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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第二十一章 雪原を往く
365/1082

降雪

半年以上かけてやっと新章><

遅筆で申し訳ありませんorz


 出発してから一夜明けた翌日の昼には、視界には何の障害物もなくなっていた。

 見渡す限りの真っ平らな大地。これが聖女の名を冠したリント平原だ。


 平原とはいうものの、その実態は、ほぼ砂漠といっていい。

 雨は滅多に降らず、雲もあまり見かけない。上空にはいつも強い風が吹いているらしく、すぐに流れていって消えてしまう。だから、昼間の空は、無機質な青一色だ。

 地面には色の濃淡がある。一応、明るい茶色と焦げ茶色。しかし、踏みつけた際の感触は、まるっきりコンクリートだ。本当に、何かひたすら重いもので足元を踏み潰したのでもなければ、こんな地面にはならないと思うのだが。石ころさえ滅多に落ちていない。

 かつ、今は冬の初めに差し掛かりつつある。つまり、アルディニアの商人達は西ではなく、南西に向かう。真西に向かって歩く風変わりな旅人は、俺一人だけ。何もない風景なのだ。


 空っぽな世界。月面、でなければ火星か。こんなに無機質で空ろな大地が、他のどこにあろうか。

 時折、虚空から吹き降ろす風は冷たく乾ききっているのに、足元からは日光の熱が照り返す。涼しいのでもなく、温かいのでもない。熱さと寒さが同居するような不快感だけがある。


 それでも、たまには小さな発見がある。

 例えば……石ころだ。

 思わず溜息が出る。一つには憂鬱、一つには安堵。


 このリント平原には、ほとんど石ころがない。アルデン帝が東征を行うまでは、ほとんど人の行き来もなかったが、その時代には、ゴミなんか、ただの一つもなかったはずだ。

 しかし、いくつかの理由で障害物が取り残されることになった。まず、軍勢や隊商が持ち込んで落としたもの。但し有機物は、相当な時間を要するとはいえ、やがて風化する。残るのは、鉱石のような無機物だけだ。

 つまり、何かが見つかるというのは、どんなものであれ、誰かがここを通った証になる。ゆえに、目印もなく、方向感覚を失いがちなこの平原では、安心感を与えてくれる。


 では、何が憂鬱なのか。

 それは、この「石ころ」の大半が、「トイレ」の残骸だからだ。


 なにしろカチカチの地面である。ほぼ石同然の固さにまで踏み固められたような場所なのだ。水でもぶちまけてみればわかるが、地面に滲みこんでいかない。ほぼ完全に平らなので、どこか一方向に流れるということもない。あらゆる方向に無作為に広がっていこうとする。考えなしに立ち小便でもしたら、運次第では自分の靴が濡れるだろう。

 よって排泄も一大事になってしまう。俺みたいな一人旅ならいざしらず、隊商が移動する場合などには、その辺の問題を無視できなくなる。それで彼らはツルハシを持ち込んで、この固い大地を割る。一夜のキャンプのための、仮設トイレを組むわけだ。そして夜が明けたら、汚物の上に掘り出した砂利を流し込み、踏み固める。これでおしまい。

 石ころがある、即ち用を足した証拠なのだ。


 ただ、ここ百年ほどは、そうした排泄も「しない」のがマナーと認識され始めている。せっかく平らな地面があるのだ。舗装するまでもない天然の「高速道路」、その「路面」に傷をつけるなんて。百年間、戦争もなく、交易の価値が保たれている今という時代。馬車で先を急げばたった一週間ほどで平原を抜けられるのだから、その間は「ゴミはお持ち帰りで」ということになっている。

 もちろん、そうはいっても、好き勝手にやる連中がいなくなるはずもなく。この小石は、いつの時代のものなのだろう?


 しかし……


 思わず後方に目を向ける。前後左右、上空にも。

 自分が用を足すとなれば。あまり考えたくないが、何の障害物もないところでズボンを下ろして……恥ずかしいというより、不安でたまらなくなる。無防備な俺の姿が、何キロも離れたところから目視できるのだ、と思うと。


 そうやって人間的な部分を思い返せるだけ、まだましか。

 この空間は、本当に狂気じみている。何もない。コンピューターグラフィックで作り出した擬似世界のように。


 このまま直進すれば、セリパシア神聖教国側の交易都市オプコットまで、およそ二週間弱で到着する。ほとんど障害物のない地面だから、足下の固さからくる膝への負担にさえ配慮すれば、歩くのにも支障がない。馬車ならもっと楽だ。並みの舗装道路よりツルツルだし、震動もあまりないに違いない。

