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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第五十章 千年祭
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酒浸りの元主人

 乗合馬車を降り、古びた建物の立ち並ぶこの界隈を見渡した。左手には、こんもりと生い茂る時の箱庭の高台が聳え立っている。眼の前の大通りには、隙間なく家々が連なっていた。その多くは、フォレス風の木造建築に近い様式に見える。ただ、どれも美しいながら庶民の家なので、立派なファサードはない。

 アスガルが腰を据える赤の血盟の公館より北側にあるこの地域は、大昔には帝都の下町ともいうべき地域だった。かつての帝都の市域は東側に偏っていたが、その中心部はというと、今の学園の所在地とか、女神教の本部が置かれている辺りだった。そこから南、庶民の娯楽の場だった競技場までの区域には、そこまで裕福でもない、ごく普通の一般市民が暮らしていたのだ。

 だが、後の時代の市域の拡大もあり、徐々にこの街区の立ち位置も変わっていった。近くには、以前、ケクサディブとパンケーキを食べた店もある。また、ハンファン系やサハリア系の人々が集まって暮らす街区もあったりする。

 一方で、この辺りには、今では古き良き帝都といった風情を漂わせる、鄙びた雰囲気のある町並みも残されていた。建物はどれも洗練された佇まいを見せているものの、いずれも年月の経過を感じさせる。真夏の日中ということもあってか、人通りは少なく、辺りは静まり返っている。そして、大通りから脇の路地に入ると、途端に薄暗くなるのだが、そこも地域の住民にとっては重要な生活道路なのだ。


 左右を見回し、小さな看板を目印に、俺は路地へと踏み入った。この古びた一角は、今では宿屋とか、留学生などが長期滞在するアパートとして利用されることが多い。

 だが、当然のことながら、仮にも一国を代表する親善大使が身を置くような場所ではない。事実、サフィスに割り当てられた宿舎は、北東部の高級住宅街の一角にある。なのに彼は、わざわざ個人用に、この辺りの部屋を自費で借りたのだという。

 特に用事もない日は、帝都を歩き回ることもなく、そこで一人気儘に休養をとっているらしい。それで俺は、リリアーナとの約束を果たすため、こうして予定の合間を縫って、彼を訪ねて歩いていた。ちなみに、彼女はというと、今日はナギアを伴って、弟のウィムのために帝都の案内をする予定となっている。


 真新しさはなくとも、路地には年月を経たがゆえの美しさがあった。不揃いの石が嵌め込まれた路面の脇に、大きな青い鉢植えが一つ。建物の合間を縫って、そこにだけ陽光が差し込んできている。熟したパパイヤのような橙色をした花を咲かせている。前世の君子蘭にそっくりだが、季節が違うので、別の花だろう。ここだけを見ても、この街の住民が、いかに自分達の身の回りを知り尽くしているかを感じ取れる。雑然としているようで、路地を歩くのに妨げになるものは何一つない。整理整頓が行き届いているのだ。

 そんな家々の狭間を縫って歩くうち、やがて目当ての建物に行き着いた。


 他の家々と特に違いがあるのでもない。狭苦しい花壇には椰子の木が植えられていたが、例によってそこに陽光が集中していた。全体としては他の建物に日差しを遮られるため、ほぼ真っ白な外壁も、薄暗くくすんで見える。立派な邸宅に見えるが、これでもアパート兼宿屋だ。というより、かなり昔には、ちょっといい家として建てられたものだったに違いないのだが、後々、経済的事情もあって、分割して利用するしかなくなってしまったのだろう。

 階段に足をかけ、俺は二階の部屋を訪ねた。


 ノックをしても、返事はなかった。だが、室内にいるのはわかっている。意識がないのでもない。サフィスは居間にいる。狭く薄暗いバルコニーを眺めたまま、座り込んでいる。そして、気怠くて起き上がる気もしないのだ。使用人も傍に置いていないので、誰かを代わりに寄越すこともできない。

 というより……


 俺は勝手に扉をあけて踏み込んだ。鍵もかかっていない。

 暗い玄関からまっすぐ居間に踏み込み、扉を開けた。彼は背を向けたまま、ゆっくりとこちらを見て、また開けたままの窓の向こうを眺めた。


「不用心です」


 挨拶も抜きに、俺はそう言った。


「何を恐れることがある?」

「閣下の身分を考えれば、何があっても不思議はありません」

「形ばかりのことだ」


 まだ自暴自棄になっているのか。俺は首を振った。


「閣下ご自身にとって惜しむほどのものではないとしても、他人から見れば外国の一流貴族なんです。誘拐するなりして、お金に換えようというのも出てくるかもわかりませんよ」

