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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第五十一章 帝都だけの花
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近似値の話

 古びたテーブルの表面には、ニスの輝きが残されていた。それに、美しい曲線を描く椅子の背凭れ。これが作られた直後には、どれほどの輝きを放っていたことか。だが、その一切はもう、曇ってしまった。足下の床板もそうだ。以前、目にした時にも感じたことだが、赤茶色の、見るからに立派な木材が使われている。だが、その高級なはずのものが、今では年月の経過によって傷み、その価値を失いつつある。

 ここに来る客には、それが却って似つかわしく感じられるのかもしれない。こんな場所のこんな喫茶店に、若い人など、まず顔を出さない。しおれた花のようなおばちゃんがウェイトレスを務めるのだが、そこに足を運ぶ人々はといえば、もはや年月を経た古びた切り株か、さもなければ苔生した石ころではないか。

 とはいえ、だからといってここに新しい風が吹かないと決まったわけでもない……


「ご苦労様だったね」

「いえ」


 ケクサディブは、軋みをあげる背凭れに身を預けながら、俺のこのところの話を聞いてから、肩を竦めて、それだけで済ませた。


「そういえば、千年祭の間は、ほとんどお見掛けしなかったのですが、どちらにおいでだったのですか?」

「ん? ああ、仕事だよ、仕事。フシャーナ一人では首が回らんかったからね。あとは、まぁちょっとした個人的な用事もあって、暇がなかったんだ」


 そう言って、彼はカップをそっと持ち上げた。その中には、深い焦げ茶色の液体が静かに波打っていた。


「んん、牛乳がないと、ガツンとくるな。だが、これはこれでいい」


 なんと、こんな喫茶店でも、コーヒーが出されるようになっていた。ただ、いまだにコーヒー豆は高級品、分量は限られているので、値段は紅茶の五倍、しかも一日に出せる数量にも限りがある。ただ、それでも毎日売り切れになってしまうらしい。


「これなら及第点ですね。ちゃんと伝えられている通りの抽出をしているようです」


 この店の今日最後のコーヒーは、俺とケクサディブのものになった。残念だが、他の客は明日以降にまた来てほしいものだ。彼らの楽しみを横取りしたいのでもなかったが、この世界にこの味を齎した張本人として、末端でどんな売られ方をしているかを確かめずにはいられなかったのだ。


「これでも安くなった方だ。他の店なんだがね、この前に飲んだ時には、この三倍は取られたよ」

「それはまた……僕に言ってくれれば、さすがにもうちょっと安く調達できましたのに」

「いやいや、あの日はね、どうしてもそこで飲むしかなかったんだ」


 はて、変なことを言うものだ。とにかく今すぐコーヒーを飲みたいだなんて、まるでカフェイン中毒ではないか。

 俺が疑問を感じたのが伝わったのだろう。彼は頷いた。


「わしのためではなくてね」

「はい」

「まぁ、要するに」


 彼は静かにカップを置き、テーブルの上で手を組んで、静かな声でそっと告げた。


「サラトンが死んだよ」


 予期されないことでもなかった。見るからに健康状態が悪化していた。それが夏前のことだったのだから。


「人生最後の、といったところでしょうか」

「なに、あいつも満足していることだろう。千年祭を見届けてから死んだんだ。それに、ずっと貧乏暮らしだったが、最後の最後で大金持ちになったからね」

「どうやって、あの体でお金を?」

「君だよ」


 鼻で笑いながら、彼はフォークでパンケーキをつついた。


「わしがちょっとだけ入れ知恵したからね。五回戦から先の君の試合に、全財産を突っ込ませた」

「ちょっと」

「なに、どうせもう何日も生きられん体だ。仮に君が負けて全財産をなくしたところで、構いやしなかったのさ。だけど、決勝戦が無効試合になったほかは、全部君の勝利だったからね。ゴモ、イッカラス、それにクィロル、チャン・クォ! 毎回、資産が何倍にもなる勝負だった。ろくに声も出せん体で、大笑いしておったわ」


 俺が笑い者にされている横で、彼らは笑いが止まらなかった、というわけだ。


「じゃあ」


 彼の手元のコーヒーカップを見下ろしながら、俺は尋ねた。


「まさか、今日の代金も?」


 今日はわしが出そう、と言われたから。サラトンが使い切れずに残したお金を懐に入れた、といったところだろうか。


「邪推だよ、ファルス君」


 だが、そうではないらしい。彼は笑みを崩さず言った。


「あいつの金は、葬式代とかツケその他借りのあるところへの支払いに充てた他は、銅貨一枚も抜いてはおらん。遺言通り、恵まれない人々への寄付金に回したよ」

「そう、だったんですか」

「生前から、できれば何か、一つくらいは世間のためになることをしておきたいと言っておったしな。ちょうどよかった」

「では、今回のお金は?」


 ケクサディブは肩を竦めた。


「別荘を譲ったのさ」

「別荘? あの、サラトンさんが暮らしていた方のことですか?」

「ああ、そうとも。本当はわしこそ、あそこで老後をのんびり過ごすべきだったのだが、どうやらそんな機会はなさそうなんでな。ごく安くだが、処分したよ。それで手元に残った小銭でね、こうして飲み食いしているわけなんだ」


