第四回戦
ひんやりとした、どこか湿った空気の中で、俺は陰鬱な気分と戦っていた。
悪い知らせだった。ギルは今日、ここへは来られない。俺と同じく、試合があるからだ。お互い、間に合い次第、駆けつけようとは話がついているが、それは難しいだろう。なにしろ彼の今日の相手はアーノだ。優しく手加減してもらえるとも思われない。いいのを一発もらったら、木刀でも大きな痣ができるだろう。それに、試合の順序を見る限りでは、俺の試合の方が先に始まりそうだった。
だが、希望もある。初戦から第四回戦の今日に至るまで、すべての対戦相手が女性だった。しかし、ここで勝ち抜けば、今度こそ男性選手との対決が待っている。好色男と罵られるのも、今日で終わりにできる。この次の試合を堂々と実力で勝利して、汚名を返上できれば。
「三番、ファルス・リンガ」
今回はすぐ呼ばれた。とにかく、さっさと終わらせよう。
薄暗い廊下を通り抜けて、競技場の中央へと、無心に歩みを進めた。そこで、真夏の陽光を浴びて燦然と輝く、銀色の甲冑と出くわした。
「さぁて、本日第二試合は、皆様、もうすっかりお馴染みの彼! あの女性の敵、ファルス・リンガと」
女性の敵ってなんだ。ほとんど童貞みたいなものなのに、どうしてここまでイジられなきゃいけないんだ。
「穢れを知らない乙女、戦う女司祭! セリパス教の守護者、イーファ・ポクリック! 西の彼方、ショルの街からここまでわざわざやってきたそうですね!」
「なんでも教会の再建に必要な支援を募るためなのだとか。元々は、ムーアン大沼沢で魔物と戦ったり、古代の遺物を探して資金集めをしていたそうで」
丸い金属のヘルメットから、流れるような金髪がこぼれ出ている。顔もきっと美しいのだろうが、フェイスガードがあるために、ほとんど目しか見えない。その目は、俺への敵意に燃えていた。
「でも、千年祭があるとなれば、この機会を逃すわけにはいきませんものね」
「ここで目立って、教会への支援者を募ることができれば」
「信仰のためにすべてを捧げた正義の乙女! 対するは、色欲のためにすべてをかなぐり捨てた肉欲の権化! 勝つのはどちらだ!?」
ひどい言われようだが、もう慣れた。
わかっている。運営としては、俺に負けてほしかったのだ。
どうしてくじ引きで決まったはずのトーナメントなのに、こうもこのブロックに女性選手が集中していたのか。簡単な話で、本当に無差別に戦わせたら、大半の女性選手の実力では、早い段階で敗退してしまうからだ。
残念ながら、魔法や神通力を実戦レベルで使いこなせる達人というのは、この世界では少数派で、だから生まれ持った体格の差、筋力の違いを克服する手段には乏しい。俺がこれまで出会った中でも、強者と呼べる女性は数少ない。
例えばウィーは、才能にも恵まれていたが、幼少期から気違いじみた鍛錬を積み重ねて、ようやくあれほどの腕前になった。俺がサハリアの戦争で捕虜にしたキスカも、似たような状況があったのだろう。
純粋に人間としての努力で一流になった事例は、これくらいしかない。あとは環境や前提による部分があまりに大きかった。年齢の割に優れていたアナクは、生育環境が特殊だった。リザードマンに養育されるなんて、唯一無二だ。その点では、神仙の山に引き取られたホアも同類といえるだろう。ヒジリは人類最強の一角かもしれないが、もともと姫巫女候補で、一般人ではない。ノーラにしても、本人の努力もあるとはいえ、あれはピアシング・ハンドによって強化された養殖ものだ。ソフィアやフシャーナは、一芸に秀でた魔術師だが、戦闘能力という意味では評価できない。ディエドラやシャルトゥノーマにしても、ルーの種族固有の能力によるところが大きい。
では、普通の人間の女性が、多少恵まれた環境で努力したらどうなるかというと……多分、その上澄みは、ユミだろう。彼女だって、カクア家という武門の家で厳しく育てられたから、あそこまで多芸になれたのであって。あの辺が、一般女性の頂点なのだ。
つまり運営は、女性選手がトーナメントを勝ちあがっていけるとは考えていなかった。だが、勝たせたかった。理由は一つではないだろう。
まず、帝都の平等主義だ。特に女性の地位向上を重視するゆえに、彼女らが結果を出せない事実があると大変に好ましくない。だから、公平を装って下駄を履かせようとしたのだ。
そしてもう一つ、純粋に興行上の都合だ。殺伐とした戦いばかりでは、観客も飽きてしまう。そこに花を添える女性選手がいてくれれば来場者も増えるというものだ。
だから、三回戦では、ああいう小細工まで弄した。俺が抱き着かれ、動きを封じられた不利な状態から、いきなり試合開始を命じた。
