世界一の……
熱い戦いからしばらく。黒雲と暴風の時間が過ぎ去ると、今度は急速に、信じられないほどの勢いで空は晴れ上がった。黒い雲はほとんど欠片も残っていない。ただ、短時間に大雨が降ったせいもあって、水はけのいい競技場の地面にも、あちこち小さな水溜まりが居残っていた。
「いやはや、凄い試合でしたね、改めて」
「大雨が邪魔でしたねー」
「いやいや、あの雨風があればこそですよ。両選手とも、天候の変化さえ利用して立ち回っていたんです。絶妙というしかない駆け引きでした」
今日は二試合しかないので、こうしてトークタイムで場を繋ぐ必要があるのだろう。ましてや実力派たるキース達の勝負の後には、気の抜けるようなネタ枠選手の出番が待っている。観客を退屈させないためにも、司会役は頑張らなくてはいけない。
「正直、もうお腹いっぱいです」
「極上の料理を食べたら、もう変なものは口に入れたくないですよね」
「それです、まさにそれ」
薄暗い通路に留まり、進行役の係員の横で合図を待っていた俺は、深い溜息をついた。
「ですが、私達は食べなくてはいけません。出されたものがどんなものであっても」
「順番が逆だったらよかったんですけどね」
「そんなことを言うものではないですよ。次の試合の、少なくとも片方は本物です」
「そうですね! 東方大陸の達人、チャン・クォ! 彼の槍捌きには素晴らしいものがありました!」
反対側の通路から、一人の老人が姿を現した。くすんだ赤紫色の上着に、ややダボついた黒いズボン。そしてすっかり白くなった髪は、ポニーテールに纏められていた。
「やってきました! カインマ侯国、バンダラガフ出身! 今はチュエンで大勢の門弟を育てています、東方大陸の生ける伝説! チャン・クォです!」
彼が入場すると、観客席の一角が異様な盛り上がりを見せた。恐らく、その門弟達なのだろう。
「ですが、とっくに引退した彼が、なぜこうして表舞台に出てきたのでしょうか」
「予感のようなものがあった、という話ですね。目にしておくべき何物かがある、という」
「それは、よくわからないお話ですね」
「予感ですから」
なんとも不安にさせてくれる理由だ。
通路からそっと彼の姿を盗み見る。ピアシング・ハンドは彼の情報を届けてくれる。するとやはり、納得の結果が返ってきた。神槍という神通力がランク6、それといくつか低レベルの神通力に覚醒している。危険感知ランク2、長寿ランク1、そして予知夢ランク1といった具合だ。
この神通力のランクからすると、恐らく、パッシャやカークの街に残されていたような、神通力を覚醒させる手順を踏んだ上での習得ではないように思われる。以前にも、意図しない神通力覚醒者を少数、目にしたことがあった。その中の一人がジョイスだが、他にも屍山ドゥーイという実例があった。この手の人達は、自分が神通力を使っていることにもあまり自覚的でなかったりすることがある。
予感のようなもの。つまり、かなり不明瞭ながら、予知夢を見たのだろう。だが、具体的に彼がどんな可能性を想定しているのかまでは、わからない。
スキル的には、一流と言える。槍術が7レベル、格闘術も6レベルに達している。キースは大した相手など残っていないと言ったが、これが弱い相手であるはずがない。
ただ、肉体のランクは既に3しかない。年齢も八十三歳とかなりの高齢で、それなりに衰えている。技量はあっても、それを活かしきれるだけの体力はないのかもしれない。
「しかし……」
司会役が渋い顔をする。
「一流の武術家を食べ物に喩えるのもどうかと思うのですが、この、選びぬかれた最高の食材に合わせるのが、どんなものでも同じ味にするドギツい調味料だとしたら、どんなに残念なことでしょうか」
「それでも、規則は規則ですからね」
「では、そろそろ入場していただきましょう。夜の帝王、ファルス・リンガです!」
すっかりその呼び名が定着したらしい。もうどうでもいい。この夏が終わったら、きっとみんな忘れてくれるだろう。
「現れました! ……おや? 得物が長いようですが」
「槍術の達人、チャンに対抗して、自分も槍で、ということですか。無謀ですね」
