抑止力崩壊
その日の朝も、いつも通りだった。ヒメノと校門のところで別れ、一人で教室に向かった。ブランデーの海の中を行くような廊下を抜け、重い木の扉を押して踏み込んだ。そろそろ午前中の早い時間には、涼しさを感じられる微風が吹くようになった。それはこの教室の中にも流れ込んできている。
今日も、教室の様子はいつも通り……
「あっ」
誰かが俺の存在に気付くと、口を噤んだ。急に静けさが場を支配した。
いったいどんな噂が流れたんだろうか。大方、また何か俺がいやらしいことの一つでもしたとか、そういう情報が伝わったんだろう。もう、いつものパターンすぎて、何も言う気が起こらない。
「なぁ、ファルス」
席に座ってしばらく、隣にいるギルが、意を決して話しかけてきた。
「お堅いお前のことだから、全部、根も葉もない噂なんだろうけど」
「なんだ?」
「いや、いくらなんでも、お前が手を出すにしたって」
そこまで言った時、ハイヒールの踵が床を踏み鳴らすのが聞こえ、彼は慌てて口を閉じて前に向き直った。
「えーっと、コモ君?」
「はい」
毎度のことだ。彼ももう慣れていて、スムーズに教壇の横にやってきた。
「これ」
「はい」
いつもと同じ、連絡事項の代読。そしてフシャーナ自身はというと、教壇に突っ伏して寝てしまう……はずだった。
「あの、教授ぅ」
しかし、後ろの方の席から声が飛んだ。例の三人娘の一人だった。
「なにかしら」
「ファルス君のお手付きになったって本当ですか?」
爆弾発言、という言葉かぴったりくる。禁断の質問を投げかけられて、フシャーナは硬直した。と同時に、教室内は瞬間的にざわめきに包まれた。
今朝のあの空気は何かと思ったら、これか! いや、思っていても、尋ねちゃダメなやつだろ! 例の朝帰りの件のせいだろうが、どこからどう漏れて、こうなったんだろうか。
「ええっ」
フシャーナは、何も答えなかった。
何をやっているんだ、さっさと涼しい顔で否定しろ!
「きょ、教授?」
「バカなこと言ってないで……コモ君! あとは頼んだわよ!」
「は、はい」
なんてこった。フシャーナ、今の一言で見るからに顔を紅潮させてしまった。そんな態度を見せたら、認めたも同然だろうに。
だが、冷静ではいられないのだろう。彼女は教壇に突っ伏して寝る代わり、教室を出ていこうとして、二、三歩進み、そこで立ち止まった。
「あっ」
それから振り返って、気まずそうに言った。
「ファルス君、頼みたいことがあるから、あとで実験棟の方まで来るように」
「うぇっ」
「それじゃ」
そのままフシャーナは教室を出ていった。
その数十秒後、教室内は驚きと戸惑いで大騒ぎとなった。
「う、嘘だろ?」
「ギル、少なくとも僕は」
「あ、ああ、わかってる、わかってるよ」
「うわあああ」
俺は頭を抱えて机に突っ伏した。
たまったものではない。俺にとっては、大事な学園内での抑止力が一つ、崩壊したようなものだ。今年の春の初め、俺がリリアーナとヒメノ、リシュニアとマリータの引っ張り合いに捕まった時、救い出してくれたのはフシャーナだった。それができたのは、彼女が「俺の女」ではなく「学園の責任者」だったから。公的権力には誰も逆らえなかったからだ。だが、その前提が崩れるとなると……
「何やってんですか」
「不意討ちだったのよ」
言われた通り、実験棟……例のゴーレムの加工場の上、棚に様々な品々が所狭しと積まれた「魔女の要塞」の一室で、俺はフシャーナを問い詰めていた。
「僕はいいですけど、教授の立場からしたらマズいんじゃないですか?」
「クビになるなら、なったっていいけど……それより、呼びつけた理由を説明しないと」
椅子の上でこちらに向き直り、狭い場所だというのに足を組んで、彼女は俺に数枚の書類を突きつけた。
「面倒だろうけど、ちょっとお使い、お願いできる?」
「どこへ行けば?」
「マホさんの家」
ガクッと肩から力が抜けた。
