親善大使、到着
透明なガラス窓の向こうは、見るだけでも焼けつくようだった。青い空に入道雲が浮かび、日差しが足下の芝生に影を纏うことも許さない。風がまったく吹いていないのか、空気の動きはなく、木々も花壇の草花も、身動ぎ一つしない。あまりに白い光が変化なく世界を照らすその様は、まるで極端な笑顔を作って写真に収めたような、そんな不自然ささえ感じさせる。
こういう時には、石造りの建物の多少の涼しさが救いになる。といっても、外気がこれだけ高温になると、建物の中もそれなりに暑くはなる。そして、身分ある人達というのは、だらしない格好で過ごす自由を与えられていないのだ。
「遠方よりご苦労だった」
「とんでもございません、殿下」
グラーブが、エスタ=フォレスティア王国を代表する親善大使としてやってきたサフィスに、労いの言葉をかけていた。
なんでもないように見えて、なんとも微妙な構図である。もし、サフィスが王の勅命を受けてやってきたのなら、少なくともその内容を伝えられる間は、グラーブといえども、サフィスを上座に置かなくてはならない。勅使が各地の貴族や長官より上に立つのと同じ構図だ。
つまり、サフィスは王国を代表する公的な使者ではない。そのような権限は付与せず、ただ、国内の貴族の寄り合い……一応は王がその頂点にいるとしても、その辺もあやふやな、ただの「仲間内の集まり」から、その代表として送り出されたという体裁をとっている。
サフィスがアテにならないから、というのもあるかもしれないが、これが帝都に対するタンディラールの基本姿勢でもある。まかり間違ってサフィスが何か余計な取り決めを持ち帰る羽目になったとしても、そこに拘束力を持たせたくない。はっきりとした約束は何一つするつもりがないのだ。
言ってみれば、サフィスは帝都に遊びにきたようなものだ。そのついでで王国の公館を訪れたので、殿下に挨拶している。そういう台本だから、こんなやりとりになる。
「話に聞いている。例の水道工事もほぼ終わって、次は中央森林の開拓事業が始まるそうだな」
「はい。これまで、王都と東部を繋ぐ幹線道路がございませんでした。森を迂回するピュリス付近を通る道しかありませんでしたが、ここで東に直結する道路を建設することになっています」
「そちらは陛下が陣頭指揮を執っているというが、今後はそちらに加わるのかな」
「どうでしょう。私もお力になりたいと思っておりますが」
サフィスがそちらの最重要任務を割り当ててもらえるかどうかは、確定していないらしい。それもお国の事情を考えれば、無理もない。
中央森林は小貴族達の狭い領地が点在している、それは厄介な地域なのだ。以前からか細い道は存在していたが、そこここに関所があるので、物流の動脈にはならなかった。そして、人が住まない森の中には、野生動物の他、ゴブリンなどの魔物が居着いている。王都からピュリス、ピュリスからコラプト、そこから北上してティンティナブリアという陸上ルートを通るのが一般的だったのは、そういう事情による。
これは、歴史的経緯もある。案外、森の小貴族の由来は古い。格式が高い貴族も多い。起源を辿れば、対ピュリス王国戦争の頃にまで遡る。南下してピュリスまで攻め寄せたり、逆にデーン=アブデモーネルまで押されたりと、長らく王国は南方の勢力と争い続けてきた。そんな状況で、中間地点にいる森の小貴族達が背いたら、どんなことになるだろう? だから、彼らの爵位は最低でも伯爵、侯爵家も少なからずある。そして、その猫の額のように狭い領地を、先祖代々の土地として、この上なく大事にしている。
しかし、時代は変わった。王国は以前よりずっと大きくなったし、ピュリスは敵対勢力の支配都市ではなく、王都にとっての海の玄関口だ。そして、ティンティナブリア以東にも領地が続いている。物流だけなら、或いはピュリスから海路でエキセー地方に繋がればいいのかもしれないが、軍事面で考えれば、やはりティンティナブラム城までの直通幹線道路も欲しい。だがそれは、森の小貴族にとってみれば、それは自分達の頭上を越えていく巨大な陸橋に外ならない。祖先の働きと忠誠心を、今上の陛下はいかがお考えなのか?
