参謀クー、デビューする
決して不潔とはいえない部屋。置かれた家具や調度品の質も、そこまで高級とまではいかないながら、それ自体、家主に恥をかかせるような代物ではない。それなのに、これはどうしたことだろう。
別邸の三階、北東の一角にある、奥まった部屋。これが実に奇妙なことになっていた。床はといえば、微妙に染められた茶色の木材がさまざまな形で組み合わされてできている。これはセリパシアの様式だ。なのに、真っ白な壁にかけられている絵画はといえば、緑の草原と森を描いた、いかにもフォレス風の作品。そこに置かれた座席ときては、微妙に幅広で中途半端な丈しかない、あのシュライ風のもので、俺と来客との間には、木目の美しさを生かした立派なハンファン風の座卓が置かれている。
「お待たせしました」
扉が開けられ、そこから摺足でやってきたカエデは、こともあろうにワノノマ風の湯呑みを持ち出していた。その内側を満たす黒い液体はといえば、コーヒーだ。
彼女は、飲み物を提供し終えると、次の用命を待つべく、俺の後ろで膝をついて目を伏せるクーの横で、同じようにした。
「なんとも……いや、急な要望にもかかわらずこの歓待、深く感謝申し上げる」
チグハグな空間に、サハリア人のハーダーンは口ごもりながらも、なんとかそう言った。
「いえ、何か大変失礼なことになっているのではないかと」
「いやいや、準備ができていないところに無理を言ったのはこちらなので」
ペコペコと座ったまま、俺達は頭を下げあった。
本来なら、ハーダーンのことは、二階のテラスで迎えるつもりだったのだ。だが、想定外のことが二つ。一つは、彼が密室での話し合いを求めたことだった。というのも、俺の別邸には既に人が大勢詰めかけてきている。最初はウィーしかいなかったのが、そこにオルヴィータがやってきて、更に先遣隊が、しまいにはノーラ達までここで起居するようになったのだ。すると、どこにいても人の気配がある。だが、彼はこれからの話をあまり周囲に聞かれたくないらしい。俺のことは信用していても、俺の身内全員に気を許せるのでもないようだった。今にして思えば、旧公館でなく、別邸での面会を要求された時点で、そこまで考えておくべきだった。
そしてもう一つの想定外は、カエデの存在だった。ハーダーンからの面会希望は以前から予定に組み込まれていたのだが、別邸での話し合いということで、ヒジリは誰かを俺につけたがっていた。それで彼女は、すっかり「門下生」になりかけていたカエデを再度起用することにした。今はヒメノが千年祭の催事に追われて使い物にならないので、他に駒がなかったのだ。
「まずは、こちら、新しく売り出す予定の飲料ですが……お口に合えば幸いですが」
「では、いただこう」
まだ熱々のコーヒーを一口。しかし、湯呑みとは。コーヒーにはコーヒーカップ、紅茶にはティーカップ。道具次第で飲料の味も違って感じるものなのに……とはいえ、指導されてもいないことをうまくやれというのも無茶な話ではある。カエデは本来、士分の家の娘であって、使用人として育てられたのでもない。
「む」
「いかがでしょうか」
「この香りでこの苦味、それに酸味。正直、想像がつかない」
「お口に合わなければ、別のものを」
「いや、このままいただこう。これはこれで面白い」
ほっと一安心。俺も一口飲んでみた。これはオルヴィータが淹れてくれたのだろう。余計なえぐみもない。
「それで、本日はどのような」
「うむ」
ハーダーンは表情を引き締めた。
「正直、相談すべきかどうかも迷うようなお話なのだが、言ってしまおう。フィアンの者共の不安と不満が高まっておる」
「ちょっと、やめてくださいよ。戦争とか、もう真っ平御免ですから」
「そんな大袈裟なことにはしたくない。わかっておるとも。本来なら、とっくに皆殺しになっていて不思議はなかった」
彼はもう、うんざりと言わんばかりに首を振った。
