気詰まりする日
「クー・ハータラと申します」
そう挨拶して、彼はヒジリに対して深々と頭を下げた。ほとんど土下座といっていいくらいに。
「お顔をおあげなさい。旅の最中に旦那様に親しく仕えた者となれば、半ばは身内のようなものです。殊に旦那様は、権威を振りかざすようなお方でもございませんから」
ヒジリは笑みを拵えて、なるべく優しい声色でそう語りかけた。
障子は開け放たれたまま。最初に挨拶に呼ばれたストゥルンの時から、ずっとそのままだ。庭の臨時客席からでも、何を話しているかは聞こえなくても、その仕草や様子なら見える。そして、ストゥルンはそこまで畏まった態度は取らなかったし、後に続いた人も同様だった。だが、クーは違った。
何か思うところがある気がする。クーは先々まで考える少年だ。そして、帝都に到着してから、既に数日が経過している。この会場には、ジョイスもフェイもエオも招かれているのだ。つまり、クーはヒジリについて、既に一定の評価を下している可能性が高い。
「ファルス様、大変遅くなりましたが、大領を預かっての叙爵の件、本当にお疲れ様でした」
「ああ、ありがとう」
ヒジリの表情に変化はない。だが、微妙な空気が流れた。クーは、俺が貴族になった件をまったく祝っていない。苦労を思いやる言葉しか口にしなかった。恐らく、そのことをヒジリがどう受け止めるかを推し量っている。
「先程、領地からいらした方々にもお話をお伺いしました。なんでもファルス様は、ティンティナブリアを信じられないほど手早く立ち直らせたとのこと」
「最初の半年だけ頑張って、あとはノーラに丸投げだよ。何も自慢できない。豊作にも恵まれた」
ノーラも付け加えた。
「この夏からが、むしろ本当の仕事なのよ」
「なんとも無念です」
クーはそう言った。
「大事なところで、いつも間に合わないのが、悔しくてなりません」
「そんなことはない。僕が学園を卒業する頃には、お前も成人する。シックティルが手紙に書いていたが、それからは僕の手元に送るとのことだった。もちろん、クー自身が望めばだが」
すると、彼はそこで動きを止め、少し考えるようにした。
「では、せいぜい一年ちょっとですね。二年はありません」
「なに?」
「ファルス様が留学を終えてから、領地を手放すまでの時間です」
いつの間にか、クーの眼差しは氷のように冷たい光を帯びていた。
「五年も学んで、お側でお役に立てるのが一年とは。まるで何年も地中に潜んで力を蓄えながら、たったひと夏で力尽きる蝉のようです」
「待て、どうして一年で領地を捨てるとわかる」
彼は首を振った。
「一つには、タンディラール王が許さないからです。ファルス様の爵位と土地の格が釣り合っていないのは、いずれ陞爵によって帳尻を合わせるためでしょう。ですが、とにかく復興が順調すぎます。先の領主オディウスの時代から慢性的に続いていた治安の悪化と飢餓の蔓延……解決など程遠いと思われたそれらが、たったの一年でひっくり返されてしまったのです。ちょうど二年前から半年かけて領内の道路を整備したのもあって、いったん物流の回復が始まれば、その後はあっという間とみています」
何を当たり前なことを、と言わんばかりの視線で、俺の顔を覗き込みながら、彼は続けた。
「ヌガ村からイーセイ港まで、関税を免除するそうですね。今はまだ広く知られていませんが、間もなく陛下を慌てさせることになるでしょう。旧に復するどころか、以前にも増して富み栄えるようになった伯爵領……ファルス様に野心がないことはわかっていても、放置などできません。その土地で利権を掴んだ人達は、ファルス様を中心とする人の輪の中にいるのです。ピュリスの件が念頭にあれば猶更のこと、根付いてしまう前に……」
確かに、彼ならそのような発想をしそうではある。俺が欲張らないことも織り込み済みで、頼み込んでくるのではなかろうか。
「ファルス様が帰国して一年半ほどで、タンディラール王即位から十周年となります。王都の内乱が片付いたのは紫水晶の月だったかと思いますが、正式な即位は黄玉の月でしたでしょうか。いずれにせよ、それくらいの時期です。その節目の時期を選んで、陛下は体制の刷新を宣言なさるのではないでしょうか」
会ったこともない王の頭の中をきれいにトレースしてから、彼は意味ありげな視線を俺とノーラに向けた。
「それに……ファルス様は、人を裏切る、切り捨てるということができません。損をするとわかっていても、絆に縛られる方です。となれば当然」
だが、そこで彼は言葉を切った。いや、敢えて説明を端折った。その視線はヒジリに向け直される。
「これからもファルス様のことを宜しくお願い致します」
そして、改めて彼は頭を下げた。顔をあげてから、また彼は俺に言った。
「次の旅では、きっと後れは取りません。お役に立ってみせます」
彼が背を向けて庭の客席に戻ると、ヒジリは深い溜息をついた。
「あの若さで、よくも」
クーは、ヒジリに立ち向かう姿勢を示したのだ。
さっきの一礼も、あれはクーなりの距離の取り方で、それをさせまいとしたのがヒジリの反応ということになる。頭を下げたり笑顔を浮かべたりしながら、実質的には間合いと主導権の奪い合い、戦っていたわけだ。
彼は、俺がドゥサラ王からの叙爵をあっさり蹴ったことも知っている。赤の血盟にとっての重要人物であることも。先の南北の戦争において、俺が大きな役割を果たしたことも、説明こそされずとも、なんとなく察しているに違いない。欲があるなら、とっくに地位を得ているはずの人物が、なぜか東の海の果てで姫様を宛がわれ、帰国してから、荒廃した領地の貴族になった。ソフィアやリリアーナでさえ、そこに疑問を抱いたくらいなのだ。彼が何も思わなかったはずはない。