 そう言って、彼はまたカップを口に運んだ。


「で……役目として、こうして定期的に君の顔を個人的に会ってみているわけだが、どうだね」

「どう、とは」

「恐ろしい衝動がこみあげてきて、世界を滅ぼしたくなったりしていないのなら、一安心だが」

「コーヒーと醬油を消し去ろうとする何者かが現れたら、そうなるかもしれません」


 俺がそう答えると、彼は背中を反らせて笑った。


「そいつは何より、結構なことだ」


 それから呼吸を整えて、彼は尋ねた。


「最近、気がかりなこととか、困っていることなどはあるかね」

「大したものはないです。殿下の不興を買ってしまったり、千年祭で変な噂が広まったり、具体的な問題としては、そんな程度しかないです」

「そんな程度、ね」


 彼は肩を竦めつつも、俺を覗き込むような眼差しを向けた。

 店を出て、俺とケクサディブは市街地を歩いた。北側には、こんもりと生い茂る時の箱庭が聳えている。そちらを右手に見ながら、これといった目的地もなく、なんとなく西側、商社街に繋がる運河の橋を目指していた。


「それにしても……」


 先に立ってゆっくりと歩きながら、彼は立ち止まり、振り返った。


「どういうわけか、君の表情に小さな引っ掛かりを覚えるね」

「何か問題でも」

「いや、だって、君は宿願を果たしたわけだ。コーヒーを広める、ショウユなる調味料を再現する。その夢は、この夏に叶った。なのに、晴れやかな顔をしていない。この上、何か君を悩ませるものがあるのかね」


 そんな風に見えていた、か。

 あるかもしれない。問題らしい問題のない日常に戻ってきたというのに、自分の中できれいに答えを出せない問題が居残ってしまったから。


「具体的な問題としては、と但し書きをつけていたのがね、気になっただけだよ。それなら、具体的でない悩みならあるのかなと」

「悩み……まぁ、殿下との関係とか、厄介なことがないのでもないのですが、そこは別に」

「ふむ?」

「もっと漠然としたお話ですよ」


 彼の横に並んで立った。ちょうど橋のすぐ近く。目の前には東二号運河が音もなく流れ、陽光を照り返していた。


「前に、お伺いしたお話です。この世界は、人の作り出した社会は、いつか寿命を迎えるものだと」

「言ったね、確かに」

「帝都は……大陸では考えられないほど、退廃したといいますか、ある意味で醜い世界だと思うのですが」


 俺の言うことに彼は小さく頷いた。


「ですが、千年祭が終わる頃、ふと思ったんです。とある催しで、いろんな方がお客様としていらした場で、それこそ昔からの知人が大勢、訪ねてきてくれました。でも、その中には僕の敵だった人もいるし、僕の知り合い同士に遺恨があったりもしたんです。なのに、同じ場所でテーブルを囲んで、笑顔で過ごしてくれた」


 そのような世界を、俺は望んでいた。そのことを再確認させられた。


「それができるのは、ここが帝都だからです。そうではないですか」

「帝都の理想を体現できる君ならでは、だがね」

「でも、そうなると」


 だが、だからこそ、俺の中では、無視できない矛盾になってしまっていた。


「人と人とが手を取り合って、大きな世界を作る。だから幸せになれる。でもそれは、いずれ、この世界の余白を塗り潰してしまう。そうなると、その世界は終わる」

「そうとも」

「だったら、それをしなければいい。いつまでも、この世界に塗り潰せない辺境があり続ければ……でも、あの時、気付いてしまいました」


 人々が手を取り合うということ。だからこそ世界が滅びに向かうのに……


「世界を広げることに、僕は喜びを感じていました。その先に、何があるかを知っているのに」

「それが自然なんだよ。だから難問なのさ」


 彼はまた、ゆっくりと歩き出した。


「わしが思うに、わしら人間には、三つの柱があるんだ」

「柱? ですか?」

「そうとも。そしてそれはわしらの現実そのものを支えているんだが、どれも真ん中から支えているのではない。だから、どの柱もそれだけでは、適切にわしらを生かすことができない」


 それから彼は橋の上で振り返って、人差し指を突き立てた。


「例えば、人は幸せになりたがる」

「はい」

「では、大好物のおいしいものだけ食べれば、人は健康を保てるかね?」


 愚問としか言いようがない。


「好きだからとお酒ばかり飲んで美食に耽ったら、そのうち痛風に悩まされるようになるでしょうね」

「そうさ。だけど、贅沢な食事、例えば立派なステーキというのは、そもそも体に悪いといえるものなのかね?」

「いえ、あくまで適量かどうかです。お酒はともかく……甘いケーキだって、脂身たっぷりの肉だって、ほどほどに食べれば、悪いものではないです」

「そういうことでね。わしらは本来なら滅多に食べられない、食べれば元気になれるような御馳走が大好きなんだ。それは、貴重な食事の機会を逃さないためには、役に立つ性質だ。だけど、いざそういう贅沢な食事ばかりを食べられるようになったら、逆にそれでブクブクに太ったり、病気になってしまったりする」


