スラムの下見と問答
真新しい木造の門。今はまだ、守衛もいない。もうしばらくしたら、通行にも制限がかけられるようになるのだろう。だが、実質的な地域住民の生活に、そこまで負担をかけるのも反発が大きいだろうという当局の現実的な判断もあって、千年祭の直前までは、この通り、見咎められることはない。
そこをくぐると、再開発の対象にならなかったシーチェン区南部のスラムが広がっていた。ありあわせの石材で壁をこさえた家々……中には昔の道路の敷石なんかを引っぺがして土台にしたようなのもある。天井の造りは、本当に雑なものが多い。ただ単に木の板を被せただけのものもあれば、南方大陸出身者が住んでいるらしく、草葺きのものも見受けられる。足下の道路は黄土色の土で、まったく整備されていないので、凹凸がひどい。水貯まりがそこここに居残っていた。
このスラムが、ここからしばらく南の方まで広がっているが、徐々に家々の間隔が広がっていく。その向こうには林があり、そこから先はというと、例の保養地に繋がる幹線道路に繋がる。ただ、その辺りにはまた、帝都防衛隊の詰所があって、よからぬ流民が富裕層の安らぎを乱さないようにと見張っている。
どうしてこんなところを歩きたいなどと言い出したのだろう?
シャルトゥノーマは無言のまま、左右を見回していた。そして、しきりに溜息をついたり、頷いたりしている。
「なぁ」
俺が声をかけると、やっと彼女は振り向いた。妙に硬い表情をしている。
「どうして急に、この辺りを見たくなった?」
俺の問いに、若干、緊張を解き、息をついてから、彼女は答えた。
「ああ、何かと思ったら」
俺に声をかけられてビックリした、みたいな顔をしていた。驚くようなことだろうか。
治安の悪い地域だから、トラブルにならないよう同行している。別に、風の民の力をもってすれば、この辺にいるようなスラムの住人相手に後れを取るなど考えられないのだが、そうした暴力沙汰そのものが好ましくない。いずれにせよ、ここに彼女を恐れさせるようなものは、何一つないように思われる。
だが、もちろん、安全についての不安があったのではなかった。少し、悲しげな顔をして、彼女は目の前の廃屋同然の家を見上げた。
「もうすぐストゥルンが来る」
「そうだな」
「覚えているか。あいつの両親、アヤオタとオナイブは、一時期、帝都まで来たと」
そんな話もあった。ラハシア村で聞いたんだっけ。
「この都のことも、少しずつわかってきた。貴族などの後ろ盾もなく、移民の身分でここまで来たのなら、北岸には住めなかっただろう。この辺りで暮らしていたのかもしれない」
「だから、前もって知っておきたかった、か」
「ストゥルンも知りたがるだろうからな」
それで納得した。外の世界に憧れた若い男女が、帝都までやってきた。だが、何を思ったのか、結局は故郷のすぐ近く、関門城まで戻ってきた。
「こんなひどい場所で、どんな気持ちだったのか」
「故郷に帰りたかったのかもしれない。でも、本当のところは、わからない」
「そうか?」
俺の考えに、意外と感じたのか、彼女は足を止めて振り返った。
「ああ、つまり……最終的に、関門城にいたということ、ストゥルンに本当の故郷の話をしたということは、帝都やその他の土地で暮らすことより、大森林の奥の仲間達と生きる方がいい、という結論に至ったのは間違いないと思うんだけど」
「そうだろう」
「だけどそれは、即座に外の世界を否定していたことを意味するのでもないんじゃないか」
「というと?」
人は誰しも、自分の立場を離れて考えるというのが苦手なものだ。
「二人にとっては、大森林が故郷だった。ラハシア村が帝都より暮らしやすくなかったとしても、なお大森林に帰ることに意味があった。そうしてみると、実は案外、旅を楽しむことができていたのかもしれないとも想像できるんだ」
「そんなものか」
「わからない。わからないけど、その可能性まで否定したら……あんまりじゃないか」
俺が何を言わんとしているかを少し考えて、彼女も頷いた。
「そうか。そうだな。好奇心で人生を台無しにした不幸な人。勝手に思い込んでしまっていた。それが本当なのかもわからないのに」
今は亡き二人の旅人を、惨めな失敗者であったと一方的に決めつけるのは、もしかしたら、彼らにとっては不本意なことなのかもしれない。ストゥルンだって、両親の物語がそんなものでしかなかったなんて、思いたくないだろう。彼らは彼らなりに夢を追い求め、力の限り生きたのだ。ただ、その内心については、俺達には推し量る術もない。
「外の世界は……どう思う?」
俺がそう尋ねると、シャルトゥノーマは難しい顔をして、小さく首を振った。
「まだ、よくわからない。ただ、私はディエドラには水をあけられてしまったな」
「というと?」
「私は、任務もあって関門城の近くにいることが多かったし、言葉も話せたから、元はと言えば、あいつよりずっと外の世界を知っていたはずだった。自分でもそう思っていた。でも」
溜息一つ。
「気構えが違った。私は、外の世界をただ対処を要する問題の一つとしか受け止めていなかった。理解はしても、どこかで拒んでいたんだ。だから、捕らわれた同胞を救い出す方法さえ分かるなら、あとはどうでもよかったし、興味もなかった。だけど、ディエドラは、まさに外の世界そのものを求めていた。この前、ヒジリとやり取りしているのを見て、思ったよ。私より、よっぽど外の世界に出る準備ができていたんだ、と」
俺は肩を竦めた。
「人には向き不向きがある」
「そうだな。まぁ、とはいえ、そういう意味では、私もディエドラも、故郷の中では、どうにも馴染めないはみ出し者だったが」
はみ出し者、か。
そうかもしれない。二人とも適齢期だったはずだが、どちらにも夫はいなかった。他の風の民や獣人には、当たり前に連れ合いがいたはずだ。
「そういえば、ディエドラだけど」
「どうした」
「あれは……ヒジリに向かって喋ったことは、どこからどこまでが本当だったんだ?」
少し引っかかっていた。俺としては、唐突に愛の告白をされたようなもので、理解が追いつかない状態になっている。あくまでヒジリ相手に喧嘩を吹っかけたくて、ああしたことを言っただけではないのか?
