夢のような一夜(上)
穏やかで優しい夜。そんな表現がぴったりくるひと時だった。
西の彼方を見遣れば、砂浜に繰り返し打ち寄せる波の音が控えめに聞こえてくる。日没後の残照が僅かに遠くの雲を照らすものの、もうほとんど頭上は闇に覆われていた。
満天の星明かり、というわけにはいかない。黒々とした雲がゆったりと流れている。ただ、それが頭上に雨を降らせそうな様子はまったくない。のっそりと、夜間の陸風に押されていくばかりだった。
汗ばむような暑さは、既になかった。緩やかに風が流れ続けてくれていて、ほどよく涼しく、しかも肌寒さも感じない。何も考えずにただ、寝そべっているだけで幸せになれそうな、そんな心地よさがある。
大勢の人々が、少しずつ、この会場に駆けつけてきていた。最初にホスト役である両王国の王族と、その下僕達。それに、会場の設営や来客の対応を引き受ける人間だ。俺もそこに含まれていた。まだ明るい時間から、俺は大勢の料理人達と一緒に、来場者に提供する食事の準備に追われていた。だが、下拵えも先ほど一段落したので、今は短い休憩をとっていた。
敷地の東側には、城砦のような巨大な石造りの本館があるのだが、今回、その中はほとんど使わない。その手前にある大きな庭、ここが世界平和会議のパーティー会場ということになっている。マリータの計らいで、参加者に一切の制限を設けないということで、どれだけの人が詰めかけるか、予想しきれなくなったためだ。
そういう事情もあって、提供する料理も「なんでもあり」に落ち着かざるを得なくなった。昨年の秋に俺がやってみせたような立食パーティーに合わせたものも出す。一方で、じっくり腰を据えて食べる料理も用意する。広さにだけは不自由しない場所なので、屋外にテーブルと椅子を並べて置いてある。
だから結局、今回は、新しい料理をほとんど提案できなかった。ありがちなアイディアでしかなかったが、アイスクリームやかき氷などを用意しておくくらいだった。それでも、この世界にこれまで存在しなかった味わいには違いなかったが。
東西に長い敷地だが、一応、殺風景にならないよう、工夫はされている。敷地の端に当たる部分には、単に壁を建てるのではなく、いちいち美術品を飾ってあるのだ。半裸の女神、剣を掲げる勇士、天に舞い上がろうとする龍神……それらの横に、灯篭のようなものが一定間隔で設けられている。そこには照明が点されていて、橙色の温かみある光が周囲をうっすらと照らしていた。
砂利を踏みしめる控えめな音が近づいてくる。
「お休み中のようですけれど、ご準備の方はよろしくて?」
マリータだった。見ればわかるだろうに。いや、だからこそだろうが。
「お客様がおいでになったら、また忙しくなります。今のうちに休んでおきませんと」
「そうですわね。世界料理大会三位、その名誉を今夜は存分に活かしていただきませんと」
それから彼女は口元を覆って、いつもの高笑いをしてみせた。
「それにしてもいい気分ですわ。他人の家来をいいように顎で使うというのは」
「はい。お仕えできて光栄です」
「あら」
いつもの煽り文句を空振りにされて、彼女は少し言葉に詰まった。
「どうして入場者の枠を、本来の学生だけという制限なしにしてくださったのか。理由がわからないということはありません。ここは僕が頭を下げるべきところです」
「な、なんのことでしょう」
声が少し上擦っている。
「私が、私の気前の良さを、世界中に知らしめようと思っただけですわ。ただ、そのための手駒が実は自前のものでなく、他人のものを勝手に使っているというのが面白いところですのに」
「そういうところ含め、上に立つ者の器量ではございませんか」
「またそういうことを仰る……調子が狂いますわ」
マリータが入場者に制限を設けないことにしたのは、俺のためだろう。つまり、今回もコーヒーの宣伝に使うつもりなのだ。だから、俺としては、ひたすら彼女に頭を下げ、感謝を表す以外にない。
「ご立派になられました」
「お世辞? 褒め殺しですの? そうやって世界中で女性を思うがままに惑わせてきたのですね」
「いえ、本心ですよ」
初めて出会ったときの、あの凄まじい我儘っぷりから、この成長だ。立派な王女様に育ったと思う。
「これは、またペンを持ち歩いた方がいいのかしら? 弁えを知らない愚か者に思い知らせる必要がありますものね」
「ええ、構いません。またテーブルクロスを引っ張ってお皿をひっくり返すのでなければ、あとは何をしていただいても」
軽く笑いあった。
「それはそうと、ファルス様」