無謀も何も、相手が一流だとわかっていて、間合いで不利になる武器のままで挑む理由がなかっただけだ。前回と同じく剣を手に戦ったら、間合いを潰すのに大変な手間がかかる。
「しかし、槍といえば、ファルス選手にはもう一本、槍がありますよ?」
「それ、どうなんでしょうかね? そろそろそのネタで引っ張るのはどうかと。だって、あったって当たらないじゃないですか、どう考えても」
実際、下ネタにもほどがある。そろそろ準決勝ということで、それなりの立場の人も少なからず見に来ているのだし、まずいのではないか。
「正直、疑問に思われてきてます。最初は女性専用の殺し技なんて言われていましたが、実際、対戦相手が男性に変わっても、三回連続で勝ってるじゃないですか」
「でも、勝ち方を見てください。前回なんて、明らかに相手選手の自滅ですよ。勝ち急ぎでもしたのか、斬りかかる時に足をもつれさせていたんですから」
「その前はどうです? あのイッカラス選手も一瞬で倒されていたんですが、あれも偶然だと」
「性の皇帝ファルスですから、何か我々常人にはわからない何かをしたのかもしれません。実際、試合後に尋ねたところ、イッカラス選手はあの戦いの最後、なぜか体が動かなかったと言っていましたし」
「それ、本当にいやらしい技なんでしょうか」
本人がここまで出てきているのに、好き放題言ってくれるものだ。
「ま、まぁ、どうあれ、ここまできた以上、勝ち残れるのは本物だけです」
「そうですね」
「チャン・クォ選手が大会を正常化してくれることに期待しましょうか」
完全に俺のことを悪役に仕立ててしまっている。今更のこととはいえ。
「両選手とも入場しましたし、開始の合図をすべきなんですが」
「なにか問題でも?」
「一瞬で決着がついてしまいそうで。あっさりしすぎで、観客の皆様がガッカリするんじゃないかと」
「それはそれで時間の無駄もなくていいかと思いますよ?」
「じゃ、始めていただきましょうか。チャン先生、いいですか?」
声をかけられた彼は、槍代わりの棒を高く掲げて返事とした。それから自然体で、すっと構えてみせた。美しい所作。やはり達人と呼ばれるだけはある。
「それでは、開始!」
ゴングが鳴らされた。俺もすぐ、槍を構えて向き直った。
チャンは、全く表情を動かさなかった。まっすぐに背を立てたまま、棒の先端を、これまたまっすぐこちらに向けてきている。隙がない。
今回は、試合開始前に魔術をかけておくということができなかった。低ランクながら『危険感知』を有している相手だから、事前に攻撃を浴びせると、気付かれる恐れがあったためだ。そして、以前のノーゼンとの対決でも身に沁みていることだが、この手の力を備えた相手は、身体操作魔術の不可視の鏃も回避することがある。
しかも、この年齢だ。経験豊富な相手には、迂闊に魔法を使うわけにもいかない。特に精神操作魔術、あれは駄目だ。
だから、俺がもし実戦で彼と戦うのなら、遠距離から火魔術でも乱発するのが一番手間がない。が、それでは殺してしまうので、試合という枠の中では選べない手段だ。となれば、技量と身体能力の差でゴリ押しするのがいいのだろうが、これはこれで怖い。槍術にかけてきた年月の長さ、その知識量では、俺なんかとは比べ物にならないからだ。思いもよらない秘技を繰り出されて敗退、そんな展開もあり得る。
スッと穂先が伸びてくる。彼が小さく手首を返すと、それだけで俺の槍が静かに下へと押し込まれる。この、蛇が絡むような滑らかな動き。見事としか言いようがない。
だが、圧力に逆らわず、俺は静かに構え直す。斜めに槍を構え、いつでも打ち返せるように備えると、チャンはすぐさま元の姿勢に戻った。
手強いのは間違いない。とにかく、槍の先端を絡ませたら、簡単に引き込まれたり、抑え込まえたり、ことによると槍を奪われたりもしかねない。それくらい精妙な動きをする。まるで先端に手がついているかのようだ。
とはいえ、相手も俺の対応能力に舌を巻いていることだろう。普通にやったら、これは長期戦になる。だが、それは避けたい。となれば、やはり絡め手を使うしかないが……
仕方がない。
そう決めた瞬間、今まで無表情だったチャンが、目を見開いた。対戦相手である俺から目を逸らすわけにはいかない。だが、今、彼はこの上なく落ち着かない状態のはずだ。