 タリフ・オリムとオプコットを隔てる距離は、だいたい二百キロ程度だろうか。たったそれだけの距離なのに、帝国時代、なかなか東征は行われなかった。退却が許されない場所だからだ。途中には隠れる場所もなく、補給を受けられる見込みもない。そして、戦いに敗れて退却するとなれば、何もかもを捨てて逃げなければならない。歩いて二週間弱の距離が、確実な死をもたらす。敗北は全滅を意味していた。

 その事実が、小国に過ぎないアルディニアを、今も守っている。


 普通、商人はオプコットまでしか行かない。帝国内に数箇所ある交易都市は、特別な場所だ。何がどう特別かというと、外国人には「セリパス教の戒律を守る義務がない」ことだ。女神教の神殿もあるし、飲酒や賭博も許されている。おおっぴらには口にできないが、娼婦さえ買えるという。

 裏を返すと、それ以外の都市や村落では、戒律を守らなければならない。それが外国人であろうと、女神教の信者であろうと、関係ない。聖なる国家に身を置くのなら、その教義に忠実であるのは当然、という考え方なのだ。その義務に縛られないのは、外国の公的な使者くらいなものだろう。その窮屈さがあるために、普通の旅行者は、玄関口たる交易都市までで引き返すのだ。

 しかし、オプコットからは北西方向に街道が走っている。それはいくつかの村落を経由しながら、最終的には聖都に通じている。北に聳えるディノブルーム山をはじめ、東側以外のほぼすべてが山々に囲まれた中に、広い平原がある。聖地トーリアだ。街道はここで途切れるが、それはその先が神聖な場所で、俗塵にまみれた人間がそのまま立ち入らないように、との配慮らしい。

 そんな中にポツンと置かれた都市が、聖都アヴァディリクだ。知られている限り、世界中の国々の中で、ここより北に首都を構えたところはない。

 大昔は聖都近郊でもライ麦を育てていたらしいが、今はそんなことはしていない。何しろ聖地なのだ。生産活動は、ここより南に広がる肥沃な土地で行えばよい。聖地にあるのは、ただただ祈りのために存在する都市と、信仰を守るために働く人々だけだ。


 そこが次の目的地……と言いたいのだが、寄り道することにした。

 ノーゼンから事前に聞いている。


『贖罪の民の村に行き着きたければ、西の門を出て三日歩いた後に、真北に向かえ』


 指示が大雑把過ぎる気はするが、彼はそれで困らなかったのだろう。『念話』の神通力で、仲間のナビゲートを受けながら歩いたのだろうから。

 もっとも、俺のほうでもなんとかする自信ならある。最悪の場合には、鳥に変身すれば高所から遠くを見渡せる。だから問題ない。


 ……何もない場所をただただ歩くばかりだと、どうにも内向きになる。

 いっそ、歌でも歌いながら行くか?


 少し進むと、小さな影が見えた。

 今は秋の終わりだから何の危険もないが、春先の旅行者にとっては、致命的な障害物だ。


 枯れかけているように見える、小さく丸まった草。それが固い土地の上に、ぽつりと浮かんでいる。

 だが、この哀れを誘う姿に騙されてはいけない。こいつは、タンドラの花だ。


 そう、あのイリクの調合した身体強化薬の材料にもなる、強烈な幻覚剤。こいつの花粉がそうなのだ。

 春先には、赤や黄色のかわいらしい花を咲かせる。花粉は風に乗って遠くまで届き、どこかで受粉する。小さな種はその場に落ちて、長いこと休眠する。

 だから旅行者は、春にこの草を見かけたら、少し遠回りをしたほうがいい。毒にやられてひどいことになる可能性があるためだ。

 とはいえ、薬の材料にもなるため、冬の終わりには専門の採取業者がリント平原をうろつくことになる。雪解けの時期はそれなりに危険とはいえ、タリフ・オリムの冒険者にとっても飯のタネなのだとか。

 しかし、そんなに稼げるなら、種を持ち帰って安全に栽培すればいいのにと思うのだが……不思議なことに、この過酷な土地でしか育たないらしい。豊富な水や養分は、かえってよくないのだ。

