女神の涙
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勘違いしていました
スタートを一週間早めに見間違えていました、申し訳ありません
とりあえず、本日分は公開します
次は2025/09/11です
申し訳ございません
今日も商店街は人でごった返していた。夕刻に差しかかっている今こそ、まさに書き入れ時なのだろう。来客が持参した買い物袋に、薄い紙に包まれたパンが詰め込まれていく。別の籠の中には、たった今、調理したばかりの野菜炒めが。それも客の持ち込んだ器に盛り付けられていた。それと、大きな暗い緑色の西瓜が、細い紐に結ばれている。真夏の熱気に、香ばしさやニンニク臭さが目まぐるしく混じって流れ去っていく。
客も店員も声を張り上げていた。これには苦笑させられる。みんなもっと静かに話せば、喉を嗄らすこともないのに。けれども、そんな様子が好ましく、また遠い世界のようにも思われた。
闘技場で、あることないこと暴露された。ほとんど放心状態だった。どうしたら、ああまで人を誹謗中傷できるのか。舞台の向こうに立っているのが、生身の人間であるということを忘れることができてしまうのか。
だが、俺だって前世では、テレビの向こう側で起きていた出来事に同じような視線を向けていたのではなかったか。そう自身に問い直すと、理解できないことでもなかった。
ただ、意識の隅に小さな違和感が居残っていた。
過去四回の試合におけるからかいは、まだ理解可能な範囲内にあった。リンがネタを持ち込んだから、ラーダイが変なことを言ったから、キースが口を滑らせたから。
だが、今回は違う。侮辱の度合いがどう、ということではなく、単にそこまでの調査能力を誰が有していたか、という問題だ。特に、フィシズ女王の侍女だったという彼女。あれを引っ張り出すには、そもそも俺が彼女の後宮に殴りこんだ事実を知らなければいけない。
そこまでの情報収集能力が帝都の、大会運営にあるとも思えない。というか、それができるなら、俺の本当の戦いについても知り得たに違いないのだから。
すると、一番簡単なのは身内のリークだ。しかし、ノーラやジョイスがこんなことを企てるだろうか? 仮にリン相手に口を滑らせたのなら、この状況についての報告くらいはするはずだ。ノーラなら、実害のない侮辱くらいは看過しそうだが、それを理由もなく積極的に仕掛けるとは考えにくい。
そうなると、誰が動いたのか。俺の旅の全貌を知る誰かとなると、あとは使徒とか……だが、奴がこんなみみっちい遊びをするだろうか?
答えは出なかった。
今はその日の夕方。俺は力なく帝都の街中を彷徨っていた。予定していた用事があったので、今日のうちに片付ける必要があったためだ。
そのうち一つが、リシュニア王女の依頼だ。つまり、彼女のアルバイト先を見つけて紹介するというものだった。そんなもの、律儀に引き受けなくてもいいのでは、という考えがよぎる……危うく部屋に連れ込まれて、関係を持ちそうになったりもしたのだし……のだが、よくよく考えると、それも不義理だろうと思われた。コーヒーの宣伝の件で、裏からマリータと話をつけてくれたのは、彼女だ。何も恩返ししないというわけにもいかなかった。
既に、彼女を送り込む予定の店とは、話をつけた。千年祭のおかげで、普段より客足も増えており、忙しいので、猫の手も借りたいくらいだという。リシュニアのことは、ティンティナブリアの領民で、いいところのお嬢様ということにしてある。厳しくしてもいいが、危険なことにはならないようにと念を押しておいた。
滅多なことはないと思うが、念のため、護衛を近くにずっと置くべきではある。向かいには別の飲食店があって、路上に椅子とテーブルを置いていたりする。誰か人を雇ってそこに陣取ってもらって、最低限の監視と護衛はしてもらう必要があるだろう。無論、そこは彼女自身が手配すべきところだが、あてはあるのだろうか。
もう一つだけ用事がある。東西の大通りまで出てから、俺は乗合馬車に乗り込んだ。目指すは学園だ。
「教授、ファルスです。入りますよ」
呼び出された先は学長室。今まで滅多に使っていなかったのに、このところ、いつもフシャーナはここに篭もっていた。
ノックをしても返事がなかったので、声をかけてから扉を開けて踏み込んだ。すると案の定……
