隠者の絶望
時計の長針が真上を指し示した。午後七時。
さすがにこの時間になると、部屋の中も屋外も暗くなる。ケクサディブは頭を掻きながら億劫そうに部屋の隅に向かい、そこにあった燭台に灯りを点した。
「普段はあまり夜更かしもせんのでな。灯りをつける日もそんなにない。仕事をするか、外で酒でも飲むか、そうでなければ、帰って寝るだけじゃからな」
「なかなかきれいで居心地のよさそうなお部屋なのに、もったいないですね」
「無駄に広いじゃろ、ここ」
それで察した。ケクサディブはこれまで未婚独身で通してきた。家族のために広い家を確保する理由がない。ということは、ここはもともと彼の住処ではなかった。
「サラトンの奴がな」
「あぁ」
俺は思わず目元を覆った。これはひどい。つまりここは、彼が妻子と暮らすために買った分譲マンションなのだ。
「じゃあ、それまでどこで暮らしていたんですか」
「うん? 学園の講師になって間もない頃は、オンボロの寮から通っておったよ。だが、ある時点でもう、頑張って学んだり働いたりする理由もなくなって。それで今、サラトンが暮らしているところに引きこもって、仕事もやめて、寝そべっておったんじゃ」
なぜそこまで……
いや、それ以前に。
「ということは、サラトンさんが例の件で離婚して、もう一人暮らしだし広い家もいらないからってここを放り出した時に、代わりに入居したってことじゃないですか」
「簡単に言うと、そうなるな」
「何が『家賃を払え』ですか。あのボロ屋と比べたら、ここは宮殿みたいなものですよ」
「わしは家賃を払っておるからな? わしも一人だし、こんな広いところはいらんかったのに、わざわざここの権利を買い取って、あいつの生活費になるようにしてやったんじゃ」
とすると、それはそれでいいとして。
この前も少し気になっていた。では、ケクサディブはなぜ、スラムに引きこもろうとしていたのか。
「顔に書いてあるよ。なぜわしがあんなところで暮らそうとしていたのかと」
「だって、当時二十代とか、少なくとも三十歳前の若さでしょう? 何をそんなに悲観していたんですか」
「ん? 片思いの女性にフラレてね」
「え!? そんな理由で?」
「はは、半分冗談だ。君と同じだよ」
少しだけ残っていたカフェオレを一気飲みすると、彼は静かに語りだした。
「この世界に絶望したのさ」
ソファの上で足を組み、ゆったりと凭れながら、ケクサディブは言った。
「あの頃も、帝都は今とそっくりだった。なぁファルス君、君から見て、帝都の人間は、どんな風に見える?」
「どう、と言われても」
「コーザ君みたいなのが大勢いる。少し頭の出来が良くても、わしみたいな軟弱者がゴロゴロしておる。率直に言って、大陸の厳しい社会でやっていけるようなのは、そうはおらん」
それはそうだと思う。なるほど、ティンティナブリアの田舎にいる農民は、帝都の市民ほどの教養はないが、しかし彼らは、地に足のついた暮らしを営む力ならある。畑を耕し、周囲の自然環境から手に入るもので日々の生活に必要な道具を作り出し、家庭を築いて子供達を産み育てている。帝都の人々は、これらをどれ一つとして、自前ではまともにこなしていない。食料はインセリアから輸入し、道具は工場で生産するものの、そこで働く職工は、自分の担当する工程しか把握していない。そして何より、結婚もしなければ子供も持たないのばかり。一部が子を残すが、その世話はシッター任せだ。
「では、ここで問いたいのだが、わしら帝都の男というのは、なぜこんなに弱虫なのかのう? わしらが生まれつきの出来損ないだからなのかのう?」
「そんなはずはないと思いますが、恵まれていると、甘えが出るということはあるかと」
「本当にそうかね? では何か、帝都の過酷な受験戦争に負けたコーザ君は、そんなに見どころのない若者だと、そう言い切れるかね?」
そう問われると、俺としても少し考えないわけにはいかなかった。
人形の迷宮での彼は、まさに弱虫そのものだった。だが、それだけをもって、彼が完全に無能で幼稚でどうしようもない奴だった、と片付けるのは、今となっては早計なように思われるのだ。というのも、帝都で再会したコーザは、なるほど、取り立てて有能ということはなかったが、しっかり環境に適応していた。養老院の班長の仕事も問題なくこなしていたし、サラトンの説明もすんなり理解できていた。もし、あそこにティンティナブリア出身の普通の農夫を連れてきても、同じように彼の話を咀嚼するなど、できるはずもない。
