時計台の啓示
透明なガラス窓の向こうには、遮るもののない青空。すぐ下には街並みが広がっているのだが、家々の丈が低いのもあって、とにかく空が広く見える。その空を切り刻むものといったら、道路の向こう側に突き立つ時計台だけ。まばらに植えられている街路樹は、少々気怠げだった。このところ、雨が少ないせいかもしれない。
陶器の擦れ合う音が、俺の意識を引き戻した。
「私にとっては、ちょっとした幸運になってしまいました。ファルス様のお悩みは深くなったようですけれども」
帝都の北東部、あの顕彰記念公園にも近い、閑静な住宅街。その一角に佇む喫茶店で、俺はソフィアと向かい合っていた。
今日はたまたまヒメノに用事があり、帰宅時の俺を待ち構えていたのは、ソフィアしかいなかった。それで彼女はこれ幸いと、彼女専用の馬車で、俺を午後のお茶へと誘ったのだ。
「いや、僕が悪いのかもしれない」
「そうですか?」
「誰にでもいい顔をして、曖昧な態度をとっているから」
彼女は頷きつつ、俺の言葉を否定した。
「私はそうは考えません」
「なぜ?」
「ファルス様は、実利を得ようとなさっていませんし、また実際に得ておられないからです」
そう言ってから、彼女は笑みを深くした。
「リリアーナ様が見抜いたのと同じことを、私も考えていましたから。一昨年の夏に、ファルス様がワノノマの皇女様と婚約なさったと耳にした時には、さすがに驚きましたけれども。ですけれど、その後、ティンティナブリアの領主になられたことなど、続報が届くうちに、同じ結論に至りました」
不死を追い求めて旅をしている間にも、彼女らはそれぞれ、俺のことを忘れていなかったのだ。俺の方では、不死を得たら、そのまま永久に眠るつもりだったのに。
「私でさえ衝撃を受けましたからね」
「なんか、申し訳ない」
「いいえ? 私の心は私のものですよ、ファルス様」
「余計に申し訳なくなった」
俺の間の抜けた答えに、彼女は小さく笑った。
「私も似通った立場ですけど、リリアーナ様からすれば、なくしたものが大きい分、つらい思いをなさっておいでなのだと」
「まぁ……」
「ファルス様が旅に出ず、ずっと傍にいてくれれば。でも、それも叶わない願いというのも、わかっておいでだと考えます」
そこにジレンマがある。リリアーナの態度から、彼女が俺をヒジリから略奪しようと考えていたのは、ほぼ自明だ。しかし、そもそも彼女の願い、つまりファルスを自分のものにするという未来は、俺が彼女の従僕であり続けていたなら、絶対に実現できなかった。旅に出て、武功をあげて、貴族となって、初めてその可能性が生じたのだ。
「貴族同士の結婚で、心の通ったものなんて、そうそうあるものではありませんから……できることなら、と夢を見るのは、私も同じですし」
「なんとも話しにくくなるんだけど、その」
「こういう時は、セリパス教も悪くないと感じます。感情はそれ自体、絵の具のようなもので、これがなければ彩りもありません。ですけれども、それを紙の上に広げる時には、しっかりと下書きの線に沿って、溢れさせることなく筆を置くべきなのです」
彼女は顔をあげた。
「私がもし、節度もなく、ただただ自分の思いに振り回されていたら。きっとファルス様は私を気遣うために、ご自分を抑えて、表情を取り繕い、言葉を選んでいらっしゃったに違いありません」
逆説的なお話だ。まるで相手との距離を空けるかのような、節制された態度こそが、むしろその相手と心を通い合わせるのに役立つとは。けれども、そんなものかもしれない。全力で相手を抱きしめているとき、その人の顔を見ることはできないのだ。
「少しだけ、待ってあげてみてはいかがでしょうか。リリアーナ様も、ファルス様のことが大切でないはずはありません。そのファルス様が許しを与えて欲しいと望んでいらっしゃるのですから、そのうちに折れてくださるのではないかと」
「その件でも、少し悩んでいて」
果たして、俺がウィーにしたことは、間違っていたのだろうか?