彼女は椅子に座ったまま、次から次へと書類に目を通しては署名していた。俺には気付いているのだが、忙しいのもあり、苛立っているのもあって、返事さえしない。一心にペンを走らせ、雑に署名する。それからまた、書面を掴んで内容を確認し、また。
「あの」
声をかけても、彼女は止まらない。夕暮れ時の陽光がガラス窓の隙間から差し込んできていて、空気の流れもなく、室内はかなり暑苦しい。そんな中、彼女の発する圧迫感のおかげで、息が詰まるようだった。
「先日の平和会議で……あの、東西のセリパシアの代表と、会談を」
「考えたくない」
ハッシとサルヴァジールを交えて、裏で話し合いを持っておかなくてはいけない。
特に、アルディニア王国側には、こっそり話を通したい。あの国では、融和派と独立派の対立がある。ロージス街道の復興は、彼らにとって小さくない刺激となる。ジョロスティ師辺りは、西側の通商路の遮断を主張しかねない。結果からすると神聖教国との和解に進むことになるので、実質的にはクロウル師が勝つみたいな構図になりかねないのだが、だからこそ、融和派にそこを握らせないよう、ミール王は立ち回る必要がある。おおっぴらな話し合いではなく、密談の形で、しかも帝都に一枚噛んでもらうのは、そういう事情があるからだ。どちらも無用な揉め事は避けたいと考えている。
それでフシャーナに一肌脱いでもらわなくてはいけないから、こうして千年祭ゆえの多忙な日々の合間を縫って、話をつけにきたのだが……
「もう、こんな暮らし、いや」
「あと一息ですよ。千年祭が終われば、帝都も落ち着きますから」
「その後まで含めて、もうイヤだって言ってるの!」
これは、相当にストレスが溜まっているようだった。
「ねぇ」
「なんですか」
「南方大陸行きたい。いいわね、あなたは遠くに行けて」
「何年前の話ですか」
「私は三十年前だから」
確かに、仕事やらしがらみやらでいっぱいの帝都よりは、自由な旅の方が、のびのびできるかもしれないが……
「僕の行った道筋だと、北から大森林を縦断ですよ? 暑いし、つらいし、全然楽しくないかと思うんですが」
「それでも、ここよりマシ」
「まぁ、実はまた行くことになりそうなんですけどね」
「えっ?」
興味がある、と言わんばかりに顔をあげた。
「だってそうじゃないですか。マルトゥラターレの目を治したら、ちゃんとカダル村まで送り届けないと」
「じゃあ、もう一度、奥地まで行くのね」
「来年になるかなと思いますが」
「いいわ。私も行く」
「はい?」
いきなりの参加宣言に、俺は手を振った。
「いやいやいやいや、かなり危ないんですってば。途中の沼地超えとか。提出したでしょ? 報告書、読んでないんですか」
「読んだわよ! 読んだから行きたくなったの」
「子供じゃあるまいし」
駄々をこねる彼女に溜息をついた。
「それより、なんか元気なさそうね?」
「えっ?」
「部屋に入ってきた時、なんかすごく疲れてそうだったんだけど」
イライラしながらも、そういうところには気付いていたか。俺は、雑に答えた。
「まぁ、ちょっと嫌なことがありまして」
「ふぅん?」
「あることないこと、でっち上げられて、吊るし上げられたんですよ」
「災難ね」
そこで彼女は動きを止めた。じっと俺を見て、それから急に乱暴に机を叩いて立ち上がった。
「もう、いいや」
「はい?」
「今日の仕事は終わり。やってられないわ、もうこんなの」
職務放棄、か。だが、時にはそういうこともあっていいのかもしれない。
「お疲れ様です。たまにはゆっくり羽を伸ばした方がいいですよ」
「そうね、そうするわ」
と、そこまで話してから、用事を思い出してしまった。
「あっ、でも」
「なに?」
「東西のセリパシアの代表と会談する件は……」
思わず尻すぼみになる。仕事を増やして申し訳ない。彼女はまた溜息をついた。数秒間考えて、俺の袖を引いた。
「いいわ。話は聞くから、ついてきなさい」
「わかりました」
どうしよう、と一瞬、思ったが……今日の夕食を外で済ませるなんて、ヒジリには伝えていなかったから……ただ、武闘大会の後、雑用を片付けてからフシャーナに報告と相談をしに行く、とは言ってある。多少、遅くなっても問題ないだろう。
学園の敷地を出て北の大通りに出ると、フシャーナは流しの馬車を捕まえた。そろそろ周囲は薄暗くなり始めていた。黒ずんだ馬車の後部座席に、二人して乗り込んだ。