大陸のが過酷で、帝都は楽。それは俺の思い込みではないか? 苦労の質が違うだけではないのか。
なるほど、確かに帝都では滅多に飢えることはないし、戦争のリスクも限りなく低い。だが、生存競争がないのでもない。コーザのように、生まれつきの財産もなく、受験でも勝てない男は、私有財産も結婚も諦めて女神神殿の下っ端として働くか、女神挺身隊の活動に参加して死のリスクをとるか、移民相当の身分を受け入れるかになる。そのいずれを選んだとしても、その先に待っているのは、実質的な死だ。なぜなら彼らのほとんどは結婚できないし、子孫ももてない。そして、裕福になる機会もないから、幸福感を得るのも難しい。
要するに、平和な帝都であっても、時として戦乱に見舞われる大陸側と同様、善人も悪人もいて、有能なのも、無能なのもいるのだ。ただ、伸ばしたスキルセットが異なるだけで、そこに質的な差があるのではない。
「仮にコーザが……そうですね、フォレスティアの田舎に生まれていたら、多分、平凡な農民として、ごく普通の人生を送ったんじゃないか、という気はします」
俺というイレギュラーに遭遇しなかったとしたら、きっとそういう、ありがちな生き方をしていたことだろう。
「そうだろうな。君とわしにしたところで、その、君の特別な例の力を別とすれば、そんなに差はない。人間なんて大半はドングリの背比べだ。つまり、帝都の人間が特別に劣っているのではない。ただ、社会のありようが違う」
「どう違うのが問題なのでしょうか」
「それはこの前、金儲けのコツを教えた時に話したと思うがね」
それで俺は、彼の話したことを反芻してみた。
『君がティンティナブリアの普通の農民だとしたら。今からお金持ちになろうとしたら、どんな努力をするかね?』
『君が帝都に移住したシュライ系移民だったら、どうするかね?』
俺の領地のようなド田舎であれば、とにかくモノがない。だから生産すれば即売れる。農作物に限らず、どんなもので商売するにせよ、それがまともな品で、かつ現地に需要がある限りは、実入りがないということはない。だが、帝都のように、既にありとあらゆるモノが出揃っていて、消費者の側に多くの選択肢が与えられてしまっている中では、ただ生産した品を持ち込んだくらいでは、そこまで儲かったりしない。
なぜなら、どんな分野にせよ、とっくに専門家がいて、役割分担もほぼ決まってしまっているから。例えば、既に紅茶を供する飲食店は、帝都の街中に乱立している。そんな中に、無策でまた喫茶店を開きますといったところで、客など来ない。
同じ理由で、頑張って働くことの価値も薄い。ガチガチに役割分担が確定している社会で仕事を貰う場合、ほとんど下請けとか、雇われの仕事になる。なぜなら、もうおいしいポジションは先に占められてしまっているから。その場合、見返りを決めるのは自分の労働量ではなく、発注元の都合になる。努力がそのまま賃金に反映されることは稀だ。
「以前に話した時には、ギャンブルしかないと言ったね。意味を作り出して、それを受け入れる人を増やせばいいと。でも、実はもっと一般的で、よく行われていて、より確かな方法があるんだよ」
「そうなんですか? いえ」
「そう、これも既に話してあったはずだな。割のいい投資の話は、みんな金持ちのところにまず持ち込まれる。要するに、これから頑張って働いても、後発組にしか入れない。既に所有していること、これこそが何より重要になってくる」
つまり、実際の労働より、過去の労働の成果で得た地位や財産が、より多くの見返りを与えてくれる。その意味において、未来の労働は、未来のお金のように価値がない。
そういえば、前世で聞いたことがある気がする。世界全体で見ると、物価上昇率より資本による収益率の方が高いという話だ。働いて得る利益では、既にある資本を投資することで齎される利益に追いつけないらしい。
「だが、こんな回りくどい話をしなくても、直感的にわかるのではないかね。タンディラール王の跡を引き継げるのはグラーブ君だけだ。もし他の誰かがそこに座ろうと思ったら、恐ろしいほどの手間をかけて戦い続けなくてはいけなくなるよ」
「そう、ですね」
