幸産み伝説の遺跡にて
晴れ空に薄い雲がかかっていた。淡い青は春の名残を感じさせるが、しかし、遠く西の空を見渡せば、そこには隠しようもない入道雲が身を起こしつつある。涼しさを感じさせるには足りないくらいの微風がたまに揺らぐくらいで、それも離れたところに生えている、丈の低い草花が小さく揺れるから、それとわかるだけ。辺りは静まり返っていた。
遠く離れた草原に、ポツンとアーシンヴァルがただ一頭、のんびりと草を食んでいるのが見えた。そのままでは寛げないだろうと思って、ここに到着してからは、鞍も外してやっている。滅多なことは起きないだろうし、心配はいらない。
そんな俺のすぐ横には、真っ白な鍔の広い帽子を被ったお嬢様が、ただ一人。これまた無言で周囲を見回している。
「あの」
「なぁに?」
「でも、どうしてこんなところへ?」
春先に交わした約束。帝都の案内を引き受けてほしい。その履行はずっと後になってしまった。
それはいい。ただ、どうして出かける先がここなのか。戦勝通りでもなければ、時の箱庭でもない。顕彰記念公園ですらない。
「うんー」
「どう見ても、ここ、遊ぶ場所じゃないですよ」
「ピクニックに行くなら、人気がなくて静かで、空気がきれいなら、どこでもいいんだよ!」
リリアーナは両腕を拡げると、そう言って笑った。それから笑みを収めると、低い声で付け加えた。
「さすがにファルスも、用事がなければ、こんなところには行かなかっただろうと思ったからだよ」
「はい?」
「他の場所はさ」
ビッと人差し指を突きたて、帽子の鍔からその瞳を覗かせながら、彼女は説明した。
「どうせ他の人と行ったことがあるんでしょ? そうでなかったら、普通、案内しないし、できないもんね。このお店がおいしいとか、この場所が休憩するのにちょうどいいとか」
「そもそも、それが案内するってことですから」
「それ! そこがね! でも、そういう場所だったら、別に他の人に教えてもらったっていいと思わない?」
確かに、その場所を知るという目的においては、その通りではある。
「一年、出遅れちゃってるから、ね」
「あの」
「もう、この場所、ファルスが思い出すときには、私と切り離せなくなったもんねー」
要は、そういうことか。他の女との競争を視野に入れたデート。俺の初めてを独占したいという彼女の思いが、この場所を選ばせた。
「ナギアが何か言ってませんでした?」
「猛反対されたよ! でも、ファルスが本当におかしなことするかって言ったら、黙ってた」
「まぁ、そうでしょうね」
「たまには自分の時間を大切にしなさい! って言っておいたよ」
そう言うと、彼女は苦笑いを浮かべた。
ナギアが、俺についての学園内の噂を真に受けているとは思われない。俺がリリアーナ相手に淫らな振る舞いに出るとか、少しも考えてはいないだろう。ただ、自分の目の届かないところにリリアーナが行く、それが気に入らないのだ。だが、現実問題、それのどこがまずいのか、と言われると。安全面で言えば、俺という護衛がいて、なお危険が迫るとすれば、ナギアが居合わせても足手纏いにしかならないだろうし、論理的にリリアーナの選択には、リスクらしいリスクなどない。
要するに、過保護なのだ。
「でも、こんなところ、見て何か楽しいんでしょうか」
「歴史の息吹を感じられるかも、と思ったんだけど」
「あるのは石ばっかりですからね」
俺とリリアーナが今、立っているのは、島の北側にある「幸産みの地」だった。ここに午前中に到着するために、割と早い時間にアーシンヴァルに二人乗りしてやってきた。それでも、もう昼近い。二人でお弁当を食べたら、またすぐ帰ることになる。だが、それくらいでちょうどいいのかもしれない。
石造りの古代の遺跡。それが北側に聳える岩山の麓に取り残されている。大きな円形の、そこまで丈もないステージのようなものがあり、その南北方向に短い階段がある。南側から北側に向けて、昇る方向になっている。南側の階段の下には、かつては石畳の道が設えられていたのだろうが、今では半ば草花に覆われてしまっていた。北側はというと、岩山の間を縫うような通路が続いているように見えるのだが、崖崩れでもあったのか、割と手近なところに大きな岩がつっかえていて、普通に歩いて通るのは難しそうだった。
この、石の円形ステージの真ん中に、ちょうど大きめのベッドくらいの長方形の石の台座が置かれている。南北に長く、東西に短い。
