サラトンの生涯
サラトンが帝都にやってきたのは、半世紀以上も前のことだ。大陸の名家の子女として、帝立学園に入学するためだった。
当時の南方大陸西岸……真珠の首飾りは、ちょうど政治的には小康状態にあった。そのまた半世紀前には、大陸北部に広く勢力を保っていたベッセヘム王国が滅亡し、その故地を巡って複数の勢力が入り乱れ、争っていたのだが、それから三十年、彼が誕生する頃には、一応の決着がついていた。西岸の港湾都市の利権をサハリア豪族が仲良く分け合っていて、時折小競り合いのようなものがあったとしても、それがエインの街に影響を及ぼすことはなかった。だから、当時は平和で豊かな時代といえた。
ポロルカ王国の貴種の血脈に連なるといっても、サラトンの生家は分家の分家で、いまや身分としては平民と大差ない。ただ、実家は裕福で、父は街の顔役だった。
「棕櫚の木が、中庭の溜池の周りを囲むように生えていてね。子供の頃は、高い塀の内側で、よく駆け回って遊んだものだ」
三階建ての陸屋根の真っ白な家には、父とその血縁者が暮らしていた。祖父は物心ついた頃には既になく、祖母だけが存命だった。父に弟はおらず、姉妹はみんな、他所に嫁いでいた。父には二人の妻がいて、サラトンは最初に結婚した正妻の長男だった。
幼い頃の彼の認識では、世界は優しい場所だった。父は一人息子をかわいがったし、実母はもちろんのこと、父の二人目の妻も、祖母も、甘えん坊の彼を受け入れてくれた。そしてサラトン自身、決して問題のある少年ではなかった。真面目で気が優しく、悪戯らしいこともしないので、まず叱られたりはしなかった。勉強にも好んで取り組んでいたので、大人達からすれば、手のかからない子供だったに違いない。
「もうすぐ弟か妹ができるよと、そう言われた時には、楽しみでしかなかった」
そして実際、楽しみにしかならなかった。間もなく、父の二人目の妻が出産し、元気な男の子が生まれた。サラトンは、最初からその弟に好意を抱いた。揺り籠の中で寝ている姿を覗きに行くのは、彼の日課だった。いつか弟が大きくなって、言葉も話せるようになったら、一緒に遊ぼうと、そんな将来の楽しみに胸を膨らませていた。
まだ幼いながらも、弟が自律的に動くようになってくると、サラトンは暇さえあれば、弟の面倒をみるようになった。五つも年の離れた弟だったから、何かにつけ彼の方が合わせてあげなくてはいけないことが多かったのだが、そこに不満はなく、彼も、弟も、周囲の大人達にも、みんな笑顔しかなかった。
そんな幸せが、突然に断ち切られた。
「僕が十三歳になってすぐ、壮健そのものだった父がね、いきなり」
予告もなく、突然に倒れて、そのまま死去してしまった。原因は、どうも脳溢血のようなものだったらしい。自分の体力を過信して、暴飲暴食を重ねることも多かった。晩年は太り気味だったという。
悲劇なのは間違いなかったが、それでゾヒド家が傾くということはなかった。父が手掛けていた事業の多くは売却するしかなかったが、それでも地代収入などがあったので、一家が生活を切り詰める必要はまったくなかったのだ。
猶予のある状況ゆえに、サラトンは長い間、悲嘆に暮れていた。そのうちに南国の太陽が彼に顔をあげさせたが、しかし、その時、彼の目に見えていた景色は一変してしまっていた。
「気が付くと、家の中がひっそりとしていたんだ。最初は父が死んだせいだと思っていた。でも、そうでないのは、すぐわかった」
祖母も、母も、義母も、みんな無口になった。使用人達もそうだ。まだ悲しみから立ち直れないのか、と最初は受け止めたのだが、それにしては奇妙だった。年長の親族の女性は、みんなどこか、怒りのようなものを抱え込んでいるように見えたからだ。一方、使用人達はというと、その狭間でとばっちりを食うのを恐れて、息を詰めているようだった。
この険悪な空気が、どこからきているのか、サラトンにはよくわからなかった。けれども、ある日、弟の態度が変わったのを目にして、やっと理解に至ったのだ。
「遊んでくれなくなっていたんだ。でも、僕が嫌われたとか、そういうことではなくて。本当に申し訳なさそうな顔をしていた。今でも目に浮かぶよ」