「それにそもそも、我々がファ……あ、いや、ネッキャメル氏族に戦いを挑んでどうなる。あっという間に潰されるだけではないか」
「そんなことにはなって欲しくないんですが」
「誰も、ティズ殿さえ、望んではおるまい」
うっかり戦時の俺について口走りそうになって、背後にいるクーとカエデに気づいて、なんとか言い換えたが、危なっかしい。やっぱり二人には下がってもらった方がいいかもしれない。だが、どちらも石のようにピクリとも動かない。彼らの無言のメッセージを感じ取ってしまうと、何も言えなくなってしまう。信頼されないことほど、人を落胆させることもないのだ。
「それで、その、肝心の不満というのは。想像はつきますが」
「言わずと知れようが、やはりすべての港をネッキャメルが占めてしまったのでな。おまけにドゥミェコンは廃墟となれば、フィアンの交易は出入口を抑えられたも同然。要は以前ほどには稼げなくなってしまっておる」
「ある程度の不利益は、経緯と立場を考えれば、甘受していただくしかないかと思いますが」
「私もそう思う。だが、そこで不安のほうが勝ってくるわけで」
形ばかり戦勝国の側に連なりはしたものの、実質は序盤の裏切りもあって、許されただけの敗戦国でしかない。少なくとも、ハーダーンはそこを弁えている。ましてや、俺の介入がなく、ティズが討たれ、アラティサールかムナワールが東部サハリアの覇者に収まっていたとすれば、いずれにせよ、フィアン氏族もそれとはわからないうちに、パッシャの道具に成り果てていたのだ。ことが明るみになった暁には、全世界から送り込まれるであろう反魔王の軍勢に蹂躙されていたかもわからない。それを思えば、恵まれた状況にあると言ってよかった。
「だが、元はといえば、赤の血盟の中でも不利益ばかりを押し付けられる立場だったところから始まった話でもある。それに、ティズ殿はフィアンを本気で追い詰めるつもりはない。取引がやや難しくなりはしたものの、今のミルーコンで、食うに困るほどの貧窮はない。だから、問題は先々のこと」
ティズは、フィアンを積極的に滅ぼすような真似はしないだろう。度を過ぎた横暴は、俺の離反を招くから。ただ、勝手にフィアンが疑心暗鬼に陥って剣を向けてきたなら、防衛しないという選択肢もない。そしてサハリアの戦争は、面子のかかった真剣勝負でもある。いったん始まったら、滅ぼし尽くすまで止まらない。南方大陸でティンプー王国やクース王国に圧力をかけた時のようには片付かないのだ。
「代替わりをした時、まぁ、アスガル殿の時代に何かあるとは、私も思わないが」
「その先がどうともわからない、と」
「そういうことなのだ。いつか途方もなく締め付けられて、先細りになるくらいなら、と」
そこまでやり取りした後、俺とハーダーンは腕組みして、それぞれ唸り声を漏らしつつ、考え込んでしまった。
しばらく考えてから、俺は人差し指を立ててアイディアを口にした。
「じゃあ、貿易の特許状を出してもらうとか」
「それは考えたが、恐らく通るまい。ティズ殿とて一切を一存でというわけにもいかぬし。仮にうまくいっても、逆に特権が大きすぎれば、そのことで疎まれて、先々こちらが攻め込まれかねん」
すると、他にどんな手があるか。
「やはり、ファルス殿に私の末娘を」
「いやいやいや」
それは呑めない。
「根本解決になってませんよ。それだと、僕やハーダーン様が存命な間はいいですが、その先はどうするんですか」
「むむむ、それはそうなのだが」
頭を抱えるハーダーンだが、考えが尽きたのでもないらしかった。
「では、そちらのペルジャラナンというリザードマンを貸していただけぬか」
「ペルジャラナンを? なぜです?」
「外に出ていく道筋があれば、我々も交渉力を持てる。ドゥミェコンを再建するには、リザードマンと敵対しないのが何より重要であろうから」
