宣伝計画は秘密のうちに
すぐ目の前には運河。ちょうど西一号運河と二号運河の合流点だ。別邸からはそこまで遠くないが、旧公館からは結構な距離がある。この暑い最中に大荷物を担いでここまで来るというのは、そう楽なことでもなかった。それに、この待ち合わせ場所には、本当に何もない。周囲にこれといった建物はなく、道幅は広く、運河に降りる真っ白な石段は光を照り返すばかり。この昼日中に、一隻だけ屋根のある大きめの船が停泊しているが、あとは何も見当たらない。午前中、早い時間であれば、人の行き来や荷物の積み下ろしもあったのだろうが、わざわざこの季節、この時間帯にそれをする人などいないのだろう。
気が遠くなりそうになりながら、ただただ待っていると、やがて離れたところから車輪の音が聞こえてくるのに気付いた。振り返ると、一台のくすんだ色の馬車がこちらに近づいてきている。そこから姿を現したのは……
「申し訳ございません、お待たせしてしまったようですね」
……ちょっと裕福なくらいの家のお嬢様。そんなような印象を与える服装に身を包んだリシュニアだった。黄緑色のブラウスに白いふわふわのロングスカート。頭には帽子もかぶっている。それと、日傘をさしてもいる。日焼けを避けるため、というだけの目的でもないのだろう。
「そちらの船が私の用意したものです。事前に申し上げておけばよかったです。お荷物を運んでしまいましょう」
俺は背負った荷物を無言で降ろすと、それを手前に担いだまま、真黒な口を開けた船の中へと踏み込んでいった。
「随分と手間をかけるようですが」
船の中に二人して落ち着くと、やっと漕ぎ始めたらしい。屋根のついた客室と、船員が漕ぐ下の層とはきれいに分かれているので、彼らが俺達をしっかりと視認することはない。
それにしても、直射日光こそ避けられるものの、窓が小さいので、この客室も蒸し暑い。じんわりと汗が滲むのを感じる。
「それくらい用心した方がいいのです」
「どんな有力者と会うんですか」
「ふふっ」
けれども、彼女はこの期に及んでも、説明はしないつもりらしい。下手に聞かれでもしたら、というのもあるのだろうが……
船は西二号運河の方へと回り込み、まっすぐ北に向かった。船はすぐ橋の下を潜り抜けた。左手にはギルが暮らす下宿先もあったりするが、船はあっさりそこも通り過ぎ、二つ目の橋を潜ってすぐ、左手の停泊所に着けた。無言で俺を促す彼女に続いて、石段を昇っていくと、手際のいいことに、そこにまた馬車が待ち受けていた。
「もう少しです」
それなりに高級感はあるが、ほとんど窓がなく、目立たない茶色の塗装が施されている。なんとも胡散臭いこと。もういちいち尋ねず、俺は大人しく荷物を放り込んで、馬車の座席に身を投げた。
それから、馬車が走り出した。ほとんど曲がっていないので、今度はまっすぐ東に向かって走っているようだった。してみると、かなりバカバカしいことに、俺は帝都の南西まで回り込んで、それから北東方面に戻っていることになる。
「よっぽどなんですね」
「私も、少し思い切ってみたのですよ。うまくいってくれればいいのですが」
「結局、どなたなんですか」
「本来、学園以外の場所では会うべきでない人ですよ。おわかりではありませんか?」
ということは。
馬車が右手に曲がるのを感じた。俺の予想が正しければ、こんな面倒な手続きの上で会う相手というのは、要するに……
敷地の奥まで辿り着くと、やっと馬車の扉が開かれた。バタバタと足音が迫ってきて、数人の使用人が手早く日傘を掲げた。いったい誰から何を隠そうとしているのか。だがもう、ここまでしてわからないなんてことはない。立場が危うくなるのは、俺やリシュニアではなく、むしろ相手の方なのだ。
勝手口から建物の中に入ると、すっと涼しくなった。左右には真っ白な壁、足元は黄緑色の絨毯。その中を、無言のメイドに先導されて、足早に進む。作法も何もなく、無言で扉が引き開けられ、中へと通される。
「わざわざご苦労。それで献上品はちゃんと持ってきてくださったのかしら」