そういう格式ある小貴族達の反発を浴びながら、なおも開発事業を強行する……それだけの胆力のある、しかも信頼できる部下として、サフィスが認められるかどうか。やるとなれば、汚れ役、嫌われ者になる。それでも改革を断行できるのか。そういう話なのだ。だからタンディラールは孤軍奮闘を余儀なくされている。
正直なところ、少々先を急ぎ過ぎているのでは、という気がしないでもない。自分の存命中に、王国の屋台骨をしっかりさせておきたい、というのは理解できる心情なのだが……
「他も、よく来てくれた。アルタール、久しいな」
「殿下もお元気なご様子で、心より安心致しました」
レットヴィッサ伯もこちらに来ている。使節団の一員ということだが、彼は代表ではない。王国内の地位で言えば、サフィスも建設大臣だが、彼も大将軍で、決して格下ということはないのだが、そういうことになっている。
タンディラールは、無意味なことはしない王だ。何か思惑があるはずだ。
「正式な留学を前にした貴顕の家の子女を率いる役目か。近衛兵に号令するのとはわけが違うぞ」
「いやはや、これにはさすがに私も手を焼いておりますよ」
軽い笑いが起きた。王都からやってきたのは彼ら二人だけではない。千年祭に参加することにした貴族の家の、成人前の子供達も同行している。形の上では、アルタールがその保護者という役回りなのだが。
彼らは、アルタールのすぐ後ろに並んで立っている。その中には、見覚えのある顔もあった。あれはリリアーナの弟のウィムだ。しばらく見ない間に大きくなったものだ。
ふと、その中の一人が気になった。亜麻色の髪をした美少年だ。ただ、その視線があらぬ方向を向いている。今、やり取りしているグラーブ達にではなく、その向こうを見ているのだ。その視線の先に立っていたのは、ベルノストだった。
グラーブがこちらに振り返って言った。
「学生諸君。こちらにいるのは僕らの大先輩と、後輩達だ。ずっと前に帝都で過ごしたきりだったり、これが初めてだったりと、何かと不慣れなところもあると思う。君達も積極的に立ち働いて、特にサフィス殿が不自由なく過ごせるように、手を貸してほしい」
俺達は無言で会釈して応えた。
「わざわざ集まってもらったこと、礼を述べておく。これから私は、二人とこの夏での予定を詳しく打ち合わせることになっている。君らは顔合わせだけになってしまったが、今日のところはいったんお帰りいただきたい」
会合が終わると、広間の中はざわめき始めた。サフィスは、遠くにいる娘の姿を認めて、目線で合図だけすると、グラーブについて奥の間へと姿を消した。多分、彼女は父が出てくるまで待つことになるだろう。
「お嬢様」
俺が声をかけると、リリアーナは振り返った。
「ここに居残りますか」
「私はパパを待つけど、ファルスはいいよ。帰っても」
「ですが」
「大丈夫。気を遣わなくても。今日はナギアもいるから。多分、遅くなると思うし」
それで俺は頷いた。
「わかりました。閣下にはまた後日、ご挨拶に伺うとお伝えください」
「うん!」
となれば、今日の会合はこれで終わり。これといった用事もないし、久しぶりにゆっくり休むとしよう。
そう考えて、公館の外に出たところだった。
昼下がりの路上に、日傘を手にした女性が一人。少し前、グラーブが会合を開いて千年祭についての諸注意をした時と同じだ。リシュニアは、そこに立っていた。違うのは、そこにベルノストがいないこと。それだけではない。周囲には誰もいない。みんな、自国の王都からやってきた自分の親族を待つためだったり、或いはベルノストのように役目があったりで、公館の中に留まっている。
「お帰りですか?」
「はい……殿下は」
「私にも、仕事らしい仕事はないのですよ」
苦笑しながら、彼女は続けた。
「よろしければ、送っていただけますか」
軽い緊張を覚えた。これはどういう状況だろう?
