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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第五十章 千年祭
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道楽者の渇望

中途半端なところかもですが、不幸祭りは本日でいったん終了とさせてください。

本章はもう少しだけ続きます。

 サフィスにとって最も古い記憶とは……起伏のある明るい緑色の草原と、そこを横切る黒々とした小川、そしてその向こうに広がる暗い緑色の森。王国の外れ、トヴィーティアの景色を無心に眺めていた時のものだった。

 どんな気持ちだったか、と問われても、言葉にしようもない。懐かしき我が故郷だとか、逆に退屈な片田舎だとか。そういう愛着や嫌悪のようなものは、当時の彼にはなかった。ただただ、流れ行く微風に身を任せ、暖かな日差しの下、佇むばかり。何にそんなに気を引かれていたのか、当のサフィス自身、思い出せない。


「既に父は、王都で働いていた。だが、妻子を伴って暮らせるほどの余裕はなかった。或いは……多少の余裕があったにせよ、そのようにしたいと思わなかったのだろう」


 王都の財務官僚の末席を占めたとはいえ、サフィスが物心ついたばかりの頃となれば、フィルの職位から与えられる俸給は限られていた。そうなると、貴族の壁の内側に立派な住居を借りるというのは難しい。なにしろトヴィーティアは田舎なのだ。その収益も限られる。その領地の収益を費やしてまで、王都で贅沢をするわけにはいかなかった。


「知っています。たった一人、人間が横になれる程度の広さしかないようなところに閉じこもって暮らすんですよね」

「そうだ。地方貴族はそうやって、事実上の税金を少しでも安くしようとする。だが、父に限っては、他の目的もあったのではないかと思っているのだがな」

「と仰いますと」


 俺の問いに、サフィスは皮肉げな笑みを浮かべてみせた。そして、すぐには説明をせず、当時の話の続きを始めた。

 幼い頃のサフィスは、物静かな子供だったという。お喋りするでもなく、元気に駆け回るでもなく、大人の言いつけにはおとなしく従う。手のかからない、いわゆるいい子だった。

 それは、幼少期の彼が習得した処世術だった。大人、特にある人物の不興を買わないこと。それがこの少年にとっての最重要課題だったのだ。


「母に会いに行く時には、いつも緊張していたことを覚えている」

「親子なのに、ですか」

「親子、か。だが、私の母は、お前の想像を遥かに超える存在だったぞ?」


 サフィスの母、ユラ・ブジリシュラー・ルヒは、エキセー地方に小さな領地を構える男爵家の末娘だった。貴族としては、決して裕福とはいえない。以前、ジュサの件で訪問したフゥナ村みたいな支配地が一つあるきりの、田舎の庄屋さんの家だ。だから、そこの当主もデュコンがそう望んだように、どこかの兵団の隊長に収まった。その俸給と領地からの収入で、どうにか家計を回していた。

 本当なら、末娘まで帝都にやるつもりはなかったらしい。だが、ユラは我儘いっぱい、凡そ妥協ということを知らない娘だった。兄と姉が留学したのに自分だけ行けないなんて、と憤慨し、半狂乱になって、父不在の領地で代官達を困らせた。しまいにはとうとう父も根負けして、彼女の留学を認めざるを得なくなった。

 だが、ユラに何を学びたいという志があったのでもなく、案の定、遊びだけ覚えて帰ってきたらしい。彼女の父は、この気性の激しい娘の片付け先を探した。そうなると、やはり自分達と同じくらい貧しい下級貴族の家から、ということになる。

 当時のフィルは、まだ公職を得ていなかった。華やかな帝都から、エキセー地方の片田舎に呼び戻されただけでもがっかりなのに、そこから更に、王国西部のもっとひどい田舎に送り込まれるとあっては、ユラも冷静ではいられなかった。だが、今度ばかりは彼女の父も、我儘を一切聞き入れなかった。

 貴族同士の結婚は、家と家との契約である。フィルにも、その父にも、否も応もなかった。というより、フィルの父には、考える時間すら残されていなかった。フィルが留学から帰ってくる頃には病床に伏していたからだ。既に妻にも先立たれ、息子はフィル一人きり。そのフィルはまだ公職を得ておらず、自身は健康上の問題から、官僚の職を退いていた。家を絶やさないためには、なんであれ、今のうちに婚約者を得ておく必要があった。

