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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第五十章 千年祭
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俺も涙目

 静かな喜び。極端な感動とは対極にある。それはしばしば、どこにでもあるような日常の中に、ふと訪れるもの。

 それは作為の中にはない。ただ脱力し、横たわる。安息の中から、じわじわと湧き上がってくる。血肉がその充実を伝えてくる。生命が自らの裡に満ち満ちている。ただ、それだけ。そのことが、こんなにも心地良い。

 深い眠りだった。雲の上を漂っているような。疲れも、悩みも、何もかもが吹き飛んでしまったような気さえする。


 手足を伸ばす。まどろみの中、ぬくもりの中、溜め込んだ活力を解放すべく……

 あらゆる刺激が好ましい。白いレースのカーテンから漏れてくる朝の光、肌に触れるシーツ、そして女の柔肌……


 柔肌!?


 そういえば、ここはどこだ?

 見覚えのない部屋で、どうして寝ている?


 急に我に返って、俺は首を回した。


 寝室だった。俺から見て右側にはガラス窓があり、そこは鬱蒼と茂る木々に遮られている。それでも、斜めに差し込む朝日が届いてはいるが。ベッドは窓際に設置されていた。

 決して広い空間ではない。ベッドの他には箪笥とハンガー、あとは小さな丸テーブルと椅子が一つ。本当に、寝るためだけの空間だ。扉が左側にあって、そちらが別の部屋とか廊下に通じているのだろう。

 そして俺はというと、上半身裸、下半身には下着一枚の状態だった。恐る恐る右側、壁際のベッドの上に目をやると……


「んん……」


 明るい亜麻色の髪を振り乱したまま、毛布を引き寄せ、下着姿のまま、俺に背を向けて寝転ぶフシャーナの姿があった。


「あたま……いたい……」


 息が止まりそうになった。絶叫しそうになるのを、かろうじて自ら抑え込んだ。

 どうしてこうなった。


 冷や汗が止まらない。思考が纏まらない。まさか、一線を越えたなんてことは……

 いや、でも、記憶は本当にない。なんだったっけ? 泥酔したフシャーナから、女神の涙とかいう銘酒を呑めと強要されて、一口飲んだ。すると、視界がブラックアウトした。それまでは完全に正気だったのに。

 なぜだ? 俺に毒は通用しないんじゃないのか? あんな一瞬で意識が飛ぶって、よくよくのことだ。なのに今はというと、別に吐き気とか頭痛とか、二日酔いの気配などはまったくない。だから余計にわけがわからない。今も俺のすぐ横で寝惚けながら身悶えしているフシャーナは、頭痛を訴えているというのに。


 この状況に至った経緯はわからない。昨夜、何があったかもわからない。わからないことは、わからない。

 でも、考えなくてはいけないことがある。それは、ここからどうするか、だ。


「ううん……」


 フシャーナがゴロンと転がって、俺に触れた。すると、彼女は何かに気付いたのだろう。手を伸ばし、俺の肩に触れ、そのまましなだれかかってきた。


「えっ、ちょっ」

「んー」


 顔が近づいてくる。避けようとして横を向くと、頬に思いっきりキスされた。

 まさか、まだ寝惚けてる?


「えへへ……」


 いや、とにかく、彼女が寝ている間にここを……


「ん? はれ……これ……」


 ……だが、一足遅かったらしい。

 パチリ、と彼女は目を開いた。その視線が、俺と重なった。


「きゃぁあああ!」

「わぁぁあああ!」


 絶叫と悲鳴も重なった。


「あっ、あわわわ」

「こっ、これはっ、いやっ、そのっ」


 フシャーナは顔を真っ赤にしている。無理もない。俺だって自分が今、どんな顔をしているかなんて、わからない。

 そして、沈黙が場を覆った。


「あ、あの、昨夜」

「な、なに、何よ」

「あのお酒飲んでから、記憶がまったくないんですが」

「あのお酒?」


 キョトンとして、彼女は数秒間、思考の淵に沈んだ。だが、思い至ったのだろう。みるみるうちに顔色が変わった。


「嘘でしょ!」


 跳ね起きると、目のやり場もない下着姿のまま、部屋の外へと転がりでた。いったいどれほどの大事だったのかと、あっけにとられていると、程なくして悲鳴が響いてきた。慌てて駆けつけた。