そのまま馬車は東へまっすぐ進み、東二号運河を越えて、特に薄暗い通りに入った。やたらと人気がない。ここから北東方向には、帝都の大富豪達の、それこそお城とか、前世のラブホテルみたいな大邸宅が突き立っているのだが、そこよりは手前。すぐ南東方向が、大きな黒い影になっている。時の箱庭は小高い丘の上にあるから、そのすぐ足下といったところか。
「ここは?」
「近くに馴染みの店があるのよ」
馬車を下りると、先導するフシャーナに続いて路地に踏み込んだ。なるほど、真っ暗な中に、暖かな橙色の光に包まれた、小じんまりとしたお店があった。路地に面した一面をガラス窓にしていて、そこから内部の光が外に漏れているのだ。
「どうもー、こんばんはー」
彼女が木の扉を押すと、取り付けられた鈴がカランコロンと気持ちいい音をたてた。
「おう、らっしゃい」
店主は、筋骨隆々の三十代前半の男だった。といっても、服装はしっかり料理人だった。上下白い服にエプロン、短く髪の毛を刈り込んだその頭には帽子。
客は俺達の他に二組ほどいるだけだった。
「おう? 珍しいな、男連れか」
「余計なこと言わなくていいの。私はいつもの。あと、メニューを頂戴」
「おう!」
このオッさんは「おう」しか言わないのか、と思ったが、雰囲気は悪くない。
メニューを見た限り、ここはステーキがメインの居酒屋らしい。ただ、それは少しお高い。肉と野菜の串焼きがお手頃だったので、そちらを注文した。
「あ、それと」
フシャーナが言った。
「今日はお酒も頂戴」
「おう? これまた珍しいな、どういう風の吹き回しだ」
「そういう日もあるの」
「あ、じゃあ僕も」
最初の一杯くらい、付き合わなくては。
それで、店主はコンロに串を並べ終えてから、小さな階段を駆け下りて、地下の酒蔵からジョッキ一杯のエールを持ってやってきた。
「じゃ、乾杯!」
それからおよそ一時間ほど……
「だからさぁ、どうでもいい書類仕事ばっかり押し付けすぎなのよ、学園わぁ……」
「あの、もうこれ以上」
「なにー? あんたまで飲むなってぇのー? いいじゃない、何年ぶりだと思ってんのよぉ……」
絡み酒だった。
しかも、フシャーナは案外アルコールに弱いらしく、飲み始めて数分で、もう顔が真っ赤になっていた。といっても、飲み方からして普通ではなかったが。俺がジョッキを飲み干しもしないうちに、水でも飲むかのように次から次へと一気飲みしていたのだから。そのくせ、言うことが「飲んだ気がしない」だから、始末に負えない。
「お酒、飲むのだって、二十年ぶり、なんだからぁ」
「わかりました、わかりましたから」
「南方大陸は、三十年、ぶりぃ」
「え、ええ」
さっきから同じことばかり繰り返している。
「お、おう、兄ちゃん」
「は、はい」
「ちょっと悪ぃんだが、へべれけになっちまってるし、知り合いだったら家まで送ってやってくんねぇか。うちでこれ以上飲ませたってなったら、まじぃしよ」
「そ、そうですね」
「なーんですってぇー、えーる、もういっぱい」
「ダメですよ」
仕方がない。
「済みません、お会計で」
「おう」
ここは俺が支払い、駄々をこねるフシャーナの両脇を掴んで、テーブルから引き離した。
「ほら、帰りますよ。家はどちらですか」
「すぐ近所ぉ」
なら、よかった。女一人、嵩張りはするが、今の俺にとっては運べないお荷物ではない。
「案内してください」
フシャーナの家は、本当に目と鼻の先にあった。予想外ということはない。彼女は本質的にズボラなのだ。怠け者でもある。さっきの店の常連になったのも、要は家から近くて、すぐ通えるからでしかないのだろう。というか、そもそも彼女の性格からして、自炊も滅多にしていないのではないか。
「こっちぃ……あー、楽ちん」
フシャーナを背負い、彼女のバッグを肩にかけ、ほぼ真っ暗な中を俺は歩いた。幸い、俺にとって暗所は暗所ではない。足下の凹凸に躓くこともなく、指し示されるままに路地を抜け、割合広い道を歩いた。
見覚えがある場所だった。左側には、箱車の始発駅がある。夜間は箱車も運行していないのか、停車したまま、ひっそりとしている。当然、利用者もおらず、周囲に人気はない。一方、右手は大きな暗がりだった。少し進めば、時の箱庭に至る石の階段に出られる。だが、その手前のところで、フシャーナは右を指し示した。
彼女の自宅は、すぐそこだった。
