殿下の不満
いつぶりだろうか。俺の肩をしっかりロックしたまま、ケアーナは、学園付近の高級商店街にある、あのレストランの入口を潜った。それから、予約しておいた奥の間まで、一直線に向かった。大きすぎる丸テーブル、不自然に二脚だけ置かれた椅子、そして特殊な用途を想定して配置された大きめの長椅子。立派な浮彫りを施された木の壁面に取り囲まれ、薄暗い中、ひんやりとした空気の中でじっとしていると、どうにも身の縮む思いが胸に満ちてくる。
実際、気のせいではないのだろう。きっとろくな話ではない。
「あー、じゃ、とりあえず食べ物はこれで結構だから、呼ぶまで来ないでね」
「畏まりました」
店員を笑顔で追い払ってから、ケアーナは俺にも軽口を叩いた。
「それで、どうする?」
「どうする、とは」
「私まで毒牙にかけちゃう? 性神様」
「あのですね」
俺はテーブルに肘を置き、深い溜息をついた。
「武闘大会の予選で、余計なことを言ってくれましたよね。あれがダメ押しになったんですが」
「反省してるよ。あんまり笑い事じゃなくなってさ」
「何か? 閣下から僕の機嫌を損ねるようなことをするなとかって、そういうお叱りでも受けたんですか」
「いや、まだそっちは何も起きてない。でも、それどころじゃないの」
ケアーナの悪戯っぽい笑みも、ここまでだった。彼女も俺に深い溜息を返し、お祭りの後始末の話をし始めた。
「殿下がカンカンよ?」
「殿下って、その、グラーブ殿下のことですか」
「そう」
だが、心当たりがない。
「武闘大会は、出る出ないは一応、個々人の裁量に任せるみたいなことを、事前に仰っていたじゃないですか。僕にしても、ベルノストにしても、そこまでひどい成績ではなかったはずです。あそこまで勝ち上がったのなら、殿下の恥にはならないはずですが」
「それだけなら、まぁ、よかったんだけど」
ケアーナは、本当の問題を切り出す前に、周辺の事柄についての話を終わらせた。
「まぁ、夜の帝王云々の話も含めて、火に油を注いだって感じになっちゃってるの」
「僕が自分で言いだしたことじゃないんですが、まぁそれはいいです。わかってるでしょうし。で、あれは油の話ですよね? 火元はどこなんですか」
神妙な顔をして、彼女は深く頷いた。
「汚職」
何を言われたのか、理解が追いつくのに数秒間を要した。
「はい?」
「それも自覚すらなかったっていうんだから、もう目も当てられない」
「何があったんですか」
グラーブは、自分の活動のかなりの部分をベルノストに委任してきた。幼少期より長年に亘って側近役を引き受けてきた彼も、主君の期待に応えるべく、帝都留学中の催事の多くを、大過なくこなしてきた。だが、昨秋の醜聞がきっかけで、彼は遠ざけられるようになってしまった。
とはいえ、今から彼の代役をこなせる人材が、そう簡単に見つかるものだろうか? それでもグラーブは、これまでは騙し騙しで数々の社交を切り抜けてきた。しかし、今夏の千年祭で、ついにリソースの枯渇に悩まされることになった。
これは、グラーブ自身の無能ということではない。彼が社交の顔である限り、どうしても前に出て、来客に対応する役目を引き受けなくてはいけない。その状況で、裏方の管理まで同時に行うなど、そもそも不可能なのだ。
だが、困り果てた彼に、自らの起用を申し出た若者達がいた。
「王都のね、零細男爵家のご令息様と、別の家のまたご令嬢がですね」
「その、零細ということは、例によって無役の方の」
「そ。だから、年金だけの家の。実務なんかなーんにも知らないっていうね」
「なんでそんなのを使っちゃったんですか」
目元を覆う俺に、ケアーナは容赦なく言った。
「推挙されたから」
「誰に」
「アナーニア殿下に」
溜息と同時に、俺は吐き捨てた。
「学習しないんですか!」