なぜなら、彼の周囲の足場すべてが、俺の土魔術の影響下にあるからだ。そして、彼はその危険性についての警告を受け取ることはできても、何が起きているかまでは正確に知り得ない。ここが危ないとはわかっていても、どう危ないかもわからず、しかも避難する先でも警報が鳴り止まないのだ。
状況の不確定性が増したのであれば、どうするべきか? これ以上、相手に何もさせてはいけない。通常、それが正しい判断となる。実力を発揮させなければいいのだ。
彼は意を決して、短期決戦を選んだ。必殺の突きを繰り出すべく、後ろ足に力を込め……
まだぬかるんでいた地面の上で、盛大に足を滑らせた。それも無理はない。ちゃんと土台から固められたはずの闘技場の床の一部が、急に沈み込んでしまったのだから。
姿勢が崩れれば、何も難しいことはなかった。俺が棒を突き入れると、彼はそれを弾き落とそうと機敏に反応したが、下半身から力を込めることができなかったため、逆に弾かれてしまう。あとはガラ空きになった彼の肩に、軽く棒を打ち込むだけで、事足りた。
「あっ……? い、今、何が」
「ファルス選手の槍が、あの達人、チャン・クォの肩に……こ、これは」
「し、信じられません、まさかこの大一番で、足を滑らせて、こんな決着が」
「ひ、ひどい! こんな試合、無効でしょう!」
滅茶苦茶を言っている。実戦であれば、足を滑らせたのも本人の不覚だ。大雨で足場が悪いせいだというのは、言い訳にならない。
だが、誰よりチャンがそのことをよく理解していた。膝をついていた彼は立ち上がり、実況席に向かって棒を振って制止すると、俺に向き直ってから、棒を抛った。それから丁寧に一礼した。それで俺も、棒を下ろしてから、礼を返した。
「う……さ、さすが、チャン・クォ……た、確かに、勝敗に理由をつけたりはしない、何であれ負けは負けと。潔いです」
どっちが勝ったかもわからなくなりそうなコメントだ。
「でも、残念です。一流の技と技のぶつかり合いを、決勝で見られると思ったのですが」
いい気なものだ。
俺だって無理して勝ちたくなんかなかった。でも、ここで負けたらキースが納得しない。決勝戦で競う機会を与えなかったら、闇討ちされかねないから。
しかし、これで深刻な問題が、避けがたい形で持ち上がってきたことにある。キースは、決勝戦で生き死にの勝負をするつもりだ。これをどう乗り切ればいいのか……
「しかしですね、こんなこともあろうかと! 今日もファルス選手の関係者をこの場に招いております! それも、身分でいえば、これまでで一番貴い方ですよ」
「ワノノマの姫君にして、ファルス選手の婚約者! ヒジリ様です!」
俺は、思考の淵に沈むのを中断すると、口をあんぐり開けて、実況席を見上げた。
彼女は余所行きということもあって、あの青い打掛を羽織った格好で、いかにも淑やかな女性ですといった顔をして、そこに座っていた。
「さて、ヒジリ様、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんでも遠慮なくどうぞ」
「では、早速……あの、なぜ姫君ともあろう方が、その、ファルス選手と婚約などなさったのかなと」
当然の疑問に、ヒジリは首を傾げてみせた。
「そんなに不思議なことでしょうか」
「そ、それはだって、ヒジリ様はワノノマの皇族の方ですが、ファルス選手は、西方大陸のシュガ村出身の、貧農の家の出ですから。いくら騎士の腕輪を授かっていても、普通ではあり得ないことですよ」
帝都の平等主義の建前はどこにいったんだ、と言いたくなる。
「二点ほど、仰っていることに誤りがあるように思われます」
「は、はい?」
あくまで静かに、彼女は淡々と説明した。
「まず、血筋には権威が伴いますが、権威もまた手段でしかないということをお忘れのようです」
「と、言いますと?」
「仮に何の権威も伴っていなかったとしても、優れた能力、高い志を抱いた何者かがいるとするなら、まさにそれこそ権威の使いどころではありませんか。オオキミは、旦那様の資質を見抜いて、特に私を降嫁させることにしたのです」
「えっと、はい」