そして、これがこの遺跡のすべてなのだ。あとは何もない。ただ、あとから当局が設置したらしい、小さなコンクリート造りの建物がある。大昔に作ってそのままメンテナンスもされていない状態だが、これがあるとないとでは大違いだった。要はこれ、男女共用のトイレなのだ。水は、脇に置かれた井戸からしか供給されない。いっそ気まずくなるくらいに狭いし汚いし古いのだが、これがなかったら、特にお嬢様は随分と不便な思いをさせられる可能性があった。
「でも、ここ、雨降らないのかな」
「いや、降ってるとは思うんですが」
「だって、全然削れてないじゃん」
例によって、古代の遺跡にありがちなのだが、長年の雨風にもかかわらず、ほとんど劣化らしい劣化が見られない。新品の輝きこそないものの、円形のステージにひび割れなどない。そうでなくても、普通、繰り返し雨にさらされ、排水を繰り返したなら、そのうちに水の流れやすい場所ができて、そこから少しずつ削れていくものだ。それがない。中央の石のベッドみたいなところにも、これといった損傷は見当たらなかった。
「だって、あちらはあんなにボロボロになってるんですし」
「あー……」
「古代の遺跡って、世界中見てきた限りでは、たまにこういうことがあるんですよ」
女神の奇跡というやつだろう。してみると、この場所にも、何か特別な意味があったに違いない。だが、今では誰からも顧みられていない。幽冥魔境の方は、保養地からも近いので観光地化されているが、顕彰記念公園から更に北にあるこの場所は、ほったらかしにされている。千年祭でも、特にスポットライトがあてられることはないらしい。
理由としては、やはり幸産み伝説に纏わるいかがわしい説が、影響しているのだろう。女神教では否定されているが、幸産みには性的儀式が伴っていたという話がある。確かに、この石のベッドがそんな目的で使用されていたとすれば。だからこそ、神殿側としては、この場所に注目してもらいたくないのだろう。
「よいしょっ、と」
リリアーナは、無造作にベッドの上に腰かけた。
「じゃ、お昼食べよっか」
「そうですね」
他にできることもない。見るべきものも見たし、あとは食べて帰るだけ。
持ち込んだバスケットを開ける。中には俺が手作りしてきたサンドウィッチが詰まっていた。陶器でできた水筒も二つ。
「わぁ」
「こんな場所なので、簡単に持ち運びできるものしかご用意できていませんよ」
「私もちょっとくらい、お料理できるようになっておけばよかったかなぁ」
彼女の指が伸び、水筒に触れる。中には氷が詰まっているから、表面は結露している。一応、タオルで覆って外気との接触を妨げて、温度の上昇を食い止めてもいる。
「わっ、冷たっ」
「気に入っていただけるかどうかわかりませんが、中はラテですよ」
「えーっ、あれ、いいよね。苦みはあるんだけど、あとからほんのり甘いから」
側にナギアがいないとあって、お行儀など気をつけもせず、彼女は水筒を取り出し、最初の一杯を遠慮なく口にして、一息ついた。
「はー、おいしい。なんか、最初は慣れない感じだったけど、だんだんおいしさがわかるよね、これ」
「わかりますか」
「うん。これ、売れてるの?」
「それが」
オルヴィータに営業活動を任せているのだが、実は思わしくない。
「そっかー。でもそうなると、やっぱり誰かのお墨付きというか、売れるってことを先に見せつけないとだね。味がわかって、お店のところの料理にどう組み合わせるか、自分の頭で考えられる人って、多分、多くないよ」
「そうですね」
そこは最悪、俺が千年祭でアピールするという手もある。料理部門での出場は決めた。ただ、醤油も一応、香りのレベルでは実戦に出せる品質になってきている。味を突き詰めるなら、もう少し熟成期間が欲しいところだが。和食で勝負か、コーヒーでいくか。今も決め切れてはいない。
「ファルスが最近、悩みがちなのって、それのせい?」
「えっ?」
思いもしなかったことを言われて、俺は顔をあげた。
「なんか暗い顔をしてることが多いなって思ってたから」
「そう、なんですか」
「最初は、私とか……ほら、揉めてたから、そのせいかなって思ってたけど、今は一応仲良くしてるし、じゃあ、何があったのかなって」
顔に出ていたらしい。変に気遣いをさせてしまった。
「お嬢様のせいではないですし、コーヒーのことでもないです」
「うんうん」
「そうじゃなくて……なんて言ったらいいのか」
あの夕暮れ時に、ケクサディブと話し合ったこと。人の営みというものは、より富み栄えるためにと結びあわされていく。だが、その行き着く先はなんだろう?
