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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第四十九章 釘打ち事件
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彼にとっての最善の選択

 風を通すために窓は少しだけ開けてあるが、レースのカーテンはかけられたまま。初夏の気配がするこの頃は、蒸し暑さを感じることが多くなってきた。こんな日には、革張りの立派なソファが恨めしくなる。座っているだけで汗ばんできそうだ。足元の絨毯も余計だ。季節に合わせて内装を入れ替えてもいいと思うのだが、この執務室、普段はそんなに使っていないらしく、そんな手間をかける意味も見いだせないのだろう。


「今回は無理を言って済まなかったわね」

「いいえ。それだけの事件でしたよ」

「ええ」


 フシャーナは、机の上に両肘をつき、そこに凭れかかった。気怠さと憂鬱さが滲み出ていた。


「幸いにして、留学生の犠牲者はゼロ。私のクビも繋がったけど、勝ち負けでいったら惨敗としか言いようがない結果だと思う」

「最終的には、どうなったんですか」


 うんざりした、と言わんばかりの溜息の後に、彼女は被害の程度を説明した。


「帝立学園の女子学生が、追加で更に三名も死亡。他、他大学の女子学生も六名が亡くなっているわ。でも、まったく無関係の女性も七名。だから、最初の犠牲者と合わせて、二十三名の死者が出たことに」

「帝都の普段の治安からすれば、大惨事ですね」

「全部が全部、ティルノックの仕出かしたことではないんでしょうけどね。殺し方にも違いがあったし、やり方を真似ただけの模倣犯が実際にいたみたいだから」


 片手をひらひらさせながら、フシャーナはその他の被害についても言及した。


「それに、市内の公共施設も、あちこち破壊されたみたいだから。ティルノックとしては、ただ路上で騒いでほしいだけで金貨を配ったんだろうけど……貸し切り馬車に女子学生を追い込むためにね……依頼された側の連中が、逆に興奮を抑えられなかったのね。公園のトイレとか、床のタイルが破損していたそうよ。それに、設置してあった彫像やベンチなんかも、軒並み被害に遭ってる」

「ああ……」


 以前、コーザに教えてもらったことを思い出す。貧しい移民は普段、スラムに留まっていて、市内に出てくることはない。もし仕事の場が市内にあっても、夜にはラギ川南岸に引き返す。北岸の市街地には、ホームレスが横になれるような場所がないから。そのような意図をもって公共施設を整備してあるから。

 この機会に少しでも恨みを晴らしたくて、そうした破壊活動に出たのもいたのだろう。


「逮捕者も五名ほど出たけど、全員捕まえたとは到底言えない。当局としては、大失態としか言いようがない結末になった」

「最後の最後で、余計なことを言われなければ」

「あのバカ、テルゴブチは降格処分だそうよ。当然だけど」

「せっかく主犯を追い詰めたのに、あれじゃあ逃げられたも同然ですからね」


 俺があの場に残っていれば、自殺さえさせなかった。力魔術で無理やり引っ張り込んで取り押さえれば、簡単だったのに。手柄と見栄に拘ったせいで、彼が自分の口封じのために自殺するのを防げなかった。要するにあの女は、最初から最後まで、邪魔にしかならなかった。


「そういえば」

「なにかしら」

「あの……ティルノックが言ってました。冤罪ですべてを失った男がいる、と。何の恨みがあったのかは、学園長に訊けと」


 そう言われて、フシャーナは一瞬、動きを止めた。それから、深い深い溜息をついた。


「疑惑はあったけど、そういうことだったのね」

「というと、やっぱり何かご存じなんですか」

「ティルノックは、かつて帝立学園の学生だったの」


 真面目な上に成績優秀で、学びに倦むということがなかった。当時、学園が有していた研究室の内定枠は一つ。彼はその枠を勝ち取って、大学に残ることを希望していた。だが、そんな向学心溢れる青年が、不祥事を起こしてしまった。女子学生を、当時、ほとんど使われていなかった調理室に連れ込み、性的な嫌がらせをしたとして、告発されたのだ。

 学園の教授達は、この件で話し合った。だが、当時は前学園長の時代で、クレイン教授の派閥が大きな力を得ていた時期でもあり、その主張が通りやすかった。その女子学生は、派閥と近しい関係だったこともあり、告発は信用できると看做された。そして加害者とされたティルノックには、厳しい処分が下された。


「性暴力で前科がついた上に、当然、学園は退学。みなし市民権も失ったのよ」


 それからの彼については、まだ帝都防衛隊が経歴を洗っているところではある。ただ、ティルノックは市民権の獲得に成功していた。自ら女神挺身隊に参加することを希望し、彼はムーアン大沼沢の南側で、三年間に渡って魔物相手に戦い続けた。同期の仲間達は次々沼地の毒にやられて死んでいったが、知識もあり、身を護る術を得ていた彼は、なんとか生き延びた。