「はい」
「最初の対応が済みましたら、少しはお時間が」
そこまで彼女が言いかけたとき、背後から別の足音が近づいてきた。
「殿下、そろそろ」
カフヤーナだった。マリータの表情に、一瞬、苦いものが混じった。
「やれやれですわ。では、ファルス様、厨房の方は」
「はい、お任せください」
それだけで、彼女は去っていった。
やがて西の空から残照が消え去ると、門前にあかあかと篝火が焚かれた。それに照らされて、続々と来場者がやってきた。
出迎える役目は、俺のものではない。グラーブとマリータが、今回の主役だ。俺は奥の方に引っ込んでいて、料理の注文を受けたら動き回る立場だ。とはいえ、一応、厨房の顔ではある。世界料理大会で金賞、銀賞を得るには至らなかったが、新たな調味料を提供したことの評価はされたらしく、一応、三位入賞という扱いだったからだ。今回のパーティーでも、そのことは大々的に宣伝したらしい。だから、来客が俺の顔を見たがったら、出張っていって挨拶くらいはすることになっている。大丈夫、下拵えは済んでいるし、マリータが用意した料理人達も、腕は悪くない。
千年祭もそろそろ終盤、ほとんどのイベントは終わってしまった。
やるべきことはやったし、今夜の仕事でそれも最後なのだが、多少の心残りがある。そして、その心残りの理由が、最初に俺のところへとやってきた。
「やっほー! ファールースー!」
「お嬢様、ようこそお越しくださいました」
「わぁ……ぐぇっ」
「いけません」
いつものように、俺に飛びつこうとしたリリアーナだったが、これまたいつものように、首根っこを後ろからナギアに押さえられ、首が絞まってしまった。
「料理大会、三位おめでとう! でも、残念だったねー」
「金賞も銀賞も、どちらも実力だったと思います」
「でも、ファルスがコーヒーを独占して、あの場で使ってたら、ひっくり返ってたかもしれなかったのにー」
俺は苦笑いしながら首を振った。
「あれでいいんです。僕は納得してますし、満足もしてますから」
「そう?」
むしろ、俺こそ実力以上の評価をされたのではないかと思っている。ただ、俺には前世の知識があり、醤油という武器もあった。それであそこまで食い込めたのだ。
「それより、お嬢様の方こそ、残念でした」
「えーっ、しょうがないよ、あれは」
「本選には行けるようにと予定を空けておいたのですが」
技芸の道は甘くない、ということだ。
世界音楽大会は、初回の予選、二回目の選抜、三回目の本選と日程が分かれていた。リリアーナは、初回の予選でぶっちぎりの高評価を得たのだが、二回目の選抜で、惜しくも僅差で残れなかった。
どうしてこういうことになったのか? それは、初回の予選は一般の聴衆の投票で決まるのだが、次の選抜での評価は、その道に通じた審査員の評価によるからだ。つまり、音楽を熟知した人々が点数をつける。
リリアーナには、いわゆる「華」がある。彼女のパフォーマンスを目にした人々を惹きつける何かがあるのだが、純粋な演奏者としての技量を、その手の人に冷静に判断された結果、微妙に力不足であるというところを見抜かれてしまったのだろう。
実のところ、彼女が真剣に技芸に打ち込むようになったのは、俺がエンバイオ家を去ってから。幼少期の彼女はサボり魔だったのだ。子供の頃からしっかりと努力をしてきた本物には、一歩及ばなかったのだ。
予選では首位通過だったので、これは本選までいくだろうと、本人も俺も考えていた。だから本選には行けるよう予定を組んでしまっていたのだが、それが裏目に出た格好だ。ただ、これで彼女は帝都ではちょっとした有名人になってしまったらしい。前世風にいうなら、期待の新人アイドル、といったところだろうか。
「一応、奨励賞は貰えたし、上出来だったよ!」
「はい、なによりです」
それから、リリアーナは後ろに振り返った。
「そろそろ行かなきゃだね」
「はい?」
「今日、多分、ファルスの知り合いがいっぱいくるよ! じゃあ、またね!」
それだけで、彼女とナギアは、会場の奥へと歩き去っていった。
実際、すぐ後にも顔見知りが続々とやってきた。
「おー! ファルスだ!」
「こんな日まで仕事か。つくづく大変だな、お前は」
向こうからやってきたのは、同級生の集団だった。先に声をかけてきたのはランディで、苦笑しながら溜息をついたのはギルだ。
