世界平和会議、の後
黄土色の石材がアーチを描く。長年の風雨にさらされてきたゆえか、そこに黒ずんだ汚れが滲んでいるのだが、だからこそ、風格のようなものが漂っているように見える。
帝国議会の議事堂だ。旧帝都の一等地の真ん中に、これだけ広々とした敷地を有する施設は、他にないだろう。そして、そんな敷地の端から見上げても、議事堂は空を区切って視線を妨げる。ここは帝都の誇りそのものだ。統一時代の終わり、あの偽帝が市内に乱入してきた際にも、この議事堂は最後まで抵抗を繰り広げ、ついには占領させなかったという。もっとも、それはアルティ自身がここの制圧のために足を運ばなかったからだろう。伝え聞く彼の能力からすれば、建物ごと吹き飛ばして、ここを更地にするのも難しくはなかっただろうから。
しかし俺にとっての議事堂の役目は、たった今、終わった。中身のない平和宣言が採択されたら、あとはその後の懇親会の会場に向かわねばならない。
議事堂を正面に右手に歩き、植木の向こう側へと抜ける。そうすると、そこにやたらと近代的な、まるで前世を思わせる背の高い建物があるとわかる。迎賓館だ。
これは少し、独特の形をしている。まず、細長い塔を囲む形で、四つの角柱が突き立っている。地上部分には、まるでケーキのスポンジのような、やや丸みを帯びた建造物があるのだが、そのかなりの部分が、ガラス張りになっている。そして、ケーキのすぐ上に、やっぱりガラス張りの塔が突き立っている。ただ、さすがにそれだけでは強度に不安があるのだろう。だから、内部には白い支柱があるし、外側の四隅の柱からも、これを支えるための梁が渡されている。
先日、フシャーナが学生達の代表に伝えた、世界平和会議の会場がこちらなのだ。儀式めいたことは、ちょっとやって終わり。その後は懇親会と、そういう流れになっている。
中身などない、帝都の政治家達の自己満足以上の何物にもならないくだらないイベントだとは思うのだが、仮にも一地方を預かる領主として、出席しないわけにはいかない。それで俺は、この蒸し暑い夕暮れ時に、わざわざ正装して、ここまでやってこなければならなかった。
受付を通り抜けて、中に立ち入ると、すっと空気が変わった。外より涼しいし、爽やかな花の香りも漂っている。
ただ、足下には注意したほうがよさそうだ。というのも、ここは独特の作りをしているからだ。俺はいいが、細かなアクセサリーをジャラジャラつけた女性参加者などは、イヤリングなんかを落としたりしたら、目も当てられない。
この迎賓館、本当かどうかはわからないのだが、なんと天幻仙境そのものをモデルに築かれたものだという。
天幻仙境の風景については、書物では次のようなものであると述べられている。山の中の道を進むうち、やがて清浄な池に出る。周囲は岩山に囲まれていて、来た道以外の入口はない。円筒形の岩山は高く聳え立っており、そこから清冽な滝が流れ落ちている。入口は南側だが、北側には岩山の間にいくつか割れ目のようなものがあり、そこに住居がある。それが女神達の住処である。そして、この岩山を登りきった先には高原が広がっており、そこには無限に実をつける果樹が植えられていて、何度殺して食らってもいなくならない猪がいるという。
つまり、ここではその入口を模している。縦に長い建物の上からは、絶えず水が流れてきている。それは今いる床の下、半球形の領域に流れ落ちる。つまり、天幻仙境の中央にある湖を再現しているのだ。その上に金属の格子に支えられたガラスの床がある。その下に見えるのは、水面上に置かれた照明と、花々を詰め合わせた籠の数々。周囲を囲むガラスの壁も、垂れ幕と花々に埋め尽くされている。
入口の反対側には真っ赤な緞帳が垂れ下がっており、その下に演壇が設けられていた。
退屈なのに、気を張る時間。どんなに美しい場所でも、まるで興味を持てない。
俺が会場に到着してから、ボッシュ首相が演壇に立った。
「改めて! ようこそ、友愛の都へ。ここへは、この日のために遠方からいらした方々も少なからずいらっしゃる。まずはそのことに感謝申し上げたい。この麗しい夕を共にする幸せは、あなた方の熱情に支えられている」
口先だけの美辞麗句、と思わないでもないが、それをスラスラと口に出せるのは、これはこれで立派なものではある。カンペもなしに、よくやるものだ。
