くたびれた日
ファフィネが遠くの方に座っていた彼女に声をかけたその瞬間、嫌な予感がした。
ムクリと起き上がると、ホアはこちらに向き直り、猛然と疾走し始めたのだ。そして、連絡通路の上をドタドタと駆け抜けると、開け放たれた部屋の入口のところで全力で踏み切り、俺の頭上から降ってきた。
「うわっ!」
「ヒャッホー!」
怪我をしかねない。俺は素早く腰を浮かせ、半ば空中で仰け反るようにして彼女を受け止めた。
「ぐぇっ」
とはいえ、咄嗟のことだったので、背中から落下するしかない。すぐ下が、さっきまで座っていた座布団の上とはいえ、二人分の体重だ。胸が圧迫されて、変な声が漏れる。
「ぐへへへ、王子様ァ」
「ちょ、ちょっと、ホア、やめ」
「やめねぇぜ、どれだけ待たされたか」
彼女の強引な迫り方に、ヒジリもノーラも何も言わない。澄ました顔をしたまま、気にした様子もなく、淡々と俺を見下ろしている。まるでアリジゴクにハマったアリを眺めるような冷淡さではないか。
「た、助け」
「そうしてあげたいんだけど」
ノーラは平然としていた。
「これだけくっつくと、引き剥がす方法がないのよ」
言われてみれば、その通りではある。ホアの妄執を思えば、精神操作魔術を用いたところで、どれだけ効き目があるかもわからない。念力で強引に、と言いたいところだが、あれは力加減が難しい上に、精密な操作にも向いていない。
「ヒジリ」
「ずっと領地で仕事ばかりさせられていたのでしょう。少しくらいのご褒美と思えば、これくらいは。それに」
こちらも助けてくれる気はないらしい。
「旦那様は身持ちが固すぎます。ここらで一人や二人、側妾に手をつけでもすれば、その後もすんなりと進むかと思わなくもありませんし」
「お許しが出たぜ!」
「勘弁して!」
この場には、帝都で出会った知り合いも顔を出している。ギルやラーダイも、既に到着している。彼らは談笑しながら、振る舞われたお茶とお菓子を味わいつつ、こちらを見物していた。ああ、またか、という顔だ。
結局、鼻息荒く迫ってくるホアと数分間、グラウンドでの攻防を重ねてから、やっと脱出するしかなかった。
「どうも、はじめまして」
続いてやってきたのは、ギル、ラーダイ、それについさっきやってきたコーザだった。
「お久しぶりです、ノーラさん」
「お元気そうで何よりです」
ギルもラーダイも、ノーラに会うのはこれが初めてになる。だが、よくよく考えてみるとコーザは、この場にいる全員と、既に知り合いになっている。
一応、挨拶をしたギルに対して、ラーダイはというと、感嘆の溜息を漏らして、数秒間は茫然としていた。だが、我に返って改めて挨拶した。
「はじめまして。ファルスの同級生のラーダイです」
「お話はお伺いしています。お会いできて幸いです」
ノーラはそう言った。実際のところ、彼の勘違いを彼女がどう思っているか。だが、それを訂正する必要を感じていないのだろう。彼女の今の表情は、なんとも読み取りにくいものになっている。不愛想な無表情ではないが、心からの微笑とは程遠い。
「皆様のおかげで、ファルスも落ち着いて学園での生活を送ることができていると聞いています。ありがとうございます」
「いっ、いえいえ」
会話を繋ぐために、ヒジリが話題を振った。
「皆様は、この夏、千年祭では、何かご予定などはおありですか?」
三人は顔を見合わせたが、ギルが答えた。
「一応、武闘大会には出てみようかなと」
「それは三人とも」
「いっ、いやいや」
コーザが慌てて否定した。
「僕は、無理です。とてもではないけど」
「自分も、ちょっと……ギルにもまったく勝てないのに、出てもしょうがないんで、見物するだけにします」
ヒジリは頷いた。
「旦那様も出場することになりまして。これは楽しみですね」
「えっ、ファルス、お前、出るの?」
ラーダイが気の抜けた声で尋ねてきた。
「一応……」
俺が、渋すぎるお茶を飲みでもしたような顔でそう答えると、彼も溜息をついた。
「大変だな」
「まぁ、うん」
出たくない。俺がそう思っているのは伝わったのだろう。ただ、その理由については、彼の頭の中のものと、俺自身の思いと、まったく食い違っているのだろうが。
「けど、そういうことなら、見物する側としちゃ、楽しみが増えるな!」
一方、俺の力について理解しているギルとコーザは、微妙な表情を浮かべている。
「これは普通の試合にはならないだろうな」
「ですね」
だが、ラーダイはさっきのホアとの格闘を思い出して、ニヤニヤしている。
「相手が女の冒険者だったりするといいかもな」
「どういう意味だ」
「お前の強みが生きるだろ? あ、でも、さっき女に組み敷かれて、押し戻すのに結構、手間取ってたよな。そうすっと、やっぱさすがに無謀じゃねぇか?」
