ベルノストの下宿先にて
窓の外に目を向けると、まさに西の空に日が沈もうとしていた。濃い灰色の雲、そこから垣間見えるのは、灼けた鉄のような朱色。家々は暗い影を落とし、燃え上がる空を背景にくっきりとその輪郭を浮かび上がらせる。だが、まもなく夜陰が周囲を包めば、その中に溶け込んでしまうのだ。
「なにぶんにも手狭でな」
ベルノストは、俺達来客にそう言って、窮屈であることを詫びた。
「いやいや、これくらいこじんまりとした集まりのほうが、寛げますよ」
「そう言ってもらえると、こちらとしても気が楽だ」
ベルノストの今の下宿先。もっとも、下宿といっても、一人暮らし用としては無駄に広い。仮にも貴族の嫡男、しかも王太子の側近という立場を考えると、あまりにみすぼらしい場所では困るのだ。数人の来客を受け入れるくらいはできるだけのリビングがある。
部屋の中央に置かれているのは、立派な切り株を加工して拵えた、歪な形のテーブルだ。中が空洞になっているのだが、そこも持ち味ということで、ガラス板を張ってある。その上に置かれているのは、まだティーカップだけだ。
以前はリシュニアと共に来たのだが、今回はもう少し肩肘張らずに済む仲間を集めた。そういう要望があったからだ。
「どんな顔したらいいか、わかんねぇな」
ギルが戸惑いながら、そう呟いた。耳聡いベルノストは、それにもいちいち返事をした。
「いつも通りでいい。私的な集まりだ。ファルスはいつもへりくだるくせがあるからな。お前はお前で気楽にしてくれればいい」
「そうか。じゃ、変に遠慮するのはやめとくぜ」
例のスラムでの腕比べ以後、彼らはたまに腕を競うこともある関係性になった。実力だけで向かい合う相手に、行き過ぎた作法など邪魔なだけだ。
だが、これは説明を要することだ。俺は、不思議そうな顔をする二人に説明した。
「カリエラ様、それにオギリック様。ギルは僕が旅をしていた頃に出会った友人です。帝都で再会しまして、それで今は、ベルノスト様とも一緒に鍛錬する仲間になったんです」
「そうなんですね」
「腕を競い合う友人に、堅苦しい言葉遣いなどしないものですから。ただ、お二人に遠慮しないわけにはいきませんから」
「いいよ! 僕を呼ぶのに、様なんてつけなくていいから」
オギリックは、無邪気そうな笑顔を浮かべて、そう言った。
「楽に過ごしたほうがいいよねー」
俺の横に座るリリアーナも、間延びした声で言った。
「ナギアも、そんなところにいないで、こっちに座ったらいいのに」
「お嬢様に恥をかかせることになりますので」
「えー」
……みんなに借りができてしまった。そんな気分だった。
「本当に気にしないでいいのだがな。今回は私の我儘だ」
ベルノストはそう言って自分の責任にしようとしているが、本当のところは、それだけではない。
「僕が言い出したことだしね!」
「オギリック、お前だけはお客様に頭を下げねばならんぞ。わざわざこの忙しい時期に、足を運んでいただいたのだ」
「はぁい」
発端は、この少年の言い出したところにある。兄が通う帝立学園、そこでの友人知人に会ってみたいと。だが、ベルノストは二年間に亘ってグラーブの側近を務めてきた。その分、自由で私的な関係のある友人は限られてしまっている。オギリックの要望は、なるべくプライベートな付き合いということなので、俺の周りの人間が選ばれることになった。
しかし、だからといって、誰に会わせてもいい、なんてことにはならない。人選には気をつけた。
「その、鍛錬とはどのような」
カリエラの質問には、俺が答えた。
「ベルノスト様も、ゆくゆくは王国を支える武官としての役割を求められることになるでしょう。ギルは文官の父の下に生まれた身の上ですが、それでも実家はブッター家、あのターク将軍の後裔ですからね。やはりそのような道を志しているところもあって、普段から鍛錬の場を必要としていたのです。それで引き合わせることにしまして」
「まぁ」
彼女は、ギルに向き直って話しかけた。