「やっぱり、僕が彼女を救おうとしたのは、依怙贔屓でしかなかったんだろうかと」
「はい、依怙贔屓ですね」
本当に、ソフィアは歯に衣着せない。それでいて表情は穏やかそのもの。誰に似たのだろうか。
俺は溜息をついた。
「サラトンさんなら、今の僕の状況をなんて言うんだろうか」
「そうですね……」
大勢の女と関わって、その狭間で頭を抱えているなんて。詳細に説明したら、大笑いされそうだ。
「ファルス様は今、いろんなことが一度に頭の中に入ってきて、迷われている状態なのでしょうね」
「そうかもしれない」
「そうでもなければ、こんな風にはなりません。本来なら、ファルス様はもっとお強い方ですし、それに熟慮を重ねた上での答えを既に持っていらっしゃいます。今はその、答えを探しておいでのところなのかなとみています」
それから紅茶を一口。一息ついてから、彼女は続けた。
「私が思うに、そのサラトン様という方は、大変に清い心の持ち主なのかなと」
「清い?」
「ええ。そうとしか言いようがありません。ほとんどセリパス教の僧侶のようなお方だと、そう受け止めました。だって、そうではありませんか。ご自身の欲望ですとか、生存といったものより、秩序を求めておいでなのですから」
言われてみれば、そうかもしれない。彼は女という混沌を忌み嫌っていたのだから。
「ですが、その公平というもの、果たして実体はあるのでしょうか」
「というと?」
「平等ならわかりやすいのです。例えば、帝都の市民なら一律、五十歳以上になったら年金として毎月金貨十枚を与えます……これが結果としての平等です。それに対して、機会の平等もありますね。男女問わず、二十歳以上であれば、下院選挙に立候補できます、というように」
彼女の言う平等には、明確な形がある。とにかく、万人に同じものを与える。それが結果なのか、機会なのかの違いはあるが。
「これを一緒にしてしまっている問題も、帝都にはあるようですけれども……大学の入学試験を受ける権利はすべての帝都の住人にあるのに、合格枠に女性枠が設けられているところもありますから。機会平等と結果平等を混ぜこぜにしてしまっています。ですが、私が言いたいのは、これが公平となると、もっと難しいお話になるのではないか、ということです」
言われて、少し考え込んだ。
「例えば、エスタ=フォレスティア王国は、平等な国ではありません。国王がいて、貴族がいて、領民がいて、悲しむべきことに奴隷までいます。では、そこに住む人々は、日々、不公平に憤っていましたでしょうか」
「……いや、そんなことはなかった」
「帝都の人なら、それは大陸の人々が無知蒙昧だからだ、と言うのでしょう。でも、私はそうは思いません」
そうだ。タンディラールは、多少横暴なところがないでもないが、基本的には公平な王だった。零細貴族からすれば悪魔のような国王ではあるのだが、一方で結果を出す人間には、なるべく報いようとする。そして、その結果を出すべき人物の中には、彼自身も含まれる。例えば、レーシア水道の建設によって民を富ませることは、彼にとって、責任もってやり遂げなくてはいけない事業だった。
あの国に住むすべての人が納得しているかと言われれば、きっとそんなことはない。だが、大半の人は、彼の統治そのものに不満を抱いていたりはしないだろう。農民の反乱が頻発しているということもないのだから。それはつまり、ある程度、王国内の公平性を維持できているということだ。
そういえば、彼は俺が旅立つ前に、なんと言っていただろう?