 俺達が感じる幸福と、生存するということの間には、そういう小さくないギャップがある。


「つまり、わしらが感じる幸福というのは、生存の近似値を指し示すに過ぎない。やりたい、そうしたいと思うことは、ある程度のところまでは生存に寄り添ってくれる。だけど、肝心のところでは、却ってわしらの命を脅かしさえする」


 それから彼は、中指も立てた。


「意味もまた、同じような矛盾が伴う」

「意味?」

「この場合は、そうだな、正義とか、社会常識とか、そういうものだと思ってくれればいい。例えば、好色王として名高い君だが、本当にその名声に相応しい行動をとったとすれば、どうだろう?」

「やめてくださいよ。噂はいろいろあっても、誰にも手を出してないのに」

「そう、それだ」


 俺の反応を見越して例を示した彼は、満足そうに言った。


「君が、その身持ちの固さを発揮しているのは、要するに意味を気にかけているからだ。肉体関係をもったら、ただの遊びでは済まない? いいんじゃないかね? 君は領地持ちの貴族だ。キトの税収だってあるんだろう? いくらでも愛人にしてしまえばいい。贅沢なんかする余裕はないって? 君ね、君ほどの資産を持った人物が、女の一人や二人、囲ったくらい、財政全体からすれば、ほとんど誤差みたいなものだよ。違うかね?」


 それはどうだろう? 性質の悪い女が極限まで贅沢を求めたら、国すら傾きかねない。

 だが、それはそれとして、俺の場合は確かに誤差だ。ノーラにせよ、ウィーにせよ、ホアにせよ、その他ヒメノやカエデにせよ、一定限度を超えた贅沢を要求するような女ではないし、ヒメノを除けば、半ば俺が彼らの生活の場を整えているようなものだ。つまり、コストは既にかかっている。

 つまり、俺がそうした関係を持つことの意味について考えすぎているから、何も進展しないのだ。


「そうやって意味を大事にするものだから、君は幸福も掴めないし、生存……なんといっても人間は必ず死ぬものだからね、子孫を残すしかないわけだが、その機会があっても逃してしまう」

「いや、でも、野放図にいろんな女性と関係しまくる男が、まともな末路を迎えられると思うんですか」

「なかなかそうはいくまいね。だから、これも近似値なんだよ。わかるかね」


 健全な性規範を守って生きることには、一定の妥当性がある。例えば、男なら一人でも多くの女性と性的関係を持ち、片っ端から妊娠させた方が子孫をたくさん持てる。つまり、生存が近づくのだが、それはあくまで理論値のお話だ。現実には、同じ社会の他の男性の利益を侵害するがゆえに、そういう行動をとる男は、社会そのものを敵に回してしまい、逆に生存を絶たれやすくなる。

 このように、意味に従って生きることは、生存や幸福を追求する上で、途中までは役に立つ。だが、ある線を超えると、逆にそれが足枷になる。


「逆に、生きることそのものに最適化すると、幸福も意味も、どこかで遠ざかると」

「そうとも。酒も飲まない、悪い遊びの一つもしない、今の君のようなお固い人間の人生なんて、何が楽しいのかね!」


 苦虫を嚙み潰したような顔をするしかないが、否定はできない。

 そこで気付いた。これはトリレンマなのだ。


「帝都の人々は、生存を犠牲にして、幸福と意味をとったんですか」

「わかるかね」

「どうしたって不安定にしかならない柱に思います」

「そうだな。君の、その……人と人とが結びつくことに喜びを覚えるというのも、要はそういうことで、君は君の感じる幸福と意味が、短期的には周囲に恵みを齎すとしても、長い目で見ればそうではないと、そこに気付いてしまったわけだ」


 それで話は繋がった。だが、肝心の答えはまだない。


「それはわかりましたが、なら、どうしたらいいんですか」

「君が考える課題だよ、それは」

「そんなことを言われても」


 溜息一つ。ケクサディブは、実に不完全な回答をした。


「三つの柱で足りなければ、あと一つ、柱を足してやればいいんじゃないかね」

「えっ?」


 だが、それだけでヒントは終わりらしい。彼は身を翻して、橋の向こう側へと歩き出そうとしていた。


「適当すぎません?」

「近似値の話だからね」

「だったら、どうすればいいかを近似値で述べてみてくださいよ」


 すると、彼は口元だけで意地悪そうな笑みを浮かべた。


「月並みだがね」

「はい」

「ありがとう、と言うんだ」

「はい?」


 立ち止まり、俺の顔を覗き込んでから、からかうような口調で言った。


「正解ではないよ。でも、きっとそれが近似値だ」


 そう言うと、今度こそ彼はこの会話を打ち切って、歩き出してしまった。

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誤字:ギィイ…… 訂正:ギィ!
4本目の柱分かりました。ギィの柱ですね。
ファルス君は自分が何を望んだかがよくわからなくなっている節があると思うんですよね、少なくとも今ファルス君に必要な四つめの柱は自分の意思、信念じゃないでしょうか。 三つの柱がある事を認識した上で貫ける何…
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