「よりによってアレの? いや、犬猿の仲なのに、なんで僕が」
「でも、実は一番接点があるのもあなたなのよ」
「それは無理もないですが」
あの性格、あの行動、あの態度だから。同級生も、誰も寄り付かない。
「ここ数日、学園に来てないでしょ」
「そうですけど、別にそんなの、割とあることじゃないですか」
「一応、彼女もあなたと同じ特定推薦の制度で入学しているから、社会貢献のための欠席は認められているんだけど、今までは団体の活動などで休む時には、ちゃんと事前の連絡があったわ。でも、このところのお休みは無断欠席だから」
そう言われると、確かに妙な気はする。
事件性があったりとか……
「ん? でも、仮にマホが誰かの恨みを買って殺されたりとかしてたら、僕、第一発見者になったら容疑者になっちゃいません?」
「そこはさすがにどうにかするわよ。だいたいあなたがそんなわかりやすいことするわけないし……殺すなら死体なんか残さないでしょ?」
「ええ、まぁ」
「だから、連絡しに行くという形で、ついでに無事を確認してきてほしいってこと」
でも、仮に事件が起きて、彼女が殺害されていたとしたら。それは俺が原因かもしれないと思い至った。昨年の夏、マホは妙な政治工作をしようとして噂を流し、結果としてアスガルに捕縛されている。無論、彼女がまた何かしでかしたとしても、アスガルが独断で彼女を殺害するとは考えにくい。少なくとも、まず俺に一報を入れる。ただ、今はそのアスガル本人が帝都にいない。ハリジョンでティズに、例の話し合いの件を伝えるためだ。ゆえに、彼の手下どもが勝手なことをした可能性なら、少しだけ残っている。
俺は溜息をついた。
「なんかあっても、さすがにアレは自業自得だと思うんですけどね。政治活動って、要は利権の引っ張り合いじゃないですか。そりゃ、命くらい狙われますよ。王や貴族が標的になるのと同じです」
「多分、そんな深刻な何かは起きてないと思うけど……選挙も来年だし、さすがにちょっとね。でも、念のためってことで、君が適任だと思ったの」
「はぁ」
大した手間ではない。
「わかりました。一応、この書類だけ届けて、あとは何か起きてなければ、明日報告します」
「ありがと」
溜息が漏れる。とはいえ、本当に小さなお手伝いだ。断るほどでもない。
夕方、校舎を出て校庭を歩いていた。考えていたのは実にくだらないことで、マホの家まで乗合馬車で行くか、貸し切り馬車で行くか、それとも『高速飛行』で行くか。あんな奴のために小銭も時間ももったいない……しかし、だからといってなんでもかんでも魔法で便利に、というのもいかがなものか。
そんな上の空の状態でのんびり歩いていたのだが、ふと視界の隅、学園の敷地を区切る煉瓦の壁の手前にあるベンチに、見知った人がしゃがみこんでいるのが映った。
「こんなところで、どうなさったんですか」
ベルノストも上の空で、完全に脱力していた。俺がすぐ近くまでやってきても気付けないほどに。
「おぉっ……なんだ、ファルスか」
「大丈夫ですか?」
「ああ」
とてもそんな風には見えない。
「なんだかひどくお疲れのようですが」
「体の疲れは、ははは……久々に師匠にしごかれたからだ。そういう意味では、むしろ気分がいい」
そういう意味では、か。
やはり、グラーブに干されている現状は、相当に堪えているに違いない。その上で、オギリックも彼を追い落とそうとしているのかもしれない。だが、精神的に苦しくても、彼はどこにも吐き出すことができない。
「殿下が何か」
「目立つなと。それだけだ。あとは何も」
「そうですか」
本当に、グラーブはどういうつもりなのだろう。先日のサロンでも、ポッと出の誰かを起用したところで、思ったようにはいかないと思い知らされたばかりではないのか。ベルノストなら、うっかりリベートを受け取るなんて、そんな間抜けはしでかさない。それくらい、わからないでもなかろうに。
とすると、意地になっているとか、そんなところだろうか?