 四歳下のユラについて、フィルは何も知らなかった。彼が卒業した後、彼女が帝都に留学に行ったのだから、接点自体がなかった。留学から帰った彼は、病気の父に代わって領地経営に励む一方、中央での猟官のため、日々、政治活動に勤しんでいた。だから、未来の妻については、まったく備えがなかったということになる。


「輿入れから一ヶ月もすると、祖父の頭に丸い禿ができたそうだ」

「そ、それはやっぱり、心労からでしょうか」


 笑ったかと思えば、数時間後には憂鬱そうにしていて、翌朝には怒り狂っている。山の天気より激しく感情を入れ替えるユラに、エンバイオ家の人々は、振り回された。といって、実家に送り返すわけにもいかない。

 サフィスが生まれて間もなく祖父は亡くなり、フィルが家督を継いだ。それから一年も経たないうちに、王都の財務官僚の席が空いた。フィルはトヴィーティアを離れることになった。


「つまり、領地は母の思うがまま、だった」

「なんだか嫌な予感しかしないんですが」

「お山の大将に納まって満足、なんてことはなかったらしい。いつでも不機嫌そうだった。たまに有頂天になるのだが……」


 だから、幼いサフィスがまず覚えたのが、母の顔色を窺うことだった。

 彼は、いつでも優秀でなくてはならなかった。もし不出来なところがあると、母は癇癪を起こして周囲に当たり散らす。そうなると、サフィス本人ばかりか、周囲の召使達まで巻き添えになって、地獄のような一日を過ごすことになるからだ。

 ユラの情緒は安定していなかった。ある時には、サフィスをやたらと甘やかした。抱きしめ、頬擦りまでして、あなただけが私の唯一の味方なのよ、と言った。なのに、運が悪いとまったく同じ日に「あの薄情者の息子」と罵倒されたりもした。敬意を払って礼儀正しく振舞わないと怒りだしたりするのだが、それをやりすぎると今度は他人行儀すぎるといって悲しみ始め、拗ねてしまう。この、正解というものがない難問に、少年期の彼は毎日取り組まねばならなかった。


「幼い頃の私は、何度も父がいてくれればと恨めしく思ったものだが、今となっては責められん。あれでは逃げ出すのも無理はない」


 だが、実のところ、フィルは薄情者ではなかった。昇進し、俸給が増えてから、妻と息子、それに何人かの家僕を王都に招いた。ただ、その頃にはもう、ユラのフィルへの感情は、取り返しのつかないところにまで悪化していた。


「働いて帰ってきた父を出迎えるのは、いつも母の怒鳴り声だったよ。毎日、夕方になると、私はそわそわしていた。また今日もいがみ合いが始まるのかと」

「ああ……それ、わかります」

「わかる? なぜだ? お前は確か、二歳で奴隷として売られて、六歳でうちにきたのだろう?」

「あっ、はい、ま、まぁ」


 既に若さの盛りを過ぎていたユラは、自分の人生を台無しにされたと感じていたようだった。彼女は、賞賛を求めた。人目を惹きたかった。具体的には、王宮内の迎賓館での夜会で、誰よりも注目されたかった。無論、魅力的であるという文脈において。宮廷内の社交において、一番星になること。それが彼女にとっての最優先事項だった。そして、老婆になってからでは輝けないのだ。

 だから、自分自身のために特注のドレスをいくつも仕立てさせた。特にサフィスの印象に残っているのが、黒と赤の左右非対称のドレスだった。なんでもいいから見る人を驚かせるものを、という注文に応えて、王都の一流の仕立て屋が知恵を絞って考えたものらしい。

 だが、それではユラは満足しなかった。もっともっと輝かしい外見を。大粒の宝石が胸に輝いているのでなくては、こんなドレスを纏っても、まるで大道芸人のようにしか見えない。それで彼女は、金に糸目をつけず、宝石商に、とにかく大粒の宝石を探すようにと言った。


