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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第二十三章 魔宮モー
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人の痕跡

 今、何時頃だろうか。ふと、そんなことを思った。この状況では、まるで意味のない情報だ。

 俺が廟堂に忍び込んだのは、ちょうど真夜中くらい。そこから地下の横穴に転落するまで、一時間もかかっていない。聖都の南側から廟堂まで歩いた時間を足して考えても、この運命の変転に要した時間は、たった二時間ほどだろう。

 ゴキブリどもを追い払うのに、何分もかかってはいないはずだ。しかし、そこからが長かった。


 なるべく足音を殺してはいるが、何の気配もない冷たい回廊を歩いていると、どうしても自分の存在感が気になる。既に誰か敵意ある存在に発見されてしまっているのではないか、と。

 どうせ気にしても無駄だ。この暗黒の空間で、俺だけが唯一、照明を手にして歩いている。すぐ目の前で、パチパチと内部の水分と油脂分を弾けさせながら、トーチが燃えているのだ。これで隠れようといったところで、意味がない。

 それにしても、纏わりつくような闇の中だ。燃える松明は、左右の白い壁を浮かび上がらせはするが、少し離れた通路の向こう側には光が届かない。道の先に広がっているのは恐るべき何者かの口の中で、一歩進むごとに俺は取り返しのつかない破滅に近付いている。そんな風に思ってしまう。


 ……時間がかかったのは、後始末だった。

 水中から荷物を引っ張り上げることはできた。ゴキブリの死体のない場所を求めて部屋の隅に落ち着くと、俺は中身を取り出して、点検しなければならなかった。

 魔術で火を点すことはできるが、これをずっと続けるわけにはいかない。どこかで消耗しきってしまって、肝心なところで魔法を使えなくなってしまっては困る。松明なら、いくつか持ち歩いていた。但し、表面が濡れてしまっていたので、着火には苦労した。結局、水を含んだ表面を削り落とすことで、なんとか使用可能になった。

 衣類も乾かさなくてはいけなかった。濡れた服のまま歩き回ったのでは、それこそ体力を奪われるばかりだ。ただ、そのために火魔術を余計に使わなくてはならなかった。最終的には、ボロボロになった衣類や捨てていく道具などを焚き火の中に放り込んだので、暖まりながら休息を取ることができたが。


 そうして多少の休み時間を挟んで、ようやく俺は探索を開始した。

 だが……


 不気味なほど、周囲は静かだった。さっきのあのゴキブリどもは、どこから湧いて出てきたのだろう。

 景色にも代わり映えがない。聖都を思わせる無機質さで、装飾のない白い壁と天井、それに床があるばかりだ。誰かが掃除をしているわけでもなさそうなのに、埃一つない。唯一、目を引くものがあるとすれば、たまにある広間らしき場所と、円柱だ。円柱には、よく見ると一定間隔ごとに出っ張りがある。これがただの飾りなのか、機能を伴う何かだったのかは、わからない。


 どうやって歩けばいいのか。

 最初は「右手の法則」を意識しながら歩いていた。だが、じきに無意味だと感じ始めた。

 常に右手に壁を見ながら歩けば、迷路の中で道を見失うことはない……それはそうなのだが、一つには、そもそもあのプールのある部屋に戻ることの意味が薄い。あの配管を遡って廟堂の地下に引き返すなど、できそうにもない。

 それともう一つ。「右手の法則」自体の不完全性に気付いたからだ。確かに道に迷うことはなくなるが、例えばロの字型の通路があった場合、この法則を守り続けていると、このロの字の内側にあるものを見落とすことになる。実はそちらに、上への階段が隠されているかもしれないのに。


 ただ、だからといって闇雲に歩くのもどうか。

 ここがどれくらい危険な場所か、俺はまったく判断ができていない。脅威となるのは巨大ゴキブリだけか?

 だとしても、のんびりはできない。連中の襲撃を防ぐ方法がないからだ。ちゃんと立って歩いている時であれば、取り囲まれても対応できるが、俺は生身の人間でしかない。そして一人きりで行動しているのだ。いずれ疲労と睡魔に捕らわれて、動けなくなる。

 そうなる前に、ここから脱出するか、安全を確保するかしなければならない。


 ふと、広い空間に出た。

 最初、部屋かと思ったのだが、どうもそうではない。どうやら「大通り」らしい。

 天井の高さは同じ四、五メートルほどなのだが、道幅が違う。今まで俺が歩いてきた道は、幅が二メートルほどだった。ここからは、優に十メートルはある。馬車がすれ違っても困らない広さだ。