「ど、どうしたんですか!」

「どうしたもこうしたもないわよ! 女神の! 女神の涙が! 減ってる!」


 びっくりした。うっかり瓶をそのまま割ったりでもしていたのかと思った。


「そりゃ飲まされたんですから、飲んだ分、減るのは当たり前でしょ」

「これがどれだけ貴重なお酒か、お金をいくら積んでも二度と手に入らないのに」

「飲ませたのはそっちです」

「だからってどうして飲んじゃうのよ」

「知りません。酔っ払ってた自分自身に訊いてくださいよ」


 そこでやっと気付いた。居間の裏手、その先にある薄暗い通路に立っていたのだが、眼の前は全て棚になっていた。その棚、すべてにギッシリと酒のボトルが詰め込まれていた。

 正真正銘の酒クズ。それがフシャーナの正体だったのか。


「あっ、いや、こ、これは違くて」

「何が違うんですか。理解しました」

「理解って何が」

「大方、酒が好きで好きでメチャクチャに飲みまくって人に迷惑かけまくって、それで禁酒を言い渡されてたんでしょう。こんな酒乱だったとは」

「家にこんなにあるのに、今まで何十年も我慢してたんだから、そこは評価してよ!」


 知るか。売るなり捨てるなりしておけ。


「というか、あの」

「なに?」

「こんな格好のままで……」


 急に気まずくなった。それで俺達は寝室に駆け戻り、慌てて衣服を身に着けた。


「えっと、結局、昨夜は何があったんですか」

「何がって」

「本当に、あのお酒を飲んでから、ブッツリ記憶がないんです。朝まで」


 だが、普通のアル中は違う。断片的には記憶があるはずだ。


「まず、昨夜、ここまで帰ってきたことは思い出せますよね?」

「えっ、う、うん……いや、そうかな」

「覚えてるはずです。だって、あのお酒って言ってから、急いで確認に走っていきましたよね。僕にうっかり『女神の涙』を飲ませたことをうっすら覚えてたから。教授は記憶があるんです」

「そ、そうね」


 目が泳いでいる。どうも様子がおかしい。


「いつの間に服を脱いだのかも、まったく思い出せないんです。昨夜、あの後はどうなったんですか」

「し、知らないわよ」


 そう言う彼女の、しかし、顔は正直だった。

 見る間に頬が染まっていく。


「ちょっ……何かあったのなら、ちゃんと言ってくださいよ!」

「知らないって言ってるじゃない!」


 嘘だ。

 どうしよう。もう強引に魔術で心を読み取って……


 その時、玄関から呼び鈴が鳴らされた。ビクッとして、俺もフシャーナも顔をあげた。

 俺は彼女に目配せした。家の主は彼女、だからいつものように応対するのがいい。フシャーナも頷き、居間から出て廊下に一歩を踏み出した。だが、直後に玄関の扉が押し開けられる音がした。

 そういえばそうだった。昨夜はすぐ帰るつもりだったのだ。ソファにフシャーナを寝かせて、帰りますよと一言伝えて、そのまま扉を閉じて魔法で施錠して。帰りが遅くなったことをヒジリに詫びるという、そういう考えだったから、いちいち鍵をかけたりもしなかった。