「それがこの」

「母の形見となった、ガーネットのブローチだな。だが」


 そこでサフィスは鼻で笑った。


「自信満々で舞踏会に参加した母は、そこで人生最悪の恥辱に塗れることになった」

「ガーネット、ですもんね」

「ああ。とんだ道化だったに違いない」


 この世界の常識として、宝石には意味が伴う。だから、例えば、どんなに良質なプレシャスオパールが手に入ったとしても、それをただの宝飾品として身につけて社交の場に顔を出せば、恥をかくことになる。この場合は、原初の女神を示す装身具ということになるので、要は不敬という意味になる。これを用いていいのは、信仰心を示す場であるとか、或いは本人が聖職者であるか、そういう文脈においてのみだ。

 社交の場では、何か特段の理由がない限り、ジャスパーやガーネットは用いられない。前者は垢抜けていない、野暮であると触れ回っていることになるし、後者は、芸人とか道化とか、そういう意味になってしまう。それでもまだ、かろうじてジャスパーであれば、そして初回の参加であるとか、目下の人間であるとかであれば、これはこれで謙虚さを示すシグナルになるのだが、ガーネットには、そういう言い訳の余地も残らない。

 赤と黒の左右非対称の目立つドレス。そこに大粒のガーネットだ。これでは貴族の奥方どころか、お笑い芸人そのものとするしかない。皆様を笑わせるつもりで、わざと変な格好をしてみました! という確信犯であればともかく、ユラのように本気で着飾っていたのでは、失笑を買うばかりだったはずだ。つまり、本人の無知をさらけ出しているのだから。


「ほんの一晩、みんなから笑顔で迎えられて、数日後にその意味を悟った時の、母の半狂乱を思い出すと……」

「う、うわぁ」

「母のような、虚栄心……その場で、人々にどう見られるか、思われるかということにすべてを注ぎ込む人間が、ああいうことになったら、どうなってしまうのか」


 この頃、フィルは特使として西方に赴き、その時にイフロースを伴って王都に帰り着いた。後にエンバイオ家の執事となる彼が見たユラとは、この時期の彼女のことだ。


『反吐どころか、内臓が裏返るわ、あのクソ女め。金遣いは荒いわ、嫉妬深いわ、その上に見栄っ張りで、やかましくて、もう悪夢のようだった』


 王都の彼の私室で聞かされた話を思い出す。歴戦の勇士、傭兵将軍の胃袋にさえ、穴を開けるほどだったのだろう。

 サフィス少年は、頑張っていた。父は仕事で忙しく、母を宥める余裕はない。古くからの召使達も、保身を覚えてしまっている。イフロースは何かにつけ荒々しいし、この当時のサフィスからすれば「知らないおじさん」でしかなかった。だから、母を「支えてあげられる」のは、彼だけだった。

 具体的には、よく学び、将来有望な息子になること。ユラ本人が名声に輝くことは、もう考えにくい。そもそもが寒族の生まれで、フィルにしたところで、本人はそれなりに優秀ながら、所詮は分家の零細貴族、どれだけ頑張っても今から中央の大臣なんかにはなれそうにない。だが、息子なら。

 サフィスの中には、矛盾した感情がいつも渦巻いていた。一つは、他の周囲の人々と似通った、母への気疲れ、忌避するような思いだ。ユラがいると常に揉め事になるのだから、これは自然なことだった。だが、同時に、サフィスにとっての母はユラで、ユラにとっての身近な血縁者は、サフィス一人だった。だから彼は、母に対する責任感のようなものをうっすら感じていた。そして、孤独な母のために認められたい、そしてまた、母からも認められたいと、心のどこかでそう感じていた。


 だが、そんな彼の奮闘は、ある日、あっさりと終わってしまった。


「晩年の母は、見る影もなく太っていた」

「ろくに外出もしないで、美食ばかりしていたら、そうなりますね……」

「夏のある日、大きなケーキを作らせたのだが」


 サフィスは首を振って悲しげに笑ってみせた。


「当然、一度に食べきれる分量でもなく、半分以上は残したのだが」

「まさか、とっておいたんですか」

「翌日になって、また食べるなどと言い出した。だが、さすがにそれは下僕達も止めたのだ。今年の夏は暑いし、そろそろダメになってもおかしくない。だが、聞き入れるような母でもなく」

