グラーブの懇親会(上)
馬車を下りると、そこには既に係員が立っていた。真っ白な帽子、真っ白な上着に真っ黒なズボン。恭しく一礼し、目の前にある幅広の階段を腕で指し示した。白い大理石でできたその階段の両脇には、彩りとして真四角の花壇が置かれていた。一定間隔にランタンが吊り下げられており、今はまだ目立たない橙色の光が周囲を照らしていた。
階段を上りきると、そこは渡り廊下となっていた。夕暮れ時ということもあって、ここには敢えて照明を置かなかったのだろう。黒い円柱と天井に区切られて、広がる街並みのシルエットと、今、まさに燃え尽きようとしている空が目に映った。
この時間には、日中の空を支配した入道雲も後退してくれていて、薄く引き伸ばされた白雲が、この一時の空の色合いを複雑なものにしていた。あるところは金色に、またあるところは黒ずんで、それもごくゆっくりと、けれども刻一刻と移り変わっていく。ここを進む来客も、思わず足を止めたくなることだろう。
なかなか悪くない眺めだが、大人の事情に思い至ってしまう。帝都北東部の表通りの地価は高い。だから、そこを少し外れたところでないと、広いスペースを確保しづらい。だから、こうして細長い渡り廊下を作って、飛び地のような会場まで、接続しているのだ。
この渡り廊下の突き当たりに、真っ赤なカーテンが下りている。そこに二人の係員が立っていた。俺達の姿を目にすると、彼らもまた一礼し、そっとカーテンを開いて、中へと導き入れた。
「よく来てくれた」
「殿下御自らお出迎えとは、畏れ多いことです」
「なに、今日は私が諸君らをもてなす側だ。肩の力を抜いて楽しんでもらいたい」
ただ、今回、グラーブに挨拶するのは、俺一人ではない。
「お久しぶりでございます」
「ヒジリ殿もよく来てくださった」
「本日のことは、楽しみにしておりました。思えば、二年前に王宮にお伺いした際、陛下にはご挨拶できましたが、こうしてフォレスティアの貴顕の方々にお会いする機会は、なかなか得られませんでしたので」
グラーブは頷いてみせた。
「ファルス、どうだ? 以前にも思ったことだが、これほど美しく気高い姫君を許嫁にとは、さぞ鼻が高いことだろう」
「殿下、お戯れを」
「しっかりせねばならんぞ。ヒジリ殿に恥をかかせぬためにもな」
それから最後に、彼の視線は三人目に向けられた。
「それとノーラ殿かな? 確か、かなり前に、王宮の方までいらしたはずだが、申し訳ない、その時のことをはっきりとは覚えておらんのだ」
ノーラはまず、深々と頭を下げた。
「五年も前になります。ピュリスの商会を代表して、陛下にご挨拶申し上げるため、王宮までお伺いさせていただきました」
「そうであったか。あれからそなたのピュリスの商会は引き続き、ムヴァク総督をよく輔けていると聞いている。今後とも力になってくれると、私としてもありがたい」
「もったいないお言葉です」
「最近では、ティンティナブリアでもファルスの留守を預かって、忙しく働いていると聞いている。復興目覚ましいとのことだが、いやはや、陪臣の身分としておくのが惜しいほどだな」
ノーラは言葉で応じず、改めて身を伏せた。
グラーブは改めて俺に向き直った。
「今日は肩肘張った会合ではない。気安くしてくれ。旧交を温めるのに、作法は邪魔になることもある」
「お気遣い、ありがとうございます」
本国からやってきた親善大使とその使節団。彼らをグラーブがもてなすためのパーティー。だが、使節団は公的な役目を帯びてきているのでもない。だから、これはあくまで私的なイベントの枠に収まっている。だが、だからこそ、フォーマルな場では顔を出しにくい人間も招くことができる。例えば、ノーラのような身分の人物などは、限りなくグレーゾーンに位置しているので、グラーブからすると、この上なく扱いにくいはずだ。それでいて、ノーマークでは済まされない。リンガ商会を通じてピュリスを牛耳りつつ、ティンティナブリアの急速な復興を実現しつつある危険分子なのだから。俺に野心はないが、彼の立場からすると、王家の利権を脅かす存在に見えていても不思議はない。
今日は正式な集いでもないので、ヒジリもフォレス風、ノーラもそこまで華美ともいえない服装でやってきている。とはいえ、それでもこの場に相応しい衣装の持ち合わせなどなかったので、そこは旧公館の在庫から急いで見繕い、丈を直したものを着用している。