「大きなお体をしておいでですし、さぞお強いのですね」
「いやぁ、それほどでもないです」
「これまで、どのような鍛錬をなさってこられたのですか」
頭をポリポリ掻きながら、彼は答えた。
「えっと、十三歳から地元の……タリフ・オリムの北東入植地で、オーガの狩りを」
「オーガ?」
「ああ、えっと、アルディニアの山の方では割と見かけるんですよ。だいたい、人間の子供から見た大人くらいの背丈があって」
こともなげに言うのだが、これでギルも相当な修羅場をくぐり抜けてきている。巨人の相手など、想像もつかないのだろう。二人は言葉をなくした。
「大きな盾を構えて、耐えてもらってる間に、短剣でそいつらの膝を刺し貫いたり、あとは俺みたいに大剣を持ってるのが、あいつらの棍棒持ってる腕を狙って振り下ろしたり。そういう、ちょっと特殊な戦い方をする相手です。一対一だと、勝てるかどうかと言われたら、自信ないですね」
「そ、そうですか」
それでカリエラは、少しだけ切り口を変えた。
「でも、どうしてそんな危ないことを」
「それは、お金がなかったからですね。自分を鍛えるためでもあったけど、やっぱり帝都まで留学する学費がなかったんですよ。うちはブッター家だけど分家なので。だから、今でも冒険者ギルドで仕事を請けて生活費稼いでます」
「それは……大変な苦労をなさっておいでなんですね」
その口調に、俺は白々しさを感じた。本当に苦労に同情しているのではなく、むしろ、そのような「卑しい身分の誰か」と同席していることに、うっすら嫌悪感をおぼえているのではないかと。言葉の上のことではない。表情に引っかかりがあった、というだけなのだが。
「今でも? じゃあ、困ってるんだ」
「まぁ、そうだけど、でも困ってるってほどではない、ですが」
それでもギルのことを強者であると理解したらしく、オギリックは尋ねた。
「ねぇねぇ」
「なん……なんですか?」
「言葉遣いは気にしなくていいよ。ねぇ、兄さんと勝負したことは、ある?」
ギルは頷いた。
「ああ。だいたい俺が負けちまう」
「えっ、兄さん、そんな強かったの?」
俺が横から言い添えた。
「普通にベルノスト様は強いです。同世代で勝てるのは、そんなにはいないでしょう」
「やめてくれ。恥ずかしくて、いてもたってもいられなくなる。それにこの前も、ジョイスにはやられっぱなしだった」
彼が苦笑しながら言うと、オギリックはそこにも探りをいれた。
「ジョイス?」
「ああ、えっと、もともとは私のところの領民で、今は南方大陸のカークの街で、武術の腕を磨いてきて、ちょうど帝都までやってきたんですよ」
「へぇ」
「あれは普通ではないので。彼に追いつこうと思ったら、他のことは全部脇において、武術にだけ時間を割くような暮らしをしないと無理です」
カリエラは納得したように頷いた。
「そういうわけには参りませんものね。殿下のために兵を率いる立場になるとしたら」
「仰る通りです。一番前で剣だけ振り回せばいい身分ではありませんから」
一見すると、私的で気遣いの必要ない、この千年祭に伴う社交の中では息抜きのようなものに見えるのだが、実態はそうではないらしい。
頼み込んできたのはベルノストだ。弟のオギリックが帝都までやってきた。来年には入学するし、今のうちに先輩方の顔を見知っておきたい。兄がどういう仲間に囲まれているか、会ってみたい。そういうわけだから、知り合いを集めてくれないか、と。
彼はそれ以上の説明をしなかった。俺も掘り下げたりはしなかった。しかし、俺の方はもう、ベルノストの状況を理解してしまっている。
盗み聞きで知った限りのことでしかないが、カリエラは既にベルノストに見切りをつけている。次代の王の寵愛を失いつつある、先のない男。だが、だからといって、彼女が自分の一存で、ベルノストとの婚約を解消できるだろうか? そんなのは無茶だ。つまり、彼女が地位を確保するには、別の解決案がなければならない。そして、貴族の婚約は、家同士の取引だ。つまり、相手がベルノストでなければならない理由はない。