「帝都……ええと、この島は、本当に自由で豊かで、いいところだと思うんです」
「うん」
「でも、みんなが豊かで自由で、幸せになろうとすればするほど、却って足場がなくなるというか……目指した先にあるものが、これまでの努力の否定だとすればですが、じゃあ、僕らは何のために生きてるんだろうって」
取引が人を豊かにする。だが、その取引が完成した世界とは、潰れた砂の城のようなものだ。不規則な形をした砂山だからこそ、最適化されるべく掘り崩すこともできるのだ。それが全部叩き潰されてしまったら、もう変化の土地はない。下の方に埋まった砂は、永久にそのままだ。
「この場所だし、他に誰もいないだろうから言ってしまいますが、お嬢様も察しているでしょう。僕が普通の人間ではないらしいことは」
「そうだね」
「いろんなものを見てきたんです。いろんな人にも出会いました。素晴らしいものも見てきました。でも、そのすべてが、結局、最後には悲しみにしか繋がらないとしたら、僕らは何のために積み上げるんでしょうか?」
真顔になったリリアーナだったが、すぐに笑みを浮かべた。
「いっつも難しいこと考えるんだねー」
「いつもではないですけどね……僕は、本当にこの世界にやってきてよかったのか、と」
「うーん」
顎に指をあて、彼女は少しだけ考えた。
「私は、ファルスと出会えてよかったけどね」
「そうでしょうか」
「え? だって、ファルスがいなかったら、私、誘拐されておしまいだったでしょ? その前に、家出してた時にも変なおじさんに引っかかってたし」
「ま、まぁ」
そんなこともあったっけ。
「最終的に何がどうなるかなんて、私にはわからないけど。私も私なりに、つらいこともあったし、怖い思いもしてきたよ。ファルスの何分の一かってくらいだけど」
それはそうだ。目の前で母も殺害されている。まだ少女でしかなかった時点で、あの凶賊、アネロスと相対したのだ。
「でもじゃあ、だからって何もかもが最初からなかった方がいいとは思わないけどね。もちろん、今でも嫌なこともあるし、昔のことを思うと苦しかったりもするけど。だけど、やっぱりさ」
彼女の中では、答えは出ているらしい。
「それでも、出会えるっていうのは、きっといいことなんだよ」
そうなのだろう。だからこそ、人々は混じり合う。だが、そのような混淆の末にあるものは……
完成された世界とは、死に絶えるべき世界なのだ。モーン・ナーの裁きが一つの世界を呑み込んで、その後にも無数の世界を食い荒らすに至ったのはなぜなのか。ウィーバルの苛烈な正義というものが、いったいどんなものだったのかは、俺には知る余地もない。だが、開かれた取引の果てに最適化された世界は、確かにたった一つの正義に縛られた、最適化し終えた場所であることは間違いない。
「遠くを見過ぎてるんじゃないかな」
「そうかもしれません」
「でも、私達には今、目の前の景色しか見えてないんだよ」
そうかもしれない。
「いっただきまーす」
そう言いながら、彼女はサンドウィッチに手を伸ばした。それは正しい選択だった。確かに、今考えるべきは、目の前のそれを味わうことなのだから。