その後ろにはラーダイもいれば、コモもいる。更に後ろには、ランディの恋人のアルマも。その横にいるお姫様はいったい誰……と思ったら、フリッカだった。なんと、コスプレが一周して、着ぐるみからそっち方面になったらしい。しかし、これではいろいろと紛らわしい。マリータやリシュニア、アナーニアに迷惑をかけそうだ。そしてもちろん、ゴウキもいつもの礼服を身につけて、一番後ろに、壁のように立っていた。
「料理大会、見たよ」
コモが進み出ていった。
「うちでもコーヒー豆を扱いたい。お願いできないかな」
「そういう話は、リンガ商会……今日、僕はあんまり手が離せないので、また後で……でも、会場にうちの城代のノーラが来るはずだから、話だけでもしてみるといいと思う。けど」
「けど?」
「彼女は、依怙贔屓はしない人だから、そこのところ、気をつけてほしいとは言っておく」
彼は神妙な顔で頷いた。
その後ろでラーダイは、不気味なものを見るような顔で、俺を黙って見つめていた。
「にしてもさぁ、訊いていい?」
アルマが尋ねた。
「結局、あの決勝戦、なんだったの? なんか、キースも本物の剣を持ち込んでたみたいに見えたし」
「ああ、えっと、あれは」
「演出だろ?」
ランディがこともなげに言った。
「木剣でペチペチやりあってるだけじゃ盛り上がらないから、最後に派手にって。だよな?」
「う、うん、まぁ、そんな感じ」
本当に殺されるところだった、なんて言えるわけもなく。
「えー、でも」
「ほら、俺の言った通りじゃん」
「キースの剣がしっかり胸に刺さってたのに」
「むしろ、だからだろ? あれが本物の剣だったら、ファルスは今頃、生きてないって」
俺が目を泳がせている、そのすぐ近くで、ラーダイも同じようにしていた。
「にしても、どうせヤラセだらけの大会だったんだな。な、ラーダイ、出場してりゃ、決勝戦で同じことやってたかもしれないな」
言われた彼は、生返事で応じた。
「お、おう」
話が一段落したのを見てとって、ギルが締めくくった。
「ファルスはまだ忙しいだろうし、俺達は先にのんびりさせてもらうことにしようぜ。ファルス、手が空いたら、また後でな」
「ああ」
彼らが去ってしばらく、いよいよ大物達も会場入りし始めた。特に俺への挨拶はなかったが、ボッシュ首相も何人かの議員を引き連れて、やってきていた。
そんな中、俺も顔を知る要人がやってきた。
「ああ、いた! いましたよ!」
「よかった。私的に挨拶しておきたかった」
橙色の灯火に照らされた石畳の道の向こうから姿を現したのは、ビルムラールと、彼に伴われたジーヴィット将軍だった。今ではドゥサラ王の重要な側近の一人とされる彼だ。外からポロルカ王国を見る人からすれば、無視できない人物であるといえた。
「まさか料理大会に出てくるとは思わなかった。驚かされたよ」
「ご無沙汰しております」
「ああ、頭なんて下げないで欲しい。君は我が国を救った恩人の一人だ。陛下にもよろしく伝えてほしいと言われているよ」
「陛下はお元気でしょうか」
彼は頷いた。
「もちろん。ただ、相変わらずひどくお忙しそうにしている。特に軍の再編には手間取っていて……」
俺は察した。
「ファルス殿がもし我が国にきてくれれば、としばしば仰っていた」
「それは、あの、少し、その」
「待遇なら、かなりのところまで相談はできる。やはり、タンディラール王にそのまま譲るにはあまりに惜しかった。だが、今の領地と爵位……扱いを見るに、まだまだ交渉の余地はあるのではないかと思うのだが」
貴族なんて、あと何年かやってティンティナブリアの復興が完全に終わったら、領地も返上して引退するつもりなのに。
「僕は別に、今の領地とか身分に執着はしてないですよ」
「つまり、乗り換えてもいいわけだ」
「そ、そういう意味では」
彼は笑って、話を打ち切ってくれた。
「はっはは、なかなか簡単にはいきそうにないな。聞いていた通りだ。まぁ、そのお話はそのうちに」
「はい」
「今日は、君が再発見したという珍しい調味料の味を楽しんで帰るとしよう」
彼らの仕事は、俺と話すことだけではない。水面下では犬猿の仲になりつつある帝都、その代表との話し合いも、こういう非公式の場でなくてはできないだろう。
彼らが去っていった後、今度は俺の知り合いの詰め合わせみたいな団体がやってきた。
「旦那様、参りました」
打掛姿のヒジリが、後ろにゾロゾロと俺の知人を引き連れて現れた。しかし、その顔ぶれときたら。
マツツァやタオフィ、ポトといった郎党。アーノにキース。そういう彼女の影響力の及ぶ範囲だけでなく、どういうわけか、別邸の人間まで引率してきていた。ノーラにディエドラ、シャルトゥノーマ、マルトゥラターレにペルジャラナンも一緒だ。もちろん、ティンティナブリアからやってきた他のみんなも一緒だったりする。オルヴィータの横にはルークまでいた。総勢二十名近い。