「そんなこんなで、何もやることがなくなってしまったのだが……ファルス、不思議なものだな? 暇になればなるほど、疲れやすくなる。目立たなければいいのだから、他になんでも好きなことをして過ごせばいいのに。家でゴロゴロしていてもいいはずなのに、それすらくたびれてしまう」
「人間、そういうものですよ」
ニートがなぜ、すぐに力尽きてしまうのか。一日中、自由時間があっても、まったく充実した暮らしを営めない。ただ無為に時間だけが流れていってしまう。その理由が、これだ。何事にもコミットしていないから、動き出す最初のエネルギーを常に要求される。ちょうど電気回路が、起動の瞬間に大きなエネルギーを要するのと同じだ。
「心配なさらなくても、殿下にはベルノスト様が必要です。今回の不祥事で、そのことをよく学ばれたに違いありません。でも、できることがあればやりますよ。効き目があるかどうかわかりませんが、殿下に意見しても構いません」
「ああ、気持ちだけありがたく受け取っておく。それに」
彼は、疲労感を滲ませつつも、笑みを浮かべてみせた。
「お前にはもう、充分に世話をしてもらっているからな」
「そうですか?」
「ああ。こんな憂鬱な気分も、自宅に帰れば少しは明るくなる。なぁ、ファルス」
彼の目に、優しげな光が宿った。
「あのタマリアという女は、まるで向日葵のようだな」
俺が以前に思ったのと、まったく同じ感想を彼は口にした。
「あれはお役に立てていますか。ご迷惑とか失礼とか」
「迷惑はともかく、失礼は……まぁ、失礼というほどの失礼はないな。強いて言えば些細な不作法、そんな程度だ。だが、それを補って余りある。あれはよく笑うし、頭も悪くない。自然と明るい気分にさせてくれる」
「であれば、こんなところにいなくていいのでは」
「それがそうもいかんのだ。少しは気持ちを自力で立て直さないと、本当に疲れた顔をして帰ったら、あれこれ気を遣わせてしまう」
そういうことか、と納得した。
「なに、もうしばらくしたら帰るとも。逆に帰宅が遅くなりすぎると、それはそれで顔を見られないのだしな」
「そうですか。とにかく、何かあったら相談くらいはしてください。済みませんが、僕はこれから用事が」
「ああ」
手を振ると、俺はそのまま歩いて学園の敷地を出た。
雲の多い夕暮れ時だった。夏が終わってからの昼の短さには、毎年のことながら、いつも驚かされる。乗合馬車では時間がかかると判断して、結局、魔術でマホまで飛ぶことにしたのだが、それが正解だった。
というのも、彼女の住所があるところが思った以上に遠く、しかも俺にとって馴染みのない区域にあったからだ。西二号運河のそのまた向こう。ギルの家のある辺りに近いが、そこよりもっと郊外だ。その辺りにあるのは、ガランとした印象を与える倉庫とその広い敷地、この時間には人気のない大きな工場、そして古びた集合住宅ばかりだった。それもせいぜい二階建ての木造、それがチョロチョロ水を流す運河の支流の脇に並んでいる。
辺りは静まり返っていた。そろそろ夕飯時なのに、と思ったところで、この静けさの理由が分かった。この辺の住宅には、ほとんど子供がいないのだろう。高齢者ばかりの、打ち捨てられた街だから、こんなにもひっそりとしているのだ。
一応、市民権保持者の生活領域ではあるものの、あまりにもの寂しい。足下には、誰かが飲んで放り出した酒瓶が転がっていたりすることもある。帝都防衛隊の見回りの範囲内ではあるだろうから、何かない限り、最低限の治安は保たれているのだろうが、これではラギ川南岸よりはマシ、という感想しか思い浮かばない。
少々、意外な気がしていた。
正義党の関連団体に首を突っ込み、中身のない社会運動に熱をあげるマホの生活が、こんな場所で営まれていたというのは。
周囲に人がいないので、とりあえず『透明』の魔術を解除した。それから、マホの自宅を目で探す。手渡された書類の示すところに従うなら、目の前の無個性、無機質な木造住宅……塗料の剥げかけたあの建物の二階の隅の部屋……
「うるっさいわね! 出ていきなさいっ!」
突然、耳を劈く中高年女性の怒鳴り声が響き渡った。周囲が静かだっただけに、尚更、窒息させられるような気持ちになった。物を投げたのか、何かが砕けるような音もした。
何が起きたのか。その場に留まって様子を見ていると、やがて目当ての部屋の扉が開くのが見えた。そこから、小柄な若い女性……どう見ても簡素としかいえない服を身に着けたマホが出てくるのが見えた。彼女はこちらには気付いておらず、俯いたまま、階段をゆっくりと降りていった。
「あのぅ」
なんとも声をかけづらいのだが、そうしないと用件が片付かない。
「はい?」
「えっと、書類を教授から預かって」
「はぁ? 誰かと思ったらファルス? なんでこんなところにいるのよ」
一瞬でも可哀想と思った自分を責めたくなった。即座にマホは臨戦態勢になっていた。
「仕方ないだろう。教授から指示を受けてここにいる。この書類を届けてほしいというのと、あとは無断欠席らしいから」
「あぁ」
納得したらしく、彼女は黙って書類を受け取った。
それから、近くの倉庫前の広い敷地、そこに積まれていた材木の上に、ゆっくりと腰を下ろした。
「教授に伝えることは? いくら特定推薦の身分でも、無断欠席が続くと、卒業できないぞ?」
「そうね」
書類に目を通そうにも、心ここにあらずといった様子だった。
「いったい何があった?」
「何もなかった、という方が正しいと思う。私の気分の問題だし」
「気分?」
マホは頷くと話し始めた。