「かの英雄が天に昇ってより一千年、この帝都は、万人の平等を守る役割を果たし続けてきた。そう、たとえ姿形が異なっていようとも、話す言葉が違っていようとも、誰もが尊貴な一人の人間である。我々は皆、同じである。同じ仲間なのである。そのことを、彼は私達に学ばせた。この原理こそが、今日まで世界を一つに保つ原動力となってきた。これまでも、そしてこれからも、この帝都はその役割を果たし続けるだろう」
一瞬、彼の言葉に軽い引っかかりを覚えた。だが、大した問題ではないと思い直した。彼は適当にきれいに響く言葉を並べているだけなのだから。
「今日は、長々しい挨拶は避けよう。真の友情に、過剰な美辞麗句は必要ない」
お前が言うか、とは思ったが、笑ってやり過ごす。今日は、それどころではないらしいから。
以前、マリータ王女が教えてくれた話だ。この場には、彼女が嫌っているという、シャハーマイト侯の嫡男も出席しているらしい。また、その他にも各地の有力者や政治家達も顔を出している。ボロを出さないよう、うまく立ち回らないといけない。
どうか厄介事に巻き込まれませんように。乾杯の後、俺はなるべく目立たないようにと、会場の隅を目指して、そこに佇んでいた。といっても、この会場には隅がない。円形なので、まず角がないし、そもそも会場の縁まで行くと、その向こうは水場になってしまう。
魔術まで使って身を隠すのもなんだし……と軽く考えていたのがいけなかったのかもしれない。
少し離れたところから、大柄な男がズンズン距離を詰めてくるのがわかった。背も高いが、全般的に体が大きい。ただ、鍛え抜かれているという感じではない。顔も、少しだけふっくらしている。といっても、そこに爛れた空気が漂うのはごまかせない。肌が健康的にツヤツヤなどしておらず、その金髪も、あまり整っているとは言えない短い顎髭も、どこか不潔感が滲んでいた。何より、その細い目が、どことなく粗暴そうな印象を与える。前世だったら、真っ先に距離を取りたくなるような男だった。
だが、彼が俺を見ているのに気付いた時には、もう手遅れだった。
「お前がファルス・リンガか」
「はい」
ピアシング・ハンドは、相手の名前を教えてくれた。ベツォート・アフモック・シャハール。これがあの、シャハーマイト侯の嫡男だ。関わらないようにしようと思っていたのに、なぜかあちらからはマークされていたらしい。
「御用でしょうか」
「用事がなきゃ、話しかけるなってか」
俺はこういうチンピラみたいな奴が苦手だ。戦えば負けはないし、なんならシャハーマイト侯爵領全体と俺一人が戦争しても、ほぼこちらの勝利で終わるだろう。ただ、なんというか、この話の通じない感じが、どうにもやりにくい。
「なぁ、お前か。最近、貴族になったって奴は」
「そうですね」
「お前は何ができるんだ」
これはまた。上から目線にも程がある。俺がお前を評価してやる側なんだ、と。
「さ、さぁ……」
「うまい話とか、あるんだろ? 俺と組めば、悪いようにはしない」
出た。悪いようにはしない。
「と仰いますと」
「俺と友人にならないか。滅多にこんなことは言ってやらないんだぞ?」
完全に駄目なやつだ。友達になろう、と言ってくる人間と友達になっていいことは、何一つない。
友人というのは、友人になるだけの信用が蓄積された結果、自然発生するものだ。その信用がないのに、信用があるかのように振る舞おうと言っている。無論、その信用を、契約などでお互いを束縛することで補うというのなら問題ない。だが、それなしにとなると、これはもう、ろくでもないのはほぼ確実だ。要は信頼関係にフリーライドしようとしているからだ。
どうやって追い払おうか。そんなことを考え始めたところで、横合いから女の声が割り込んできた。
「まぁ、あなたともあろうものが、そんな小物を相手に、何をしてらっしゃるのかしら」
サハリア人の男性を伴っていたマリータだった。
「おっ」
一瞬でベツォートの興味関心が切り替わった。さすが美女。反応させるまでの時間の短さときたら。彼は、俺と彼女を今一度見比べて、多少の戸惑いを浮かべつつも、あちらに向き直った。
でも、これは。明らかに彼女が俺を庇おうとしてくれているのだ。この貸しは、どう返せばいいのだろう?