「これはまた」
「旦那様が存分に腕を振るわれるとあっては、出向かないわけにも参りません」
アーノはニヤニヤしていた。一方、キースは苦々しい顔をしている。
「その顔が見られただけでも、ここまでついてきた甲斐があるというものよ」
「どういう意味だ、てめぇ」
「おとなしく普通に木剣で試合をしておけばよかったものを。タルヒまで持ち出して本気を出して、それであれではな」
「あんだと、おい」
「おやめなさい、二人とも」
笑顔のまま、ヒジリがピシャリと言った。
「よくわかったでしょう。二人とも旦那様には及ばないのだと」
「まだ私は手合わせしておらんぞ」
「俺に負けておいて言ってんじゃねぇ」
「私はまだ、クガネを引っ張り出してはおらんからな」
「あのぅ」
俺はおずおずと割って入った。
「そういう揉め事は後で……後ろに人が」
「あっ」
それで道を空けようと、ルークが人を掻き分け、振り向いたところ、その人物と目が合った。
「えっ?」
その人には、見覚えがあった。
「まさか」
「もしかして、ファルスか」
随分と歳を取った。だが、ピアシング・ハンドの表記が教えてくれる。
彼は……
「カーンさんじゃないですか!」
「おぉ、こんなにあっさり会えるとは思わなかったぞ!」
以前より、少しふっくらとしていた。エンバイオ家に仕えていた頃には、余計な贅肉などついていなかったのだが、今は少したるんでいる。といっても、年相応といえば、そうだ。顔にも皺が増えている。ただ、それは成熟した大人の顔ということもできた。
「どうしてこちらへ?」
「千年祭の時期だからと、帝都に商売にきたんだ。祭りも楽しみがてらな。そうしたら、お前が武闘大会の決勝戦に出てきたから、それで今、帝都に留学しているらしいとわかった。その後、ここでの催しのことを知ったんだ。とはいえ、仮にも貴族になったらしいし、そう簡単に会わせてもらえるとは思っていなかったが」
二十名からの団体様が、その様子を黙ってみていた。
「あ、こちら、ピュリスでエンバイオ家に仕えていた頃の上司で……カーン・フックという方です」
ノーラが進み出て、頭を下げた。
「イフロース様にはお会いしたことがあります。私もあの頃、ピュリスにおりました」
「おぉ、それはそれは」
「とりあえず、カーンさんも、ここは人が通りますので、皆さんと一緒に」
そこまで言いかけた時だった。
耳慣れない足音が耳に触れ、思わず入口の方に振り返った。コツンと固いものが敷石を打つ。老人が杖をついているのとは違う。もっと重い音だった。
その人物の姿を足先から頭の天辺まで見て、俺は思わず嘆息した。
本当に、今日はなんという日だろう。
「よぅ、兄弟」
いかにも軽い調子で、彼はそう呼びかけてきた。けれども、わかる。少しだけ自信のなさそうな声色だったから。
俺が成長して、見た目が変わったから、ではない。立場が、身分が変わったから。以前のままではないかもしれない。それでも、以前のままと信じて振る舞うのが、彼の世界の美徳なのだ。彼は、かつての友情を忘れてはいなかった。だから、不自由な足を引きずって、ここまでやってきた。
「カチャン……!」
俺は思わず駆け寄った。
彼の見た目は、あまり変わっていなかった。顔も老け込んではいなかったし、太っていたりもしなかった。ただ、服装だけは変わっていた。以前のような、みすぼらしい格好ではない。西部シュライ人らしく、なんともカラフルな服装だった。濃い緑色のチュニックとズボン、その内側に真っ赤なシャツを身に着けていた。首には金色に輝くネックレスまで。
冒険者をやめ、商人としての道を歩んだ。それは、うまくいったらしい。
「見違えた! よかった、本当に……あれからどうなったのかと」
「キノラータは伸びてもキノラータ、兄弟、お前は何も変わらなかった、伸びたのは背丈だけ」
彼はそう言って笑みを作ったが、次の瞬間、目尻から零れ落ちそうになる涙を堪えるようにして、俺に激しく抱きついた。
また会えるとは思っていなかった。どうして旧知との再会は、こうも喜ばしいのだろう。
懐かしい出会いが次々と……まるで、旅をしていたあの頃に貯金をしていて、それが今になって利息つきで返ってきたような、そんな気持ちだった。
そんな俺の心の中の衝撃、その熱量を、今夜の優しい夜風は、そっと冷ましてくれるかのようだった。




