は身を転がして足下の砂地に身を横たえ、胸に刺さった矢を掴んでいた。
今のは……
「誰だ! ウッ!」
また一人、矢を受けて膝をつく。
西の市街地の建物のどこかから、誰かが敵を狙撃しているのだ。
今だ。
立ち塞がる二人の兵士の視線が一瞬、逸れるのに気付いて、俺は大きく踏み出した。そいつはこちらに気付いたが、もう手遅れだった。槍の柄ごと真っ二つになり、そのまま石の床に腸をぶちまけた。それを跳び越え、駆け付ける。
「きやがった!」
「急げ!」
もう遅い。接近戦になれば、どうとでもなる。間合いに差のない曲刀では、俺の剣は受けきれない。
技も何もない。大振りに叩きつけるだけで、受け止める曲刀ごと真っ二つにへし折って、胸を斜めに切り裂ける。一秒に一人ずつ、敵が倒れていく。
「ぐっ、お、おのれ……ぐあ!」
怒りを露わにした敵の戦士長らしき男が、背後からラークの剣に胸を刺し貫かれた。
これで、襲撃者は全滅したようだ。
「済まない、気をつけてはいたが、結局罠にかかった。君のおかげで助かったよ」
「いえ」
俺は首を振った。
「助かったのは、僕のおかげではありません」
「なんだって?」
「間に合ったのは、あの矢があったからです」
俺は、西の市街地に繋がる湖沿いの街路を眺めやった。そこにはいつの間にか、人影があった。
肩にはくすんだ色のマント。膝から下には革の脛当てが紐で固定され、胸にも革の胸当てが。頭には固く結ばれた頭巾。矢筒を背負い、腰には短めの剣。長弓を手に、そこに佇んでいた。
まるで男の兵士だが、胸の膨らみがそれを否定している。火のような眼差しが、こちらに向けられていた。
「助かりました。僕だけでは間に合わなかった」
静かに歩み寄りながら、彼女は俺の前に立った。
「でも、なぜ」
理由がわからない。
ジルには、戦う理由がない。いや、あるのか?
ミルークは、フマルの敵意によって殺された。赤竜が殺したのだとしても、原因は黒の鉄鎖にある。だが、彼を憎み、復讐するためにすべてを捧げた彼女が、なぜ武器をとるのか。
彼女にとってのミルークは、父親であって父親ではなかった。夫ではなく、しかも唯一の男だった。しかし、もしここに彼がいて、意見を許されるのなら、彼女が戦うことにはきっと賛成しなかっただろう。
「わからない」
そう言うと、彼女は皮肉げに微笑んで首を振った。
だが、その不思議と穏やかに見える表情の中に、俺は確かな決心を見て取った。
わからない、というのは、意味がないことを意味しない。意味はある。それを言葉にできない。説明はできなくとも、やらねばならないという確信があるのだ。
ようやく状況を把握したラークは、俺に尋ねた。
「ファルス、君……彼女は?」
「ええと、名前は」
「ジル」
短く答えた。本名を。
「えっ」
慌てて振り返る俺に構わず、ラークは尋ねた。
「後日、必ずこの恩義に報いよう。それで、家名は。どこの氏族の者か」
「どこでもない」
「なんと」
「私に家名などないと言った」
そう答えるしかない。
身に纏わりついた意味が、答えることを許さない。
「ファルス」
彼女は俺に振り返る。午後の、やや黄みがかった日差しが、彫りの深い彼女の顔を半分だけ照らす。
「私も戦う。連れていけ」
ジルがそう言うのと同時に、街の南側にある塔の数々から、歓声があがる。
味方が槍を手に、胸壁の上に身を乗り出している。敵の襲撃を跳ね返し、撤退させることに成功したらしい。
そしてこの瞬間、ブスタンは戦場の緊張から解き放たれたのだ。
俺達は連れ立って、街の南門を目指した。駆け付けた頃には、地平線の向こうに巻き起こる砂埃が、小さく遠ざかっていくのが見えるばかりだった。
「本当に勝ったのか」
「犠牲は少なくなかったようですが」
改めて、手近に転がる死体の山に死線を向けたラークは、難しい顔をした。
「これは後片付けが……」
言いかけて、返り血に塗れた俺に気付いた。そして、ここで何が起きたかを察したのだ。
「ラーク様」
俺は肩をすくめた。
「ブスタンの古老達に伝えてください。あなた方は見捨てられたのではない。ティズはここに一番いい駒を置いたのだと」
今年もありがとうございました。
丸五年の連載。
こんなに長引くとは……
なんとか完結まで走り切れればと思いつつ、これからも続けて参りたいと思います。
読者の皆様には、引き続き楽しんでいただければ幸いです m(_ _)m