知ったこっちゃない。それこそ運営から、わざと負けていただけませんかとお願いでもされたのなら、聞き入れないでもなかったのに。ここまでバカにされて、ネタにされて、どうしてこちらが相手の事情を汲んでやらないといけないんだ。
それより試合だ。
今回の相手は、金属の甲冑を全身に着込んでいる。これだと、動きは鈍るから、一撃を入れるのは簡単になるが、それをもって一本とするのは難しい気がする。無論、俺が本気になれば、それこそ兜の隙間から木剣を突き入れて、一発で勝利することもできるが、そんなことでイーファとやらを失明させるなんてしたくない。
なら、少しかわいそうだが、鎧の継ぎ目に強打を入れていくこととしよう。痛い思いはさせるが、これは武闘大会だ。ちゃんと戦う分には、別に何も悪いことはない。
だが、その思考は、彼女の行動によって中断された。
「お? おぉっと、イーファ選手、腰から剣を抜きましたが」
「銀色に輝いていますが、あれ、木剣ではないですね? イーファ選手! 真剣は反則ですよ! 殺傷力のありすぎる武器は禁止です!」
ここまでされる恨みなんか、あっただろうか。身に覚えがない。ショルなんて行ったこともないし、知り合いだっていないはずなのに。
幸い、憎悪とともに斬りかかってくる、なんてことはなく。イーファは剣の切っ先を、まるでホームラン予告でもするかのように、こちらに突きつけたまま、罵倒を始めた。
「この不潔漢め」
「僕が何をしたっていうんですか」
「貴様のせいで、ショルの教会は……管轄教会に認定されていたかもしれないのに」
「えっ」
具体的に恨みがあるとは思わなかった。
「まさか関係があるなどとは思いもよらなかったが。貴様がアヴァディリクを堕落させたんだな」
「どうしてそうなるんですか」
「クララ・ラシヴィアが釈放され、教皇になれるはずだったミディア枢機卿が事実上、地位を喪失した。なんのことはない。貴様がその淫らな力を使って、教国を汚染したのだ」
「はいぃ?」
だが、そこまで言われて、やっと思い至った。
「もしかして、ミディア師を通して、管轄教会の申請を?」
「ヨルギズ師以来の努力が水の泡だ! どうしてくれる!」
と言われても……
コテコテのセリパス教徒に詰められても、どうしようもない。いろんな情報から勝手に推測して、なんだか俺の介入のせいだと思い込んでしまっているようだが。
「それだけではない、貴様が齎した堕落は……」
「待ってください、それは誤解」
「近寄るな。唾が飛ぶ」
弁解も何も受け付けない。ああ、そうだった。これこそセリパス教徒。一周回って懐かしい。
「あの」
そこで審判が割って入った。
「とにかく、試合で真剣の使用を認めるわけにはいきません。それはこちらに預けるなどして手放してください。別途木剣を使って試合を進めていただくのでないと、運営としては、反則として扱う以外ありません」
「心配いりません」
イーファはきっぱりと言った。
「こんな不潔な男と戦ったら、私の操が散らされてしまいます。近づくだけで穢れます。私はここまでで退出しますので、あとは宜しくお願い致します」
剣を鞘に戻し、絶句する俺と審判を置き去りにして、彼女はさっさと控室に引き返してしまった。
「こ、これは」
「不戦敗、ということでしょうか」
「穢されるのを恐れてでしょうね。先に戦った選手も、やっぱり『気持ちよかった』などと言っておりましたし」
「セリパス教徒としては、そんなことになるのは死ぬより恐ろしいでしょうから、無理もありません」
ついに戦いもしないうちからボロクソ言われる破目になってしまった。
「勝者、ファルス! 戦っていませんが、ついにその色欲だけでここまで這い上がりましたっ!」
観客席からはブーイングの雨が降り注いだ。それだけではない。手にした食べかけのパンなどまで投げ込んでくるのがいる。
「物を投げないでください! 物を投げないでください!」
実況担当が声を張り上げた。試合を投げる奴がいるなら、物を投げる奴だって出るだろう。まったく、ひどい茶番だ。
だが、今日の実況担当には、この観衆を黙らせるとっておきの切り札があったらしい。
「静粛に! 静粛に! 今日は特別なゲストを招いております!」
今度は誰だ? そう思って視線を実況席に向けた。その瞬間、彼と目が合った。
声は届かない。それでも、白い陣羽織を身につけた彼は、俺に片手を挙げて挨拶した。
「現代の英雄、キース・マイアスさんです!」
この声に、観客席は試合以上に盛り上がった。続いてスタンディングオベーション。それが鳴り止んでから、急に辺りは水を打ったように静まり返った。
「え、えー……意外だったんですが、キースさんって、ファルス選手とお知り合いだったんですね」
「おう。腐れ縁でな。十年くらい前から、付き合いがある」
