ディエドラ、宣戦布告す
旧公館の二階、庭に面した居室。今は障子も閉じられていて、渡り廊下にも人気がない。離れた場所で、マツツァとタオフィが通行を制限している。とはいえ、そこまでする必要のある話し合いでもないと思われるのだが。
室内には四人。俺とヒジリ、それにシャルトゥノーマとディエドラ。俺が障子の向かい側に一人座り、あとは左右に向かい合う形となっている。
「一雨きそうですね」
まだ日中だが、障子の向こう側は薄暗い。室内には灯りが点されていて、その蝋燭の火の揺らめきが、壁にかかる影の濃淡を、休むことなく変えている。
「今、お話した通り、魔物討伐隊は百年以上前から、大森林奥地への遠征を許可していませんでした。ですが、勝手な行動に出た者達がいたことは事実です。責任者の一人として、その点についてはお詫び申し上げます」
そう言われてしまっては、これ以上、怒りの拳を振りかざすわけにもいかない。シャルトゥノーマは、まるでヒジリを焼き殺しそうな目で見つめていた。
「ナシュガズ伯国は、現在、ポロルカ王の下、世界秩序の一員をなしています。今後は友好と協調を推し進めていけたらと思います」
「そんな言葉一つで、命を散らした同胞のことを片付けられてしまうのだな」
「では、何をお望みですか」
返す言葉もない。死んで詫びろ、というのでは本末転倒だ。第一、そんなの俺が認めるわけもない。
「いちいち突っかかるな」
声を発したのはディエドラだった。
「意味がない。シャルトゥノーマ、ルーの種族は負けた。だから大森林の奥に閉じこもっている」
「馬鹿な。なぜ負けを認めねばならん。今すぐ争いになろうとも、私がそこらの人間に後れを取るなどないことくらい」
「外の世界を見ただろう。それとも、お前は関門城とポロルカ王国と、あとは帝都しか見ていないのか? それだけ見れば、十分な気もするが」
彼女はうっすらと笑みを浮かべている。それは、負けたと言いながら、まったく負けを認めていないかのような不敵なものだった。
「カダル村の要塞より立派な建物が、今のルーの種族にあるか? ああ、ナシュガズは、あれは別だ。自分達で建てたものじゃない。大昔のだからな」
「だからどうした」
「一人ではお前に指一本触れられないような人間どもが、外の広い世界を埋め尽くしている。そんな奴らが森の奥までやってきて、同胞を攫っていく。勝ち負けなら、人間の勝ちだ。こちらは負けた」
それからシャルトゥノーマに振り返って、ディエドラは語気を強めた。
「それともお前は、トスゴニ様から命じられたのか。人間どもに立ち向かえと」
「いや……」
それからまた、正面のヒジリに向き直ると、ディエドラは続けた。
「森の中なら、負けた奴は餌だ。食われて死ぬ。メスを巡るオス同士の争いなら、食われはしないが、負けた方が縄張りから追い出される。そこにいいも悪いもない。ルーの種族は負けたから、狭い縄張りの中に追い詰められた。それだけだろう」
「嫌いな考え方ではありません」
根本的に武人であるヒジリは、静かに頷いた。
「ですが、私は先程、争いはもう終わりだと、そう申し上げました。今後は、勝ちも負けもないのです」
「それは嘘だ」
ディエドラの笑みが深くなる。
「人間の世界を何年も見てきた。街の中は森の中と違う。普通は誰も殺し合いなんかしない」
「そうでしょうとも」
「でも、お前達は、戦っている」
彼女は指で輪っかを作った。
「お前達人間は、ルーの種族のようにはしない。森の奥にいる同胞は、みんな理由も貸し借りも考えずに助け合う。でもお前達は、金欲しさに寄り集まって、群れを作って競争する。違うか」
「そういう面はありますが」
「殺し合いがないことと、戦いがないことは違う。戦いがあるということは、戦っていいということだ」
「何を仰りたいのですか」
真顔になるヒジリに対して、ディエドラはますます笑みを深くした。
「和平は認めるが、お前の地位を認めるかどうかは、こちら次第ということだ」
「地位?」
何を言われたのか、ヒジリは一瞬、理解できずに硬直した。
「あなたがたに認められても、認められなくても、私はワノノマの姫ですが」
「そうだ」
「そして今は、ここにいらっしゃるファルス様の婚約者です」
「認めた覚えはない」
場の空気が一気に重くなった。
「なぜ、あなたがたの承認が必要だと? 根拠はありますか」
「私とシャルトゥノーマは、既にファルスの妻だ」
