人間、隔てあるべし
夕暮れ時の空の色合いの妙。一日として同じ姿を見せることはない。ただ、今日のように、膨れ上がった雲が陰影をなしつつ、黄色と藍色を同時に纏うような日には、迫りくるような存在感がある。
その空の下、マホは材木の上に座ったまま、ポツポツと語りだした。
「急に機嫌がよくなったり、逆に傍目にも怒り狂っているように見えたり……まぁ、私の母は、見たでしょ? 怒るのはいつものことなんだけど。それも、理不尽な怒り方をすることが多くて」
「理不尽って、例えばどんな」
千年祭の少し前のこと。マホは母親の異変に気付いた。
「うち、貧乏なのはわかるでしょ。だから出世して暮らしを楽にしてくれって。でも、そのために進学するっていうと文句を言うわけ」
「でも、学費は?」
「奨学金を給付されてるに決まってるでしょ? 帝都でも一桁の学業成績だったんだから」
サラッと知力を自慢してから、理不尽の中身の説明に移った。
「だけど、学校に通ったりすれば、その分、稼ぎはないから。今すぐ働けって言われもする」
「それは無理だ。卒業してからならともかく、両立なんか……ギルじゃあるまいし」
「でしょ」
「でも」
それでも、こういう背景があるとなると、確かめないわけにはいかなくなった。
「だったら、どうして帝立学園なんかに来たんだ。入学式の日に教授が言ったみたいに、ナーム大学にでも入った方が、将来稼ぐには有利だったんじゃないのか」
「自分さえ稼げれば、社会正義はどうなってもいいの?」
「よくはないけど、まずは自立だろう? 自分で自分を支えられないのに、世直しもへったくれもない」
マホは頷いたが、同意しなかった。
「そんなこと言ったら、何もかもを自給自足して、完全に自立できる人なんか、帝都にはいない。まぁ、それが屁理屈だっていうなら、そこはそうかもだけど、でも、私の場合は、どちらにしたって、選択肢はあんまりなかったから」
「どういうことだ」
「奨学金を給付してくれる団体ってのがね。もうわかるでしょ?」
要するに、正義党の紐付きの学生支援団体、ということだ。特に、帝都は女性の人権保護に熱心だから、女子学生専用の奨学金給付なんか、いくらでも見つかるだろう。但し、それは社会貢献活動とセットになる。
「といっても、私としては納得尽くだったの。給付金は言ってみれば前借りみたいなもの。でも、お金が貰えるから言いなりになってたわけじゃない。本当に正しいと思ったから、遠慮なく奨学金を受け取れた」
そしてマホは、暗い怒りの滲む視線を、俺に向けた。その眼差しは、翳りつつある夕暮れ時の青と黄色の空の下、刃のような光を帯びていた。
「うちは見ての通り、母子家庭。生まれた時から、父親なんて見たことなかった」
「さっきは驚いたけど、すぐ納得したよ。男のことなんか視界に入らないわけだ」
父親がいないのだから。マホの世界では、親しい人達の中に男性というものが存在しない。
「それだけじゃない。父親がいないのに私が生まれたってことは、そいつは今、どこでどうしてるのよ」
「妻……だったのかどうかもわからないけど、少なくとも娘とその母親を養おうともしなかった、か」
すぐ感情的になって暴発する、稼得能力にも乏しい母親との二人暮らし。顔を見たこともない無責任な父親。となれば、マホにとって憎むべきものとは、なにより母娘を不幸の中に放り出した「男」ということになる。母をこんな人間にしたのも、きっとその男のせいに違いないのだから。
「私の母さん、あれで若い頃は、結構な美人だったらしくてね」
「仕事は何を?」
「昔は、高級喫茶店のウェイトレスをしていたって聞いてる」
そう言いながら、彼女の目には、ますます険しい色が浮かんだ。
「そこで、私の父親に見初められたらしいんだけど」
「身分の高い男、か」
「そういうこと」
道理で俺に対して、やたらと厳しい視線を向けてくるわけだ。外国から来た身分の高い男で、無数の女性との恋愛が噂されている。彼女からすれば、自分達を捨てた父親の同類に見えて仕方がない。
しかし、マホの認知では、女は誰もが個別の存在として細かく識別されるのに対し、男についての解像度はごく粗いままだ。俺は、マホの母を捨てた男とは別人なのだが、そんなのは彼女にとってどうでもよかったのだろう。