「じゅ、十年? じゃあ、ファルス選手はまだ子供じゃないですか」
「まぁな」
助かった! 俺は歓喜に打ち震えた。
キースなら、おかしなことは言わない。俺が戦うところを直に見ている。妙な女専用の殺し技があるなんて、そんな荒唐無稽な仮説を一蹴してくれるはずだ。しかも、キースの今の身分、これもいい。なんといっても現代の英雄、人形の迷宮を滅ぼし、パッシャの首領を討ったホンモノだ。彼の発言には重みがある。
「子供の頃のファルス選手は、どうでしたか?」
「あ? ああ、まぁ、普通じゃなかったな」
「ほほう」
「あのな、お前ら誤解してるぞ? あいつのことをただのスケコマシみたいに言ってるみたいだけどな」
いいぞいいぞ、さすがはキース。
俺にとっても英雄そのものだ。
「違うんですか」
「違ぇよ」
二人の実況担当は、顔を見合わせた。
「でも、そのう」
「なんだよ」
「何かこう、ないんですか、ファルス選手の、女性絡みの話とか」
尋ねられて、キースは顎に指を当て、少し考え込んだ。
「まぁ確かに、あいつの周りにゃ女はいたな? 何人か」
「ですよね!」
「けど、それがどうしたってんだ」
「いや、何か色っぽい話とか、ないかなぁと」
くだらない質問、明らかに方向性を絞った問いかけに、キースは不機嫌になりかけた。だが、急にピタリと動きを止め、考え込み始めた。
「どうしましたか?」
「いや、そういやぁ」
「はい」
前のめりになった実況担当を押しのけてから、彼は言った。
「そういや、こんなことがあったっけな」
「どんなことです?」
「ありゃあ、ちょうど、そうだ、セニリタート王の即位二十周年の記念行事のあった頃のことなんだが」
懐かしい。あんな昔のこと、キースもよく覚えていたものだ。
ウィーに告白して、拒絶されて。それでクレーヴェが見届け人になって、王都の郊外で決闘したんだっけ。
「ちぃと気分の悪いことがあって、まぁ、ヤケ酒飲んでたんだ」
「へぇ」
「その時に、ファルスを付き合わせたんだが」
……なんだかイヤな予感がする。
「ぶっちゃけると、情けねぇ話だが、この俺様ともあろうものが女にフラレちまって、そんな程度のことで凹んじまってたんだ。それで、その手の女のいるところでな、盛大に飲むことにしたんだ」
「はぁ、英雄様もそんなことが」
「俺は俺だ。英雄とか勝手に決めつけてんじゃねぇ。で、そん時に」
記憶が蘇ってきた。
「ファルスの野郎、まだ八歳だったか? けど、俺は酔っ払ってたからよ。勢いで言ったんだ。お前、俺が奢ってやるから、誰でも好きなのを選んで抱けって、童貞卒業しやがれって」
「えぇぇ」
「女どもに捕まえさせて、選ぶまで許さねぇって。そうしたらよぉ」
まずい。あの時、俺は余計なことを口走った気がする。
「スルリと女どもの手を振り払って逃げたんだが、その時に言いやがったんだ……『ここで僕を襲っても、もう遅いですよ』『僕はもう、童貞じゃないです』とかって……じゃあいつヤッたんだって訊いたら『一歳の時、故郷の村で!』って抜かしやがったんだぜ?」
会場を沈黙が包み込んだ。空気が変わった。まるで真夏の太陽が置き去りにされたかのように、淡々と地上を照らしている。だが、その熱量は忘れ去られてしまっていた。
「まぁけど、それがあいつのすべてかって言ったら」
「聞きましたか、皆さん!」
キースの言葉を遮って、興奮した実況担当が絶叫した。
「やっぱりただのスケコマシなんかではなかった! 並大抵ではなかったのです! ファルス選手は、当代きっての好色家だったのです!」
「いや、待ってください、一歳ですよ? そんな体の完成度で、どうやって」
「いえ、私は確認したんですよ」
「何を?」
「ティンティナブリア物産展で、なんと大胆にも、ファルス選手は自分の肉体の一部を模した代物を販売しておりまして……正直、馬か何かのようでした」
ここへきて、あれが効いてくるのか。
「決めつけはよくありません。ファルス選手、聞こえますか?」
実況担当の相方には、良心が残っていたらしい。
「そこからでは声が届かないでしょうから、事実かどうかでマルかバツ、身振りで示してください。あなたが一歳で童貞を失ったのは、事実ですか?」
公開処刑。セクハラ。あと、それ以外でなんと表現すればいい? あのリンガ村の、老婆の記憶が甦ってくる。
茫然自失。嘘はつきたくない。しかし、だからといって。俺はただ立ちすくむしかなかった。
「返事がありませんね」
「つまり、事実ということです」
「底知れませんね」
「おい、お前ら」
「あ、キースさん、本日はお忙しい中、わざわざありがとうございました!」
審判に促され、俺はまたも控室に引き返すしかなくなった。名誉回復は次の機会を待つしかないらしい。