「紹介するわ。こちら、クルナーズ・アクリハイ・ウルディヌムン。ワディラム王国の王太子」
「お初にお目にかかります」
俺はすぐ身を折って敬意を示した。
小柄なクルナーズは、真っ白な衣服に小さな白い円筒形の帽子を被っていた。西部サハリア人らしい服装だ。まだ若いが、浅黒い肌に真っ黒な口髭を生やしている。そして、その口元には常に笑みが浮かんでいた。
「もともとクルナーズ様は二年前まで学園に在籍していて、私も顔見知りだったもので、少しお話していたのですけれども。クルナーズ様、こちらがファルス・リンガという、少し前に貴族に取り立ててもらった若者ですわ」
「これはこれは、お初にお目にかかる」
「お会いできて光栄です」
挨拶が済んだところで、マリータがまた割り込んだ。
「それで、どうしてこんな小物にクルナーズ様がご興味をもたれたのかはわかりませんけど、ご紹介だけは済みましたわよ? では、失礼してもよろしいかしら?」
「あっ」
「どうも、ありがとうございます」
そんな、申し訳ない。
だが、彼女はもう用済みと言わんばかりに背を向けた。その後を、ベツォートがのっそりと追いかける。
「どうなさった? 君も彼女ともっと話したかったのかな」
「いえ、そうでは」
「せっかくの機会だから、と思ったから声をかけたくて彼女に頼ったのだけど、あまりつれなくされると、少し悲しいね」
そういうつもりではないのだが、と俺が戸惑っていると、彼は軽妙な調子で軽くウィンクしてから、俺の耳元にそっと口を寄せて囁いた。
「わかっている。わかっているよ。ベツォートのことはね。私も彼と同じ年に学園を卒業したんだから。彼女はああいう人だ。問題ないよ」
「は、はい」
「はは、律儀そうな人だ。安心した」
いずれにせよ、ここには人目がありすぎる。これといった理由もないのに、マリータ相手にベタベタしすぎては、却って迷惑をかけてしまう。
「ところで、君に興味があるというのは、本当の話なんだけどね」
「はい。なんでしょうか?」
「いや、なに。噂でしか知らないのだが、君はあのティンティナブリアの領主だそうだが」
俺はそっと頷いた。
「その通りですが」
「では、教えてほしい。イーセイ港の再開発が行われているというのは、事実かね」
また頷いた。
「ティンティナブラム城までの道路だけは開通しています。安全上の問題も今のところ、報告されていません。現在、道中の宿駅周辺に集落を建設中です。それでこの夏にも、帝都で領地の宣伝をさせています」
「これは驚きだ。では、暗黒時代に失われたロージス古道を再建したのか」
「そうなります」
ベツォートと違って、彼はまともな貴公子らしい。ちゃんと俺のことを下調べしてから、こうして接触してきている。
「では、いつ頃、イーセイ港を通しての貿易が始まると見積もっている?」
「早ければ来年にも。できれば、あと何年もしないうちにと考えています」
クルナーズは、息を呑んだ。
「いったいどうやっ……いや、それより」
彼は言葉を選んで言い直した。
「君、知ってるか? 西部サハリアは昔から、薬学の先進地帯でね」
「はい」
「良質な薬品を多く製造し、世界中に輸出してきたんだ。いや、わかってくれているならいい。お互い、ためになる選択をするのが一番だと、それを言いたかっただけだ」
「承知しております」
彼は、イーセイ港が物流を大きく変える可能性に気付いていた。ただ、それがいつ頃から機能するのかについては、まだなんとも判断がついていなかった。それが俺と話したことで、その時期が思った以上に早く訪れるらしいとわかった。そうなると、ワディラム王国としては、その交易圏から外されるわけにはいかない。不利な立場にならないようにしたい、というのが彼の考えだった。
「私は千年祭が終わったら帰国しなくてはいけない。だが、また手紙を書くよ。君も何かあったら、ぜひ手紙を送ってほしい。遠慮はいらない」
「ありがとうございます」
「気が向いたら、我が国まで来てほしい。知恵の塔の数々なんかは、一度見ておいて損はないよ」
クルナーズとの会話が終わって、ほっと息をついた。
本来なら、こんな状況にならずに済むはずだったのだ。愚痴をこぼしたくもなる。
どうしてこんな会場で、俺が一人、うろついているかといえば、王家の兄妹の機能不全のせいだ。要するに、グラーブはベルノストも遠ざけたが、例の側妾騒ぎでアナーニアとも仲違いしている。そしてアナーニアはといえば、リシュニアとも微妙な関係のまま。そういうわけで、今はアナーニアの横にケアーナがいる他は、兄妹、主従それぞれがみんな別行動をしてしまっている。
彼らが健全な状態だったなら、俺がグラーブの腰巾着の位置に回り込めば、彼が日除けになってくれていたはずだったのに、今はそれが難しい。
どうしよう。うっかり変な相手に変な話をするほうが怖い。どこかで誰かを隠れ蓑にできないものか……
そう考えて、一歩を踏み出した時、後ろから声をかけられた。