『人は皆異なる。ゆえに不平等だ。互いに異なるがゆえに取引を必要とする。その取引は必ず不公平だ。だが、そんな契約でできた網こそが社会なのだ。ならば社会は必ず差別の体系となる』
彼は、平等の実現を放棄していた。公平性すら、純粋さを保つのは不可能だと。なぜなら、社会はそもそも差別の体系だから。
帝都の市民のうち、貧しい人々は支援を受けることがある。それは母子家庭への生活保護だったり、現場労働から引退した老人への手当だったりする。だが、これだって不公平ではないのか。その不公平を、人々は何によって受け入れているのか。
思考に沈む俺を見て、ソフィアは静かに口を噤んだ。邪魔をしないようにとの配慮だろう。
サラトンにせよ、コーザにせよ、彼らは明らかに何かに耐えていた。それはかつての、前世の俺もそうだった。何かがやってくるのを待っているような。いつか支払いがあるはずだと、どこかにその可能性を見出していた。
『善とは何? そして美徳とは何なのか』
なぜか、フシャーナの宿題が意識をかすめていった。何かが喉まで出かかっている。なのに、言葉にならない。
その時、大きな音が耳の中を突き抜けて、俺を現実に引き戻した。体をビクッと震わせて、俺はその音がした方に振り返った。
窓の向こうの時計台が、夕方五時を指していた。そして、時を告げる鐘の音を響かせていた。
「あっ……!?」
その瞬間、気付きが一切を繋いだような感覚をおぼえた。
「時がなければ、成り立たないのか……」
「何かを見出されたのですね」
けれども、ソフィアは俺から根掘り葉掘り尋ねようとはしなかった。
「楽しい語らいの時間でしたが、ここからファルス様の家は遠いことでしょう。もう夕方ですし、馬車まで引き返しましょう。お送りさせていただきます」
現代日本と違って、飲食店に駐車場があることは、まったくないとは言わないまでも、稀だ。この店にもそんなものはなく、ソフィアは少し離れたところに、自分用の馬車を停めさせておくしかなかった。それで俺達は会計を済ませて店を出て、街路に出た。
夕暮れ時の優しい微風を浴びてのんびり歩く……つもりだったのだが、思いの外、空気の流れに勢いがあって、いきなりの突風に思わず目元を覆った。
それから、通りを行き交う人々の様子がおかしいことに気付いた。どことなくざわついていて、速足になって、ある方向に向かうのもいる。
「おや」
ソフィアも異変に気付いたらしい。
「何かあったのでしょうか」
「僕らが進むのと同じ方向だけど、何かあったのかも」
「行ってみましょう」
それで俺達も、歩調を早めて人だかりのできている方へと急いだ。
野次馬が取り囲んでいるのは、一軒の立派な邸宅の門前だった。この地区の建物の例に漏れず、二階建ての庭付きの家屋だが、年季の入った青緑の屋根はむしろ品格を感じさせるものだったし、真っ白な柱や壁は、敢えて豊かさを誇示するまでもないと言わんばかりだった。
帝都防衛隊の制服を身につけたのが、身を乗り出す野次馬を押し返そうとしていた。家の奥から、隊員が四人がかりで、慌ただしく木箱を運んで外に出てくるのが見えた。その木箱の上蓋は剥ぎ取られていて、代わりに上から布をかぶせてあった。
「どいて! どいて! 道を空けてください!」
野太い男性の声が聞こえてきた。これ以上、公務の妨げになっても、と俺とソフィアは顔を見合わせたが、その時、また突風が吹いた。
同時に、小さな悲鳴が聞こえてきた。振り返った俺達は、木箱の覆いになっていた白い布が舞い上がるのを見た。
箱の中、まず見えたのは、赤黒い染みだった。それに、人の肌の色。握り込めるくらい太く大きい釘。
少しして、認識が追いついた。グチャグチャになるまで滅多打ちされた人体。骨があちこち砕かれて、おかしな形に折れ曲がっている。その体のあちこちに、大小さまざまなサイズの釘が深々と打ち込まれていたのだ。
もちろん、とっくに死んでいる。それにしても、いったいどれほどの恨みがあれば、こんな殺し方をするのだろうか。
「ファルス様」
犠牲者に小さく祈りを捧げてから、ソフィアは俺の袖を引いた。俺も頷き、揃ってこの場を後にした。
この時は知る由もなかった。
これが帝都を震撼させた「釘打ち事件」の幕開けだったとは。
クリスマスデートを勝ち取ったのは、お話の公開順序の都合でソフィアになりました……