「そんな程度のこと、どうして今更怖れねばならん」

「お嬢様が悲しむからです」


 彼は座ったまま、頷いた。


「わかっているとも」


 それで彼は、手に持っていたものをテーブルに置いて、やっとこちらに振り返った。

 やっぱり。透明なグラスの中は、琥珀色の液体で満たされていた。昼間から酒、か。


「何を言いにきたか、わかりますか」

「昔から察しだけはいいつもりだ」


 サフィスは、グラスを横目に眺め、皮肉げな笑みを浮かべた。


「ウィムも近々学園に入る。卒業すれば、最初は多分、どこかの軍団で指揮官見習いから始めることになるだろう」

「はい」

「リリアーナも……卒業後の縁談を考えねばならん。あと二年半、か」

「閣下」


 俺は咎めるような口調で言った。


「まさか、それまで生きていられればいいと、本気でそんな考えでいるんですか」

「そこまでで、私の役割は終わり……いや、あと一つだけ、私の代でやっておくことがあったな」


 彼は背中を丸め、座ったまま身を乗り出して、言った。


「私の代までで、トヴィーティアを王家に献上する」

「えっ」

「いやとは言えまい。陛下といえども」


 彼は口元を歪めてみせた。


「ウィム様には、土地が残らないことになるのですか」

「なくしてしまった方がいい。そうは思わないか」


 貴族にとって、土地は拠り所だ。王家の権力の及ばない自由が、そこにはある。狭いながらもトヴィーティアでは、サフィスは絶対者になれる。税率から法律まで、すべて彼の思うがまま。領地の通行権など、いくつかの面では王家に妥協しなくてはならないものの、原則として、彼の支配は誰にも脅かされない。

 所領のない宮廷貴族になってしまうと、与えられるのは年金になる。わざわざ領地経営などしなくてもいい分、面倒がない。しかし、そのお手軽さは、さまざまな繋がりを犠牲にした結果、得られるものでもある。かつての領地に暮らしていた領民との縁も切れるのだ。地元の人々に頼られ、彼らと助け合ってきた領主であれば、金銭だけで量れない信頼の絆は、容易く手放せるものではない。

 だが……


「私の父がどれだけ苦労させられたか。それに、これは私が言えたことではないが、ピュリスを掌握しようとする際にも、結局、彼らは新しい役目を理解しなかった。その害悪がどんなものかを、私は」


 手を組み、首を振って、彼は長い溜息をついた。


「レーシア湖の畔でいやというほど思い知らされた」

「何があったのですか」

「あそこは、フィエルハーン家の縄張りだ」


 忌々しそうに、彼は吐き捨てた。


「あの美しい湖畔の別荘で暮らすと、家臣達の忠誠心がどんなものか、再確認できるぞ?」

「ろくでもなさそうなお話ですね」

「ジャルクの裏の商売が、商売女の斡旋でな」


 背凭れに体を預け、背中を伸ばしてから、彼は言った。


「セクサーモという会員制の……なんだ、知っているのか」

「名前だけは聞いたことがあります。黄金の腕輪を陛下から賜った時に、宿舎に手紙が届いていて」

「なるほどな。気の早いことだ」

「僕は加入しなかったですよ」


 サフィスはゆっくりと首を振った。


「私も、興味などなかったとも。くだらない」

「では」

「召使達が結束して、強く勧めてくるのに、私一人に何ができる?」


 仮にも領主にして主君。そんなサフィス相手に、ランをはじめとした下僕達は、強引な手段に打って出た。


「例えば、ベッドのシーツを交換する仕事を、いつの間にか、その手の女に任せていたりする。問い詰めると、人手不足を解消するためだとかなんとか」

「完全に買収されてしまっていたんですか」

「ジャルクはな」


 溜息一つ。そしてまた、グラスに手を伸ばし、それを途中で止めて、彼は俺に向き直った。


「金だけが欲しくて女衒をやっているのではない」

「弱み、ですか」

「そういうことだ。だから、私の下僕達にも、散々いい思いをさせたのだろうな。これ以上、私が拒むとろくなことにならない。それで受け入れるしかなかった」


 五年前、リリアーナは父に女の影があると言った。酒浸りで女遊びもして、エレイアラを失った悲しみを紛らわせていると、そう解釈していたようだったが、どうもそれだけではなかったようだ。


「ろくなことに、というと、毒でも盛られて殺されるとか?」

「いや? それならまだいい。だが、ウィムに怪しげな女がくっついてくるというのは、見過ごせなかった」

「そこまでしますか」

「美女を独り占めする狭量な家長にならねば、大事な嫡男が毒されかねんとなれば」


 サフィスはまた首を振り、溜息をついた。


「我が家の家僕は、はずれだな。父の代から、足を引っ張る物乞いのまま。田舎者の素朴で美しい心構えなどなく、そのいやらしい部分だけが残った、そんな連中だった」


 それでも、彼は一切を下々の責任として片付けたりはしなかった。


「だが、まぁ、それも含め、家長たる私の責任だというのは、逃れようのないところだ」

「サフィス様がなんとかできたことだったのでしょうか」

「どうだかな。だが、仮に手に負えないとしても、最後の最後で責任を取るのが、上に立つ者の役目であろう」


 と言われては、異論を差し挟む余地もない。


「それに、私の過失も大きい。今にして思えば、父は役立たずの家僕どもに取り囲まれながらも、先々を見据えていた。なぁ、ファルス、田舎のトヴィーティアから出てきたばかりの、その辺の無知な農民どもと変わらん奴らが、いきなりピュリスという都会の街で、洗練された仕草と態度でやっていけるなんて、あり得ることか?」