さすが学園長ともなれば、それなりの広さの戸建てを買うことができるらしい。といっても、この位置だ。すぐ南に時の箱庭があるので、昼間でも日陰になりやすい。それもあって、割安の物件だったのかもしれない。
「ここぉ」
「ここなのはいいですが、鍵がないと入れませんよ? 野宿します? 蚊に刺されそうですけど」
本当は魔術で解錠できるのだが、そう言っておいた。なにしろフシャーナは泥酔しているのだ。間違った家を指し示している可能性もある。鍵が合わなければ他所の家。そういうことになる。
彼女は、黙ってポケットから財布を取り出した。中を検めても鍵はなく、困り果てたところで、思い出したように彼女は鍵を見つけて、それを手渡してきた。それで扉を開け、動こうとしない彼女を抱えあげて、家の中に踏み込んだ。
暗闇でも見えるからといって、俺に勝手がわかるわけもない。夏場だし、寒さが問題になることはないだろうが、固い床の上に放り出して終わりというのも、よろしくはない。
左手の扉を開けると、そこが居間だった。なかなかの広さで、足下には絨毯も敷かれている。正面には幅広のソファもあり、そこであればフシャーナも余裕で横たわることができそうだった。
まず、彼女をそこに横たえた。このまま立ち去ってもいいのだが、彼女はかなり酔っ払っている。玄関は、ここを出る時、魔術で施錠すればいいとして。とりあえずフシャーナに、酔いが覚めるまでおとなしく寝ていて貰う必要がある。
それで俺は、魔術で照明を点した。
「うっ、まぶしぃ」
ろれつの回らないままに、彼女はそう呻き、手で光を遮った。
「それじゃあ、そろそろ帰りますんで」
「まってぇ」
ソファから彼女はフラつきながら立ち上がった。
「なんですか」
「飲み足りないでしょぉお」
うわっ……
これはダメなやつだ。理解した。どうして酒を飲まなくなったのか。やめさせられたのか。
一見するとデキる女のフシャーナだが、根本的にはだらしがない。怠け者の上に酒乱ときた。帝都の女らしいといえば、そうなのだが。
「そんなことはないです。いいお店に連れて行ってくれてありがとうございます」
「ねぇねぇ、秘蔵のお酒、飲もうよ」
「これ以上、飲んではいけません」
「だぁってぇ!」
フシャーナは溜まりに溜まった不満を吐き出した。
「せっかくぅ、貴重すぎるお酒を手に入れたのにぃ! もう飲んだらダメーって言われてぇ、誰にも飲んでもらえない……あっ、そうだぁ!」
理性が飛んでいる。いや、これでいいのか? 今まで抑圧していたものが解放されたという意味では。
「わぁかった! 私は飲まない! ファルス君が飲むのぉ!」
目が据わっている。俺の腕にすがりつき、なんとしても離すまいとしていた。
俺は諦めて溜息をついた。
「わかりました。わかりましたよ。僕がそのお酒を呑めばいいんですね?」
「うん! うん!」
俺は少し考えた。フシャーナにこれ以上、飲ませたくない。では、俺は?
酒は神経毒だ。その恐ろしさは、タリフ・オリムのガイの屋敷で、嫌というほど思い知らされている。しかし、さっき俺はフシャーナと一緒に飲酒したが、ほとんど酔っていない。もちろん、ずっとゆっくり、少ない量を飲んだだけというのもあるだろう。だが、それだけではないはずだ。今の俺には、病毒耐性がある。人を死に至らしめるほどの猛毒さえ分解できるのだ。であれば、少々の神経毒くらいで泥酔したり、ましてや急性アルコール中毒にやられたりなんて、あり得ない。
ほとんど酔わずに済むのなら、ちょっとくらい飲んでも、問題はないはず……
「じゃ、じゃあ、待ってて」
パタパタと居間の向こう、カーテンをくぐってキッチンに向かい、また走って戻ってきた。
「これ、これぇ」
「はいはい、呑めばいいんですね」
透き通ったボトルに、透き通った酒が入っていた。そこには大昔の手書きのメモが、巻きつけられた紐に留められていた。
『女神の涙』
なんだか、やたらと高級そうな……というか普通、入手できないような酒のような気がするのだが……
「飲んでぇ」
だが、彼女は小さめのグラスに、雑にこの酒を注いだ。
まぁ、コップに半分くらいの量だ。これくらいでぶっ倒れたりはしないだろう。さっさと飲んで、さっさと帰ろう。どっちにしろ、ヒジリに謝らなきゃいけない。本当にろくでもない一日だった。
「じゃあ、いただきます」
そして、一気に口に運んだ。
素晴らしい香り、味、そして……
その瞬間、視界が暗転した。