だから、俺に何らかの制約を課しているのがヒジリ、或いはその背後にいる何者かであろうことは、自明だった。そして彼は、その束縛が長続きしないだろうと読んでいる。見かけばかりどのように飾ろうとも、結局、ファルスという人間は去っていく。その時、自分が味方するのはファルスであって、建前を振りかざすお姫様の側ではないと、そう宣言した。
「せっかく立派に育ったのだし、そのまま出世でもなんでもしてくれたら、と思っているのだけど」
「そんな性格してたら、大森林までついてくるわけないじゃない」
ノーラの言うことに、いちいち頷かざるを得なかった。
そのすぐ後に、気の重くなる時間がやってきた。とはいえ、避けて通ることはできない。
シャルトゥノーマとディエドラに伴われて、マルトゥラターレが、ヒジリの前に座った。誰も何も言いださない。わかっている。俺が仲立ちをしなくてはいけない。
「マルトゥラターレ、ここにいるのは、わかっていると思うけど……ワノノマの姫、ヒジリだ。魔物討伐隊の責任者みたいな人だ」
「うん」
「アイル村の敵だが……ただ、一つだけ、伝えておかないといけない。もう聞かされて知っているかもしれないけど、ワノノマ本国では、関門城より南に討伐隊が行くことを許可していなかった。つまり、村を襲ったのは、当時の討伐隊の独断だった可能性がある」
言われるまでもない。承知していなければ、ここで黙って座っているなんて、できるはずもない。それに、ディエドラがナシュガズ伯国の代表としての地位をポロルカ王国から認定された件も、とっくの昔に知っている。亜人の地位を悪化させたくなければ、人間に危害を加えてはいけない。
ヒジリが口を開いた。
「何を申し上げても、納得していただくことはできないかと思いますが、今、説明していただいた通りです。魔物討伐隊としての不行き届き、深くお詫び申し上げます」
少しの沈黙の後に、マルトゥラターレが尋ねた。
「なぜ」
「はい」
「お前達、ワノノマの戦士は、ルーの種族を憎むようになった? あの日、村長は、戦うつもりはないとはっきり告げたのに」
少し考えを纏めてから、ヒジリが答えた。
「恐れがあったからだと考えます」
「恐れ?」
「数百年前に、関門城を突破して、大勢の亜人、獣人が北方に出てきたことがあったのです。ですが、当時の人間の世界は、偽帝の蜂起もあって、混乱状態でした。あくまで関門城以南の自治を認められていた、という亜人達が人間の世界にやってきたのです。それも、必ずしも平和的ではなかったともいいます」
その発言に、シャルトゥノーマが噛みついた。
「よく言えるな。魔物に故郷を追われ、逃げてきた我々の同胞を受け入れもせず、殺したのだろうに」
「話はそう単純ではなかったのではないでしょうか」
「なんだと」
ヒジリはあくまで淡々と説明した。
「先程、申し上げましたように、人間の世界はその当時、混乱していたのです。統一されていた世界秩序は崩壊していました。ポロルカ王国の辺境は、まともに統治されていたといえる状態ではなかったのです」
事実、偽帝の軍勢が当時のポロルカ王に派遣された軍勢を一蹴したことで、謀反の動きまで出ている。それが例の宮中の女達の由来でもあった。マバディという復讐者も、そこから生まれたのだ。
そんな情勢だったから、南方大陸北部は群雄割拠の無政府状態、そこにルーの種族の大群が雪崩れ込んだ。そして、仮にその大半が平和的であったにせよ、全員が一つの間違いも犯さないほど善良であったとするのもまた、非現実的な想定だろう。
「もともとは小さな争いだったのかもしれません。当時の人間の世界は貧しく、難民となったあなた方の祖先に施しをする余裕はなかったに違いないからです。そして、些細なことがきっかけで奪い合いとなり、それは犠牲者を出し、亜人の侵略が事実と受け止められるようになると……」
そして、争いはエスカレートした。人間であれ、亜人であれ、犯罪者を秩序の下に裁くことができていれば、こうはならなかっただろう。だが、肝心の秩序が崩壊した暗黒時代のことだ。身内がやられた、やり返す。この論理しか残らなかったのではなかろうか。
「そうしていつしか、亜人、獣人は滅ぼすべき敵になったのです。ですが、それは誤った考えでした」
行き過ぎを改める命令が上から下されても、人々の間に残った不信感と思い込みは、そう簡単には拭い去られなかった。だから、魔物討伐隊の中からも、禁令にもかかわらず、勝手にルーの種族を狩りにいくのが出てくるようになった。
「話はわかった」
だが、直接に故郷を失ったマルトゥラターレこそが、思いの外、落ち着いていた。
「どうやって賠償する」
ずっと考えていたのだろう。争うことはできない。復讐もできない。なら、この機会を何に使うべきだろうか。
「どうやって、同じことが起きないようにする。それを答えてほしい」
当然と言えば当然の要求に、ヒジリは即答できなかった。
「すぐにとは言わない」
マルトゥラターレは、立ち上がりながら言った。
「私達は寿命が長い。生きているうちに、回答してくれればいい」
彼女がそう結論づけたのなら、と他の二人も黙って立ち上がった。
ヒジリからすれば、宿題が残されたことになる。溜息をつきそうにして、すぐそれを噛み殺していた。
なんとも気詰まりする日。彼女にとって、今日はそういう一日なのに違いない。