 しかし、そうして帝都に舞い戻ったところで、それは市民権を得ただけの元犯罪者だった。恐らくは名誉回復を求めていたのだろうが、その試みはうまくいかなかった。こうして彼は、移民労働者の間に混じって三十年以上、底辺の肉体労働者として、スラム街の片隅で暮らした。

 そんな彼が、ついに牙を剥いたのは、先日の暴動のせいだった。労働者の環境改善を訴えた仲間が命を落としたのだ。これを口封じと受け止めた彼は、ついに帝都という秩序に対して反逆することにした。


「あの、その被害に遭った女子学生というのは、もしかして」

「そう、アルダ・ジノモック」

「そりゃ殺されるわけです」


 ティルノックは、学園で学んだ基本的な水魔術をうまく活用したらしい。目立たないように小舟を転覆させてから、川の底に潜って『水中呼吸』で溺死を防ぎつつ、四万枚もの金貨を運搬した。ジノモック教授を殺害する際には、外部の配管工を呼び込むため、水道管を凍らせて一時的に流れを悪くした。あとは配管工と同じ作業着を身につけて、堂々と敷地内に入ればよかった。


「彼は、どうすればよかったんでしょうね」

「わからないわ。合理的に考えれば、帝都なんか捨てて、どこか遠くの国で活躍するのがよかったんでしょうけど」

「それが受け入れがたかったんでしょう。やってもいないことで罪人扱いされて、帝都から逃げ出さなきゃいけないなんて」


 彼はあくまで秩序の中で自分が認められることを求めていたに違いない。だが、だからこそ、それを捨て去った時には、自分の行為を『犯罪』と看做されることを拒否した。秩序は彼を最後まで拒んだのだから。殺されるのは構わなかった。それは帝都という敵を相手に、自分が戦死するだけのこと。だが、犯罪者として裁かれるなど、決して許せなかった。


「せめて一握りの名誉があれば、報いがあれば、思いとどまったかもしれなかった。でも、今から考えても、もう手遅れなんでしょう」


 それで話を終えたフシャーナは、手続きについて口にした。


「今回の協力者については、もちろん、ちゃんと手続きしておくわ。それぞれ謝礼を支払う件は、今月中に済ませておくから」

「お願いします」


 話は終わった。それで俺はソファから立ち上がった。


「見届けに行くのね?」

「はい」


 もう一箇所、この事件を終わらせるために、行くべきところがあった。


 帝都防衛隊の駐屯地。入口で名前を告げると、少し待たされた後に、すぐフェン大尉が迎えに来た。


「済まないな。本来、君の仕事などではないのに」

「いえ」


 返事をしながらも、俺は暗い気分だった。


「わかる。わかるよ。正義の側に立つべき我々だが、常に正しい振る舞いをできるとは限らない。それでも、常に正しくあろうとするべきなんだ。そして、正しいことのために正しくない手段を用いることもまた、許されない」

「正直、何も言わずに済ませた方がよかったのかもしれないとも思ってます。でも、僕は本当のことを告げてしまった。だから」

「その罪は、私のものだ。誰が何と言おうと、私のせいだ。自分を責めず、この私を責めてくれ」


 薄暗い廊下を抜け、俺達はあの面会用の部屋に到着した。それからしばらくして、金網に仕切られた向こう側の扉が開き、そこから一人の元兵士が現れた。彼は上目遣いで俺とフェン大尉を見比べてから、弱々しい足取りで前に進み、沈んだ声で言った。


「来てくださったんですね」

「なぜこんなことをしてしまったんだ」


 一連の殺人の起点。最初に殺害された女性は、ハンの妻だった。


「申し訳ありません」

「謝罪なんかいい。理由を訊いている」


 フェン大尉の怒りには、深い悲しみが滲み出ていた。

 ハンにとっては不運としか言いようがない。俺にせよ、ジョイスにせよ、それぞれ内心を覗き見る能力を備えている。そういう怪物と運悪く接点を持ったりしなければ、今回の犯行は見抜かれずに済んだのだ。


「やらずには済まなかったんです」

「妻に裏切られたことが、そんなに許せなかったのか」


 この一言に、ハンは金網に縋りつき、激しく揺らした。


「そんなことじゃ……そんなことなんかじゃ、ありません!」


 既に調べはついている。ハンがティルノックと知り合ったのは、例の暴動が起きた時だ。ティルノックはこの時、防衛隊の兵士達によって取り押さえられ、拘置所に送り込まれた。その際、見張りを務めていたハンと会話した。とはいえ、お互いの顔と名前は覚えたものの、ここで彼らが気心を通じ合ったのではない。

 だがその後、ハンの家庭では決定的な事件が起きた。


「信じられますか? 母親が、我が子に! わざわざ熱湯を浴びせて痛めつけるなんて!」


 ハンはその虐待の事実に、しばらく気付けなかった。夜勤もある防衛隊員だ。家でのんびりできる時間は多くない。だが、袖口から覗く火傷の痕を見た時、彼の中で何かが弾けた。