「食中りで……」


 こうして彼は、バカみたいな理由で、あっけなく母を失った。

 他の人にとっては、災厄の終わりでしかなかったのだろう。だが、サフィスにとっては、それでは片付けられなかった。正直なところ、父が酷薄な人に見えないと言ったら、嘘になった。母の死に責任を感じていないということはなかったのだろう。だが、結局、最後まで彼女のことを諌めきることもなく、なすがままにさせたのも父だったのだ。何より、サフィスは、父がどこかほっとしているらしいことを察してしまっていた。


 とにかく、彼は宙ぶらりんになってしまった。これまでは、母に認められ、母を安心させるために生きてきた。なのに、結局、最後の最後まで、母は彼を本当の意味で受け入れ、認めてくれることはなかった。

 では……これからは誰に認められればいい?


 それからしばらく、サフィスは帝都に留学することになった。その時、フィルが宛がってくれたのが、この地区のアパートだった。

 これは親心からだった。まさかフィル自身のような、貧乏長屋の屋根裏部屋での学生生活を、たった一人の嫡男に押し付けるわけにはいかない。とすれば、寮に送るのが一番安上がりなのだが、当時からフィルは、サフィスの中の危うさのようなものを見抜いていたに違いない。朱に交われば赤くなる。大勢の若者に常時囲まれれば、息子は容易に影響を受けてしまう。フィルは、我が子が集団生活から切り離される場を用意しようと考えたのだろう。

 だが、サフィスの中には、既に母の呪いがしっかりと根を張ってしまっていた。


「私は、貴公子らしくなくてはいけなかった」


 サフィスは、当時、王子だったタンディラールの脇に立てるよう努めた。次期国王の側近と看做されれば、周囲の人々も彼を高く評価せざるを得ない。

 だが、それだけでは足りない。サフィスはとにかく、その場での称賛を求めた。それはしばしば恋愛という形をとった。その恵まれた容姿もあって、幾人もの女性と恋に落ち、そして簡単に別れた。相手は留学生だったこともあれば、帝都出身の女性だったこともある。

 遊びにばかりかまけていたわけではない。彼は評価されたかったのだから。勉学に手を抜くこともなく、成績優秀で表彰されることもしばしばだった。


 要するに、完璧だった。

 王子の学友の一人で、多くの女性を惑わせるプレイボーイでもあり、優等生でもある。誰もがサフィスに一目置いた。そんな状況が心地よくないはずはなく、いつも彼は有頂天だった。余裕を取り繕いながら、張り詰めていた。そして……

 どれだけ称賛を浴びても、内心のどこかに巣食う虚しさが癒されることはなかった。


「私は、しばしば傲慢に振る舞った。選ばれた人間なのだと、特別な何者なのだと。そう考え、また宣言するというのは、そうでない大多数の人々を見下しているのと同じではないか。だが、頭の隅にそういう気付きがあっても、やめることはできなかった」

「それはなぜですか」

「臆病だったから。弱かったからだ。ファルス、傲慢さとは、強者の感情ではない。強者を取り繕わねば己を保てない、弱い人間の心だ。自分の数少ない美点に縋り付き、そこから振り落とされないように必死にしがみつく。無用の緊張なのだ。なのに、どうしてもそれをやめられない。恐怖が、手を離すことを許さないのだ」


 サフィスは頭を振ってから腰を浮かせて座り直し、俺に背を向けて……テーブルの上のグラスを手に取り、一口飲んだ。

 飲まずに、こんな話など、できないのかもしれない。自分の恥部をさらしているようなものだから。


「本当の強者なら、そんなことはしない……余裕があるのだから。誰かの美点を目にしたら、心から喜び、賛辞を送るだろう。優れた人を目にしても、そこに不安や恐れを抱いたりしないからだ」


 その後のサフィスの人生なら、俺もだいたいは知っている。

 華やかな学生生活の後、帰国した彼はトーキアの岳峰兵団の副軍団長に収まった。そこで公務をこなしながら実績を積み上げた。父は息子の将来を案じて、インセイン家よりエレイアラを迎え、結婚させた。父の死後、ピュリスの総督の任務を引き継いだ。