「難しいこととは思いますが」

「そう、初代には難しい」


 苦々しい過去を語っているのに、彼の顔は不思議なほど穏やかで、晴れやかだった。


「要は私が余計なことを考えなければ。あの当時の、まぁ今の世代の大人達の次、そこが一人前に育つまで、私が耐え抜いて支えればよかった。だが」

「閣下、過ぎたことです」

「人生には、取り返しのつかないことがある。そうだろう?」


 これには言葉を返せない。

 彼にとっての一番の喪失、それは……

 

「すべて失ってから、わかることもある」

「あれは、僕の無力もありました。ティンティナブラム城を偵察した時に、アネロスを討っておけば」


 この言葉に、彼は真顔になって、じろりと俺の顔を見つめた。


「……できたのか?」

「可能性はありました」


 ジョイスとイーパを待たせて、なんとしてもティック庄に留まっていれば。数日あれば、どこかでその機会を得られた可能性はあった。あの時は、自分の行動が不自然なものになるのを避けるために、おとなしく帰路につくことを選んだのだが、結果論でいえば、誤った判断となってしまった。


「なら、やらなくてよかった。うっかり返り討ちに終わっていたかもしれんのだぞ」


 ピアシング・ハンドのことを知らなければ、そういう結論になるのも無理はない。そして、俺が俺の肉体のまま、アネロスに挑んで殺害された場合、エンバイオ家の本音がどんなものか、オディウスに知られてしまう可能性もあったのだ。


「思い通りにできないことは仕方がない。力を尽くしても及ばないことはある。だが」


 表情は穏やかでも、激する感情はあるのだろう。彼の拳は固く握りしめられていた。


「己の愚かしい考えが不幸を招いたのだとするなら、それだけは許せないものだ」

「閣下」

「今にして思えば、イフロースは正しかったな。ファルス、お前をしっかりと繋ぎ止めておけば、エンバイオ家の未来はまた違ったものになっていたかもしれん。なにしろ一代で貴族にまで上り詰めるほどなのだから。だが、お前に対しても、イフロースに対しても……それから、妻に対しても」


 肩が小刻みに震えていた。それなのに表情は変わらない。


「私は、余計な考えを捨てきることができなかった」

「どうして」


 俺の口から、思わず疑問が漏れ出た。


「どうして閣下は、あのような。フィル様の計画を台無しにするようなことをなさったのですか」


 サフィスは頷いた。


「愚かしいと思うか」

「いえ、念のために申し上げますが、責めているのではなく、嘲りたいのでもありません」

「理由を挙げるとするなら、強いていえば、愛ゆえか」

「愛?」

「愛に餓えていたのだ」


 いったい何の話なのか。まるで検討もつかない。サフィスが市内に愛人を抱えていたことくらいは覚えているが、さすがにそのことではあるまい。

 よっぽど間抜けそうな顔をしていたのだろう。彼はしゃくりあげるようにして、笑いだしてしまった。


「わからんか」

「は、はい」

「なぁ、ファルス」


 彼の目が光を帯びたように見えた。


「果たして、我々が愛と呼ぶ心の働きは、善人や賢人だけのものだろうか?」

「えっ……いえ」

「では、悪人や愚者の中では、何が起きているのだろうな?」


 彼は深く頷いた。


「朽ち果てたも同然のこの身ではあるが……ふふ、どうやら、私にも、お前に教えてやれることがあるようだ」


 彼は立ち上がり、部屋の隅の机の上にある鞄に手を伸ばした。そして中から、何かを取り出した。


「ちょうどよかった」


 その手に握られていたのは、大粒のガーネットのブローチだった。


「これをお前にやろう」

「えっ」

「売るなり踏み砕くなり捨てるなり、どうにでもしてくれていい」

「はっ!?」


 俺の手にブローチを押し付けると、サフィスは椅子に身を落ち着けて、足を組んだ。


「それは母の形見だ」

「じゃあ、大切なものなのでは」

「とんでもない」


 彼は手を広げ、おどけた口調で吐き捨てた。


「二度と目にしたくもない代物だ」

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― 新着の感想 ―
イフロースが、早死にしたことだけは良かったと言っていた人ですか。サフィスからもこの感じとなるとそうとうアレな人だったんだな……
更新ありがとうございます! > 「いやとは言えまい。陛下といえども」 まぁタンディラールからしたら、陞爵させるだけで土地が手に入るから悪くない取引なのか。 それともトヴィーティアはだいぶ田舎みたい…
人は誰かに託したくなるのか
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