そして、そのようなカリエラの判断、そしてまさにベルノストがグラーブから遠ざけられつつあるという状況を奇貨とする人物がいる。それがこの、オギリックだ。
歴史あるムイラ家だが、貴族の地位に留まるための爵位、その椅子は一つしかない。とっくに領地を手放し、宮廷貴族に成り果てた一族なので、分家というわけにもいかないのだ。ということは、オギリックが貴族でい続けるためには、ベルノストを追い落とす以外にない。
まだ、内心を読み取ったりはしていない。だが、そのような意図があるのではないかと疑っている。兄弟仲がいいはずもないのだ。ただでさえベルノストは、その家族から疎まれている。実母からは黒髪のせいで。そして実父にしても、愛する側妾の子であるオギリックの方にばかり愛情を注いでいる。
そういう状況に、彼自身の危機感がないのでもないはずだ。だが、彼は俺に助けを求めなかった。弟には自分への悪意があるのではないか、とは相談しなかったのだ。
とすると、俺としては差し出がましい真似もできない。しかし、彼の不利益になるようなこともしたくない。それでこの人選なのだ。ジョイスやニドといった、こうした場に出すには少々難のある知人は連れて行かないという判断を下した。
まだなんともいえないが、この二人には、何か思惑がある。
そのことを感じ取ってくれているのだろう。だからリリアーナの口数は少ない。彼女は今、じっとこの場を観察しているのに違いない。
「でも、兄様は確か、武闘大会に参加してるんだよね」
「ああ」
「殿下がいい顔をされないのはご存知でしょう? どうしてまた、そのような」
「自分を試してみたかった」
グラーブは、自分のサロンに属する学生達に対して、千年祭でハメを外しすぎないようにと釘を刺していた。武闘大会への参加についても「慎重に判断するように」と申し渡している。だが、結局、俺もベルノストも参加してしまっている。
「殿下の恥になるような結果にならなければいい。そういうことだと思っています」
ここでまた、ベルノストが情けない負け方をすると、攻撃材料にされてしまうのだろう。だが、彼が弱いはずもなく、第三回戦まで、順当に勝ち上がってきている。
「今のところ、まだ僕の知り合いの中では、誰も脱落してないですからね」
「おう。決勝でやろうぜ」
ギルがそう言った。
「途中で当たるかもしれない」
「んー? 他はそうだけど、お前だけは決勝まで会えないぞ?」
「そうだったのか」
「なんだ、お前、トーナメント表、ちゃんと確認してなかったのか」
ギルは座り直して説明した。
「お前と俺達じゃ、反対側だからな。ジョイスもベルノストも全部こっち側。で、ベルノストとジョイスは死の組なんだぜ」
「えっ?」
「もうちょい勝ち進むと、シードにキース・マイアスが出てきやがるから。俺は大きなブロックでは一緒なんだけど、その反対側だから、準決勝まではぶつからないんだ」
ということは、ギルはいいところまでいけるかもしれない。リリアーナが笑顔を向けた。
「ツイてたね!」
「お、おう。まぁでも、俺があの英雄に勝ってファルスと決勝……ってのは厳しい気がするな」
「でも、準決勝まで残れれば、かなり評価されると思うよ。ただ、他にも強敵がいないとも限らないけど」
「そうだな。あ、そうそう、そういやヒメノちゃん、今、どうしてる?」
急に話が飛んだ。
「最近は会えてない。服飾系の催事で忙しいみたいで」
「そっか。いや、次の相手がさ、ヒメノちゃんの親戚なのかなーって」
「えっ、誰?」
「アーノ? ヒシタギって書いてあったから」
あっ、終わった。
「なっ、なんだよ、急に真顔になりやがって」
俺は彼の肩にポンと手を置いた。
「ここまでよく頑張った」
「何がだよ」
「知名度ないかもだけど、優勝候補だから、その人」
「マジ?」
「キースと戦うのと大差ない」
知り合いが早くも一人、脱落、か。
まぁ、そういうこともある。ギルは昔から何かと運がなかった気がする。
「いいじゃないか」