「要するに、辺境が開拓され、街が豊かになり、いろんな不足が埋め合わされて便利になって。社会が完成に近づくと同時に、そこは多くの人にとって、急速に生きづらいものになっていく。帝都のような、何もかもがある街には、しかし、重要なものが残されていない。新参者の取り分と、信用という名の通貨だ。わかるかね?」
前者については、これまで話してきたことだ。そして、後者についても、俺はアイドゥスからヒントを貰っている。
「何もかもがあるってことは、つまり、顔の見えない人間同士の協調が最大化されているということですから……取引は、小さな昔ながらの社会の中での、信用で成り立っていたようなものではなくて」
「そう、専ら金貨でやり取りされる取引になる。田舎では、そうはいかないだろう? あれは、その村に住む誰かなら、他の誰かのほとんどすべての資産を活用する権利を与えられる。と同時に、自分の全ても村の仲間に明け渡さないといけない性質のものだ。だが、お互いの顔の見えない大規模な社会には適さない。だから、古い社会は死に、金で一切が解決される社会に置き換えられる」
「そうなると」
前世の俺の惨めさを思い出さないわけにはいかない。
「持たざる者は、どこまでも搾取される」
「そうさ。帝都の移民と同じことになる。どれだけ頑張っても、貧しい暮らしから抜け出せない」
「そんなの、やってられないですね」
ケクサディブは頷いた。
「そういう時のために、女神様がいるのさ。善良なる者は、死後、天幻仙境に招かれるであろう……」
「ただでさえ枯渇した信用という通貨の、それって要は、踏み倒しって奴ですよね」
「個人で言えば、そうだね。はっきり言うと、お金にせよ、社会にせよ、こんなものはただのネズミ講なんだよ。いつか未来に払い戻しがありますってことで、その場をやり繰りしているだけなんだからね。ただ、仮に君が貧しい小作人のまま生涯を終えるとしても、君の子供には未来が残される。君の子供も小作農で、割に合わない人生を送る。だが、そのまた子供に……」
「貸し、貸し、貸し……」
だが、そこでまた、気付いてしまう。
「でも、その話はコーザには当てはめられないですよね。少なくとも、彼には今、妻もいないし、そうなりそうな女性もいない。だから子供も持てません」
「そこだよ。さっき、労働は所有に及ばないという話をしたばかりなんだが、いよいよここで女の話になるんだ」
足を組み直し、彼は続けた。
「労働とは、価値あるものを働いて得ることだ。しかし、所有は既に価値を有していることを意味する。ではここに、期間限定で所有を齎す何かがあるとすれば、どうだろう?」
さすがにこれでわからないということはない。
「女の若さ、ですね」
「性的な魅力もさりながら、子供を産める時期というものも限られる。これは貴重この上ない。だから帝都のみならず、大陸であっても、基本的には女性を守る文化があるはずだ。ただ、それは同時に抑圧でもある。なにせ大陸には辺境がたくさんあるからね。生きるために厳しい労働に耐えねばならない大陸の、特に農村部では、力仕事に防衛にと、あちこちで大活躍の男達の値打ちは、決して低くない。だから男性を家長とする家族制度が成り立つ。だが、帝都では」
自然との戦いもなく、外国の軍隊や魔物に脅かされることもない。農作業さえ、チーレム島全体の食糧生産を賄いきれるほどには行われておらず、多くを東方大陸からの輸入に頼っている。ただでさえ力仕事の比重が低い。しかも帝都の社会は成熟しきっている。
「少し考えてみたまえ。帝都では、この前サラトンが指摘していたように、とにかく女性の権利が強い。進学や就職にも女性専用枠がある。離婚となれば子供の親権は自動的に母親のもの。それでいて元夫は養育費から逃れられない。どうしてこんなことになるんだろうね? 表向きの説明では、そしてマホ君みたいなのが信じているのは、女性が抑圧されているから、制度の力で守る必要があるのだということになっているのだが」
「逆、ということですね。単に女性のが価値が高いから」
「その通り」
労働力としての価値には、決定的な差が出ない。帝都では、力仕事は貧しい移民のものだ。無論、オフィスでの長時間労働となれば、そこはやはり体力に勝る男性の方が有利だが、それだけでは、女性が生得的に有している所有価値を上回るには至らないのだ。大陸の辺境のように、未成熟な社会と物理的な脅威がない以上、女性の価値は男性のそれを圧倒する。