さすがにこれで察しないということはなかった。
サラトン本人は、いまだ成人する前の若さだから、家のことは祖母と、二人の未亡人が取り仕切っていた。だが、この三者の関係性は、父の死後に、思いもよらないほど悪化した。問題は、遺産の分割と家長の権利だ。通常、家長の資格は長男が得る。だからサラトンがゾヒド家の跡継ぎでいいのだが、義母はそれを確定させることに難色を示した。一方、実母の方も容赦がなかった。家長は我が子で確定なのは当然として、遺産のほとんどもサラトン一人が相続するべしといって譲らなかった。そして祖母も、最年長者である自分をないがしろにして対立する二人の女達に不満を抱いていた。
一転して、実家での生活は針の筵そのものになってしまったのだ。
「だから、留学が待ち遠しかった。船に乗った時には、背中に翼が生えたようだったよ」
生来、穏やかな気質で、勉学を好んだ彼のこと。学園での日々は夢のようだった。それに、なんだかんだ実家が裕福なのもあって、稼ぎに直結するスキルを身につける必要性も希薄だった。彼は半ば趣味にのめりこむようにして、歴史書を読み漁るようになった。成績は良好で、卒業時点で研究室からの誘いがあり、彼はそのまま、帰国せずに帝都で学園の講師になった。
帰りたくなかったのだ。帰国すれば、実家の家族との、あの難しい関係性の中で生きていくことを強いられる。それに比べれば、帝都はずっと自由で、快適に思われた。
「それに、妻に出会ったからね。もう、このまま帝都の市民として、一家を構えて静かに暮らしていこうと、そう思った」
それから十年ほど、彼は帝都で歴史学の講師として働いた。結婚もした。相手は、似たような出自の南方系西部シュライ人の女性だった。これについて、彼は本来、ゾヒド家の主人であって、父が不在な今、誰の許可をとる必要もないと考えた。相手の実家からの承認だけで、決着がついてしまった。
実家には帰らなかった。ほとんど手紙のやり取りだけで済ませていた。だが、そのうちに弟が帝都に留学してきたので、その三年間は関わり合いをもった。彼は変わらず弟のことを愛していたが、子供の頃のような距離感にはならなかった。やがて弟は帰国し、あちらで家の事業を引き受けるようになった。
「で、気付いたら、何もかもが曖昧な状態になってしまっていたんだ。これは身から出た錆、自業自得なんだけどね」
家長はサラトン。だが実際に実家に帰って家業を切り盛りしているのは弟。結婚はした。だが十年も経つのに子供もいない。一応、学園の講師としての仕事はしている。だが、まるで学生時代の延長線上にあるような、そんなフワフワした感じが拭えなかった。
それも自然なことではある。結局のところ、サラトンは問題の根本から逃げ続けていたからだ。どうしてこんな人生を選択してしまったのか、自分でもきれいに説明できない状態だった。
「何者かにならねばならない。そんな思いを感じ始めていた折、ついに妻が妊娠したんだ。もちろん、僕は喜んだよ」
それからの数ヶ月間は、彼にとって喜びに満ちたものだった。実際に、我が子に会うまでは。
「妻が横になっている病室に行く時の、産婆さん達の顔が忘れられない。みんな、何かまずいものを見てしまったような表情を浮かべていたよ。僕を見ると、決まって顔を伏せてしまうんだ」
病室で、妻の横の小さなベッドに横たわる女の子。十年越しの、待望の第一子。その子の肌は褐色だったが、瞳の色はというと、サファイアのような青だった。
サラトンは、その意味を悟って打ちのめされた。誰の子なのか。妻はベッドの上で、顔を背けた。瞬間、地の底からマグマのような憤怒と絶望が噴き出してきて、彼を揺るがしたのだが、それでもなんとか正気を保った。その場で暴れることはなく、ただ悲嘆に暮れながら、まるで酔っ払いのような千鳥足で産院を去った。
それからのことは、あまり記憶にない。適当な居酒屋で酔い潰れるまで酒を飲み、気がついたら自宅にいた。講師としての仕事もすっぽかして寝ころんでいたので、さすがに事情を確認するために、学園の方から先輩の助教授がやってきた。