だが、ベルノストは、嫌味でも何でもなく、本心からそう思ったらしい。
「つまらない相手ではなく。本当の強豪と戦う機会だ。得難いではないか。私もあのキース・マイアスに挑む前に敗れたらどうしようかと、不安で仕方なかった。だが、ひょっとして彼に勝てたら、今度はもう一人、達人に挑めるということになるのだな」
「この二人のどっちかにでも勝てたら、世界最強を名乗っても誰も文句言えないです。もう挑む側ではないですよ」
「いいや? まだお前がいるじゃないか」
肩を竦めるしかできない。
「僕は……もう、誰かに適当にやられて、退場したい……」
「どうしたの?」
リリアーナが小首を傾げながら尋ねた。
「いや、なんかもう、その。試合のたびに、誹謗中傷が」
「えぇっ」
「なんか僕が、その、遊び人みたいなことを面白おかしく言われるもんだから、まぁ、試合を盛り上げて楽しませるためなんだろうけど」
「そいつぁひどいな」
ギルが腕組みして、こう言ってくれた。
「んじゃ、今度、時間できた時に、俺が証言してやるよ。ファルスはそんな奴じゃねぇってな」
「助かる!」
ベルノストも腕組みして、溜息をついた。
「帝都には、そういう傾向があるからな。貴族を見下して楽しむというか。そういう地位も、結局は帝都の秩序より下なんだと、そう言いたがるところはある」
「成り立ちからすれば、わからない話ではないですけど、あることないこと言われるのは」
「大変だな、お前も」
そこで会話が途切れた。
「お待たせしました!」
裏手から、タマリアが出てきたからだ。料理を運んできた。といっても、彼女が作ったのでもないし、俺が手掛けたのでもない。こういう時のための高級ケータリングサービスだ。食べやすいようにと、パンで肉や野菜を挟んだもの、ハンバーガーともサンドウィッチとも言えないのが持ち込まれてきた。
「さぁ、召し上がれ! あっ、ナギアちゃ……ナギアさん、そろそろお休みください。しばらくは私が給仕しますので」
「お気遣いはありがたいですが、もう少しだけここにとどまりたいと思います」
「そう?」
ナギアは、リリアーナのサポートのために侍立している。滅多にそんなことはないのだろうが、失言とか、何かミスをしでかしたときにカバーに入るために、ここにいるのだ。
しかし、ナギアがしくじりをしなくても、タマリアの振る舞いが、二人の来客の目を引きつけてしまった。
「うん? 兄様、このメイド、随分と馴れ馴れしいみたいだけど」
「む? ああ、彼女もファルスの紹介で、うちに入って貰っている」
「えっ」
俺は見逃していない。オギリックの眼差しには、軽い苛立ちと蔑む思いとが滲み出ていた。もし俺達がいなければ、無礼を厳しく咎めていたのではなかろうか。
「信用できる使用人を見つけるのも簡単ではなくてな。こう見えて、役に立ってくれているところもある」
「そうなんだ。ねぇ、ファルス様、このメイドって、ティンティナブリアの領民とか?」
「いや、昔の知り合いです。僕の素性はさっきお話したかと思いますが、収容所にいた頃の知り合いで」
身元はごまかさないといけない。特に、ゴーファトの件だけは。
「ああ、ただ、もちろん、ちゃんと自由民の身分を与えられた後で。サハリア人商人のところで解放されているから。それでその後、いろいろあって、今は独立して、帝都にやってきていて、偶然再会したから、こうしてここでのお仕事をお願いすることになって」
「へぇ」
彼女の過去までは知らないはずだ。しかし、彼女の自宅がシーチェンシ区にあること自体は、すぐ突き止められてしまうだろう。あまり深堀りされたくはないのだが……
「そっか。えっと、名前は?」
声をかけられて、タマリアは軽く体を揺らした。それから頭を下げて、答えた。
「タマリアと申します」
「ふうん。これからも兄様のこと、よろしくね!」
「承知致しました」
弟が何か余計なことをいうのではないかと、ベルノストは気を張っていたようだが、ここで安堵の息をついた。
「そろそろいただこう。せっかくの肉が冷めてしまうぞ?」