「どこから……全部だと思うが?」
「全部って。いや、ディエドラが少し、いや、かなり、いや、相当に好戦的な性格なのは、わかっていたつもりだったけど」
「そうだな」
大森林の奥地で、わざわざ逃げる自由を与えた俺相手に突っかかってくるくらいだ。彼女は徹底して闘争と力を信奉している。
「僕を相手に戦って、二度も負けている。関門城と、ケフルの滝の向こうで。二度目は、アーノに横槍を入れられたけど。だから、僕に勝ちたいというのは、まぁわかる。けど」
「男として求められるとは思っていなかった、か?」
「まったく考えてなかった」
首を振りながら、シャルトゥノーマは溜息をついた。
「根本的に違うな。好戦的とは言うが、では、ディエドラがそこまで怒りっぽい奴だと思うか?」
「と言われてみると、むしろ」
「そうだ。気が短いのは、むしろ私の方だろう?」
ブイープ島から命からがら大陸側に戻った時、怒りをぶちまけて俺の目の前から去ったのは、シャルトゥノーマの方だった。逆にディエドラはというと、大人しく俺に従い続けていた。
「違うんだ。あれは少し変わり者で……お前が言うなという顔をしているが、いや、なんといえばいいのか……優しくされることに意味を感じないというか、あれが興味を持つのは、とにかく強くて、自分に戦う場を与えてくれる相手だけだった。もちろん、ビナタン村にもディエドラより強いのはいたが……ワリコタ様とか……でも、村長がするのは躾であって、喧嘩ではない。生まれつき強い獣人ではあっても、みんながみんな、そこまで戦士になりたがるのでもない。あいつには、自分達を狭い世界に閉じ込めておく外の世界の人間という強者に挑まない同胞が、つまらなく見えたんだろう」
元々、敵だからこそ、彼女は惹きつけられていた。
でも、そうしてみると、最初に俺が買い取ろうとした時の反応にも説明がつく。他の連中が、やれ子供は産めるのか、処女なのかと、敗者である彼女をどう利用するかを語っていたのに、俺が「言葉は話せるのか」と言った途端、ディエドラは激しい怒りを表明した。
戦い、打ち負かし、奪うことは何も悪くない。逆に、その論理そのものを否定する態度こそ、受け入れがたい。彼女にとって、愛着と闘争は不可分のものだった。
「ある意味、お前が徹底的に打ち負かしたから、それであいつは大人しく、ピュリスやティンティナブリアに留まっていたんだ。でも、だから、あいつを心から満足させようと思ったら、都度、戦って打ちのめして屈服させてやらないといけないだろうな」
「うわぁ」
凄く疲れそうだ。
「大変すぎる」
「そうか?」
「大変じゃないと思える理由がどこにあるんだ……」
首を傾げたシャルトゥノーマは、俺に問い返した。
「ならお前は、男が女に優しくするのは、大変じゃないと思うのか? やれかわいいとか愛しているとか、優しい言葉を囁き続けたり、逆に女の長話に付き合ったり、あとは人間の世界では、値の張るものを買って与えたり。ぶん殴るだけで済むディエドラの方が、お前にとっては安くつきそうに思われるんだが」
「うっ」
ひどいけど、否定できないかもしれない。
「あれが文句も言わずにずっと大人しくしてきたということが、そのまま本気だという証拠だと、私は思っている」
と言われても、どうすればいいかなんて、わからない。道徳的な部分というか、感情の仕組みとか、相当に遠く隔たっている気がしてならない。
「それは愛情なのか」
「さてな。だが、もし、きれいで優しくて穢れ一つないものばかりが愛だというなら、それはそれで偏った見方なのかもしれんぞ」
そう説明されてみると、それはそれで納得できなくもない。愛だのなんだのと抜かしたところで、俺達は誰しも血肉から逃れられないからだ。なら、純粋に力を、強者を求めるディエドラが、闘争を通じての結びつきを求めているからといって、そこに愛がないとするのは、狭量というものだろう。
「なるほど、少しわかった気がする」
「それはよかった」
「ディエドラは、納得してここにいるんだな」
「そういうことだ」
俺が理解に至ったとみて、彼女は身を翻した。そして、さっきの散歩の続きに戻った。
考えてみれば、俺がさっき、シャルトゥノーマに言ったことと同じだ。アヤオタとオナイブの気持ちを、どうして俺達が知り得ようか。彼らが帝都のスラムで過ごした日々を、外側から評価するなんてできっこない。ディエドラは、その辺がちょっと極端なだけだ。
シャルトゥノーマが足を止めた。
「もう、いいか。どこが二人の住処だったかなんて、知りようもなさそうだ」
「人は入れ替わっているだろうし、そこは仕方がない。二人がどんな名前を名乗っていたかもわからないわけだし」
「なら、帰った方がよさそうだ。暗くなる前に」
もう満足した、と言わんばかりのサッパリした顔で、彼女はもと来た道を辿り始めた。俺も逆らわずについていく。
だが、実は聞きそびれてしまったことがある。では、ディエドラの気持ちがそうであるのなら、シャルトゥノーマはどうなのだろう? とはいえ、改めて尋ねることなど、もうできそうになかった。