「他に入口がないの。ねぇ、こんなことを私達が言えるのも、私達が王太子殿下ではないからじゃない? 殿下ご自身からすれば、忠臣も太鼓持ちも、区別なんかできっこないもの」
「それはそうですが」
そのご令息からすれば、これまでベルノストという不動の側近がいたところに割り込む絶好の機会だった。二代に亘って無役だった実家に役職を齎すことだってできるかもしれない。卒業後のことを考えれば、飛びつかずにはいられなかった。だが、彼はあまりに無知だった。
現実には、ベルノストがどれほど細部に注意しながら一切を取り仕切っていたか。ムイラ家という歴史ある一族の生まれということもあって、ベルノストにはその辺の勘所というものがあった。その一つが、リベートの取り扱いだった。
そのご令息は、催事のための発注を受ける業者から、お近づきの気持ちということで差し出されたリベートを、何の気なしに受け取ってしまった。前任者がこれをどう扱っていたかなど、考えもせずに。業者側からすれば、少しでもやりやすい相手になってくれた方がいい。だから金品を渡す。一方、新人の側近役の彼には、それが癒着であるとの自覚が希薄だった。むしろ、ベルノストはこれまで、こんなにいい思いをしていたのかと勝手に思い込む始末だった。
「あっちゃぁ……」
救いようがない。ベルノストがどれだけ自身を律していたか。賄賂とみなされかねない金品を受け取らないだけでなく、人付き合いにしても、普段の生活においても、徹底的に自ら制限していた。例えば、彼に個人的な友人が少ないのはなぜか。弟のオギリックのために友人を呼び集めた、あの千年祭の最中の小さなパーティーにしても、俺の周りの人間ばかりになったのには、それなりの理由がある。王が不自由であるのと同様、その側近もまた、それなりの不自由を受け入れなくてはいけない。
グラーブは、いわば黄金を手放して、鉛を握り締めてしまったようなものだった。
「で、まぁ、業者に言われるままに、今年後半のサロンの計画とかを立案して、予算も会場の図面も用意して。でも、殿下もバカじゃないから、それを見て、変だって気付いたわけよね。それでおかしいと思って問い詰めたら」
「そりゃ、経験も何もないはずの新人の側近が、急に具体的にそんなの持ち込んできたんだから」
「業者の提案をそのまま持ち込むなら、あくまで業者の提案だとして客観的に評価して、是非を殿下と討議するならいいんだけど、もう代弁者になっちゃってたっていうからね」
「誰のために仕事してんだ……」
これではグラーブが激怒するのも無理はない。こんな家来に一切を任せていたら、あっという間に腐敗が蔓延してしまう。
「で、この前提をおいた上で、ベルノスト様が武闘大会に出場した、ということを眺めてみるとね」
「確かに」
「そもそも公邸を出てから、割と自由にしてるってところも、気に食わないみたい」
「そんな無茶な。せっかくできた時間を、自分の活動にあてないで、家に引きこもってずっと反省でもしてろっていうんですか」
俺が紹介したギル達との付き合いも、グラーブからすれば、不愉快なのかもしれない。でも、それをやめろと明言するのなら、じゃあ殿下はベルノストをどうするつもりなんですか、また側近として活躍させるとか、そういう必要性があってのことなんですか、と問いが撥ね返ってくる。
「で、そこに更に話をややこしくしたのが、あなたってわけ」
「僕が何を? 武闘大会で笑い者にされたのは、僕が望んだからじゃないですよ?」
「そこも不愉快なとこなんだけど、もう一つあって」
「なんですか」
「コーヒー? っていう、アレ」
それで思い至った。
「まぁ、バレちゃったのよ。さっきも言ったけど、殿下もバカじゃないから、察しちゃったのね。マリータ王女が、南方大陸の商人経由でコーヒーの材料を大量に買い付けたっていっても、だっておかしいじゃん。事情を調べなきゃわからないことだったんだけど、だってあなた、あの材料の豆? が取れる土地、トゥワタリ王国にある山間の畑を全部、ドゥサラ王から譲渡されてるんだよね」