 すべてがお膳立てされていた。美しく賢明な妻。傭兵あがりとはいえ、忠実で優秀な執事。もはやピュリスはエンバイオ家なしには回らない。市内の利権もしっかり握っている。フィルの手回しは完璧だった。


 だからこそ、耐えられなかったのだ。


「高みに至らねば、私が、私自身がなしたことで光り輝かねば、この世の一切には意味がない。認められたかった。認めさせたかった。私の目には、中天に輝く太陽が見えていた。何より自分自身のために、陛下の背中を追わずにはいられなかったのだ。だが、ファルス」

「はい」

「そう願うことは、本当に間違いだと言い切れるか」


 言葉もない。

 彼は、決して返ってこない愛を求めていた。一人息子を徹底して手段とした母。その、事実上の保護者として生きた彼の役目とは、母が存命であれば喜ぶような、素晴らしい貴公子になることだったのだ。そのことを自ら省みることもできず、内心の奥深いところから溢れ出る不安のままに、どこまでも求められた役割を演じた。本当は愛してもいない女に恋の言葉を囁き、王子の前では気の利いた台詞を吐いてみせ、そして部下達の前では明るく堂々とした、それでいて気さくな上司のふりをした。

 その見返りは、ゼロだった。当たり前だ。彼の努力に報酬を与える人など、もうこの世にはいなかったのだから。それでも、彼はやめられなかった。やめたら、自分が自分ではなくなってしまう。


 また一口。彼は乱暴にグラスを傾けた。既に耳が赤くなり始めていた。


「ファルス、愛とはなんだ」


 この話を聞いてしまうと、俺としては簡単に答えるわけにはいかなくなった。

 前世の家庭生活は、それはもう、何の夢も希望も抱けないような代物だった。では、だからといって、これをただ切り捨てることができるのか。俺もサフィスと同じような気持ちを抱いていたということはないのか。


「女神教の坊主どもなら、それはすぐそこにある幸せだと、日々の積み重ねですと、そんなことをもっともらしく言うだろう。だがな、随分と気色悪い話ではないか」


 サフィスは声を荒らげた。


「考えてもみろ。優しい両親の下に子供が生まれる。子供は両親からの愛情を受けてすくすくと育つ。言いつけをよく聞くいい子にな。そして、その日々の営みが、その子供の将来の礎となる」

「結構ではないですか」

「では、この子供は、どうやって大人になる? この世界は、そんなに理想的にはできていない」


 思い当たることがあった。

 そうだ、昨年の末。魔法のゴブレットをエキセー川に投げ込んだ。あの出来事が、なぜか頭に浮かんだ。


「愛され、守られ、ただただ親とか大人達の求めるままに暮らすだけの子供時代なら、善良であることは難しくあるまい。だが、いつまでもそこにはいられないはずだ。そのことを、坊主どもはろくに考えてなどいないのだ。万人は皆、女神様の子でありますから、とな! たわけが! 私達には血肉がある。わからねば、女人を見よ。欲望を抱いたことはないか。それはいやらしいことだと教えられなかったか。だが、そのいやらしさに踏み込まず、人の世が続こうか。肉を食らうのも同じだ。鶏の、豚の悲鳴なしにどうして我が身を養えようか」


 もう一口。飲酒を咎めにきたのに、とても止められそうになかった。


「歩き慣れた道を踏み外せ。決まりきった道から外れてしまえ。彼方に見える高峰、その白銀の輝きが見えないのか。そこに至る獣道が危ういからといって、なぜとどまらねばならない? 焦がれるような思いを抱かずして、どうして生きたと言える?」


「命を惜しめ。欲望を抱け。それは自分の世界になかったものなのだから。どこまでもみっともなく執着しろ。その貪欲さが醜いか? 卑しいか? だが、そうでなければ……それが宝物でなければ……意味がない」

「意味?」

「ファルス」


 彼は、震える手でグラスを握りしめたまま、言った。


「死人に美徳などない」

「はい?」

「飢えを知らぬ富豪が貧乏人にパンを恵んだとて、何が貴いものか! 明日死ぬ老人が、全財産を分かち与えたといって、どこに崇高さがある? 自らも飢えに苦しむものが、手元の古くなったパンを半分に割くからこそではないか。そのためには、飢えておらねばならん。飢えを知らねばならん。汚れ一つない子供に、どうして愛を語れようか」