「単に強者だから、我儘が通るだけなんだ。この点、人間の醜さに大差はない。大陸の方だって、家長の権利を濫用する男くらい、いると思うからね。だが、ここは帝都だ。帝都では、女性こそ強者だ。そして彼女らは、自分より優れた男性しか愛せない。その辺はサラトンが説明してくれたね。あとはマホ君もか。だから、女性の総意として、コーザ君には結婚を諦めて欲しいわけだ。しかし」
ここで、貸しの連鎖が途切れることになる。
「割に合わない人生も、我が子に希望を託せるから許してきたというのに、それがここで断ち切られる。とすれば、コーザ君の立場では、どんな気持ちになるだろうね?」
「取引が……成立しなくなる」
「それも多面的に、ね。頑張って働いても安い給料で、苦労には見合わない。愛する子供達に希望を託すこともできない。我慢だけさせられて、高い税金も取られて、その上、侮辱まで浴びせられるんだ。もう、帝都という社会に参加することの理由がなくなってしまう。この点、まだコーザ君は半分公務員みたいなものだからいいけど、移民の身分に落とされた男達からすれば、本当に帝都なんか、ほとんど自分を奴隷にする敵国と変わらない。それなのに」
ケクサディブは首を振った。
「理想を、建前を好んで口にする……まさに社会の恩恵に浴している側の人々は、そのことを軽く見るんだ。マホ君もそうだが、他のみんなも、実はうっすらそうなのさ。だって、そうでなきゃ、引っかかったりしないだろう? あんな貸し切り馬車の罠なんかに」
確かにそうだ。あの時はたまたま、前日に俺の中で何かが閃いて、どういうわけかジョイスを学園の正門に配置したから、最悪の事態を回避できた。いや……
俺だから、無意識のうちに察知していたのだ。強者は弱者を使役する時、まるで道具や家畜であるかのように扱う。御者の顔なんか、じっくり見たりなんかしない。だが、俺にはあちら側の心もわかってしまう。
「その意味では、ティルノックが起こした事件というのは、水面下に潜む危機の、ほんの一部でしかないのだろうと思っておるよ。だが、多分、しばらくすればみんな、事件のことをほとんど忘れてしまうのだろうけれどもね。反省なんて、できっこないんだ。だって……彼ら弱者につらい仕事、それでいて本当はなくてはならない役目を押し付けつつ、それを買い叩くのでなければ、自分達が豊かな、恵まれた暮らしを続けるなんて、無理だから」
そう考えると、これはかなり気持ち悪い構図になる。
帝都の正義と理想を声高に語る側こそが、最悪の圧制者になる。タンディラールの話を思い出す。自由と平等こそが、新たな不自由と不平等を作り出す。しかもそれには、歯止めをかける装置すらない。下手をすると、封建国家より過酷な搾取が引き起こされる。なぜなら、王統を信用によっている王国とは違って、帝都ではすべてが金貨で決まるからだ。
そして、金貨は金貨のある方へと吸い寄せられていく。有望な投資の提案は、まず北東部の大富豪のところに持ちかけられる。貧しければ貧しいほど、豊かであれば豊かであるほど、そちらの方向へと加速度的に押し流されていき、階層はもはやきれいに分断されて、交わることがない。
そうしてお金が集まって、集まって……流れが滞った先にあるのは、なんだろう?
「取引そのものが……死ぬ?」
十年前、ミルークが俺に言ったことだ。まさかそんなことが現実にあるわけがない。あまりに極端な話ではないか。あの時は、そう思わないでもなかった。だが、今にして思えば、彼もまた帝都を目にした一人なのだ。
実際、コーザの取引は死にかけている。彼の債権は回収されない。踏み倒されようとしている。
「でも、どうにかならないんでしょうか」
「ふむ?」
「例えば、コーザは……すべてを諦めるしかないんでしょうか。たとえ裕福でなくても、愛する誰かがいれば、人生は無にならずに済むのに」
彼はしばらく、じっと俺の顔を見た。
「帝都のような世界では、それこそが最も困難なのだよ」
> 世界全体で見ると、物価上昇率より資本による収益率の方が高いという話
異世界に転生して十年以上も経ったファルス君がピケティのことを明確に覚えているのも変な話なので、ぼかして書くしかなく……