 こんな地下で、いったい何を運搬するためにこんな通路を拵えたのか。


 しばらく進むと、かすかな水音が聞こえた。

 すぐ目の前の通路は続いているが、これは幅広の橋らしい。どうやら大きな水路の上を横切っている。どこからどこへ流れているのだろうか。


 歩き始めて、かなりの時間が経ったように思う。左手に持つ松明が、かなり短くなってきた。

 幸いなことに、この迷路は、ほとんどの通路が直角に交わっている。おかげで、方向を見失うことがない。そして、俺はここまでまっすぐ歩いてきたはずだ。なのに、いまだに行き止まりにならない。

 この馬鹿げた広さ。こうなると、受け入れざるを得ない。

 この地下空間は、聖地トーリアの広い範囲、狭く見積もっても聖都アヴァディリク全域に渡って広がっているに違いない。

 とすれば、これは驚くべき建築技術だ。こんなに広大な地下施設を建造し、しかもメンテナンスフリーのまま維持しておけるなんて。


「ん……?」


 ここに至って、初めて調和が乱された痕跡を見つけた。

 真四角で真っ白という整然とした空間が続いていたのに、ここは。


 円柱が立ち並ぶ一角。だが、いくつかの柱はへし折られて、床に転がっていた。松明を近付け、もっとよく見る。

 砕かれていない柱にも、何か木こりが斧でつけるような切れ込みが入っている箇所がある。それと、あれは……


 あれは金属製の帽子……サレットだ。兵士か、戦士か、とにかく頭部を保護するための防具が転がっている。かなり昔のものらしく、錆が目立つ。

 その横には、人間の頭蓋骨だけが横たわっていた。しかし、胴体部分がどこにも見当たらない。


 危険は感じなかった。戦闘の形跡ではあるが、かなり前の出来事のようだ。

 ただ、ここで人を殺した奴は、どれほどの怪力で暴れまわったんだろうか。円柱は決して細くない。直径が大人の胴体に少し足りない程度の太さ。それが軽々と刈り取られている。


 しかし、それだけで片付けてしまうのは、少々もったいないか。

 彼はどこから入り込んだのか。俺みたいに、廟堂の深部に忍び込んだわけでもないと思う。兜だけでこの人物の武装を特定するわけにはいかないが、もしこれに見合うだけの鎧を着用していたら、まずもって水面に浮上できなかったはずだ。

 とすると、他の侵入ルートがあった?


 横穴は他にもたくさんあった。或いは他の穴から落ちてきて……だが、ここまで歩いてみても、そういえばあの銀色のチューブは他に見当たらなかった。もちろん、くまなくこのフロアを調べまわったわけではないので、まだ見つけていないだけかもしれないが。それに、水でなくても、何かのクッションがなければ、あれだけの落下スピードに体が耐えられるはずもない。

 要するに、前向きに考えるなら、彼はここまで「歩いて入り込んだ」ことになる。それはつまり出口があるということ。ここで死んだ彼には申し訳ないが、俺にとっては朗報だ。


 更に少し進んだところで、俺はいったん立ち止まった。

 通路が崩落していたのだ。


 不揃いな形の白い残骸が、足下にゴロゴロ転がっていた。ちょっと見た限りでは、ここを直進するのは難しそうだ。


 少しいやな想像をした。

 廟堂の地下にある空間なのだから、多分、あちこちに階段があって、登ったり降りたりできるようになっているはずだ。しかし、果たしてこんな場所まで、あの廟堂地下の警備隊が見回りに来ているだろうか? つまり、もしこの崩落部分の先の通路が、地上に繋がる唯一の昇り階段に続いているとしたら。


 考えても仕方のないことだ。

 実際にそうか、そうでないかは、足で確認するしかない。それに、そこまで悲観する必要もない気がする。というのも……


 ……そもそも、ここを建造したのは、誰だろうか。

 ティクロン共和国の時代から存在した地下施設だったのか。それとも、やはり帝国時代に築かれたものか。はたまたこの地を征服したギシアン・チーレムによるものか。

 特に、最後の人物が作らせたのだとしたら、少し希望がもてる。彼は俺と同様の転生者かもしれず、現代人の知識と発想を元に建造するのなら、きっと冗長性を持たせるはずだからだ。例えば現代的なビルには、必ず複数の避難用階段が用意されている。それも、反対方向にだ。火災などが発生した場合、建物の片方が燃え上がっても、逆側に逃げれば間に合うようにするわけだ。

 この施設は広大で、しかも地下深くにある。地下室というのは、言ってみれば水の中に部屋を作るようなものなので、意図しない水漏れなど、建造物の崩壊に繋がる危険がいくらでもある。となれば、脱出経路も複数用意するのは当然のこと。また、そういう意図がなかったにせよ、これだけの広さなのだから、よほどの理由がない限り、複数の昇り階段がなければ、単純に不便だ。