 彼は、言い切った。


「我々人間が、弱く、愚かで、醜いから、卑しく、いやらしく欲するから、だからこそ輝くものがある。そうではないか。美徳を形にするのは聖人だが、聖人しかいない世界に美徳など必要あるまい。それとも、私のような愚か者は、愛の世界から締め出されるべきか? よかろう、それは認めよう。では、私は、あの母を見殺しにすることで我が身を守るべきだったのか? 何よりも、自分を汚さないために」


 人が誰しも教わったままの美徳に従って生きていけるのなら……

 月の光に照らされるだけで済むのなら、何も困りはしない。だが、いつまでもその場所に留まれるとは限らない。

 であれば、どうする?


「恐れるな。先の見えない藪の中、茨の中を転げまわれ。世界など裏切ってしまえ。父の背中など蹴倒せ。お前は若者なのだから。それでもいつか、正しい道に帰ってこられる。いや、這いずってでも、そこを目指さねばならない時がくる。私には無理でも、お前なら」


 俺は、呆然として立ち尽くしていた。サフィスはなぜ……


「どうして、こんな話を」

「まだ、迷いの中にいるのだろう?」


 背を向けたまま、彼は言った。


「なぜかはわからん。だが、お前の旅は、まだ終わっていない。だから言っておく。私みたいにはなるな」

「閣下……」

「やりたいと思ったことは、心置きなくやっておけ。私も後悔している」


 グラスを握る手を緩め、彼は静かに、けれども長い溜息をついた。


「本当は、私もやりたいことがあった」

「それは、なんですか」

「軍人でもなければ、財務官僚でも、ピュリスの総督でも、建設大臣でもない。私は、宮廷史家になりたかった」

「えっ? 史官ですか? でも、それって」

「ああ、俸給は安い。一日中、カビ臭い図書室の中で書類の整理ばかりだろう。だが、私は静かに本を読み、記録をつけるのが好きだった。地味で、けれども好奇心だけでどこにでもいける……とはいえ、そういうわけにはいかなかった」


 彼はまた、静かに一口飲んだ。


「私は、何をしていたのだろうな」

「サフィス様」

「ずっと、私自身の本当の心を押し殺して……何かに乗っ取られていたような気さえする……けれども、よく目を見開きさえすれば、そこにちゃんと価値あるものがあったはずだったのに」


 死別を知る直前になって、サフィスはやっと自分の本心に気付いた。

 あの王都の内乱の際のこと。タンディラールが籠城していた後宮に滑り込み、食事を供されたあの時……だが、その時点で、すべては手遅れになってしまっていた。


「ファルス、私は幸せ者だな」

「はっ」


 背を向けたまま、力の抜けた声で、彼は言った。


「私の妻は、世界一の女性だ。そうだろう?」

「……はい」

「リリアーナも、立派に育ってくれた。エレイアラがいなくなった今なら、あれが世界一の女性だ。そんな世界一が、すぐ傍に二人もいる」


 窓の向こうを眺めたまま、淡々と彼は呟いた。


「娘には……リリアーナには、指一本、触れさせはせんぞ」

「そのようなことは」

「私の目が黒いうちは……誰にも……はは、誰に真似ができる。世界一の女性は、二人とも、いつまでも私のものだ。そうだろう?」


 彼の顔は見えなかった。

 ただ、彼の手にする琥珀色のグラスに、音もなく波紋が広がった。

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― 新着の感想 ―
 サフィスはここまでの助言者たちと違い、作中の挫折を経てから気づきを得ていて新鮮でした。 幾度も登場し生き方に悩み続けたあの男も宝石をくれるのでしょうか。宝石にこだわりがある人物とは思えませんけど……
この世界の貴族で宝石の意味合い知らないって激レアなのでは。そして死に方も間抜けと…… サフィスは頭は悪くないし、少し違えば、それこそフィルと信頼関係築けていたらこうはならなかったんだろうな。
最近ファルスがあんまり不幸にならず欲求不満です。 グルービーという強敵とアイビィという家族がいた頃が懐かしい。 今のファルスは当時と比べて精神的にも肉体的にも強くなったので、 どれだけ落してもあの頃の…
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