「浮気されてたことは、前々から察してました。でも、それは私がろくに家に帰らなかったから。うだつが上がらないただの兵士でしかないから。自分だけ我慢すれば済むと思っていたんです。でも、これは許せなかった」


 息子への、明らかに教育的指導というレベルを超えた折檻に、ハンは怒り狂った。だが、妻の反撃は想定以上に恐ろしいものだった。


「なのに、妻は息子を連れて家を出たんですよ? もちろん、訴え出ました。あんな風に我が子を痛めつける女が、子供の保護者であっていいはずがない。なのに裁判所は、親権は母親にと言うばかり。それどころか、私には接近禁止命令まで下されました。どうすればいいんですか。私の目の届かないところで、いつ息子が傷つけられるかもわからないのに、何もできないなんて」


 ハンにできることはなかった。妻子のいなくなった自宅はあまりに広すぎた。我が家の沈黙に耐えられなくなった彼は一人、街に彷徨い出て安酒をかっ食らった。贅沢する金の持ち合わせなど、そもそもなかったという事情もある。そこは、移民相当の身分の人々が利用する居酒屋でもあった。

 安月給とはいえ、公務員。恐らく、ハンは周囲から浮いていたのだろう。程なく、その存在はティルノックの知るところとなった。


「あの爺さんは……言ったんですよ。もしお前が望むのなら、もう一度、息子と暮らせるようにしてやると。こちらの希望に沿ってくれるのなら、すべてに優先してお前の願いを叶えてやろうと」


 悪魔の誘惑だった。仮にもハンは、帝都の治安を守るべき防衛隊員だ。だが、親権を握る虐待者を葬り去れば、自分が息子を保護できる。


「教えてください。大尉、私はどうすればよかったんですか? 息子を見殺しにすればよかったんでしょうか?」


 ハンの選択は、もう一度息子と一緒に暮らすことだった。


 最初にハンの息子を取り返すというミッションを成し遂げたティルノックの次の標的は、若き日の復讐を果たすことだった。そこにハンは協力した。ジノモック教授の個室に潜入するため、ティルノックは上水道の不具合を演出したが、問題は脱出にあった。だが、これも簡単だったのだ。ハンがこっそり、帝都防衛隊の制服を受け渡したから。寮の守衛も、門を駆け抜けていく兵士を見咎めたりはしない。

 エオが用意した似顔絵が出回った時にも、ハンは役立った。最初から使い捨てにするつもりだったとはいえ、矢面に立たせた娼婦の身元が明らかにされかねない。その事実を伝えられたティルノックは、迅速に手を打った。

 思えば、この情報伝達が被害を拡大させたのだ。復讐のために残された時間は決して多くはない。それで彼はリスクをとって、同じくチュンチェン区の工事現場で不満を共有していた男達を仲間に引き入れた。彼らにはティルノックのようなポリシーはなかったから、拉致した女子学生達に対して、自分の欲望をぶつけるのは自然な成り行きだった。


「だが、それでもお前は愚かな選択をしたんだ」


 目を伏せて、大尉は言った。


「息子の母が殺され、父は犯罪者だ。これだけのことをした以上、お前はもう」

「死刑ですか?」


 大尉は、何も言えなかった。


「それの何が問題なんですか」


 一方、ハンは饒舌だった。


「どうせ、あの時何もしなかったら……息子は虐め殺されていたかもしれなかった。それに、そうでなくても、私は息子に会う権利さえなかったんです。我が子といられる時間は、ただの一日も与えられなかった。そんなの、生きていても死んでるのと同じじゃないですか。それがどうです」


 取引が、成り立ってしまっていた。ハンにとっては、帝都の歪な秩序より、ティルノックの逸脱の方が、都合がよくなってしまっていたのだ。


「彼の言う通りにしたおかげで……息子を暴力から守れた。ほんの僅かな間だけでも、一緒に過ごせた。だから、よかったんです。これでよかった。これが一番よかったんだ……そうでしょう?」


 面会室の壁に、彼の悲しげな声が吸い込まれていった。


「……そうに決まってる」

なお、2025/01/06から外伝をFANBOXで連載開始しています。

初回は全体公開なので、どなたでも目を通していただけます。


https://ochikakeru.fanbox.cc/posts/8932310

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― 新着の感想 ―
帝都の裁判って弁護士制度はあるんでしょうか 虐待母親相手に親権取れないって弁護士の腕の問題なのか社会の風潮の問題なのか… ハンさんの選択は子供が孤児院で育った方がマシなくらい虐待されていたなら正しい…
ハン・ホーの名前をタイ・ホーにしましょう
惨いのお、ハンの息子が真っ当に生きられれば良いが…。
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