「そこは」
俺は首を振った。
「ティズ様も、とっくに目をつけてます。それこそフィアンに譲れるお話ではありません。ドゥミェコンの再建には反対しないでしょうが、砂漠のリザードマンとの同盟をフィアンに握らせるとは、とても」
「ううむ」
第一、アルマスニンらリザードマンに認められているのは、俺だ。俺を介さずには、ティズだって同盟は結べない。
しかしこうなると、なかなか妙案がない。
「何か、何かいい方法は」
「済みません、思いつきませんね。今すぐのことだけであれば、僕がティズ様に陳情すれば、だいたいのことは通ると思うんですが」
何の気なしに湯呑みに手を伸ばし、コーヒーを飲もうとして、中が空っぽになっているのに気付いた。
「む、カエデ、済まないが」
「はい、ただいま替わりをお持ち致します」
「ああ、次はお茶で頼む」
「畏まりました」
去っていく彼女の背中を見送りつつ、思案に沈みかけ、そこで視界の隅に、相変わらず地蔵のように座り込んだままのクーの姿が映った。
「ハーダーン様」
「む? 何か思いつかれましたか」
「いえ、ここにいるクーですが、若いなりになかなかの智慧者で。少し意見を出してもらおうかと思うのですが、よろしいでしょうか」
「無論、構わない」
それで俺が向き直ると、彼はようやく顔をあげた。
「では、申し上げます」
思った通り、彼はじっと考えていた。尋ねられてから考え始めるような間抜けではない。
「私が考えますに、ファルス様がおいでの間は問題がないとのこと。してみると、本当の問題は、何十年も後のことでございます」
「その通りだ」
「ティズ様も身罷られ、ファルス様も世を去り、当時のことを知る人がいなくなって、ネッキャメルにもフィアンにも、今しか頭にない人達が残るのです。そうと致しますれば、先にファルス様が提案なさった特許状のようなものは、役に立たないとお考えくださいませ」
俺は苦々しいながらも頷いた。
「約束は、約束の裏付けあってのものでございます。根拠が失われても約束があればなんとかなるというのは、都合のよすぎる考えでしかありません。未来のフィアンは、今の関係性をもってネッキャメルと約束を取り交わし、これを守らせるということができないのです」
「言うことは尤もだ。では、どうすればいい」
「先々、利益を得られるかも知れない誰かを巻き込めばいいのです」
二人の注目を集めたクーは、淀みなく言った。
「ハーダーン様、帝都からお帰りになられる際には、ハリジョンに立ち寄られませ。そこでティズ様の同意を取り付けた上で、ミルーコンには向かわず、そのままラージュドゥハーニーまで行くのです。そして、ドゥサラ王の御前に跪き、爵位を賜りますように」
ティズがムールジャーン侯なら、ハーダーンはミルーコン伯になる、ということだ。だが、理解が追いつかないハーダーンは重ねて尋ねた。
「それは構わないが、何の意味があるのだ?」
「三竦みになろうということです」
クーは指を立てて説明し始めた。
「フィアンとネッキャメルの二者間で話をするとなれば、どうしてもその時々の力関係でことが決まるものです。そして、フィアンは現状、赤の血盟の中の一勢力でしかありません。これを後押しして得する人はいません。ワディラム王国も、中央砂漠を挟んで遠いですし、このままの状況が続けば、仮にネッキャメルに取り囲まれて滅ぼされるとしても、助ける理由のある誰かはいないことになります」
「その通りだ」
「ですが、ポロルカ王国としては、ネッキャメルの、今の過剰な勢力拡大に不安を覚えずにはいられないはずです。無論、ティズ様がおかしなことをするとは、誰も考えてはいないでしょう。つまり、ハーダーン様と同じです。ゆくゆくはどうなるかわからないと、そのような疑心暗鬼の念がうっすらと漂っているのです」
彼はもう一本、指を立てた。