 逆に、このリント平原では、普通の草花はまず育たない。育つのは、こういう毒草ばかりだ。


 ……馬車でも買えばよかったかもしれない。

 歩き始めて間もない頃は、この虚無の風景が物珍しかった。だが、時間が経てば経つほど、正気でいられなくなってくる。

 まず、視界に変化がない。ごく僅かずつ位置を変える太陽だけが、唯一の変化だ。

 聴覚にも、ほとんど刺激がない。というのも、こういう場所を歩くのもあり、またこれから冬場というのもあって、分厚いブーツを履いている。そのせいで、控えめな自分の足音以外、何の音もしない。下手をすると、呼吸音すら耳に纏わりつく。それどころか、ここでは風が吹いても、あまり音にならないのだ。なぜなら、摩擦を作り出す障害物がないからだ。

 その他、嗅覚や味覚、触覚にも刺激がない。土の匂いも、草の香りもない。これがえんえん続くのだ。


 こういう場所だと、休んでも休んだ気になれない。

 美しい景色を見ながら一服、とはいかないのだ。足は休まっても、心が休まらない。空気もあまりきれいではない。うまく説明できないが……目に見えない粒子が漂っていて、それが微妙に熱を帯びているような……気のせいかもしれないが、どことなく俺を不快にさせる何かがある。


 ふと、足が止まる。

 世界の色が、僅かに変わっている。よかった、夕方になった。


 まもなく、西の彼方に橙色の太陽がしゃがみこんだ。

 比較するもののないこの場所では、夕陽がやけに大きく見える。


 昨日もそうだったが、この時間だけは悪くない。

 まるで世界の終わりの日のような。そんな感傷に浸ることができる。

 そして、そんな虚無の中にいる自覚が、奇妙にも俺を優しく宥めてくれる。世界は死んだ。俺も死んだ。何もかもが死に絶えた。これ以上の安息があろうか。


 しかし、あまりぼやぼやしていられない。やるべきことが少しある。

 まず、スプーンでも剣でもなんでもいいのだが、細長い道具を使って、影の方向を見る。日が短くなってきているので、日没の方向は完全な真西ではないが、だいたい西だ。だから、その方向を記録する。

 それと寝具だ。貴重な松明やランタンの油を消費するわけにはいかない。火魔術ならコストなしで使えるが、燃えあがる手で毛布を掴むと大変なことになる。ここは砂漠と同じ。だから夜間は急激に気温が下がる。


 夜になると、目に映る世界に、少し潤いが出てくる。それも頭上に限られるが。

 星の輝きを邪魔するものは、どこにもない。上空の冷たく濃密な大気は、きっと天体を観測するには不向きだろう。それでも、肉眼で確認できる範囲で空を楽しむ分には、何の問題もない。

 だが、ほどほどにして眠ることにする。ここから見上げる夜空は、やはりどこかよそよそしい。世界が滅んだ後に、無情に輝き続ける星々……そんな妄想をかきたてるだけだ。


 歩き始めて今日で三日。

 タリフ・オリムから持ち込んだ新鮮な食料も底をついた。あとは干し肉などの保存食ばかりだ。食事は貧しくなるが、荷物は軽くなった。

 明日からは、真北に向かおう。そう決めて、目を閉じた。


 ……灰色の空間に、何か巨大な球体のようなものが浮かんでいる。その球体の上部に突起のようなものがあり、そこに何かが引っかかっている。あれは、ああ。

 俺だ。

 夢だとすぐにわかった。何もない無音の空間。そこで眠る俺。そのすぐ下には焦げ茶色の地面……しかし、この突起は? まるで人間の鼻のように尖っていて。


 鼻。

 口。

 目……


 ……仮面!


「わぁああっ!」


 久しぶりに見た。仮面の夢の新たなバリエーションだ。

 どうにも気持ち悪い。ずっと同じイメージが俺の中にへばりついている。


 目が覚めてしまった。


 周囲を見回す。

 頭上に見えたのは、星またたく夜空でもなければ、猛々しい朝焼けでもなかった。


 灰色。

 地平線が少しだけ白いが、やはり灰色だ。そして、やけに冷える。


「あ」


 俺はそれと気付いた。


「雪」


 音もなく。

 白い綿のかけらが、しずしずと舞い降りた。

やっと21章です。

そして二ヶ国目。神聖教国編のスタートです。

こちらは短めです。


真夏の最中に冬のお話になりましたが、問題ありません。

この冬はまだ続く……

ついでに作者の人生の冬は、生まれてこの方、終わったことが……

というのはどうでもいいですが。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 約200キロを徒歩で2週間ってどれくらいの配分か気になります。 1日8時間、時速5キロで歩いたとしても5日程で着くと思うのですが…
[良い点] 登場人物のアクの強さが、たまらなく好きだ。 長所も欠点もある人間が、一歩前進する様が最高! (救いようのないクズもよく登場するけど……)
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