「えぇっ」
俺とヒジリは同時に間抜けな声を出し、顔を見合わせた。
「そうだったのですか、旦那様」
「いっ、いやいやいや! 今、初めて聞いた!」
狼狽える俺の姿を見て、ほっと息をついたヒジリは、また向き直って言った。
「驚かせないでください。旦那様は違うと仰っています」
「ファルス」
ディエドラは俺に尋ねた。
「忘れたのか」
「何を」
「トスゴニ様はこう言わなかったか。縁を結ぶ、と」
「あっ」
そういえば、そんなことを言っていたような……
『ワリコタの言った通りよ。ファルス殿、お主がこれでよければ、少々変則的ではあるが、我ら族長が認める形で、縁を結ぶこととしよう。シャルトゥノーマ、ディエドラ、よく尽くせよ』
よく尽くせよ、という言葉。確かに、なんらかの契約が結ばれたときでもなければ、言いそうにない。そして、これは主従関係などではないだろう。それなら、仕えよという言い回しになる。
「い、いや、でも! 儀礼的なものでは? こう、その、ルーの種族との同盟みたいな」
シャルトゥノーマが頷きながら言った。
「同盟ではあるな。ファルスを同胞の一員として迎え入れるために、こちら側が娘達を差し出した……しかし、そういうことは、お前達人間の世界でもしばしばあることなんじゃないのか」
「うぐっ、だけど、ほら、ルーの種族と人間では、子供が生まれないはずで」
「そう」
ディエドラも頷いた。
「だから別途、人間の妻を娶って子を持つのを妨げはしない。ただ、仮にも先に妻になった、家族になった立場はある。私もシャルトゥノーマも、もう生涯、他の男に触れることはできない。口出しする権利くらいはあるんじゃないのか」
そんなことになっていたとは。
呆然とする俺の横で、ヒジリは早くも冷静さを取り戻しつつあった。
「なるほど、お話はわかりましたが、少々申し出るのが遅過ぎはしませんか。私は二年も前に王都まで出向いて、婚約の儀についてタンディラール王にも報告しているのです。苦情を差し挟むなら、その前にすべきではありませんか」
「そんなことはない。現にお前はまだ、ファルスと結婚すらできてない」
痛いところを突かれて、ヒジリは息を詰めた。
「心配しなくていい。認めてやってもいいぞ」
「はい?」
「お前達が散々追い立てて狩ってきた獣人に、頭を下げて頼むなら。ファルスのためなら、いけすかないワノノマの女でも、受け入れてやろう。私とシャルトゥノーマでは、子を産んでやることもできないからな、仕方がない」
なるほど、そういうことかと納得した。
ワノノマの連中に含むところがあろうとも、俺が殺し合いを認めるはずもない。だからこそ、精神的に打ちのめす機会を待ち構えていたのだ。そして、そのためには、二年前の輿入れの直後に口を差し挟んだのでは、できないことがある。
「それにしても、面白くて仕方がないな。この二年間、必死になってファルスの機嫌を取り、こんな立派な屋敷まで与えて、それはもう苦労してきたのだろうに、まだ婚約者止まりとは。気の毒になってきたぞ」
もし、あの時点でディエドラが権利を主張したら、ヒジリは柔軟な態度を示して、俺を説得したはずだ。俺も自分が監視されることありきと納得しているので、形ばかりディエドラを立てつつ、結局、婚約は成立してしまっていただろう。
ある意味、シャルトゥノーマにはできない発想だ。弱肉強食が前提の森の中の生を肯定していればこそ、ディエドラは侵略者に対して、そこまで根深い遺恨を抱いてはいなかった。そして、戦うのなら、必ずしも殺し合いという一つのステージにこだわることはないのだ。
ヒジリは何も言わず、じっと座っていた。だが、さすがに怒りをおぼえないということはなく、拳を固く握りしめている。
この場の勝ち負けはディエドラのものかもしれないが、しかし、後先を考えてほしい。その分の苛立ちは、俺に跳ね返ってくるんじゃなかろうか。
ところが、少しして顔をあげたヒジリは、うっすらと微笑んでいた。
「なるほど」
そして頷き、優しい声色でディエドラに語りかけた。
「御苦労、お察し申し上げます」
「なに?」
「大森林の奥で暮らしてきたのなら、人間の世界のことは、ほとんど何もご存じなかったことでしょう。そんな中、ピュリスやティンティナブリアで慣れない暮らしをしながら言葉も覚えて、今、帝都までいらっしゃったのです。それもこれも、森の奥にいる同胞達のため。見上げた覚悟です」