「まぁ、そうです」
「そしたら、南方大陸のその商人は、どこから誰の許しを得て、それを買い付けてんのよ」
ということで、情報を追いかけて熟考すれば、結論は出てしまう。
「自分じゃなくて、よりによってマリータ王女を頼って宣伝なんかしたのかってことだからね」
「じゃあ、殿下を頼れる状況だったんですか。代わりに一肌脱いでくれる余裕があったんですか」
「ないと思う」
「でしょう?」
「だから表立って責任追及したり、罰を下したりってことにはなってないわけ。そこは殿下もよくよく承知してるの。でも、気分が悪いっていうのは、また別問題だから」
それでやっと納得した。
なるほど、グラーブは愚かではないし、節度も弁えている。だが、だからといって、感情はどうにもならない。というより、むしろ感情面だけでいえば、更に悪い方向に傾いたのではなかろうか。
優秀な臣下に委任する寡頭制的な君主であるより、もっと王の実行力の強い独裁を目指す方針もあって、ベルノストの失敗を敢えて許さない選択をした。それも彼の中では精いっぱいの前進なのだが、その過程で、こうして臣下たる俺の必要に応える余地さえ残すことができなかった。これは、彼にとって自身の無力と失敗を意味する。
失敗したのは、彼自身のせいだ。それくらいはわかっているだろう。誰のせいにもできない。だが、部下の失敗は自分のせいになる。王者として育てられてきたのなら、そのことをいやというほど思い知っているはずだ。でも、だからこそ、苛立ちが収まらない。
「まぁ、目に見える不祥事は金品授受の件だけだから。でも、それは次回のサロンで議題に挙げられることになると思う。ということで、あなたも気を付けた方がいいかもって話なんだけど」
「僕は別に、気を付けるも何も」
そこはまた、俺としては悩むところではなかった。
「え? なんで?」
「だって、殿下に睨まれたら、何が困るんですか? ぶっちゃけてしまうと、多分、僕が実質的に貴族でいられるのって、せいぜいあと数年しかないし」
「えぇ!?」
「ティンティナブリアの復興が済んだら、陛下も領地を没収するつもりでいるし、僕も献上して済ませるので」
口をポカンと開けたまま、ケアーナは硬直していたが、すぐ立ち直った。
「で、でも、そうしたら正式に伯爵とかになるわけでしょ? 領地を献上するんだから」
「まぁ、そうですね」
「中央で官僚とか将軍になればいいじゃん」
「興味ないです。クビで全然いいので」
むしろ、俺を解雇したら困るのは、タンディラールの方だ。爵位なくしました、住むところもありません、なんて話になったら、ティズが手を突っ込むに決まっているからだ。必要なら、リンガ商会の関係者その他、全員をキトに引き取りさえするだろう。そして、俺を切り捨てた国に配慮する必要性は、もうなくなる。それでもティズが積極的に戦争をしかけるとは思えないが、エスタ=フォレスティア王国は仮想敵国の位置づけに戻されるだろう。真珠の首飾りの交易路を閉ざすくらいなら、普通にやりかねない。
「えぇぇ、それは困るなぁ」
「まぁまぁ、貴族と結婚するための点数稼ぎくらいには、協力するので」
「それも大事だけど」
肩を落として、そのままテーブルに顎を載せて。力尽きた芋虫のようになりながら、彼女は愚痴をこぼした。
「ひどくない? 殿下と殿下の仲違い、今じゃ私が一人で引き受けてるんだけど」
「お疲れ様です……」
「助けて」
泣き言を言いたくなるのも、わからない話ではない。
というか、この状況が大変すぎるから、俺を巻き込みたくて、こうして内情をぶちまけにきたのだろう。
「なんとかうまく収まるようには考えますが、僕が殿下をどうこうできるのでも、していいのでもないですからね」
「助けてよぉ」
「うーん」
出口のない問題に、俺もケアーナも、頭を抱えるばかりだった。