ホアが怪力の神通力を持っていることを知らないから、そんなことを言えるのだろうが……
ヒジリが微笑を浮かべて言った。
「どんな形であれ、旦那様は少し目立った方がいいと思いますので」
「っと、そ、そうですか」
俺には軽口を叩くのに、ヒジリが相手だと途端に小者になる。平常運転だ。
三人が退出した後、俺はボソッと言った。
「武闘大会なんかに出たくはないし、目立ちたくもないんだけど」
するとノーラが横合いから澄まし顔で言った。
「それは駄目よ」
「どうして」
「ファルスが目立った方が、コーヒーにもティンティナブリアにも注目が集まるでしょ? ここは大人しく、見世物になるべきだと思うわ」
まさかと思い、俺は右手に座るヒジリを見遣った。
「打ち合わせたわけではありませんよ。ですが、そういう考えがないでもありませんでした」
「相談してくれればよかったのに」
「腹いせというのも、本当でしたから」
やれやれ、だ。
そして、すぐに仕事の打ち合わせそのものの話し合いも始まった。
ワング、リーア、オルヴィータが揃って俺達の前に座っている。
「結局、私が汚れ役ネ……」
諦念の滲む表情を浮かべて、彼は一人、遠い眼をしていた。
「実際に罰を下すとか、そういうことは絶対ないですって」
「この前、手紙をもってコッソリとマリータ王女のところに顔を出したネ」
生気の感じられない声色。とはいえ、あの彼女のことだ。ワングにどういう対応をしたか、想像するにあまりある。
「遠回しにブタみたいだと言われたネ」
「あぁ……殿下は、大変に口が悪いというか、情け容赦ないというか」
オルヴィータが申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいなのです。私がちゃんと帝都でコーヒー豆を売れていれば、そんなことにはならなかったのです」
「いや、難しかったと思うし、無駄にもなってない」
リーアも頷いた。
「少数とはいえ、いくつかの高級レストランが試しに買ってくれた実績もある。もし、使い道を見つけて、千年祭の料理大会でうまく活用してくれれば……」
「そういえば、旦那様」
ヒジリが尋ねた。
「旦那様は、料理大会の方には出場なさるとのことですが、こちらでもコーヒーを使われるのですか?」
「いや、それが」
「なぜ使わないのです?」
これは説明しておかないといけない。
「コーヒーは、あくまで南方大陸の特産品だ。それをティンティナブリアに引き取って、焙煎その他加工をして売っているに過ぎない。今のうちは独占できるけど、そのうち、世界に広まったら、それも崩れると思う。その意味では、稼げるのは今だけだ。だから、別の特産品を根付かせて、そちらで儲けられるようにしないといけない」
それが醤油だ。
「一応、長年追い求めてきた調味料、醤油が出来上がりつつある。といっても、まだ一年も経ってない。香りはいいが、味は今一つだろう。でも、その状態でも使えなくはない。僕は今回、この醤油を武器に、料理大会に出るつもりだ。これも、ティンティナブリアから世界に広く売っていける品だと考えている」
ノーラが首を傾げた。
「ショウユ? を使うのはいいとして、コーヒーも使えばいいじゃない」
「それは駄目だ」
「どうして」
「和食にコーヒー……本来のあり方じゃない」
「ワショク?」
と言われても、困ってしまうだろう。少し丁寧に説明しなければならない。
和食に合わせられるコーヒーが皆無ということはない。ないが、現時点では、そこまでの調和を生み出せるだけの洗練に至っていない。コーヒーも醤油も、現段階ではどちらも発展途上なのだから。
「そもそも、西方大陸の脂っこい料理であればこそ、コーヒーの酸味と苦みが生きるのであって。なんでもいいから珍しいものをゴチャ混ぜにしましたみたいなものを出しても、お客様は喜ばない」
「ショウユを使うと、そういう味にはならない?」
「そういう使い方もできなくはないが、現時点の完成度で考えると、それでは強みを活かしきったことにはならない。ほら、チャルに教えた蕎麦の麺、あれも醤油があれば、より完全な味わいになる」
俺が熱く語るのを、他の人達は黙ってみていた。
「ま、まぁ……旦那様の食へのこだわりは、かなりのものですし」
「他のことはともかく、これだけは頑固だから、言っても仕方なさそう」
なんだか可哀想な子を見るような目を向けられているような気がするが、俺は何もおかしなことは言ってない。
「とにかく、一度作ってみるから食べてもらいたい。そうすれば、何を言っているか、わかるはずだ」
なぜだろう? 俺の情熱がうまく伝わっていない気がする。
それからしばらく……
いろいろあって、最後に回された来客との面談を、俺は息を詰めてやり過ごそうとしていた。
「本当に、大丈夫?」
「平気よ」