会場は、帝都の北の外れにあった。だから、東西は市街地の端が見えているが、北側には視界を遮るものがほとんどない。遠く北東方向には、顕彰記念公園が見えるが、あとは点在する小さな森が黒々と浮かんでいるくらいだった。遠くにチーレム島の北に聳える高峰が、今にも沈みゆく夕陽に照らされて霞んで見えるばかりだった。
この眺望も、この店のサービスの一つなのだろう。だからこそ、客を待たせているこの一時、この四角い会場では、いまだに照明に点火されていない。
この非公式な集いであればこそ可能な対応だったが、結局、グラーブはこの催しを、外部のサービスによって乗り切るという判断をした。公邸の内部での催事とせず、既にその手の対応になれた、帝都の高級な、会食用の店舗を借りることにしたのだ。ということは、ベルノストとの関係改善も進んでいないのだろうと推察された。
辺りが徐々に暗くなり、列席者が集まったところで、急に照明が点された。部屋の四隅に置かれた燭台には、背後に銀色の覆いが添えられており、おかげでこの半屋外の空間は、一挙に明るくなった。
「改めて、よく集まってくれた。既に諸君らに挨拶は済ませたつもりなので、長々と待たせるつもりはない。存分に旧交を温めてもらいたい」
グラーブはごく簡単に切り上げた。
さて、まず挨拶しなくてはいけない相手がいる。サフィスだ。親善大使ということで、もしかしたらすぐ行列ができるかもしれないが、どれだけ待たされても、さすがに今回はスルーできない。彼が最優先であることは、二人にも伝えてある。
狙いを絞っていたのもあり、俺達の行動は早かった。西側の壁際に置かれた椅子に、サフィスはリリアーナ、ウィムと並んで座っていた。従者の立場にあたるナギアだけは、主人達の前で立っていたが。
「サフィス様」
俺が彼の前に立ち、一礼する。すると、彼はゆっくりと立ち上がった。
「ファルスか」
「ご無沙汰しております」
彼も、随分と老いた。ピュリス提督だった頃は、三十代に差し掛かっていたとはいえ、その容姿だけ見れば、青年貴族と呼んで差し支えないほどだった。あれから七年近くの時が過ぎ去って、彼も四十代だ。顔にもごまかしようもなく皺が刻まれているし、ほうれい線も目立つようになった。髪に白いものが交じるとまではいかないものの、やはりその色艶というか、生気のようなものは失われつつある。
だが、彼の老いは年月だけでは説明がつかないだろう。声色からして、以前のような張りのあるものではなくなっている。以前、リリアーナに聞いたように、レーシア湖畔では爛れた生活を送っていたのだろう。その反動が、こうして肉体にも表れてしまっているのだ。
「人生とは、わからんものだな」
彼は、若干皮肉の滲んだ笑みを浮かべて、そう切り出した。
「イフロースがお前を家中に加えたことを伝えてきた時には、なんとも思わなかった。グルービーがわざわざ訪ねてきて、お前を引き取ろうとしてきた時にも、ただの物好きだとしか思われなかった。だが、今にしてみれば、二人には先見の明があったとするしかない」
「幸運と人の善意に助けられました」
「私が真に受けると思うか?」
サフィスはせせら笑ってそう言った。実のところ、彼が俺の異様さを知らないはずがないのだから。彼が俺の力を目にしたのは、七年前の内乱の時だけだが、それで充分だった。どこで習得したかもわからない魔術を次々用いて、イフロースと共に反乱軍の検問を突破した。それが九歳の時点のことだ。その後の詳細は明らかでないものの、少なくとも、ポロルカ王国でパッシャ相手に戦ったこと、それがきっかけでヒジリとの婚約にまで至ったという経緯は、彼も把握しているはずだ。
それにしても、サフィスもこれで、気を遣っているらしい。言葉を選んでいるのがわかる。
「それで、そろそろ紹介してくれないか。失礼は避けたいのでね」
「これは気がつきませんでした。こちらがヒジリ、ワノノマの皇女で、今は私の婚約者です」
「はじめまして」
サフィスは急いで身を折った。
「そんな、おやめください、サフィス様」
そんな彼を、彼女は慌てて押し留めようとした。
「敬意を欠いては、互いに恥辱を浴びることとなりましょう」