椅子に座ったまま、マリータは尊大な態度を装って、そう言い放った。淡い藍色の夏用のドレスを身に纏っているだけだが、これは、公館の中にいる以上、他に選択肢がなかったからだろう。外出するのでもないのに、あまりゴテゴテと着飾るのも不自然だから。俺達は、いるはずもない来客なのだ。
「お戯れが過ぎませんか」
「何のことでしょう」
「僕は、タンディラール王の臣下として、ティンティナブリアを治める立場にあります。その領地を発展させる目的もあって、南方大陸からの輸入品を売り出そうとしている……その活動を支援するのが、よりによって」
俺が振り返ると、リシュニアは首を振った。
「利害が一致した、ということです」
「そういうことでしてよ」
言葉通りに受け止めるべきではなさそうだ。
「どんな利害があるというんですか」
「兄に危機感を抱かせたいのです」
リシュニアが涼しい顔で言う。
「上から見れば、下々の者達というのは、どうしようもないものに思われることもあります。ですが、冷たくあしらうにせよ、ほどほどにしなくては、背かれてしまうのだと。王者の峻厳も、まずは親愛の情なしには成り立たないということを、再認識してもらうべきだと考えました」
ベルノストの件だ。彼女は、さすがにやりすぎだと考えている。だが、グラーブ自身では、その状況を冷静に俯瞰することができない。愚かなのではなく、当事者だからなのだろうが。だから、こういう荒療治で対応しようと、そういうことなのだろう。
「……ご自分で考えたのですか?」
俺の問いに、リシュニアは無言で応えた。それが答えだ。だいたい、そうでなければ、あまりに差し出がましい振る舞いでもある。
タンディラールは、グラーブの器量に不安をおぼえているのではなかろうか。昨秋の時点で、例の醜聞があった際に、責任をベルノストに背負い込ませたまではいい。王者は無謬であるべきだから。しかし、その後の匙加減には注文をつけたいところなのだろう。彼の見立てでは、息子には純然たる独裁者たる資質はないらしい。とはいえ、それは誰にとっても困難なことだ。そのことを誰より実感しているのが、まさに現在進行形で、頼れる側近を置かずに孤高の王を演じている彼自身なのだろうから。
ただ、今回の計画をタンディラールが直接に把握しているということはないとも思われる。やり方はリシュニアに一任したのではなかろうか。これは表の政治の話ではない。非公式な取引の領分でしかないのだ。その範囲内でなら、彼は女性が力を振るうことを暗黙の裡に認めている。
「では、マリータ様の利益というのは」
これは、気が重い質問だ。
彼女の本音を知ってしまっているから。秘する思いを利用するみたいで、苦々しい罪悪感が胸に満ちてくる。
「あら? そんなの、決まっているでしょう?」
彼女は余裕を取り繕って、口元に手を寄せて高笑いまでしてみせた。
「間抜けな王子が頼りにならないからと、よりによってその臣下が私にまで縋ってくる……いい気味ではありませんか」
これは口実でしかない。なぜなら、目に見える形でマリータが俺を支援するなど、できっこないからだ。
「ですが、その、僕が殿下にお願いして、ということを公言するのは」
「あくまで気分の問題でしてよ。そこはちゃんと考えてありますわ」
もし、第三者から見てもわかる形で、俺がマリータにコーヒーの宣伝を頼んだ、と知られたら。なるほど、グラーブの顔を潰すことにもなるのだが、下手をすると、マリータ自身の立場も悪くなる。身内から、どうして仮想敵国の殖産興業に手助けなどするのか、とお叱りを受けるだろう。だから、お互い、明確な証拠は残さずにやらないといけない。
リシュニアの意図するところもそれで、要は内々にわかる程度の形で、兄に警告を発することに意味があるので、実際に俺にそっぽを向かれたという実績を残したいのではない。
「以前、学内で試飲会を開催していただきましたから、まず、私があなたの飲料の存在を知っていることは説明がつきます。問題は入手手段で……あなたがどこかの小売店に卸してくれていれば、豆自体は手に入るのですが……」