まだ飲み込めていない司会役に、彼女は噛んで含めるように言った。
「私達皇族が権威を帯びているのは、それを然るべき人に分かち与えるため、優れた人に相応しい立場を与えるためなのです」
「っと、では、それがファルス選手だと?」
「ここまでの結果を見ても、そうは思われないのですか?」
確かに、世界一の座を競う武闘大会で、決勝進出を決めたのだ。アルタールのように、名が知られていて出場を避けたのも少なからずいるとはいえ、ここまでに至った事実が小さいわけがない。
「でっ、ですが、ファルス選手は本当に強いのでしょうか? こう、ほら、そのぅ……」
「妙な特技で勝ち抜いているというお話ですね?」
「あ、は、はい! それです!」
ヒジリは悠然と頷いて、静かに、けれども断固とした口調で言った。
「いいのではないでしょうか」
「はい?」
「そういう噂を信じるのであれば、それで構わないと言ったのです」
ちょっと! それはやめて欲しい。仮にも婚約者なのに、そこは否定してくれないのか。
だが、ヒジリはキッパリと言った。
「これは試合とはいえ、戦いです。戦いとは、ただ木剣を振るうことを言うのではありません。なんとしても勝つことが武人にとっての戦いで、果たすべき務めでしょう」
「そ、そうですね?」
「旦那様が、日々、汗を流して木剣を振るった末に強くなったのか。それとも、あなた方が考えているように、女人を惑わすことで強くなったのか。どちらでも構わないではないですか」
「構わないんですか!」
「構いません。当たり前のことです。苦しんで修行したから偉い、遊んでいたらたまたま強くなったのは偉くない……そんな思い込みが、戦場で何の役に立つのでしょう。もう一度申し上げます。なんとしても勝つのが武人の務めです。そして、旦那様はここまで勝ち上がってきました。ただそれだけのことで、そのやり方がどうかなど、いちいち問うのは無益でくだらないことです」
実に彼女らしいコメントではあった。
さすがにここまで言い切られては、返す言葉もない。実況担当も反論を断念するしかなく、会場にも、どことなく納得感を思わせる雰囲気が漂い始めていた。
だが、そこにヒジリは畳み掛けた。
「もう一つ。旦那様は卑賤の生まれではございません」
「はい? えっと、ですが、資料によれば、シュガ村の生まれで、元の名前はチョコス……」
「名前はともかく、血筋については誤りです。ティック家の夫はフォレス人、妻はルイン系の女性でした。どうして黒髪の旦那様が生まれたと思うのですか?」
「そうだったんですか。では、いったい」
ヒジリは、二年前の作り話をここで繰り返した。
「旦那様の父は東方大陸の名家、シュウファン家のユンイです。元を正せばかの皇帝にも連なる高貴な血筋なのですよ」
この宣言に、司会役と実況担当は顔を見合わせた。
「こ、これは」
「道理で」
「えっ?」
もしかしたらヒジリは、彼女なりに気を遣ってくれたのかもしれない。この大会に出ろと言ったのは彼女だから。責任をとって、俺に浴びせられた不当な噂を揉み消してやろうと、そういうつもりでここまで顔を出したのではないか。
だが、ユンイの話を持ち出したのは、余計だった。
「ユンイといえば、チュエンの人なら誰でも知っている、あの……」
「没後に明らかになったことですが、今では大陸一の好色家などと言われている……」
思っていたのと違った方向に実況担当の思考が動いてしまったことに、ヒジリは今更ながらに気づき、微妙に顔色を変えた。
「少年期には、国一番の好色家だったラスプ・グルービーに教えを請い、認められて、彼の死後には色街を引き継いだ」
「けれども、それだけの素養は生まれつき……大陸一の好色家だったユンイの落し胤となれば」
彼らの視線が俺に注がれた。
「間違いありません。彼は」
「世界一の好色家」
変な烙印を押されてしまった気がする。
呆然として佇む俺を尻目に、司会役は声を張り上げた。
「で、では、決勝戦までに……ともあれ、本大会、決勝戦は、英雄キース・マイアスと! 予想外にここまで勝ち上がったファルス・リンガ! この両名の勝負となりました! 皆様、歴史的瞬間をともに見届けましょう!」
この宣告に、会場にはブーイングが響き渡った。