 探せばきっと、出口はある。


 うろつき回るうち、下り階段を見つけた。

 降りたいのではなく、昇りたいのだが、もしかすると、迂回しないと上まで出られないという可能性もある。この地点は覚えておく値打ちがあるか。


 ただ……この施設の目的はなんだろうか。

 防衛拠点? シェルター? まさか。少なくとも、聖都を守るという目的からすると、まったく役に立ちそうにない。防空壕じゃあるまいし。地上が制圧されて、出口も塞がれてしまったとしたら、ここだけ守り抜いたって意味がない。水だけは豊富なようだが、そのうち食料が尽きて、抵抗を続けられなくなるだろう。

 そして、戦争の際の防衛設備でないならば、利便性を考慮しているはずだ。早い話が、近くに階段が、それも昇り階段もあるはずだ。前世でも、たとえばテレビ局みたいに、テロリストに占拠されると困る場所なんかは、無駄に入り組んだ作りになっていたりした。ここがその手の防御能力を要求される場所であるならともかく、そうでないなら、各フロア間の移動を容易にしておくだろう。

 なお、戦争時の緊急脱出用地下道、という可能性も考えたが、多分違う。それであれば、こんなに大掛かりなものにする必要がない。


 周辺を探し回ってみると案の定、すぐ昇り階段が見つかった。

 幅五メートルはある、大きなものだ。


 階段を昇りきると、また景色が変わっていた。

 壁の材質などに違いはないのだが、目にする通路が狭くなっていた。せいぜい幅三メートルほど、天井もそれくらいしかない。そして、やたらと小部屋の入口のような四角い穴が目に付いた。

 まるで地下の市街地みたいだ。しかしもちろん、ゴーストタウンなのだが。


 そう思いながら歩いていると、すぐ横の小部屋に人影が見えた。

 頼りない松明の灯りを向けると、そこにあったのはただの白骨死体だった。しかし、さっきの頭蓋骨とは違う。ほぼ全身が残されていること、着衣のままであること。所持品も脇に転がっている。


 俺は周囲を見回して、他に誰もいないのを確認してから、小部屋の中に立ち入った。これは貴重な情報源だ。

 遺体や所持品が乾燥している可能性もある。手違いで調べる前に燃やしてしまってはいけないので、松明を脇に置いてから、近付いた。


 骨格だけで性別を判断することはできないが、身長からすると、男性の遺体のようだった。身につけているのは、黒いマントと……その内側には革製の胸当てらしきものが見えた。脇には赤茶色に錆びたナイフが落ちている。だが、他に荷物がない。

 なぜだろう? 誰かが持ち去った? ゴキブリどもではない。食べ物にならないものに興味を示すとは思えない。しかし、どういうルートでここまで入り込んだにせよ、保存食や水筒、その他装備品がないのはおかしい。とすると……


「おっ?」


 真っ黒で目立たなかったので、見落とすところだった。

 幼児の掌程度の薄い金属板。それが二枚、ぴったりと結わえ付けてある。これは、冒険者が首から提げているタグだ。その間に、布に包まれた紙が納められていた。


 そっと取り出し、まだ床の上で燃えている松明に近付けて、文章に目を通した。


『勇敢なる我らが仲間、コーザ

 鍛錬と信仰に欠けるところはなかったが、ひとえにただ運命の定めにより、女神の御許に招かれた

 力及ばず、我らは友の亡骸を捨てて去る

 心ある者よ、彼を哀れみたまえ

 けれども、もし彼の頭上に女神の祝福なかりせば、再び我らがここを訪ねよう

 女神暦 九百三十八年 喜捨の月 十五日

 罪を贖わんとする者 ヨルギズ記す』


 人が、それも割と最近、ここを通ったのか。

 今から五、六十年も前のことだが、さっきの兜より新しい気がする。


 この、ヨルギズなる人物は、ここを脱出できたのだろうか。

 文面から判断すると、彼はセリパス教の聖職者らしいが……


 ここで死んだコーザの立場は?

 俺と違って、コーザとヨルギズは、教会の許可を得て地下に踏み入ったのか。それとも……


 とにかく。

 絶望するにはまだ早い。少なくとも、数十年前には、人の行き来があった場所なのだとわかったのだから。


 俺は、仏教式に手を合わせ、コーザの冥福を祈った。

> 現代的なビルには、必ず複数の避難用階段が用意されている


なお、あの恐ろしい 911事件で崩落したツインタワーでは……

「テナントに提供する面積を増やすため」、つまりもっとお金を稼ぐために、

避難用階段を、ビルの中心部に集中させて設けていました。


そのため、航空機の激突によって、下り階段を利用するルートが一発でダメになり、大勢の人が犠牲になりました。

避難用階段が建造物の中央にあり、分散していない……また、フロアと領域を切り分ける防護壁に覆われていない場合は、要注意です。


オマケに建築物の軽量性を追求するために、延焼を防ぐ能力も低い構造だったらしいです。

高層ビル火災は消防車のホースの水が届かないので、「最悪フロア全体が燃えても、上下の階層に延焼しない」ことが絶対に必要なんですが……


タイタニック号の頃から何も進歩してないんだなーってお話ですね。


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