 しかし、家主が開けもしないのに勝手に扉を越えて踏み込むとは、いったいどういう……


「いた!」


 俺が顔を出した瞬間、なぜかそこにいたウィーが、俺を指差した。

 他にも、ディエドラもシャルトゥノーマも、ホアまでいた。そして、彼女らの後ろにはノーラとヒジリ、そして付き従うカエデの姿まであった。


「ひぇっ」


 ガソリンをぶっかけられて、そこに着火されたような気分だった。もう、どうしたらいいか、わからない。


「やっと見つけたわ」


 ふぅっ、となんでもないように溜息をつくノーラ。


「旦那様! ヒジリ様という方がいらっしゃるというのに、なんということを!」


 憤るカエデ。


「もっ、もっ、もももっ、もう、そういう関係、だったのか」


 顔を真っ赤にしながら口籠るシャルトゥノーマ。


「出し抜くとはなかなかやるな。だが、勝負はこれからだ」


 不敵な笑みを浮かべるディエドラ。


「うぉぉ! なんでオレ達ほったらかして新規開拓してんだよ! さっさとオレのこともブチ抜けよ!」


 ドサクサに紛れてメチャクチャなことを言うホア。


「無断外泊の上に、このような……さすがにこれは、黙って許すというわけには」


 なんか怖いことを言い始めるヒジリ。


 でも、責められても叱られても、俺には記憶がない。

 説明を求めて、俺はフシャーナに振り返ったが、彼女は口を固く引き結んで、何も言おうとしなかった。


 ああ、そうか……


 俺は理屈でなく、魂で理解した。

 経緯がどうあれ、事実がなんであれ。今、この場で責任をとるべきは、俺なのだ、と。


 俺はその場に膝をつき、頭を垂れて、罪を詫びた。


「申し訳ございませんでした」

「カエデ」


 ヒジリが淡々と命令を下した。


「ひっ捕らえなさい」

「はいっ!」


 かくして俺は、縄でぐるぐる巻きにされ、フシャーナの家から連行された。そんな俺を横目に、ノーラはまた溜息をついた。


 それから俺は馬車に乗せられ、旧公館まで連行され、離れに軟禁された。どうやら彼女らは、二階の居室で話し合いをしているらしい。

 まったく、昨日から散々な目に遭っている。やっと武闘大会の対戦相手が男になったと、これで根も葉もない好色漢との噂を払拭できるかと思いきや、俺の過去を曲解した実況担当によって見事に変態の烙印を押されてしまい。気力も体力も尽き果てて、それでも用事を片付けようとしたらフシャーナの酒癖に足下を掬われて。

 いったい、俺が何をしたというのだろう。


 足音が近づいてきた。それからノック。返事をすると、扉が開けられた。


「災難ね」


 ノーラだった。


「みんなどうしてる?」

「なんだかお茶とお菓子を食べながら、お喋りしてるわ」


 ガクッと肩から力が抜ける。なんだそれは。


「そもそもファルスが夜遊びなんかするわけないもの。何か間抜けなことでもして、ああなったんだっていうくらいにしか、みんな思ってないわ」

「じゃあどうしてこんな」

「半分は甘えてるようなものかしらね」


 腑に落ちる。怒ってるフリ、だ。俺が素直に怒られることで、関係性が健全に保たれていることを再確認する。


「それに、読み取りにくかったけど……学園長も、何もなかったと認識してるみたいだったし」


 ということは、心を読み取ろうとしたのだろう。相手の能力が高い上に、知られたくないと思っていることだから、難しかっただろうが。


「まぁ、どこまでを『何もなかった』とするのかって話ではあるけど」

「えっ?」


 とはいえ、確かに俺もフシャーナも半裸だったのだ。あれはあれで、もう事件ではある。


「それで、今はみんな、何の話を?」

「南方大陸」


 そうだった。フシャーナも行くと言っていたが……


「マルトゥラターレの治療がうまくいけばだけど、でも、最悪、それがダメだったとしても、送り返すわけでしょ? だって、今の帝都でも治療できないとしたら、どうせもう普通の方法では治せないだろうし」

「そうだね」

「だから、一度は奥地を目指さないといけないわけだけど……あの道をもう一度、となると」


 俺も頷いた。


「何か、もっと楽できる道筋を考えないと、大変なことになりそう。とりあえず、あの沼地越えをしないで済むようにしたいところだけど」

「それと、戦力も大事ね。詳しいことは、またストゥルンとも相談しないと行けないと思う」


 なるほど、大事な話だと思うが……


「ここ、出ていい?」


 ノーラは苦笑した。


 しばらくして、俺は軟禁から解放された。

 赦免の条件として、謝罪の気持ちを込めて、みんなにスイーツを作って差し出すことを命じられた。

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― 新着の感想 ―
ファルスって人外な能力だけど、アルコールで記憶が飛ぶものなの? アルコールは毒判定されなくて病毒耐性が効かないなら、強アルコールを打ち込めば強者でも倒せてしまうような(笑) それにしても本当に何があ…
ノーラが居て良かったなファルス…事実上本妻ポジがどっしり構えてるから名目上正妻もはっちゃけられるし
勝手な推測、これフシャーナさん、ファルスを一回剥いてファルスのファルスを確認しただろと(ニヨニヨ)
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