「なんなら私がとっちめてやってもいいんだけど」
「問題ないから」
ノーラも苦笑していた。その反対側では、ヒジリも同じようにしていた。冷や汗を流しているのは、俺一人だけだ。
タマリアは指折り数えて、俺の罪状を並べ立てた。
「ええと、他にウィーちゃんでしょ、それにヒメノちゃんも、それから……」
「だって、でもそれは」
「黙りなさい。次々と誑かして、本当にどうしてこんなに悪い男に育っちゃったのか」
タマリアの横では、ルークも苦笑いしていた。
「ここは帝都だし、世俗の人なら、そういうことも若いうちにはあっていいかもしれないな」
「ルーク、真なる騎士の名において、こういう不埒な男をバッサリ、というのはないの?」
「ないない。だってほら、皇帝の遺勅が元だからさ。でも、皇帝は自由な恋愛を禁じなかっただろ? そうなると、個人間の色恋沙汰には、真なる騎士が口出しするなんて話にもなりようがないんだ」
「使えないのねぇ」
ニドは肩を竦めるばかりだった。
「大丈夫じゃね? ほっとけば」
「美男子に育ったからって、女の子を泣かしてるのを、黙ってみてろっての?」
「いや、それ言ったら俺、どーよ?」
「ニドは、だって元々、人妻なのに遊んじゃうようなのが相手でしょ? でも、ファルスは、ノーラという身持ちの固いまともな女の子を惑わせてるんだから」
「んー」
ニドは、少し考えたが、すぐ首を振った。
「ほっときゃいいと思うけどな」
「こらぁ」
「タマリアだって、わかってんだろ。こいつら、そんなバカでもなけりゃ、いい加減でもねぇんだし。そのうちどうにかするさ」
「そうはいってもねぇ」
微笑みながら、ノーラはタマリアに声をかけた。
「私は大丈夫だけど、タマリアこそ、いいの? なんだか、住んでるところが、あんまりきれいじゃないみたいなんだけど」
「ああ、平気平気。それにね、最近は割のいい仕事も貰ったから」
「ベルノストには頭が上がらないな」
あんなチャランポランなメイドをしていても、許してくれているのだから。けれども、彼の名前を出した途端、タマリアのテンションが上がってしまった。
「そうなのよ! やっぱ黒髪のイケメンっていいわぁ」
「お前が惑わされてんじゃねえか」
ニドが吐き捨てた。
「時間ができたら、なかなか難しいと思うけど、どうにかタマリアの家にも行きたいから」
「なんもないよ!」
「それでも見に行きたいの。いい?」
「もっちろん! じゃ、今日は大変だったでしょ。そろそろ私達も帰るから」
「うん。会いに来てくれてありがとう」
それで話は終わった。
三人が立ち上がり、連絡通路の向こうに去っていく。
「お疲れ様」
ノーラがそっと言った。
「いや、ノーラこそ。少し前に帝都に到着したばかりなのに」
「船旅の間は休んでいたもの。どうってことないわ」
それが休みのうちに数えられるのかどうか。だが、あと少しだけ、我慢してもらう。
さっき、タマリアは俺の浮気性について非難していたが、その件について、少しだけ情報共有しておかねばならない。
「ちょっと嫌な話をしないといけない」
「なんでしょうか、旦那様」
まっすぐ正面を見たまま、みんなの様子を眺めているふりをしつつ、俺は切り出した。
「先日、リシュニア王女に誘惑された」
「えっ?」
ノーラが軽い驚きを示した。
「自室まで来るようにと誘われて、お茶を出された。その後に、あれは明らかに」
「旦那様のことですから、何もなさらずに済ませたものとは思いますが」
「迂闊だった。もちろん、変なことは何もしていない。でも、わかると思うけど、二人とも」
声色を抑えつつ、俺は続けた。
「これは、色恋沙汰じゃない。色恋沙汰で片付けるような話じゃない。そもそも一時の衝動に身を任せるほど、リシュニア王女はバカじゃない」
ヒジリが溜息をついた。
「旦那様を利用しようと」
「他に考えられないだろう」
「ファルス、心は読んだの?」
ノーラの問いに、俺は小さく首を振った。
「いいや。王家の内側のドロドロに関わる気はない。親子兄弟ですぐ毒薬をやり取りするようなところに、首なんか突っ込みたくもない」
真相はわからない。だが、知ろうとすべきだとさえ思えない。
「せっかくの帝都旅行だけど、特にノーラ、悪いけど気をつけて欲しい」
「当然でしょ。大丈夫、心配しないで」
ヒジリが言った。
「もうすぐ本当に千年祭が始まりますね」
「来週、学園も千年祭開催の記念式典がある。それからは夏休みで、一ヶ月はお祭り騒ぎになる」
「気を引き締めていきませんと」
俺は黙って頷いた。
「ですが、今日はもう休みましょう」
いつになく柔らかな声色で、ヒジリが言った。
「さすがに私も、くたびれました」
「そうだな」
「同感だわ」
疲れを自覚すると、ズッシリと肩に砂袋がのしかかってくるような気がした。