それは、確かにその通りだが……
しかし、ヒジリの口調には、何かそれだけではないニュアンスが込められている。
「すべては一族を支えるという使命のため。自らの心を押し殺しての苦難の日々。それを認めないわけには参りません」
この言い方で、やっと理解が追いついた。
一族の未来のために差し出された、哀れな女。別に愛しているわけでもない男のところに送り出されて、異国で苦労ばかり。しかも、種族が違うために子を産むこともできないとなれば。
だが、この言葉にディエドラは目を瞬いた。
「何も押し殺してないぞ」
「はて」
「外に出てきたのも望み通り、ファルスの妻になるのもそうだ」
今度は、俺が目を白黒させる番だった。
「そ、それにしては……今まで、何もなかったじゃないか! てっきり僕は、外に出る口実が欲しくて、そういう立場を受け入れたのかと」
「忘れたのか? ファルス、私にとっての外の世界とは、お前のことだ。お前は私が欲しいものを全部持ってる。乗り越えるべき強さも、見たこともない世界の景色も、私にとっての男も、何もかも」
「最後の一つがおかしい。別に、一度もそれらしいことなんか」
「初めて会った時、お前は十二歳だった。少年だ。男とするには少し早い。今ならそろそろ、ちょうどよくなってきた。待ってただけだ」
理解が追いつかない。
「じゃあ、お前は僕の何が気に入ったんだ。まったくわけがわからないぞ」
「お前こそ、自覚がないのか? わかりやすい方から言ってやろうか。まず、お前は競りに出されていた私を買い取り、命を救った。その後も、逃げていいと自由にしてくれた。アーノに殺されかけた私を庇いもした。お前の世界の当たり前で考えたら、どういう気持ちになると思う」
言われてみれば、俺は彼女の命の恩人ではある。
「しかも、お前は私の敵でもある。二度も力で私を叩き潰した。しかも、二度目は本気だったのに。それでそそられずにいると思うのか」
「それはちょっとよくわからない。叩きのめされて何が嬉しい」
「人間の女も、そこは変わらんだろう? 自分より強い男であることを確かめたのに、どうして惹かれないと思う?」
わかるような、わからないような。
「でも、敵だって」
「すべての女にとって、すべての男は敵だ。その敵が力で自分を押さえつけ、我が物にするから心躍るのだ。だが、一つのことに、二つの心があるのが、そんなにおかしいか? 虎は仕留めた得物相手に喉を鳴らして体を擦りつける。力で抑え込まれた私はお前を憎みながら愛する。一つは二つ、二つは一つ、どちらも私だ。おかしなことは何もない」
イーヴォ・ルーの思想からすれば、それも無理はない話なのかもしれない。ディエドラにとって、闘争と愛は不可分なものなのだろう。
そういえば、人間でもそういうのがいたっけ。とにかく剣でしか心を通わせられない、そういう男が……
それから、ディエドラは脇にいるシャルトゥノーマに振り返った。
「そうだろう?」
「わっ、わわわわ、私は」
やっと今、気付いた。とっくにシャルトゥノーマは顔を真っ赤にしていた。背中を丸めて拳を握り締めている。
「そういうつもりだったんだろう。どうせアンギン村でも、お前みたいな変人娘は貰い手がない。だからこれでいいと長老達も考えた」
「人のことを言えるのか! お前は!」
違いない。どちらも問題児だっただろうことは、想像に難くない。
「ということだ、ヒジリ」
ディエドラは、立ち上がりながら言った。
「ルーの種族は人間と争わない。結構だ。殺し合いはしない。だが、これからは別の戦いをしよう」
それから、俺にも声をかけた。
「今日は帰る。あの別宅にいる。気が向いたらいつでも来い。とっくに私はもう、お前のものだ。じゃあな」
言いたい放題言ってしまうと、彼女は障子を開けて勝手に廊下に出てしまった。慌ててシャルトゥノーマが追いかけ、出口でそっと振り返り、毒気の抜けた顔でこちらの様子を窺った。
二人が去った後、座布団の上で正座したままのヒジリに目をやった。無表情だった。無表情のまま、小刻みに震えていた。
「面白い……面白いですねぇ、旦那様?」
声が、裏返っていた。
「いいでしょう、受けて立ちます、それが戦いということなら……」
そう言いながら、彼女はフラフラと立ち上がり、そして廊下へと出ていった。
一人取り残された俺に、できることは何もなかった。