近頃、彼女からの接触がやけに多い。助けてもらえている、ということもできる。マリータ王女とこっそり話をつけてくれたのも、彼女の功績だ。だが……
「先日のお話ですけど、どうなりました?」
「ああ、間に挟む予定の南方大陸の商人が、先日、うちまで来ました。役目についても納得してもらえましたよ」
「よかったです」
……そうすると、リシュニアの狙いはなんだろう? 俺がベルノストと一緒に出てきたところで鉢合わせたのも、あれも彼を気遣ってのことではなく、俺を捕まえるためだったとすれば……
「いよいよ、もうすぐ千年祭ですね」
「はい。無事に終わってくれるといいんですが」
「ファルス様、それはお仕事をする人の考え方ですよ」
彼女は微笑んでいたが、その感情は実に読み取りにくかった。
「こういうのは、始まる直前が一番楽しいし、胸が躍るものではないでしょうか」
「確かにそうですね」
「私にとっては、最後の夏も同然ですから」
前を向いた彼女の横顔。どこか寂しげに見えた。
「何か、その」
半年後には、彼女の留学生活は終わりを告げる。確かに、この帝都での日々は、窮屈な王宮のそれと違って、解放感いっぱいの、手放しがたいものだったに違いない。
「心残りというか、やっておきたいことなんかは、ありますか?」
どういうわけか、口にするのが憚られるような気がした。なぜか残酷な質問に思われて仕方がなかったのだ。
しばらく黙ったまま歩いていた彼女だったが、ややあって口を開いた。
「ありますよ」
「それはどんな」
「たくさんあります」
実感がこもっている。やっぱり。俺の一言が、彼女を傷つけたのかもしれない。たとえ自由の都にいようとも、彼女の身分は本当の自由を許さない。勝手気儘に振る舞う人々を横目に、羨むばかりだったのではなかろうか。
「例えば……」
東西の大通りを抜ける地下道に差し掛かった。
小さな溜息一つ。暗がりの中、それでも、彼女はなお微笑んでいた。
「では、ファルス様、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか?」
「なんですか?」
「ファルス様は、お料理にお詳しいとか」
それは事実だ。大きく頷いた。
「僕以上の料理人も、世の中には数多くいるとは思いますが、自分も素人とは言えません。殿下に恥をかかせないだけの仕事はできると自負しています」
「ふふふ、そうではないのです」
「では、料理を作らせるのではなく、習いたいということでしょうか?」
「それはそれでよさそうですけど、ちゃんと身につけるには時間がございません。そうではなくて、目利きをお願いしたいのです」
というと、何を目利きすればいいのだろう? 帝都の漁港にあがってくる鮮魚とか?
「ファルス様は、市内の飲食店に足を運ばれることも、よくおありなのではないかと思うのですけれど」
「あ、え? あ、はい」
また予想もしないようなことを言われた。
「でも、殿下もこの辺のお店には行かれるのではないですか? そんなに頻繁にということはないのでしょうけれども」
地下道を抜け、地上に上がってみると、目の前にはいつもの商店街が広がっていた。俺が彼女に案内してもらった高級店も、いくつもある。
「こういうところではないのです。というより、ここではないところでお願いしたいのですが」
「そうなると、帝都の西側とか? でも、そうなると戦勝通りとか、或いはもうちょっと繁華街に近い方ですと、また別のところがありますが、そちらは庶民向けといいますか」
「行かれたことは、やっぱりおありなんですね?」
「それはもちろんです」
すると、彼女は立ち止まった。
「では、今度、ぜひそこに案内していただけますか」
「えぇっ」
でも、完全に庶民の世界なのだが。一国の王女を連れて行けるようなところではない。
「なるべくいいお店、そうですね、活気のある場所がいいです」
「活気、と言われても」
「普通の暮らしを、間近に見たいんです。私の身分も、ファルス様の領民とか、そういうことにしていただけると嬉しいのですが」
なるほど、と理解が追いついてくる。お姫様でない自分になってみたい、と。
「おや、もう寮についてしまいました」
気付けばもう、彼女の寮の手前だった。
「では、僕は」
「ファルス様」
だが、彼女は俺を呼び止めた。
「せっかくですし、少しお茶でも飲んでいかれませんか?」