「だから、千年祭を前にね、母さんが、やっとあの男に仕返しできるって、がっぽり取ってやるって言い出した時には、その外国の貴族が帝都まで来るのかって、そう思ってた」
「かっぽり、か」
「そう。うちは貧乏だから。口止め料として、たっぷり支払ってもらおうって。そういうつもりだったと思う」
だが、いろんな意味で、この思惑は外れることになった。
「けど、さっきの様子を見ると、儲け損なったみたいに見えるけど」
「もちろん。甘いわけがないじゃない。地位もお金もある相手が、こんなボロ長屋に住む中年女の告発一つに、どうして怯えなきゃいけないの」
「いや、でも、ここは帝都だ。そういう時のために、そんな人のために、お前は団体で活動してきたんじゃないのか」
マホはゆっくりと頷いた。顔をあげた時には、見たこともないほど、それこそ今すぐに泣き出しそうな表情を浮かべていた。
「裏交渉も通じなかったみたい。それならって告発しようとしたみたいだけど、そちらもきれいに止められたって」
「随分と手回しがいいんだな。その、脅して金品を巻き上げるというのは、どうにも賛成していいのかわからないが……告発を力で止めるのなら、それはさすがに悪党のやることだし、許してやる理由はない」
彼女は首を振った。
「無理。どこの新聞社に持ち込んでも、相手にされるわけないから」
「どうしてわかる」
「わかるわよ」
それからマホは、少しだけ言葉を切った。俯いたまま、しばらく呼吸を整えた。
「相手は誰なんだ」
「……誰だと思う?」
「知るわけないだろう」
弱々しく頷いてから、マホは言った。
「私も母さんから、ちゃんと相手の名前を聞いたわけじゃないの」
「じゃあ、誰かわからないのか」
「なんとなくわかるってだけ」
それから、絞り出したような声で、小さく呟いた。
「多分、ボッシュ首相……」
「はぁっ!?」
「証拠はないけど、多分」
だが、これで辻褄はあってしまった。
困窮したマホの母は、未婚の彼女自身を愛人にしながら、面倒を見るでもなく、放り出したボッシュ首相を恨んでいた。
いや、或いは手切れ金を十分与えたのかもしれないが、いずれにせよ、それは使い果たされた。その場合、マホの母は、相手からすれば筋違いの脅迫で金銭を毟り取ろうとしたことになる。
とにかく、マホの知る限りでは幼少期から母は貧しく、マホは父不在の生活に恨みを募らせていた。母と一緒になって、無責任な男を憎んで育った。
千年祭の時期にマホの母が動き出した理由は、よくわからない。慌ただしい時期だからこそ、自分達の行動が意図せずに目立つリスクが小さいと考えたからなのか。別にそんな計算などなく、たった今、金が欲しくなったから脅すことにしたのか。
ただ、ボッシュ首相は、これにまともに取り合わなかったに違いない。それならと実力行使、つまり表玄関からの告発を目指したが、それも握り潰された。それができたのはなぜか。正義党関連の女性支援団体を抑え込むなど、彼の政治的地位から考えれば容易なことだった。そして、帝都のどこの弁護士だって、こんな案件は引き受けたがらない。相手は首相、雇い主はといえば、食い詰めた中年女。昨年の女神教の総主教キジラールと違って、証人が大勢いるような事件でもない。あちらからすれば、特に対策する必要すらなかった。
こうして目論見が外れたマホの母は、その苛立ちを娘にぶつけるようになった。元々、感情的に不安定だったのが、ますます極端になった。そして、マホ自身はというと……
「千年祭の直前くらいになって、なんとなくそういうことらしいって、わかってきて」
だから、開会宣言の時、ああも元気がなかったのだ。
「なんだ、てっきりサラトンさんの話でも聞いて、ちょっとは考えるようになったのかと思ったら、そっちが理由だったのか」
「どうしてあんな嫌味なジジィのいうことなんか聞いて、私の方が考えを変えなきゃいけないのよ」
「言いそうだと思ってたけど、やっぱりそうだったか」
「どういう意味よ」
俺は肩を竦めるしかできなかった。
