その誤差、およそ六米突
嘉永六年に浦賀へ来航した四隻の、いわゆる「黒船」の内、二隻は蒸気巡防艦であって、旗艦・サスケハナの全長は四十間……と、芦田柔太郎は「浦賀日記」に記録した。
実寸は全長二百五十七フィートだったというから、専門家でない柔太郎が主導する測量としてはまずまずの精度であった、と、いえるのではあるまいか。
江戸遊学を終えて国元に戻った芦田柔太郎は、藩校・明倫堂で藩士の子弟達を教導する日々を送っている。くり返される日常の中で、時折の日記を読み返した。
若い自分が書いた青臭い文字を追うと、旅の様子を昨日のことのようにありありと思い起こすことが出来る。
道行きの景色の新鮮さ、海原に浮かぶ黒船の威容ぶり、胸の奥に憧れてを隠していた「算学を生かした作業」をする喜び、ほとんど徹夜で様々な数式を書き解く面白さ、優れた学者と議論を重ねる楽しさ――。
あの時、楽しい十日間を共に過ごした優れた数学者は、今この時、若い日と同様にキラキラと輝いた目を兄に向けている。
「赤松の父が、俺が学問を……それも父が気に入ってくれた漢学ではない学問を、もっと深く学びたい、と考えていると言うのを、聞き入れてくれました。藩庁と江戸藩邸宛てに嘆願状を出して下さるそうですよ。あの武辺者の赤松の父上が、ですよ」
「いや赤松殿はたしかに文武でいえば武の方ではある。しかし文の方、例えば連歌などでは中々の腕前であられると聞いたぞ。そもそも赤松殿と我らの父上との付き合いは、連歌の会が切掛だと聞いた」
上田藩という土地は、初代藩主・真田信幸の時代から棋道と連歌が盛んである。
藩主家が変われば侍どもは新領地へ去って行くが、領民たちは残る。領民たちの間に広まった文化風習は、領主が新しくなって以降も幾分かは受け継がれる。
二十一世紀になっても、連歌師の居住区の名残として「連歌町」という旧町名が残されているほど、真田・仙石・藤井松平の三代を通じて、連歌の文化は連綿と人々に好まれ続けた。
さて、連歌とはなにか。
誤解を恐れずに言えば、一種のMCバトルである。
和歌の韻律である五七五+七七の音節を基盤として、上句の五七五と下句の七七を別の作者が連作する。
その下句の七七に別の作者が最初の五七五とは関係の薄い五七五を繋げ、さらに別の作者がやはりその前の七七とは繋がりのない七七を付ける。
これを即興でくり返す。
連歌には、百句作る「百韻」、平安時代の和歌の名人・三十六歌仙になぞらえて三十六句を繋げる「歌仙」、和歌の形式に漢詩の五音を混ぜる「和漢連句」など、様々なルールがある。
ルールに則り、素早く、的確に、言葉を紡がねばならない。
和漢の詩歌に関する知識、様々な言葉を操る語彙力、それをすぐさま声に発する瞬発力が必要な、智慧を持って闘う文芸なのだ。