「その人はね、僕より先に学園で講師になって、それなりに結果も出している賢い女性だったから、信頼もしていたし、尊敬はしていたんだ」
だから彼は、このような境遇にある人が親しい誰かにするように、感情の堰を切って思いをぶちまけた。
妻の不倫、しかもどこの馬の骨とも知れない男の子供を宿したとなれば、故郷の法によるなら、家中での殺処分すら考えられる。だが、ここは帝都だ。できるのは離婚くらいだろう。だが、それが甘い処分であるとは言い切れない。彼女はもう、実家には帰れない。帰ったら殺されかねないし、うまくいっても母子ともども部屋住みの暮らしだろう。だから帝都に居残るしかないのだが、妻にはろくに職歴がない。本人は自業自得だからそれでいいとしても、生まれてきた子供に罪はない。父親不在で貧しい生活を強いられるべき理由は何もないのだ。といって、さすがに不義の子を受け入れて妻を許して、家庭生活を継続するなんて、我慢ならない……
マホが頷いて、コメントを差し挟んだ。
「そうですね。気の毒なことになりましたが、少なくともお子さんには何の責任もないわけですし」
「だから、どうしたらいいか、わからなかった。何が正解なのか。でも、その先輩は……」
思い悩む彼に、その女性の助教授は、こう言ったのだ。
『父親が誰かなんて、そんな大切なことではないでしょ? あなたが愛する女性の産んだ子供だってことが重要だとは思わない? 例えば、連れ子のいる女性と再婚したのだとしたら、あなたはどうするのかしら?』
サラトンは首を振って苦々しげな表情を浮かべた。
「何を言われたのか、すぐにはわからなかった。あんなに賢明なはずの女性が、どうしてこんな気の狂ったことを言いだすのかと」
「それは言い過ぎなんじゃ」
「やっぱり君もそう思うんだな。だから僕は女性を避けるんだ」
俺が説明した。
「マホ、これは同意の問題なんだ」
最初から前夫との子がいる女性を、それと承知の上で結婚したのなら、その男には、妻と同時に、妻の子をも包摂する責任があると言える。だが、サラトンの妻については、これが成立しない。彼の事前の了解を得ずして不当に密通し、勝手に子を産んだのだ。
それを雑に、同じような問題として扱った。当時の彼の先輩にとっては、それは些細なことでしかなかった。だが、サラトンにとっては無視しがたい大問題だった。
「僕は、卵を飲み込んだような気分だった。怒りとか、そういうものが、逆に吹き飛んでしまったんだ」
「あん? ムカついて、その先輩も妻もブッ殺すってならなかったのかよ?」
「うん。自分でも、ここは怒るところだ、怒るはずだと思ったのに、そうならなかった。そうじゃない。僕は納得してしまったんだ」
彼は顔をあげて、マホを見た。
「妻が浮気をして、その相手の子供を産んだのは、それを悪いことだと思っていなかったからだ。もちろん、事情を知られれば、僕が怒る可能性は理解できている。法的に離婚に至る可能性もだ。だけど、それは僕が怒るから問題なのであって、どこまでも損得勘定の話なんだ。先輩も同じだ。善悪というものが、はじめからなかったんだよ」
それからサラトンは、女のなんたるかを理解し、現実を受け入れた。
妻とは速やかに離婚した。それから、実家に手紙を送った。実母と祖母に一定額の資産を分与した上であれば、家督を弟に譲るとしたのだ。既に何事にも興味を失いかけていたが、講師としての仕事を任期途中で放り出すわけにもいかず、その後、二年ほどは働いた。
だが、一切の問題が片付いた時点で、彼は職を辞した。助教授への昇任も打診されていたのだが、それは断った。こうして、このスラムの一角にあるケクサディブの家に……既にここに引きこもっていた彼とは、ほぼ入れ違いになる形で、住み着いたのだ。
「それから三十年以上、僕は何をするでもなく、日々を気儘に過ごしてきた。今では実家とも連絡を取っていないし、ケクサディブ以外には、これといった知り合いもいない。そのことに不満もない。ざっと説明すると、これが僕の人生だったんだ」
こんな話ですが、連載開始からちょうど1000話目です……