「お話は聞き及んでおります。幼いファルス様を引き取って養育し、その身分を解放なさったとのこと。その後の一切は、サフィス様の見識なくばあり得ないことでした。してみれば、ファルス様にとってのサフィス様は、いうなれば義理の父のようなものでございますから、私のこともまた、娘のようにお考えくだされば幸いです」
サフィスは、俺が奴隷だった過去をヒジリの前で明言するのを避けていた。イフロースが「買い取った」のではなく「家中に加えた」、グルービーが「買い取ろうとした」のではなく「引き取ろうとしてきた」というように、わざわざ表現をぼかした。皇女の夫になる人物を元奴隷と蔑むなど、最悪の無礼になりかねないから。
そんなように身を固くして用心深く振る舞っている彼の気持ちを察したから、やや冗長ではあっても、ヒジリはこのような受け答えをしなくてはならなかった。
「畏れ多いことですが……それで、ではそちらが」
「はい。以前に一度、公邸の方にもお伺いさせたことがあるのですが……ノーラです」
今度はノーラが深々と身を折った。
「楽にしてくれていい。私が去った後のピュリスを支えてくれているそうだな」
「支えるなどと、ほんの少しだけ総督のお手伝いをさせていただいているだけです」
「謙遜はいい。エンバイオ家が去った後、どうしても手が回らなかった部分がある。そこを拾い上げてもらったということは承知している。本来なら、私からお礼を言わねばならなかったところだ」
サフィスの言葉が指しているのは、セーン料理長やカトゥグ女史のような、やむなくエンバイオ家が雇い止めとした人材の受け皿として、リンガ商会が機能したという事実だ。ピュリスの利権を手放した一家が、過剰になった人員の仕事先をすべて世話できたのではない。自分の不始末を任せる形になってしまったのだから、こういう言葉も出てくる。
「こちらも家族を紹介しよう。といっても、どうやらほとんど既に顔見知りになっているようだが……リリアーナとは、みんな会ったことがあるようだが。こちら、ナギア・フリュミーは長らくリリアーナに仕えてくれている」
またサフィスの配慮、というか、これはなんといったらいいのか。
ナギア・フーリンではなく、ナギア・フリュミーと呼んだ。今のサフィスの難しい立場が思いやられる。ごく最近まで、レーシア湖畔の水道工事の現場に釘付けだった彼とウィムの周囲には、ランと昔からの家僕達がいた。今、家中を仕切っているのは、あのルードだ。ピュリス私物化計画という大風呂敷を広げておいて、それが頓挫したのだから、発言力では主人の側に分がない。カーンの妻になった元メイド長も事実上追放されたようなものなので、今のエンバイオ家中は、フーリン家の天下だ。
そんな状況下で、なんとかリリアーナとナギアを王都にとどめていたが、それが難しくなるとトヴィーティアに送った。ランとルードの支配に対する抵抗勢力のような形になってしまったナギアのことを考えると、どうしてもそうせざるを得なかった。存命である限り、イフロースが二人を守らないはずがなかったから。
ナギアの選択を、娘のためにも支持している、ということだ。だが、これはウィムからすれば、どんな風に映るだろうか。ランは自分にべったりなのに、彼女が憎み嫌う実の娘は、世界の誰より姉に忠実なのだ。そしてそのことを父も陰ながら好ましく思っているとすれば?
「そして、こちらがウィム、我がエンバイオ家の嫡男……む? どうした?」
「あっ」
声をかけられたウィムは、驚いたような声を漏らした。
「い、いえ、なんでもありません、父上」
「疲れているのか? しっかりしてくれねば困るぞ?」
そこでヒジリが笑顔を作って優しく言った。
「まぁまぁ、まだ若君は成人してもいないお歳ですし、ずっと気を張っているというのも楽なものではありませんから」
「いやいや、ここは甘やかすところではありませんので」
そんなやり取りの間に、ウィムはみるみるうちに顔を赤く染めていった。
羞恥? しかし、いったい……
ふと、彼の目が泳いでいるのに気づいた。その視線がどこに向けられているのか。父と、その話し相手であるヒジリ以外では……ノーラを盗み見ている?
ということは、まさか。思い至って、内心だけで溜息をついた。確かに、こういうことも起こり得たか。会った瞬間、心を奪われるとは。
どんな顔をしたらいいかわからないが、彼にとっては崖をよじ登るようなものだろう。応援はしないし、できないが……いったいどうしたらいいんだろうか?