「だったら、同情するほどのお話じゃなかったってだけだ。自分で言ってたじゃないか。弱肉強食で何が悪いって。自分のところの畑にばかり水を引くのも、別に悪くはないんだろう?」
「それは、そうしなきゃ生きていけない人の話でしょ? 首相になれるいいとこの御曹司が、背伸びしたい女の子を摘み食いするためにやることまで同列に語れなんて言ってない」
「その言い草、実際に命懸けで女神挺身隊に参加して、どうにか生き延びたコーザの前でもう一度言ってみたらいい。それとも、お前が自分で挺身隊に参加でもしてみるか?」
自分の細腕では、ろくに剣も振れやしない。それくらい、すぐわかる。だからこそ、怒りを露わにして、彼女は食ってかかってきた。
「じゃ、なによ。あのジジィが正しいって言いたいわけ?」
「いいや? あれを全面肯定したら、本当にただ黙って滅ぶだけで、何の生産性もない。ただ、ああいう立場が最適解になってしまう人もいる。それだけだ。そしてお前は、自分が強者の側に立てる場合には、追いやられた人の気持ちなんか、まったく考えようとしないんだ。自分が不利な時には、私、こんなに可哀想って顔をするくせに」
「実際、被害者じゃない! 私も、母さんも」
「お前はともかく、お前の母親はただの被害者じゃない。だって、いい家の坊ちゃんだった今のボッシュ首相に、自分からついていったんだろう? まさか無理やり拉致監禁されてものにされたってわけでもないんだろうし。お前に向かっては、ただ捨てられたって言ってるのかもしれないけど、そこは疑ってるんだ。手切れ金くらいは貰ったのに、それをお前が生まれる前に早々に使い切ったとか、そんなところじゃないのか」
そう指摘されると、マホは怒りゆえに絶句した。それから、理屈も何もない怒りを吐き出し始めた。
「……何よ」
「何って言われても」
「死んじゃえばいい。さっさと死んだら? 何よ、こんなところまで来て、あのあばら家を見て、言うことが嫌味なの? 死ねば? あなたも、ボッシュも、サラトンも」
「サラトンさんは、死んだよ」
一瞬、毒気を抜かれたような顔をしたマホだったが、怒りは持続していた。彼女は侮辱を止められなかった。
「そう。いい気味だわ。自分勝手な奴が、またこの帝都からいなくなったんですもの」
「サラトンさんは、死ぬ前に、自分の全財産を恵まれない人に寄付してほしいと言っていたそうだ」
俺は頭を振った。
「相変わらず、何も見えてないんだな」
「なんですって」
「お前にとっていい人が悪い人でない保証もない。逆もそう。どうしてこんな簡単なことがわからない? 頭、いいんだろう? 帝都の学業成績で一桁になるくらいに。なのに、なんでこんなに見えている範囲が狭いんだ。いや、だからこそ、か?」
なぜ彼女がそんなにも優秀になれたのか。視野が狭いことが、有利に働くことがあるからだ。あれもこれも見るのではなく、限られた範囲を何度も何度も見る。だから細部に敏感になる。その領域だけは熟知するに至る。
才能とは、単純化するなら、即ち世界の見え方に外ならない。マホの視界は、何もかもがズームアップされているのだろう。だから近くのものがよく見える代わり、遠くのことには気付けない。本来なら、それも一長一短でしかないのだ。
「お前には、世界は広すぎたのかもな」
その一言に、彼女は顔を歪めた。
「私だけじゃない」
だが、すぐ整理がついたのだろう。比較的落ち着いた声で言った。
「大半の人にとって、世界は広すぎるんじゃないのかしら。生まれた国も違う、立場も違う、身分も違う、性別も……でも、その違いを乗り越えるなんて、そんなに簡単にできることじゃない」
「それは……そうかもしれないな」
「別々に生きていればよかったのよ」
暗く沈んだ声で、マホは呪った。
「私の母さんも、背伸びなんかしないで、普通に生きればよかった。どこかの御曹司相手に夢なんか見なければ」
固く拳を握りしめ、憎悪を搾り出した。
「違いのありすぎる世界の人と手を取り合おうなんて、してはいけなかった。そうに決まってる」
自覚はあるのだろうか? それは彼女がこれまで支持してきた正義を、自ら否定する一言だったのに。
マホは、そろそろ星の瞬き始めた夜空の下、材木の上で背を丸め、顔を伏せた。