そこで彼女は苦々しげな表情を浮かべた。
「先日も拝見致しましたけれど、あの飲料、やたらと面倒なやり方で煮出す必要がありましたわよね? 粉になるまで磨り潰して、それを布越しに適温の湯をかけるとか」
「はい」
「あれのやり方でまた、味の良し悪しも変わるのでしょう?」
「仰る通りです」
足を組み、椅子の背凭れにふんぞり返って、彼女は思案に沈んだ。
「誰か、都合のいい人はおりませんの? あなたの家臣でもなく、例の飲料のこともわかっていて、私にそれを提供することで利益を得られるような人は」
今度は俺が考え込む番だった。
そんな都合のいい人は……セーン料理長とかなら、コーヒーの抽出くらいはとっくに完璧にできるようになってそうだが、俺とは関係が近すぎる。リンガ商会お抱えの料理人で、ムヴァク総督の仕事もしている立場だ。そんな人物がマリータの下で……これはダメだ。
「あっ」
「心当たりがおありですの?」
「ワング・ケタマカンという南方大陸の商人がいます。抜け目のない男で、利益のある方へと転ぶのも不自然ではありません」
彼なら、形ばかり俺を裏切っても違和感はない。コーヒー豆を帝都で売れと言われただけ、商人が利益を最優先して何が悪い、と言い張れる。彼もこっちに来るはずだ。ただ問題は、帝都滞在中の予定を、彼自身が決めていないはずもないから、急な予定変更をお願いすることになるが。
「彼も忙しいでしょうが、急遽、コーヒー豆を売るために、殿下の使用人に技術提供した、ということにしましょう」
「いいですわね」
彼女がベルを鳴らすと、扉が開いてカートが押されてきた。三人に紅茶を供すると、メイドはまた足早に去っていった。
「もうじき、千年祭が始まりますけど、そちらはいかがですの?」
リシュニアが答えた。
「社交の中心は兄が務めますけど、親善大使としてトヴィーティ伯爵が帝都を訪問する予定になっております」
「確か、レーシア水道の」
「ええ。そろそろそちらの事業も手を離せる状態になってきたのもあってのことだと思います」
頬杖をつきながら、マリータは溜息をついた。
「では、そちらはまだ、こちらよりはましなのでしょうね」
「と言いますと」
「こちらの親善大使は、フォニック将軍に決まりましたわ」
誰のことかと思ったが、すぐ思い出した。
「そう。まだ子供だったファルス様に負けた、あの見かけ倒しの」
「いえ、あれは僕が卑怯な手をですね」
「結構ですわ。大したことのない人だというのは、今では私にもわかることですし」
散々な評価だ。
「結局、どっちつかずの態度になってしまったのですよ。そちらのお国が深入りしないのはわかっているのだから、ここは帝都で自分達の正統性を強く主張すべきだ、なんて言っていたのですけれども……いざ、それをするとなると、兄様、ルターフ王子を帝都に派遣するのか、というお話になりまして」
「王妃殿下が」
「いい迷惑ですわ」
権力が好きすぎる母。その期待が自分に向けられていると思うと、落ち着かないのだろう。年の離れたルターフ相手に、地位を巡る闘争など、仕掛ける気はない。分が悪すぎることくらい、よくわかっている。
「だから、なぁなぁで無難な人を送ろうと、それで選ばれたのがフォニックなのですよ」
「まぁ、どこの国もいろいろ事情はありますから」
「他の国では、だいたい嫡男が代表としてやってくるようですけど……」
マリータは頷くと、顰め面になった。
「そういえば、ファルス様はシャハーマイト侯の嫡男は、まだご存じないですね」
「はい? ええと、そうですね。世界を旅した時にも、あの街には寄り損ねたので」
「今回、帝都に来るそうですが、お付き合いはほどほどになさるのがいいかと思いますね。ワディラム王国の太子は、それなりにできた方ですけれど」
それから彼女は表情を和らげ、肩を竦めた。
「でも、そういう社交の場でお出しするから、広まるのでしょうけれども……では、一休みしたら、私のメイド達に、例の飲料の煮出し方を指導していただけます?」