「ですが、この状況はティズ様も望んではおられません。一つには、既に南方大陸北部にまで進出してしまい、想定以上の勢力拡大を進めてしまった現実があります。支配地が拡大すると、利益も大きくなったように思われなくもありませんが、先の南北の戦争から何年も経っていません。実力以上の影響力を及ぼしてしまっているのです。これ以上、敵を増やすことはできません」
「他には」
「分家の台頭も避けたいはずです。もともと東部サハリアは、幾多もの氏族が興亡を繰り返しました。そのような連鎖を食い止め、秩序を齎すためにこそ、ティズ様はポロルカ王より爵位を賜ったのです。今後はどのように氏族が枝分かれしようとも、サハリアの支配者はムールジャーン侯であるとするためです。しかし、支配地が広大になり、どうしても分割が避けられなくなるとすれば、それも無となります」
「それに、主敵は他にいる、か」
「ご主人様、まさにその通りです。今はご主人様の存在がそれを食い止めているのですが、それがなければ、赤の血盟はエスタ=フォレスティア王国への報復を考え始めるかもしれません。それくらい、本来の両者は険悪な関係にあります」
そして薬指も立てた。
「だからこそ、フィアンはポロルカ王家の臣下となり、しかも赤の血盟の一員であり続けることが利となるのです。どちらの関係性に比重を置くかを常に選び続けることができれば、将来の滅びを避けるのもたやすくなります。また、今のフィアンの人々の感情という面でも、或いはよい効果を齎すかもしれません。つまり、ネッキャメルと同等に、自分達も爵位を与えられたのだと」
「なるほど」
「ただ、もちろん、これには問題点も付随します。逆に両勢力の代表となったそれぞれが、フィアンの内部で抗争を繰り広げる危険もあるためです。フィアンは両勢力に比べて圧倒的に小さいのです。そのことをよく弁えた上で、この策を用いるかどうかをご検討ください。また、これだけではティズ様にとっての安心材料がございません。ゆえに、ハーダーン様の末娘は、ファルス様ではなく、アスガル様に嫁がせてくださいませ」
「なんと」
「フィアンはネッキャメルに対抗するために爵位を欲するのです。それだけでは、半ばティズ様に歯向かうようなもの。ですが本来、フィアンが目指すのは友誼ではありませんか」
手を握り直し、顔を伏せ、クーは結論を述べた。
「この度のご相談、悪意のある方は一人もおいでではありません。ご主人様はもとより、ハーダーン様も、ティズ様も、恐らくドゥサラ王も、どなたも争いが起きるのをよしとされてはおられません。ですが、今、ここにある善意を、さながら家の支柱であるかのように考えるのは危ういということなのでございます。私どもがしなくてはならないのは、前もって手を打ち、後の人々が道を踏み外す理由を取り除いておくことではないか。そのように愚考する次第です」
その時、扉がノックされた。カエデがお茶を持ち帰ってきたのだ。
振り返ると、ハーダーンの表情からは憂いが去っていた。
「なるほど、一つの案であろうな。よい話を聞けた」
「お役に立てましたら、何よりです」
「ただ、一つだけ残念ではあるな」
「と仰いますと」
ハーダーンは笑みを浮かべた。
「できれば娘を一人くらい、ファルス殿に嫁がせたかった」
「そんな、さすがにもう、そういうのはお腹いっぱいです」
「ほう? ああ、なるほど」
彼は何度も頷いた。
「確かに、ファルス殿なら、女人に不自由はしまいからな! はっはっは! これは野暮なことを言った!」
ハーダーンが大笑いする一方で、俺は背後から視線を感じた。
カエデだった。まさか、またロックオンされてしまったのではなかろうか。ああ、余計なことを、よりによってカエデの前で。一時期の夜討ち朝駆けがどれほどキツかったか。だからってもう、ハーダーンを黙らせても仕方がない。
サハリアの平和とは裏腹に、俺の私生活上の平和は遠のきそうだった。




